哀悼
作者:蓮下
※残酷描写が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
窓の外から流れ込んでくる乾いた砂の香りがじわじわと肺を蝕んでいく。そんな気がした。コップの中に積み上げられた氷を一つ摘まみ上げて口へ含む。だが、噛み砕ける大きさでもなくもどかしさが募っただけだった。忌々しい気持ちで頭上のクーラーを見上げ、舌打ちをした。もう六月末からクーラーは黙りを決め込んでいる。昨年、散々働かされたからサボろうという魂胆なのかも知れない。これでは、外の方が幾分かましに決まっている。
サンダルを履いて庭に出たが一陣の風も吹かず、そこは淀んだ空気のたまり場になっていた。玄関脇の水道で小さいじょうろに水を汲んで、縁側の下へ置いた鉢を引っ張り出すと中を覗く。
今日もアサガオの芽は出なかった。
思えば、昔からアサガオとは相性が悪かったのだ。小学一年生の頃、授業で植えたアサガオの種は発芽しなかった。他の子達のアサガオは本葉が出て葉が増えてくる頃だというのに、俺のアサガオは土の中で眠りこけていた。遣る瀬なくて泣き喚いた結果、担任の先生が育てていたのを譲ってもらえた。先生の育てたアサガオというだけで、いい気になっていたのだろう。誰のアサガオよりも綺麗な花を咲かせてみせると意気込んで、大切に育てた。―――つもりだった。今度は過剰な水やりのせいで根腐れしてしまったのだ。またしても、大切に育てたのにボロボロになったと泣き叫んだ。
「またやってんの?」
鉢をのぞき込む僕の視界に青いサンダルが顔を出す。兄の辰紀が僕を小馬鹿にしに来たらしい。
「春人は懲りないね。いい加減アサガオに嫌われてるって自覚したら?」
「アサガオに人の好みとかあるわけないでしょ」
「そもそも、なんでわざわざアサガオなんて育てようとしてんの」
「……アーサーの一周忌だから。アサガオをもっていってやりたかったんだよ」
アーサーは去年亡くなった俺の愛犬だ。アサガオが好きな犬で、朝の散歩の時にあちこちに咲いているアサガオの匂いを嗅いでは満足そうに尻尾を振っていた。
「ああ、あのワン公のことか。お前、犬相手に一周忌とか律儀だね」
兄の淡泊な物言いに少しむっとする。
「アーサーだって大切な家族だろ」
「そうか? あんなんうるさいだけの駄犬だったと思うけど」
就職活動で忙しい兄は始終アーサーの無駄吠えにいらついていた。おまけに動物嫌いなのだ。元々、アーサーも俺が両親にねだって保健所から引き取った子犬だったし兄が関心を持たないのも無理はない。
「それより、兄貴の部屋にしばらく移住させてよ。俺の部屋、エアコンが動かないからあっついんだよ」
「仕方ないな。うるさくすんなよ」
兄はサンダルをガシャガシャいわせながら家の中へ消えていく。背中を見送ることもせずに、また俺は鉢の中へ視線を戻した。去年の同窓会で、俺は元担任から大量のアサガオの種を渡された。これだけあれば、どれかは間違いなく発芽するから頑張れ、と。愛犬に手向ける花も用意してやることができない俺に何を頑張れというのか。種を受け取って数ヶ月後、アーサーは死んだ。――――死因はアサガオの種だった。どこから持ってきたのか、アサガオの種を入れて置いた袋がアーサーの横に落ちていた。ドッグフードとアサガオの種を間違えて食べてしまったのか、胃の中からはアサガオの種が見つかった。アサガオの種は犬にとっても人にとっても有毒だ。食べると主に、腹痛・下痢・嘔吐などが起こり、幻覚作用もあると知られている。両親も当然悲しんだが、アサガオの種を食べてしまうくらいアサガオが好きだったのだという話で家族内は落ち着きを取り戻していった。
アーサーの墓前に手を合わせて、ラップで包んだアサガオの種をお供えする。
「ごめんな。本当は花をもってきてやりたかったんだけど、咲かなかったんだ」
アーサーの墓は家族代々の墓の隣に寄り添うように作られた。アサガオの毒で苦しんで死んだのだからせめて死後は安らかに眠ってほしい。
「でも、お前の好きなおやつは持ってきたから勘弁してくれよ」
ささみジャーキーの大袋を一つ。線香の煙がゆらゆらと尻尾のように揺れていた。
「今度は家族皆で来るよ」
踵を返して、霊園の入り口まで来たが、様子がおかしい。墓参りのために乗ってきたタクシーが居ないのだ。駐車場にはボロボロのバイクが放置されているだけで、人の気配もしない。墓参りの後も乗せていってくれる約束だったのに帰ってしまったのか。仕方が無いから、近くのコンビニまで行って両親に電話しようと思った。もうそろそろ両親も仕事から帰ってくる頃だろう。
コンビニまで徒歩5分、見慣れた蒼い看板とともに駐車場にタクシーが止まっているのが見えた。車窓から覗いたごま塩頭を見て確信する。俺が送迎を頼んだタクシーだ。一言文句でも言ってやろうと近づくと、運転手は俺に気付いてぎょっとした顔をした。悪いと思っているならどうして置いて帰ろうとしたのか。ふつふつと怒りが増していく。
「どうして待っていてくれなかったんですか」
しかし、運転手は非難の視線に困惑しているようだった。
「い、いいえ、ちゃんとお客様はご乗車なさったじゃありませんか」
話がおかしい。しかし、運転手の必死な形相はとても嘘をついてるようには見えなかった。
「思い詰めたお顔で、唸り続けるものだからコンビニで何か飲み物でもご用意しようと思ったんですよ。でも、コンビニに着いて後部座席を見るとお客様がいらっしゃらなかったもので……。どうしようかと……」
霊園から出てきて乗ったのは俺で間違いなかったようだ。所謂ドッペルゲンガーのようなものなのかもしれない。墓地周辺というのも怪奇現象の理由にはなりそうだ。とにかく運転手には非はなかったのだから、謝罪してコンビニのコーヒーを奢った。ついでに、兄に夜食を買い帰宅する。兄の機嫌をとっておけば、怒鳴られる事も無いはずだ。冷房の付いた部屋から追い出されたくはない。
「兄貴、今いい?」
勉強に集中している最中なら、激高してシャーペンが飛んでくることもある。努めて静かに、はばかるようにドアをゆっくりと開けた。半分くらいまで開けて、罵声が浴びせられないこととカーペットの上に横たわる足が確認できて安心した。冷房の稼働音が忙しないだけで、部屋は静まりかえっている。
「コンビニで夜食買ってきたんだけど―――」
残りの言葉は冷気の中に霧散して音になることは無かった。眠っていると思っていた兄は、瞼を張り裂きそうなほど開いて天井を恐ろしい形相で見つめている。その喉が無残に食い破られていた。傷口は赤と黒のペンキで塗装してぐちゃぐちゃとかき混ぜたような有様だ。首を持ち上げれば振り子のように揺れるだろう。
―――そして、兄の周りにはアサガオの種と動物の体毛が無数に散っていた。
以来、俺はアサガオの種に二度と触ろうと思わなかった。