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日陰の者

作者:七八五十六

 校区内にある本屋は少ない。その中でも、自分は近所のスーパーの中にある本屋によく行っていた。この本屋ができたのはつい三年前で、以前は年季の入った書店しかなく、そこには自分の趣味の本が置いてなかったり、店頭に出るのが遅かったりしていた。一方、この新しい本屋では欲しい本が買えるうえ、同じくスーパー内にあるゲームショップも一緒に見回ることができた。そんな訳で、この本屋は重宝していた。

 この日もその本屋に行ったのだが、何やらリニューアルオープンの準備だとかで閉まっていた。忙しくて来られなかった間に、そんなことになっていたとは。

 せっかく来たのに、これではバス代がもったいないし、ただでは帰りたくなかった。そこでふと、近くの商店街にも本屋があったのを思い出した。本当に小さい頃、何度か母さんと一緒に行ったことがあったが、本当にそれっきりだった。

 十数分くらい炎天下を歩いて、おぼろげな記憶とほとんど変わらない建物を見つけた。古めかしさすら、昔のままだった。

 戸を開けるときに風鈴が鳴った。夏の風物詩の印象はあるけど、今時は見る機会が少ない。たまに聞けば、やはり耳に馴染んだ。

 入り口をくぐると、途端に熱気から切り離された。程よく冷房が効いている。外の眩しさに比べたらだいぶ薄暗いのもあって、お化け屋敷に来たみたいだ。さすがに言い過ぎだし失礼か。

「いらっしゃいませ」

「あ、はーい、どうも」

 姿は見えないけど爺さんの声が聞こえた。ちゃんと営業はやっていたらしい。俺以外の客はいないけど。

 満ちる匂いで、ここが古本屋であることを察した。ならば立ち読みしようと思って、小説を適当に手に取った。ページをめくっていると、風鈴の音が聞こえたが、気にも止めなかった。

何冊目かの小説を棚に戻したときに、ふといつもは読まないジャンルも読んでみようという気になった。初めて来た店なので、普段と違うことをしたくなったのだと思う。他のジャンルのコーナーは把握していなかったので、改めて店中を物色することにした。

 壁のように立ち並ぶ本棚と本棚の隙間を通り抜け、いくつかの角を曲がったとき、別の客を見つけた。身長からして同年代らしかった。こんな古めかしい本屋に入る子供が自分以外にもいたなんて。意外だったので、ついじろじろ見てしまった。

夏真っ盛りだというのに、長袖長ズボン、頭にはニット帽と、暑苦しい格好だった。肌に何か隠しているのかと、最初はただ訝しむだけだったが、ニット帽からはみ出した金髪が目に入ったとき、心臓が飛び上がりそうになった。

こいつはクラスメイトの(りょう)だと、すぐにわかった。特に金髪は一番の特徴で、良くも悪くも目立っていた。眩しいくらいに白い肌も相まって、外人に見られることも少なくないが、体の色素が薄い体質なだけで、純日本人であるらしい。

固まったままでいると、涼は本棚に手を伸ばした。声をかけようか迷う。だが、この偶然を逃せるものかと、恐る恐る声をかけた。

「あのー……」

「えっ、あ……」

 涼はサングラス越しに俺を目に留めると、慌ててその手を引っ込めた。きょろきょろと周囲を気にしてから、小さく口を開いた。

「ユキちゃん。久し振り」

「ああ久し振り」

 あだ名で呼ばれたが、それはこいつと仲がいいからという理由ではない。同級生はみんな俺をそう呼ぶというだけだ。

「……だいぶ涼しいな」

「いいでしょ。外のクソ暑いのに比べたら天国だよここは」

「よく来んの?」

「結構来てる。近くで古本屋って言ったらここだけじゃん」

 こいつには外出しないイメージがあったから意外だった。太陽に弱いとも聞いていたし、特に日差しが強い夏の間は引きこもっていると思っていた。

「古本屋がいいってのは、やっぱり立ち読み目当て?」

「うん。もう立ち読みオンリー。買うのはアレだしさ」

 俺も古書店に行く目的はほとんど立ち読みだが、それはそれで極端に思えた。財布の紐が堅いのは悪くないけど、気に入った本がいつ誰かに買われるともわからないだろうに。

「あー、でもここは特別気に入ってるわ」

「そうなの?」

「ここ、同年代の奴来ないから」

 途端に、すうっと冷たい空気が入ってきた感じがして、反射的に入り口を見た。閉まったままだし、外は相変わらずのかんかん照りだった。

「……確かに、入りづらかったわ」

 一瞬言葉に詰まって、無難でしかない返しを絞り出した。

「やっぱりそうでしょ。来んのなんて近所のジジババだけだもん」

 涼は何でもないように笑うが、こっちは心中穏やかでなかった。本人は意図していないのか、いや、そんなわけがあるものか。

「なんか、悪い。邪魔しちゃって」

 つい、いたたまれなさを吐き出してしまった。なのに涼は、変わらずへらへら笑ったままだった。学校でもこんな表情は見たことが無くて不気味ですらあった。

「ユキちゃんなら別にいいって」

「なんで」

「いやだってお前、嫌な奴じゃないでしょ」

「まあ……どうも」

 面と向かって言われると気恥ずかしいものがあった。とは言うものの、他の奴らほど嫌われていないだろうとは元々思っていた。流されるように行動を共にしたことも多いが、それなりに上手くやれていたはずだ。

「それよりも気になるんだけど、こんなとこ来てていいの?」

「えっと、邪魔じゃなければもうしばらくいようと思ってるけど」

「あー違う違う。ユキちゃんは別にいいって言ったでしょ。じゃなくてさ」

 涼は軽く笑って首を横に振った。あまりにも軽くて、何も引き摺らず、何も背負ってないようだったから、安心しかけた。

「受験勉強しなくていいの?」

 その軽さが俺を押し潰さんとのしかかってきた。事実、俺たちも今年は中学三年、冬には高校受験を控えていた。夏休み前にも後輩から同じように言われたりした。

「……一応やってる。合間合間に出かけてるぐらいだから」

「その割には余裕じゃん。さすが学年一位」

「なんでそう言える」

「違う?」

「まあそうだけど」

「でしょ?」

 自慢じゃないが、俺は入学してから二位以下になったことがない。二年の二学期までは二位で、その後はずっと一位だ。だが本当に自慢にならない。もともとは涼が一位だったからだ。

「行く高校も決まってるようなもんでしょ」

「受かるかどうかはまだこれから次第だけど」

「まあ、うん、頑張ってや」

 ひらひらと手を振る涼はただ気楽そうだ。俺も変哲のない笑みを返したが、どうだろう。この顔では、満足に笑い飛ばすことも、真面目に話すこともできない。激しく鳴る心臓が痛いが、意を決した。

「お前は高校どうするの?」

「……えぇ……」

 ため息をつくかのように、涼は視線を落とした。一瞬で、浮かべていた笑顔がシニカルなものに変わった。サングラスで目が隠れているからか、威圧感まで感じた。

「何でさ……」

「いや、その、お前も受験勉強の辛さを多少なりとも味わってくんないかな、っていうか」

「お前、苦しむぐらい真面目にやってる?」

「……なんとかなるやろって感じはある」

「んだよ、人のことだけ苦しめようってか」

 自分から仕掛けたくせに、不意にぐさりと刺さったけど、涼に合わせて薄く笑った。こういうノリなんてこれまでも普通にあった。今は耐えがたい。

「そりゃ、楽々とまでは言わないけど、お前だったら結構いけるんじゃないの? ずっと勉強してないってわけじゃないんだろ?」

「まあそうかもねー」

 涼はどうでもよさそうに伸びをした。そして大きく息を吐くと、舌打ちをする直前みたいな顔で、それでも笑い混じりに言った。

「勉強、得意かもしれないけど、やっぱ嫌いだわ。たくさんやってれば親とか先生とか怒らなかったってだけ」

「まあ、そりゃ誰だってそうだろうから、お前もそうだろうな」

「でもみんな言ってくるでしょ。勉強オタクとかガリ勉とか」

 教室にいた頃の涼は、もっぱら勉強か読書しかしてなかった。周りが日向で盛り上がっているときも、こいつは一人日陰にいた。

「他にできることが無いだけで、やりたくてやってるわけじゃないのにさ、これが唯一の取り柄なんだもんなあ」

 がくりと頭を垂れて、またも大きくため息をついた。なんて返せばいいか迷っていたところで、ぽつりと重ねてきた。

「……正直な話、ユキちゃんも同類だと思ってたのになあ」

 静かな古本屋で、誰の邪魔にもならない淡々とした小声のはずなのに、呪詛を間近で聞かされたようで、鳥肌が立った。

「ほら、中体連、どうなったの?」

「……二位だった」

「まじか。本当にさ、ユキちゃんがそこまで強いとはねえ」

 俺は剣道をやっていて、今年の中体連は全国まであと一歩というところで終わった。うちの中学に剣道部は無く、剣道は近所の道場でやっていて、大会には個人で参加していた。以前はそれを知られていなくて、帰宅部で運動もできないやつだと思われていた。

 去年の夏に中体連に出場したときに、二年生の身で市大会突破まで進んだ。それが全校集会で発表されたので、みんな、それはもう俺を知る学校の奴みんなが現実すら疑う目で見てきた。そのときは、たくさんの人間に囲まれて絡まれたのは不愉快だったが、それを差し引いてなお、見返してやった気分で清々しいものだった。

「あんなに強いならさ、虐められても仕返しできたんじゃないの?」

「別に大事(おおごと)にしたいわけでもなかったし。てか、俺のは言うほど虐めじゃなかったから」

「それ、強がってない?」

「正直な話、いじりの延長だったんだろうとは思ってる。ああいや、さすがに嫌じゃないとか許してやるとかは思わないけど」

「んー……本気でそう思ってるなら、やっぱ同類じゃねーな」

 涼は素っ気なく肩をすくめた。突き放すつもりは無いのに、俺と涼では受けた仕打ちが違うから噛み合わない。確かに同類ではないようだった。

「……ねえユキちゃんさ、もう一つ、ずっと気になってたことなんだけど、いい?」

「……何さ?」

 ついに薄っぺらい笑顔が消えた。暗いレンズの向こうの目は、どんな形をしているのかわからない。ただ、妙に怖じ気づいた前振りで、こちらにも不安が移った。睨んでいないことを祈った。

「何で、構ってくれてたのさ?」

 教科書を音読するみたいに無機質な声が、きゅっと柔らかく締め付けてきた。これならば、射殺すほどの視線を向けてくれた方がましだった。

 涼は孤立しがちな奴だった。昔は一人でいることが多いだけで、まだ周囲との交流はあったが、いつからか疎まれるようになり、ろくに会話しなくなった。そんな中で、俺が例外だった自覚はある。

「……二人組作るってとき、いつも余り者同士だったから、かも」

「だとしても、話すのは組んでるときだけでいいじゃんか」

「組んだのも一回二回じゃないし……他に話す相手がいなかったのもあるわな」

「だよね」

 そんなの、互いにわかっていたことだ。涼が俺と話すのも、俺しかいないからだと薄々察していた。だからこそ、仕方なしに俺とつるんでいたものと思っていた。

でも今は、それだけでは終われなかった。俺の存在と責任は、思っていた以上に大きくて、それに気付くまではだいぶ遅かった。

「でもさ、他の奴が余ってたとしても、そいつと話すようになってたかって聞かれると、それは違う気がするんだ」

「おお、どうも……でいいのか?」

「今となっちゃ一方的だけど、お前は同類――は違うのか、仲間、みたいなもんだったと思ってる」

「お前」

「ああいや、その、こっちが勝手に思ってただけだから、本当に。気持ち悪いこと言ってごめん」

仲間らしいことなんてまともにしてやれてない。でも、同類でないならこれしかなかった。初めは、互いしかいないからつるんでいたけど、いつしか気が合うから一緒にいるようになっていた。それがきっと仲間だった。

沈黙が痛かった。ここが古本屋であることを意識させ、うるさくし過ぎたかと心配になるくらいには長い静寂だった。それでも言うべきことだったから、後悔はなかった。

 とはいえ、やはり居心地が悪くなって、意識せず目を反らしていた。視界には本棚があったがピントが合わないまま、背表紙の字も頭に入ってこなかった。

「ん、何かいい本あった?」

 ずっと黙っていた涼が目ざとく気付いて、俺の視線を辿った。曖昧になっていた意識がすぐにはっきりして、慌てて首を振った。

「いや、目のやり場が無くてそっち見ただけ」

「なんだよ」

 そうは言ったが、涼の視線は本棚に注がれたままだ。内心冷や汗が止まらなかった。

「……気になるものあった?」

「そうじゃなくて、昔はこんな文字しか無いような本なんて読まなかったなと思って」

 小さい頃、家で何をしているかという話題になったことがある。涼はもっぱらゲームやマンガと答えていた。

「こういう本読むようになったの、ユキちゃんの影響なんだよね」

「え、まじで?」

「うん。お前、昔から本読んでたじゃん」

「読んでたけども」

 そう言われると、会ったばかりの涼はあまり読書をしてなかった気がする。それはそれとしても、学校で一人の奴が本を読むようになるのは当然の帰結だったので、ルーツが俺だったというのは思ってもみなかった。

「でさ、それだけじゃなくて、勉強するようになったのもユキちゃんの影響なんよ。運動できないなら勉強しかないって」

「それは嘘。昔から勉強できてたろ」

「そりゃ、小学生のうちは真面目にやんなくてもそれなりの成績だったけど、中学で落ちなかったのは、ちゃんと勉強するようになったからだから」

 俺は授業で褒められることも多かったし、休み時間に宿題をやったりもしていたから、涼の勉強のきっかけになったのも、読書の方と比べれば納得できる話だった。その経緯で涼に成績を抜かれたのは悔しいが。

「それでまあ、自分の見た目以外の印象は、ガリ勉か本の虫ってくらいしかないんだろうなって、そういう自覚はあんだよ」

「まあ、確かにそうかもだけど」

「そうなると、どっちもお前から来てるものじゃん。何つうか、そんなにお前の影響はでかかったのかって、今更だけど思った」

 小さく笑う涼を見てると、つい照れ臭くなりそうだった。でも、胸に突き刺さった罪悪感が許してくれない。ここまで入り込んでいたのに、俺は涼を助けていなかった。

「読書は今も趣味だし、勉強もやってなかったら、取り柄無し人間になってたな」

「勉強はお前の成果だろ」

「だとしてもきっかけはお前だから。……今まで――違うわ、去年の秋までか。それまで学校に行けたのはお前のお陰だよ」

 嘘のない純粋な感謝が伝わってきた。それが尚のこと心を抉る。

「……でも、結局そこまでだったろ」

「それはこっちが勝手に折れただけだって。お前のせいじゃない」

 はっきり言われてしまって、もう謝ることもできなくなった。それでも俺が悪くなかったなんて思えなかった。ほんの少し涼と話すことが減った去年の夏休み明け、もっと近くにいたなら、繋ぎ止めることができていたかもしれないのに。

「元々学校って環境が合わなかったんだよ。長い間通ってたのが凄いくらい。やっぱりユキちゃんを手本にしてたからだと思う」

 これ以上聞くと立っていられないような気がして、耳を塞ぎたくなった。俺たちが喋ることなんてろくに意味も無くて、迷惑をかけたら悪いと一言謝るだけで、何かしてもらったら悪いと一言礼をするだけの、全くもって雑な間柄だった。この期に及んで俺が謝るのを封じておきながら、自分はそこまで言うなんて。

「むしろ悪いのはこっちだよ。お前は友達いなくて、運動もできないと思ってたから、唯一の取り柄に見えた勉強を真似たんだから」

「いや、実際そうだよ。友達はいないし、運動だって剣道以外は基本ぐらいしかできないし」

 運動神経が無いことはわかっている。剣道ができるのは、ずっと練習を重ねてきたからで、基礎体力もそれに付随したものに過ぎない。例えば、球技とかは全然できなかった。それが室内競技だったときは、涼も下手を晒して、何でこんなことやらなきゃいけないんだと愚痴り合ったりした。

「でも本当に何もできないのとは違うじゃんか。それにお前、仲いい奴はいないかもだけど、結構話しかけられてただろ。呼ばれ方も『ユキちゃん』ってあだ名だし。……その差を考えてなかったよ」

 小さい頃は、多少いじってくる相手でも、深く考えずに友達だと言っていた。そいつらとのノリは合わなくなったけど、明確な仲違いはしていない。俺は体の良いいじられ役のままで、あだ名もずっと残っている。

 涼はその外見故に多くの人間にやっかまれてきた。それに加わっていない奴も、涼からは距離を置いていた。俺以外のクラスメイトと話さなかった日など、ざらにあった。

これが俺と涼の大きな違いだった。だが、この壁を隔てていてなお、涼に一番近かったのは俺だった。

「学校行かなくなって嫌になるほどわかったよ。お前との差と、どれだけお前に甘えてたかってな。今だって一方的に愚痴ってら」

 喋れば喋るほど、涼のため息の数が増えていった。そう簡単に二酸化炭素が充満するはずないのに息が苦しい。だが、ひっくり返すなら今だと、直感が告げた。いや、考えることもなく、普段の会話のように、反射的に口が動いたのかもしれない。

「だったらちょっと俺にも愚痴っていい?」

「は?」

 涼が眉をひそめるのも気にせず、一度大きく息を吸った。それだけで、詰まっていた胸がすいた。目も冴えて、薄暗い店内がよく見えるようになった感じだ。

「さっき出たけど、中体連の話でさ。会場に担任来てたのよ。それで試合負けた後こっち来て、残念だったねって言ってきて。そこまでならまだいいのに『だけどこれで受験勉強に専念できるよね』とか言ったんだぞ。慰めド下手かよって話でしょ」

 ぽかんとしていた涼だが、担任の話を出すと、首を縦に振って指を向けてきた。

「それはある。ほんとにハズレでしょ、学年でうちのクラスだけ。夏休み前に家にも来てさ、クラスのみんなが待ってるから、とか言いに来たの。もう何回目よ。んなわけねえだろ、と」

 乗りに乗って饒舌になる涼が、記憶の中の涼とぴったり重なって、俺もテンションが上がってきた。溜め込んでいた鬱憤が、栓の壊れた蛇口みたいに吹き出しそうだった。

「まだあってさ、この前の三者面談のときにあいつ、俺がみんなと仲良くやってるみたいなこと言ったんだよ。担任の目から見てもそんな風に見えてんのかね」

「本当にそれ。前に何で学校来ないのって聞かれて。お前本気でわかってねえのかって思ったよね」

 言うと悪いが、俺たちの担任はクラスの問題にあまり対処できていない。怒りの矛先としてぐらいには役立ってもらった。

「ああくそ、やってらんねえな本当。学校嫌で逃げたら、先生は家まで追っかけてくるわ、親もうるさくなるわ……」

「そんな嫌になるほど来んの?」

「それはもう不思議みたいでさ、前まで来れてたのに何で来れないんだって」

「説明してないのかよ」

「言ったってどうにもならんでしょ。変にチクって、逆恨みとか嫌だよ。先生そこらへん上手くやれそうにないし」

 つくづく頼られない俺たちの担任だった。授業やクラスの成績といった、勉強に関わることに限れば評判はいいらしいが。

 涼がひとしきり不満をぶちまけたので、俺も続こうとした。その直前、何もない空中を見ながら、涼がおもむろに呟いた。

「……あーあ、それでも一応……普通の言ってた、のかあ……」

面倒臭そうに笑った涼は、肩を落として熱を逃がすように大きく息を吐いた。たぶん、今日一番のため息だと思った。

「何て?」

「勉強しろってさ。せっかく成績よかったのにと。……まあしつこかったね」

「普通だとしても、言い方はあると思うわ」

「まあそこは、先生だから仕方ないとして大目に見てやってさ」

 そこまで聞いて、ふと気が付いた。こいつは二年の夏休み明けから休んでいるが、その年の二学期までは一位だった。

「お前、最初の頃は家でも勉強してたんだよな。なのに今はやってないのか?」

「言ったじゃん。勉強は好きじゃないんだって。だからやる気がなくなったの」

「それなのに、学校行かなくなってすぐには止めなかったんだ?」

「最初は家でも続けられると思ってたんだけど、しばらくしたら何でやってんだろって、モチベーションが無くなって、このザマ」

 以前は学校に通うことで精力的に勉強できていたが、そこは涼が生活しやすい環境ではなかった。かと言ったところで、学校から逃げて家で勉強すると、意欲が湧かないという。本当に、あちらを立てればこちらが立たずで困ったもののようだ。

「だからさ、宿題とか授業のプリントとか先生持ってくんだけど、本当に進めるのが億劫で」

「ああ、やっぱりもらってるよな。最低限度はやってんじゃん」

「でも夏休みの宿題の量見て、心が折れたよね。ほとんど手ぇ付けてない」

 涼はもう宿題をするつもりも無かったのかもしれない。勉強を放棄して古本屋に通う夏休みを今日まで続けていたのだろうか。

「手伝おうか?」

 気付けば、そんな台詞が口から飛び出していた。はっと俺を見る涼が、サングラスの向こうの目を丸くしているのが想像できた。それに負けないほど、俺も自身の言葉に戸惑った。勉強の教え合いなどはこれまでもやったことがある。だが、今の俺が、今の涼を、さらりと誘うことができたという事実が、信じられなかった。

 数秒ほど涼の反応を待ったが、固まって動かないままだった。こいつが静止すると、その容姿もあって、映画か何かのポスターの雰囲気が出ていた。一枚の紙に世界が隔たれたみたいに。

「えっと、だから、宿題終わらせるなら手伝うよって。あ、いや、宿題に限らなくても、勉強ならさ」

 もう一度言っても、すぐには応えてくれなかった。やはり踏み込みすぎたかと後悔する気持ちが湧き上がってきたとき、ようやく涼が口を開いた。

「……お前やっぱ天才だわ」

「は?」

 今のは褒められたのだろうか。脈絡が無くてわからない。でも、褒め言葉だとしたら、受けてない試験に合格した気分だ。

「ちょっと待って、なになになに」

「え、宿題手伝ってくれるって話でしょ」

「じゃなくて……ああいや、何でもない。お前がいいならいいわ」

「いいよ、最良。もうこれがベストアンサーでしょ」

 涼は奇妙なほどに納得した様子だった。訳取り残された気分だったが、いつになく清々しく笑うものだから、俺もつられて笑った。

「で、いつならいい? ユキちゃんの都合に合わせるけど」

「夏休み中は用事も無いから、いつでもいいけど」

「じゃあ明日から、うちでよろしく」

「いいの? お前んち」

「他に場所無いじゃん。図書館とかで他の奴らと鉢合わせするのも嫌だからな。……ああ、あと親に勉強してますアピールするため」

「じゃあいいけど」

 堰き止められていた水が流れ出したみたいに、とんとん拍子で話が進んでいった。激流が過ぎる。

「まあ、ビシバシ頼むわ」

「ビシバシって、大袈裟な」

「お前、受験生だぞ。勉強に気合い入れないでどうすんだ」

 涼がいつものように鼻で笑った。あまりにも自然に言われたので流してしまったが、頭の中で台詞を再生した瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。聞き間違いか言葉の綾を疑った。全身が脈打つ感覚の中で、努めて冷静に確かめた。

「……お前、高校どうする? 聞いてもいいか?」

 涼も、俺の言葉に聞き覚えがあったみたいだ。下を向き噛みしめるように笑ってから、サングラスを外して、にっと口角を上げた。

「ちゃんと行くよ、お前と同じところ。苦行に付き合ってやる」

 その青い目を、俺は長いこと見ていなかったが、記憶の中より輝いて見えた。きっと、快晴の空に架かる虹の光だった。

「サングラス外していいの?」

「屋内だったらいらないし、むしろ見づらいんだけど、いろいろ面倒だったから」

「今はいいのか」

「買おうか迷ってた本があって。ここ薄暗いし、ちゃんと探すなら外した方がいいから。……ここで待ってて」

「はい、行ってら」

 サングラスをケースにしまうと、涼は店の奥に歩いていった。本棚の角を曲がるまで見送った。それまでも、涼は本で満ちた周囲を見回していた。

 視界から涼がいなくなったのを確認して、両膝に手をつき、溺れかけた人間にも負けないくらい、何度も深呼吸をした。体中から噴き出た汗は、涙の代わりでもあったと思う。

 顔を上げて、本棚を見た。最初に涼が触れる寸前だった本の背表紙が、嫌というほど主張してくる。『自殺の方法』と、そのタイトルが頭の中で繰り返し響いて、流れる汗がまた増えた。

 結局、その本は本棚に納まったまま終わった。涼をこれから引き剥がしたのは、深く考えずに発した一言だった。それがなぜあれほどに涼を上機嫌にしたのか、わからないところがあった。でも今は気が抜けて頭が回らなくて、結果に比べればどうでもよかった。

「お待たせ」

 戻ってきた涼の手にはビニール袋が握られていた。袋は半透明で、中身が少し見えた。涼が小学生の頃から読んでいた、シリーズものの児童向け小説だった。

「で、どうするよユキちゃん? まだいるつもり?」

「んー、そろそろバス来るし帰るわ。お前に会う前に結構立ち読みしてたし」

「じゃあ行くか」

 涼は再びサングラスをかけたので、一緒に出口まで向かった。戸を開けると、チリンと風鈴が鳴ったが、それをかき消すほどに凄まじい熱気が包み込んできた。

「まだ暑いし……やっぱ外はきついわ……」

 店から出た途端に涼が項垂れた。確かに、来たときと比べてちっとも涼しくなってない気がする。

 早歩き気味にバス停へ向かった。ここには道中と違って屋根があり、ベンチもある。この猛暑の中、日陰で休めるだけでもありがたいものだった。

「やっぱ、日光が直接当たらないってだけで、だいぶ違うな」

「痛くはないの?」

「露出減らして、出てるところにも日焼け止め塗ったら、そりゃね」

 涼の白い肌は日差しに敏感で、常に日焼け対策が欠かせない。この暑いのに長袖長ズボンなのもその一環だった。その分俺よりも熱がこもっているだろう。ペットボトルの水を飲む音が大きかった。

「それでもずっと外歩いてると、ヒリヒリするときはするし、面倒ではある」

「単純に考えても、普通より準備とか多いっていうデメリットだもんな」

「それは言えてる。だからあまり外には出たくないし、出たとしても日陰の中だけで済ませたいもんだよね」

 涼はため息をついて、頬杖をついた。そしてこっそりと、手をクイクイと動かした。意図を察して、涼に顔を近づけた。

「どうした?」

「ほら、結構見られてる」

 そう言うので、試しに伸びをする振りをしながら右を見ると、老夫婦が道を行きながら視線を向けていた。元の姿勢に戻りうつつ左を見ると、近所の高校の女生徒と目が合った。途端、何でもない素振りでバスの時刻表を確認し出した。さらに前方を見ると、道路の向かいから子連れが見ていた。母親はこちらの視線に気付くとすぐ目を反らし、男の子の手を引いてそそくさと店の中へ入っていった。男の子の方は、店の中に入るまでまじまじと見つめていた。なるほど、少し見回しただけでこれか。

「これもあるんだよなあ……」

「改めて、お前大変だな」

「慣れた。慣れたって嫌なものは嫌だけど」

 ただでさえ涼の容姿は目立つものだ。金髪と真っ白な肌、サングラスを取れば碧眼と、決して普通の日本人には見えない。加えて、季節にそぐわない、露出を抑えた暑苦しい格好だから、尚更人目を引いていた。日の当たるところに出たら、髪と肌が光を反射して、これまで以上に注目を浴びるに違いない。

「……曇りだったら、晴れより楽だったりすんの?」

「んー、晴れに比べたら暑くないし、日焼けとかの心配はあんまりないけど、割と眩しいときもあるからな。多少楽だけど、それくらい。気分だってどんよりするし。……もしかしたら晴れの方が好きかもしれない」

 日の光に弱い涼の言葉とは思えなくて面食らった。すると涼は、けらけらと笑って背もたれに体を預けた。

「いや、うん、言いたいことはわかる。確かに日向は無理よ。でも晴れの日陰は気持ちいいから。今もさ」

 このバス停の日陰は申し訳程度で、日の当たる領域はほんのすぐそこだった。熱された空気がそのまま流れてくるので、言うほど涼しくはない。それでも、涼にとっては砂漠の中のオアシスなのか。

「……俺も、眩しいから日向は嫌いだけど、日陰は好きだな」

「うん、前に聞いたことあるわ」

「まじで?」

「なんか覚えてた」

 軽く記憶を探ってみたが、涼との取り留めのない話など無数にあって、その中に埋もれていた。どれも無駄話だったが、無駄にはならなかったものだ。

「……日陰なら、山道とかの木陰が好きだって話はしてた?」

「してたしてた。思い出した?」

「いやごめん、全然思い出せない」

「おい、なんで当てられたんだよ」

「言ってそうだなと思って、話の流れ的に」

「すげえな、お前」

 欠片も思ってないとばかりに鼻で笑われた。ほんの数分前まで、少し喋るにも気が重かったのが嘘みたいだった。いや、あんなのは嘘でいいと思う。こんな与太話が、またこれから積み重なっていけばいい。

 涼が選んだのは、日の刺す痛みに耐えて炎天下を歩く道だ。この苦行に引き戻したのは俺だが、俺が涼の仲間なら、絶対間違いじゃない。やるべきだったことが、漠然とわかった気がした。

「まだ好き?」

「ああ、散歩とかランニングするときによく通ったりする」

「……受験終わったら、私も散歩とかやった方がいいのかね、体力作りに」

「若いうちに運動しとかないと、年食ってから大変だからな」

「……やらないとな。そのときはよろしく」

涼がさりげない爽やかさで笑った、眩しいという言葉がよく合う笑顔だったが、目に痛くはなくて、視線を反らさず見ていられた。

 涼の日陰になりたいと思った。


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