052 そこの柱の陰に隠れているのは、分っているよ……無名君
天剣達を誤魔化し終えた迅雷は、特別観戦席に戻った天剣達と別れ、一人で便所に向かった。
便所に隠しておいた蒼炎狼牙を、取りに行ったのである。
昨晩、神域軽功のダメージから回復した迅雷は、宿に戻って蒼炎狼牙を手に取り、闘源郷に向かった。
仙闘機を闘源郷内に持ち込めるか、自らの手で確かめる為に。
迅雷の推測通り、闘源郷の警備は甘過ぎた。
武術の技量が未熟そうな警備兵が警備している、出入り口を見つけた迅雷は、気配を消した上で、出入り口を素早く通り抜け、闘源郷内に侵入。
特別観戦席の下にある便所の天井裏に、蒼炎狼牙を隠す事に成功したのだ。
迅雷自身が、仙闘機を密かに持ち込める程度の警備体制なら、素華も窮奇を密かに持ち込めると、迅雷は判断出来る。
つまり、素華が仙闘機を、闘源郷に持ち込んだ可能性があるかどうかを、迅雷は確かめたかったのだ。
(あいつらにも、ここの警備の現実を、知らせた方が良さそうだからな)
布に包まれた蒼炎狼牙を、便所の天井裏から取り出しつつ、迅雷は心の中で呟く。
黄国政府と関係が深そうな天剣達に、闘源郷の警備が、仙闘機を持ち込める程度に甘い事を知らせれば、警備体制の甘さが改善される可能性があると、迅雷は考えた。
それ故、闘源郷の警備の甘さの証拠を、天剣達に見せる為に、迅雷は蒼炎狼牙を取りに来たのである。
蒼炎狼牙を手に取り、男子便所から出てきた迅雷は、ついでに喉も潤しておこうと、水飲み場に向かう。
水飲み場に向かう途中で、迅雷は自分の二十メートル程前を、水飲み場に向かって歩いている者がいる事に気付く。
(あれは……彩雲! 水飲みに行くのか?)
迅雷の前を歩いているのは、仮面を被った謎の女武術家、彩雲であった。
今現在、最も素華である可能性が高いと、迅雷が疑っている相手である。
怪し過ぎるが故、逆に違う可能性も高いだろうとも、迅雷は考えているのだが。
(やっぱり、こいつは一度、調べた方がいいよな。水飲み場に向かっているなら、水を飲む時、仮面を外すかもしれない)
そう考えた迅雷は、気配を消して忍び足で、素華の後を尾行し始める。
迅雷の目的が、喉を潤す事から彩雲を調べる事に変わる。
彩雲の歩いている先に、朱雀を象った石造りの水飲み場が見えて来る。
彩雲は迅雷の推測通り、水飲み場に向かっていたのだ。
闘源郷のあちこちに、水飲み場や便所は設置されている。
武術家達が使う水飲み場や便所は、運営委員会の者達と武術家達しか使えないように、他のエリアからは隔離されている。
ちなみに、朱雀門がある南側の水飲み場が、朱雀を象っているように、青龍門がある東側の水飲み場は青龍を、白虎門がある西側の水飲み場は白虎を、玄武門がある北側の水飲み場は玄武を、それぞれ象っている。
水が出るのは、どれも口の部分である。
水飲み場を左側から覗き見る事が出来る、通路の柱の陰に、迅雷は物音を立てぬよう気をつけながら、素早く身を隠す。
その上で、彩雲の様子を窺う。
かっては姉同然の存在であり、今は仇である素華……かも知れぬ彩雲と、人気の無い場所で二人きりになる事は、心臓に毛が生えていると言われる程に図太い迅雷にとっても、緊張する事だった。
自然と鼓動が速まり、冷や汗が肌を湿らせる。
そんな迅雷の目に映った彩雲の姿が、一瞬だけ茶色に変わり、すぐに白に戻る。
「水を飲みたいなら、そんな所に隠れていないで、先に飲み給え」
突如、彩雲が口を開きながら、左側を……迅雷が隠れている方を振り向く。
(気付かれたか?)
迅雷は焦りつつ、息を潜める。
かまをかけられた可能性もあるので、迅雷は彩雲の前に、安易に姿を現しはしない。
(今、仮面と功夫服の色が一瞬、茶色になったように見えたけど……)
「そこの柱の陰に隠れているのは、分っているよ……無名君」
(隠れてるのが俺だって事まで、言い当てるとは……)
驚く迅雷の方に、彩雲は歩み寄って来る。
柱の陰に隠れている迅雷の姿を、確認する為に。
(流石に、これは誤魔化し切れないな。かまをかけてるとも、思えないし)
迅雷は諦めて、柱の陰から姿を現す。
多少、気まずそうな表情を浮かべながら。
「気配や足音の消し方といい、その歳にしては見事な隠密行動技術だと褒めたい所ですが、それだけの技術を女を覗き見するのに使うのは、余り感心しませんね」
余裕の有る諭す様な口調で、彩雲は迅雷に語りかける。
(気配を消して尾行している俺に、気付けるという事は、最低でも黄武十二聖と同等の実力はあるって事だな)
並の武術家では、気配を消した迅雷の存在を、察知する事は出来ない。
迅雷に気付いた事自体が、彩雲の実力の高さを示している。
「戦うかもしれない相手の顔を、確認しておこうと思っただけの話だ。女を覗き見とか、誤解を受けそうな言い方は止めてくれ」
意識して気楽な口調で、迅雷は続ける。
「隠してる素顔に興味があっただけで、裸を覗き見しようとした訳じゃ無いんだから」
「女が隠しているものを、隠れて見ようとするのだから、大して変わりはしないよ」
「身体なら、服で隠すのが当たり前だが、顔を隠すとなると、何か後ろ暗い事でもあるんじゃないかと、戦う相手が色々と不安に思い、調べたくなるのは、当たり前だろう?」
「確かに、隠された素顔を見たいと思う気持ちは、私にも理解は出来る。私も君の素顔には、興味があるからね」
彩雲に言い返され、迅雷は言葉に詰まる。
迅雷自身も歳が若返っているとはいえ、素華は幼い頃の迅雷の顔を知っている。
つまり、無名と名乗る迅雷の素顔を素華が見れば、迅雷が呪いで歳が若返り、無名と名乗っている事に、気付かれる可能性がある。
それ故、天剣や天華などの、仲間と言える人物だけにしか、迅雷は素顔を見せてはいない。
他の者達がいる場では、迅雷は基本的にゴーグルを被り、目元を隠している。
彩雲程では無いにしろ、迅雷自身も素顔を隠している点を、迅雷は彩雲に指摘されてしまったので、言葉に詰まったのだ。
「その若さで、強敵揃いの予選第八組を、本気を出さずに勝ち抜いた実力を持つ君が、その妙な眼鏡で顔を隠しているんだ。武術家なら、誰もが君の素顔に興味があるよ」
「そりゃ嬉しいね。女に興味持たれるのは、それが誰であれ嬉しいもんだからさ」
会話を交している二人は、別の誰かが近付いて来る気配を察し、西側に向いている通路の方に目をやる。
通路の先から、清明武林祭の運営委員会の係員が、走って来る。
「あ、いたいた! 絽彩雲さんに無名さん、本選での注意事項についての解説がありますので、至急……特別観戦席の方に、お戻り下さい!」
「分った。水を飲んだら、すぐに戻るよ」
係員が呼びに来たせいで、迅雷と彩雲の会話は打ち切られた。
迅雷は足早に水飲み場に行き、軽く喉を潤すと、特別観戦席の方に足早に戻って行く。
彩雲の正体を上手く探れなかった事を、残念に思いながら。
彩雲は、迅雷と係員の事を警戒したのだろう。
水を飲まずに迅雷の後から、特別観戦席の方に戻って行った。
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