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【 双 魚 宮 】
06. 夜を運ぶ術
「いい加減のんびりしたいわ……」
書類の山を忌々し気に見ながらげっそりとした表情を顔に浮かべれば、隣で自分と同じぐらいの山――もしかしたらあちらのほうが多いかもしれない――を抱えるスカーフェイスの男が、すかさず「そんなことを言う暇があったら手を動かしたらどうだ?」などと言ってのけた。彼の言葉はごもっともだが、夕方から書類の片づけをはじめ、時刻は既に日付を跨いでしまっている。その間休憩はせいぜい御手洗にいくか眠気覚ましの珈琲を淹れに行く程度。しかもその珈琲は自分のものだけでなく、上司に当たるスティーブンのものまで。自分でいけと言いたかったが、「君の珈琲は旨いからな」などと言われてしまっては断ることは難しい。煽てるのがうますぎるんだよなぁと珈琲を飲みながら思ってしまったが仕方ないだろう。
それにしても今日の書類は普段に輪をかけて多い。しかしそのほとんどがライブラ構成員の戦闘により破壊された建造物に関するものというのはいかがなものか。頼むからもう少し穏便に済ませてほしいと願うのは無理な願いなのだろうか。ポリスからは逃げられるのに建造物の損害賠償からは逃げられないというのもどうかと思う。
これでスポンサーが減ったらどうするんだろう、と考えつつも、その場合はスティーブン先生がどうにかして稼いでくるだろうと検討付け、彼に向って手を合わせた。
そうしたところ、ちょうどこちらを向いたスティーブンと目が合ってしまった。非常に気まずい。
「エルザ……まさか思うが、残りの書類お願いします……だなんて、考えてないよな?」
普段ならばこの言葉には、彼の持ち技のようになんたらデルセロアブソルートとつく笑みが浮かんでいたかもしれない。だが、今の彼の顔はまるで神に懇願するようである。
―――スティーブンも参ってるのね……
そもそもそんな意味はなかったが、このような顔を見せられてしまってはのんびりしたいなどという言葉は取り消さなければならなそうだ。
小さく笑みを浮かべて、緩く首を横に振る。
「そんなつもりはないから、安心して」
「本当だな! 今君に抜けられると流石に困るぞ!」
その必死そうな表情がどうにもかわいく思えてしまうあたり、どうやら自分は相当疲れているようだ。それに対しくすくすと笑っていれば、スティーブンは何とも言い難い表情を浮かべ、それからデスクに頭を伏せた。
そろそろ珈琲のお代わりが必要みたいね。
のんびりはできずとも、少しの休憩は取れそうであった。
そんな会話を楽しんでから早数時間。つい先ほど夜の帳が降りたかと思えば、すっかり空は明らみ始めている。ぐっと腕を伸ばせば、妙齢の女性らしからぬ音が節々より聞こえた。
「その、なんだ。……す、すごい音だな」
気を使われてしまった。別に自分は全く気にしていないのだが、そのように言われてしまうと何ともむず痒い。器用にもひくりと唇の端を小さく動かしつつ、「はしたない音を失礼」と謝る。スティーブンはそれに対し、苦笑いを浮かべながら「こちらこそ失礼した」と謝ってくれた。
いや謝られるほうが惨めなんですけど、と思いつつもそれを口に出すのはどうにも憚られてしまって、曖昧に笑っておさめた。
「あとどの程度残っている?」
話を変えることにしたらしい。恐らく変えるためだけでなく純粋に確認したかったというのもあるだろうが。
ところどころ痛みが目立ってきた髪をまとめなおしながら、目線だけで残りの書類の枚数を確認すれば、どうやらあと一時間もあれば終わる量のようだった。その旨をスティーブンに告げれば、そうか、と短い言葉が返ってきた。
エルザは、そちらは?と尋ねようとしたが、すぐにやめて口を噤んだ。今己が片づけている書類はエルザでもできるものだが、彼の書類は彼でなければ片づけられない、というものが殆どである。へたに尋ねて彼の地雷は踏みたくない。
―――せめて三徹、四徹になる前に仮眠を取らせなくちゃ……
それが秘書たる自分にできる最善だろう。
内心そんなことを考えていたら、急に「エルザ……エルザ!」と強い調子で名を呼ばれた。伏せていた顔をあげ、スティーブンと目を合わせる。
「それが終わったら昼まで帰って構わないよ」
「……え、いいの?」
「あぁ、だが昼まででたのむ。ついでに来るときにサブウェイで何か買ってきてくれ」
ここから書類を片づけて自宅に帰るとなると、三時間少々の仮眠は取れるだろう。やったぁと両手をあげて喜べば、スティーブンは笑みを浮かべていた。
「有能な秘書殿は睡眠をとらせたほうがもっと有能になるからな」
「効率の良い睡眠をとれば誰だってそうよ。お言葉に甘えて終わらせたら家に帰らせてもらうわね」
にんまりと笑みを浮かべて「ありがと」と礼を告げる。
「でも、あなたこそそれ片付いたら仮眠をとるべきなんじゃない?」
『有能な』秘書として一言言わせてもらうも、
「君よりも頑丈にできているから問題ないさ」
と軽くあしらわれてしまう。取り付く島もないとはこのようなことを言うのだな、と実感じた瞬間だった。小さく肩を竦めながらも書類に手をつけ、同時並行でどうやって徹夜を回避させようかと悩む。
しかし、スティーブン・A・スターフェイズという男は、自分がこのように頭を悩まし考えたところで、そう簡単には仕事の手を止めてはくれないやつである。
そうなれば実力行使しかないわね。
ひっそり、くつりと笑いをもらせば、突如スティーブンはぶるりと体を震わせた。次いで素早く周囲を警戒するも、特になにも見つからなかったようで、そのまま書類の山へと意識を戻した。どうやら、殺気にも似たエルザの思考を薄らと感じ取ったようである。寝不足であっても、書類の山と格闘していようとも、ライブラリーダーの副官、番頭殿の勘は侮れないものである。
―――けど、気付けないぐらい疲れているときに、私お手製の無味無臭睡眠薬を彼お気に入りのサンドウィッチに混ぜたら、きっと分からないわよね
今度の笑みは、心の中に押しとどめ、先程よりも仕事の手を早める。人間だれしも目標があればそれだけ頑張れるものである。―――その目標の意図が、『スティーブンを休ませるため』でなく『普段ならば気づかれるであろう薬を盛ること』に変わっているなどとは、露程も気付かず。
20160406 … 夜を運ぶ術
安息が欲しいなら眠ってなさい
さらさらと書類に万年筆を滑らせる彼女の姿は、いかにも有能な秘書といった佇まいで、見ていて小気味良いと感じる。とくにここが書類整理のしの字すらまともに言えないような荒くれものの集まる秘密結社『ライブラ』だからこそそう思うのかもしれない。
いや、それを差し引いても彼女は秘書として非常に有能な女性である。―――のだが、どこか様子がおかしい。いつもよりファンデーションのノリが悪いようだ、だとか、眉間にしわを寄せる回数が多いだとかそういう目に見えることだけでなく、彼女のまとう雰囲気そのものが何というか―――おかしい。変だ。
彼女が変、変わり者であることは皆が承知していることだし、そもそもライブラに変でない人間など存在しないといっても過言ではない。
話がそれてしまったが、兎に角今のエルザはなにかが可笑しい。にも関わらず周りは誰一人として、神々の義眼をもつレオナルドでさえも気付いていないというのだ。これはもう彼女がその不調をどうしても周りに隠しておきたいということなのだろうなと頭が回ってしまうあたり、俺はどうやら彼女のことがどうしても気になってしまうようだった。
どのようにして彼女に休息を与えようか。
俺にはしつこいぐらいに休息を勧めるというのに、対する彼女は「疲れた」だの「帰りたい」だの言いながらも仕事最後までやり遂げ、そのうえで最低限の休息のみをとっているときたものだ。
これは強く勧めたところで俺が休ませられるのが落ちだな。
そもそも彼女の不調には気付いてもその原因をいまいち掴めていない以上はどう休息をとらせるべきか悩んでしまう。
適当なことを言ったところで彼女はこんなときばっかり非常に口が立つため、恐らく自分は負けてしまうだろう。さて、どうしたものか。
そうこうしているうちに、どうやら天は俺に味方してくれたらしい。俺が悩む間にほかの構成員らは、やれデートだバイトだ子供の行事だと皆で払っていた。こうして悩む俺と、やはり顔色の優れないエルザを除いて。
各々緊急時以外は自由に過ごすというのがライブラであるので、こういったことは全く珍しくない。そのためか気にすることなく仕事を続けようとした彼女に、悩むのも忘れて思わず口を開いていた。
「大丈夫か?」
怪訝そうな顔をされた。しかしそのまま彼女を見ていれば、ゆるゆると顔をしかめはじめ、挙句の果てにはインクの乾いていない書類を気にすることなく、デスクに突っ伏してしまった。
「……なんでわかったのよぉ」
「なんでって、そりゃあ」
君をよく見ているから。そう言おうとしたのに、どういうわけかエルザは勢いよく起き上がり「やっぱいいわ」などといいのけた。なんでといったのはそちらだろうとは思ったものの、このやり取りで彼女の体調の悪さが何によるものか分かってしまった。―――所謂、女性の事情だ。彼女のためにもこれ以上は避けておこう。
再び顔を突っ伏した彼女に「もう休んでいいいよ」となるべく柔らかい声を心がけて伝える。しかし器用にもそのままの体制で首を横に振ると「あとが大変になるから……っ」とむしろ今のほうが大変だろうといいたくなるような声を発した。
どこかの猿のようにサボりにサボりをかさねるはいかがなものかと思いが、彼女のように過労を重ねるのもよくない。自分のことは棚に上げ、呆れたようなため息を漏らせば、ぎろりと鋭い視線を向けられてしまった。オイオイ、勘弁してくれないか。ため息を無理やり苦笑に変換し、彼女からよく見えるよう両手をあげて降参のポーズをとる。エルザはそれを確認するなり化粧が落ちるのも気にせず、両手で顔を覆って苦し気に息を吐いた。それが俺の今の行動に対するものなのか、彼女の体調の悪さからくるものなのかは俺には判断がつかない。
「あ゛ー……」
低いうなり声がエルザの口からこぼれた。
「しぬ、……いやころせ、いっそころしてくれ……っ」
何とも物騒な言葉だ。だがこの言葉で先程の彼女の行動が体調の悪さからくるものだと判断がついた。にしても物騒だ。
笑みがはっきり深まるのを自覚しながら、ゆっくりとした動作でエルザに近づく。
「エルザ、休みなさい」
声色は柔らかいものの言い方としては命令に近くなってしまった。さてどうやったら彼女は休んでくれるのだろうか。臥せったままのエルザの頭へ軽く手を乗せ、「エルザ」と名を呼び続ける。
するとどうだろうか。緩慢な動作で頭の上の俺の手の上に己の両手を乗せたではないか。どういう目的での行動かと思いながらもゆっくり手を、彼女の頭を撫でるように手を動かせば、エルザの両手が離れた。
―――頭を撫でてほしい、ってことか?
それに気づいてしまうとそんな彼女が非常にかわいらしく、愛おしく思えて来てしまった。
そこで俺の頭はあることを思いついてしまった。
「エルザ、良かったら君、抱き枕にならないか?」
頭が上がった。それに連なって俺も手を離せば、エルザは少し不満げな表情を浮かべ、そしてそれはすぐに怪訝そうな表情へと変化を遂げた。
よく変わる表情だと声を上げて笑いそうになるのを堪えながら、考えていた科白を吐く。
「少し疲れてしまったから休もうと思うんだが、ここには枕なんてないだろう。良かったら君が抱き枕になってくれないかなと思って……」
見る見るうちにエルザの表情はすうっと消え失せた。まずい、この作戦は失敗だったかもしれない。内心大慌てで、しかし表面上には出さず、何度目になるかはわからないが彼女の名を呼ぶ。少し声が震えてしまったかもしれない。
非常にまずい。どうするか。恐る恐るエルザの顔を伺い見れば―――
「上司を休ませるのは部下の務めだものね、仕方ないわね」
ゆっくりと立ち上がり――顔を顰めたのですかさず体を支えた――、俺に体を預けた。
これは、もしかしなくても、成功―――ってやつか?
そのことに喜びを覚えながらも、はたと自分が何のために一緒に休もうといったのかを思い出し、考えを打ち消す。
だがまぁ、別にそのくらいはいいだろう。許してくれよ。エルザから見えない位置で、にんまりと笑っていれば、どうやら気配で気付いてしまったのか、「なに……?」と本当に具合の悪そうな声をエルザは漏らした。彼女は一体いくつ瞳を持っているのだろうかと不思議に思いながら首を横に振ると、
「先に眠っていいからね」
折れそうなほど華奢な身体を横抱きにして、柔らかい声をだす。
ようやく観念したのか、いやきっと上司を休ませるのはとか何とか言いながらも自分が休むためというのは分かっていたのだろう。エルザは俺の腕の中で力を抜き、仮眠室へ辿り着くよりも先にスゥスゥと規則的な寝息がこぼれてきた。あまりの眠りの早さに、やっぱり眠りたかったんじゃないかと声をあげて笑いだしそうになったのを我慢し、彼女が目を覚まさぬようゆっくりとした動作を心がけ、仮眠室へ入った。
ベッドに寝かせ布団をかけてやり、「おやすみ」と囁いてやれば、どういうわけかエルザは薄らと目をあけた。まさか起きるとは思っていなかった。驚き目を見開くも、どうやらただ寝ぼけただけのようで、緩々と目を閉じ再び寝息が聞こえてきた。
ほっとしたのも束の間―――おいおい、こういうことかよ。思わず苦笑がこぼれた。
彼女が一瞬目を開いたのは、どうやら俺を一緒に休ませるためらしかった。俺のシャツをエルザが掴んでいたのだ。振りほどこうと思えば簡単にことは済むが―――部下の鑑のような彼女の行動を誰が無下にできる? 俺には無理だ。
可愛らしい行動をとったエルザに免じて、ここは俺も休むとするか。眠ってしまえば何も考えなくて済むのだから。
残っている仕事については、眠りから覚めて、それから考えればいい。今はそんなことよりも彼女と安息を取ることが先決だ。
エルザと同じ布団に潜り込むと、理由として述べた通り彼女を抱き枕のように抱きしめ、「おやすみ」と再び囁いた。
―――満足気な表情を浮かべているように見えるのは、決して目の錯覚というわけではないだろう。
20160629
そして仕事が終わらず徹夜してしまい、『夜を運ぶ術』へと戻る。
書き始めたのが結構前だったもんだから話が前後でかみ合ってないかもしれない。