Scene07: ルーフリアン
何回『ユイ』と呼んだだろうか……。
隣部屋からは笑い声が断続的に聞こえてはいるが、こちらに対する反応はまったくない。
窓から妹が顔を覗かせる気配はなかった。
やはり絞った声では、届かないのだ。
妹の部屋からは漏れてくる音は小さく聞こえるが、室内では割と大きな音を立てているに違いない。
うちは日本家屋の佇まいだけれど、数年前に建て替えたばかりの新築。
窓は二重になっており、気密性が高く、防音にもすぐれている。
屋根の縁から声を届かせるには、通常かそれ以上に張り上げなければならないだろう。
「……嫌だ。大声は絶対に出したくないぞ」
ワオーン。
と、よく通った犬の遠吠えが聞こえ、俺は左を向いていた顔を右へと向けなおす。
右手側は、うちの敷地の出入り口側になっている。
門口の先は、細い路地を挟んで、向かいの家が建っている。
さらに奥には近隣住民の家々が軒を連ねている。
夜10時を過ぎていることもあり、消灯している家もあるが、まだ明かりの点いた家屋のほうが目立つ。
そして幹線道路から離れているため、この集落の夜間はとても静か。
大声を出せば、ご近所さんの耳にも届いてしまう恐れがあった。
なんだなんだ?、と家の外へどやどや出てこられたらどうなる。
おそらく俺は、屋根からは無事に脱出できることになるだろう。
ところかまわず叫ぶのは、手っ取り早い解決策でもある。
だが、そのあとが無事では済まない。
親からは当然、ご近所さんに迷惑をかけて、とこっぴどく叱られるだろう。
それだけならまだマシ。
田舎の噂「うわさ」話は秒で広がる。
SNSを凌駕《量が》する伝播速度で共有。
道を歩けば、目撃者ではないおばちゃんから「この前は大変だったわねえ」と声をかけられる。その顔は不憫そうな表情をしながら、目だけは笑っているはずだ。
斜向いに住んでいる高校生の女子とすれ違えば、くすりと笑われ、うつむき加減で自転車を漕いでいくことは必須。
ランドセルを背負ったガキンチョの群れが「屋根男!」と俺の部屋に向かって叫び、ゲラゲラ笑って逃げ去っていく姿も容易に想像できる。
天体観測のあげくに屋根にしがみつくはめに陥っている醜態など、他所様の知るところとなってはならない。
秘密裏に収束を迎えなければならない。
「だから早く気づけよ、ユイ!」
ウゥーン、ウゥーン、ウゥーン。
返答したのは、パトカーのサイレンだった。
俺はもとから強張らせていた体を一層固くする。
突発的に響いてきたサイレンの出どころは左手後方。
遠くに聞こえたが、猛然と近づいてきている。
音を高鳴らせてぐんぐん迫ってくる。
顔を真左に向けると、視線がぶつかるのは土手だ。
いちおう道路になっているが、交通量は少ない。
パトカーはその土手を高スピードで走行してきているようだ。
心臓がバクバク乱れる。
「まさか……通報されたんじゃ」
俺の服装は現在、黒いニット帽に、黒いダウンジャケット、黒い手袋に、青いジーンズ。
その格好で民家の屋根にすがりついている。
どこからどう見ても不審者だ。
時間帯も時間帯である。
事情を知らなければ、二階の窓に向かって這い上がろうとあくせくしている姿は、家宅侵入を企てようとしている泥棒として映ってしまうだろう。
知らないうちに、犬の夜間散歩をしている人が通りかかっていた可能性はある。
それに今夜は流星群なのだ。
俺以外にも観測しようとする人がいたとしたら?
たとえ俺自身が声を上げずとも、窓を開けたり庭先に出たりする人がいるかもしれないことは十分考えられた。
「お願いだから通りすぎてくれ!」
と、俺は、屋根にとりつく寄生生物のようになって、息を殺した……。