001 天翔は、どちらが勝つと思うかね?
春だというのに、闘源郷は真夏だと錯覚しそうな程の熱気に、包まれていた。
黄国の武術界……武林において、最強の若手武術家を決める清明武林祭の決勝戦が、間も無く始まるからである。
清明武林祭は毎年、三月上旬の清明節と呼ばれる時期に、首都である黄都郊外に存在する、黄国最古の闘技場……闘源郷で催される。
大きな城が二つは納まりそうな程に巨大な、円形の闘技場を囲んでいる、闘源郷の観戦席には、十万人程の観客達が集まり、午後の陽射しの下、決勝戦まで勝ち残った、二人の武術家が現れるのを待っている。
「天翔は、どちらが勝つと思うかね?」
闘源郷の北側にある、他の観戦席から隔離された、豪華な設えの観戦席にいる壮健な男が、右隣の席に座っている、十代中頃の少女に訊ねる。
男と少女は、他の観戦席にいる観客達よりも、煌びやかな衣服を身に纏っている。
男と少女だけでなく、その豪華な観戦席にいる、二百五十人程の観客達は、他の観戦席にいる観客達より、明らかに華美な衣服に身を包んでいる。
服装を見るだけで、豪華な観戦席にいる観客達の身分が、他の観客達より上なのは明らかだ。
観客達の多くは、華服と呼ばれる、立て襟を特徴とする服を着ている。
中央大陸東部に広がる、華界と呼ばれる地域では、華服は標準的な服といえる。
普通の観戦席にいる観客達の多くは、短袍と呼ばれる、上衣の裾が短い華服を着ている。
だが、北側の豪華な観戦席にいる者達は、裾が長い長袍を高級化した華服である、宮廷服を着ている者達ばかりだ。
動き易い短袍の方が、華界では一般的になっている。
だが、宮廷服や礼服は、脚の殆どを隠せる程に上衣の裾が長い、長袍タイプのものが多い。
宮廷服を身に纏う者達は、華界に存在する七つの国家の一つであり、華界の南部……華南に存在する、黄国を統べる王族……雷家の者達なのだ。
そして、王族達の中央にいる、一際華美な刺繍などの装飾が施されている、派手な宮廷服に身を包み、すだれのついた特徴ある冠……冕冠を被った初老の男こそが、黄国の王……雷天王である。
「ーー東少侠が、勝つと思います」
雷天王から七メートル程、離れた席に座っている、天翔と呼ばれた少女……雷天翔は、父親に返答する。
端整な顔立ちではあるのだが、少女にしては背が高く、髪を短くしている天翔の姿は、女物の宮廷服を着ていなければ、凛々しい少年にしか見えない。
「軽功を極めた東少侠の、まさに疾風迅雷の如き素早い動きには、如何なる武術家であっても、対応出来ないでしょう」
軽功とは、人間が体内で作り出す生命エネルギー……気を操る、華界の武術家達が使う、内功と呼ばれる技の一種である。
軽功を発動した武術家は、常人を遥かに超える高速移動能力や、跳躍能力を得るだけでなく、異常なまでに身軽になり、水面や壁を走ったりする事も、出来るようになるのだ。
ちなみに、身体を自在に操る体術は、内功と対比する形で、外功と呼ばれている。
「東少侠の軽功は、神域に達していると聞きます。彗星少侠という綽号で呼ばれる、東少侠の神域軽功、是非……この目で見てみたいものです」
並の武術家が操れる限界の量を超えた、大量の気を費やして発動する内功を、神の領域の内功……神域内功と呼ぶ。
神域に足を踏み入れた武術家は数少ないのだが、天翔が東少侠と呼ぶ武術家……東迅雷は、軽功に分類される内功において、若くして神域に足を踏み入れた、武術家なのである。
内功を発動する際、気が放つ光のせいで、武術家の身体は仄かに輝くのだが、莫大な気を費やして発動する、神域内功発動の際、武術家の身体は眩しい程の強烈な光を放つ。
神域軽功を発動させて、光の尾を曳きながら超高速移動する迅雷の姿は、夜空を駆ける彗星のように見える事から、迅雷は彗星少侠という綽号……いわゆる二つ名を持っている。
ちなみに少侠とは、若くして武術や人格において、人並み外れて優れている者を呼ぶ際の、尊称である。
天翔は王族なのだが、迅雷を尊敬しているので、迅雷が平民であるにも関わらず、尊称を使っているのだ。
「確かに、東迅雷の速さは、武林に並ぶ者が無いと言われる程らしい。だが、総合力においては、同門の師姐である西素華の方が勝るというのが、武林での評判だと聞いている」
天翔の父親……皇太子である雷天元は、傍らにいる娘の意見に異を唱える。
「それに、方天戟の達人として名高い西素華が、双刀や双剣の達人である東迅雷と、武器を手にして闘った練習試合などでは、殆どの場合において、素華が勝利していたらしい」
武林の友人や知人から聞いた話を根拠に、天元は話を続ける。
「素手では無く武器による闘いとなれば、西素華の方が圧倒的に有利であろう。武林でも、そう評価する者達が多いそうだ」
天元の言う通り、決勝戦の勝敗の下馬評は、素華が勝つという意見が優勢である。
速さの天才でしかない迅雷では、総合的な天才である素華には敵わないと見る者達が、多数派だった。
そして、清明武林祭においては、武器を使うか使わないかは、武術家本人の自由なのだが、決勝戦は例年、武器を手にした武術家同士の戦いになる場合が殆どだという事も、素華有利という下馬評の根拠となっている。
武器を手にした上での戦いなら、総合的な天才にして、方天戟の達人である素華が勝つだろうと、予測する者が多いのだ。
迅雷と素華は、封神門という武術門派に属する、同門派の武術家であり、十七歳の迅雷よりも二つ年上の素華は、迅雷にとって女性の先輩……師姐である。
今年の清明武林祭の決勝は、黄都郊外にある封神山に本拠地を構える、封神門の双極星と呼ばれる、二人の若き天才武術家達によって、争われる事になった。
黄国の王族達を含む観客達は、この二人の天才武術家達の勝負を観戦する為に、闘源郷を訪れているのだ。
ちなみに、建国された頃より、王族は清明武林祭の決勝戦を、闘源郷において観戦しなければならないという、伝統的な国の掟が、黄国にはある。
それ故、決勝戦だけは、王族達が全員、闘源郷に姿を現している。
天元や天翔などの、一部の武術好きの王族達は、全試合を観戦していたりもするのだが。
総数二百五十名程の王族達が集まっている以上、警備も必然的に厳重となる。
五百人の近衛兵達が、周囲を固めているだけでなく、黄国軍の中から選抜された、十二人の武術の達人達にして、黄国軍最強の戦闘集団である、黄武十二聖の中の四人が、王族達の守りを固めている。
黄武十二聖は皆、機功を極め、仙闘機を自由自在に操る事が出来る。
仙闘機とは、現在の技術水準では製作不可能な、複雑怪奇な機械によって作られた、巨人の如き姿に変化する、武器の事である。
華界が神州と呼ばれていた遠い昔、高度な技術力を持っていた、仙人と呼ばれる者達が、神州を支配していた。
神州の支配者であった仙人達が、仙術と呼ばれる神秘の術を用いて、仙闘機を作り出したと、華界では言い伝えられている。
仙人の武器である仙闘機は、普通の人間には操る事が出来ない。
機功と呼ばれる特殊な内功を習得している者だけが、通常は剣や刀、槍などの普通の武器の姿となっている仙闘機を、甲冑を纏っている機械の巨人の如き姿……機動大仙としての姿に変えて、操る事が出来る。
機功を習得した武術家は、機動大仙となった仙闘機と、全ての感覚を同調させ、己の身体を動かすかのように操れるのだ。
仙闘機の戦闘力は、操縦する武術家の武術の技量と、比例する。
黄武十二聖が操る仙闘機は、いずれも黄国に伝わる、名のある強力な仙闘機ばかり。
その上、操る黄武十二聖は武術の達人揃いであり、仙闘機の戦闘能力を、極限まで引き上げられる。
多数の近衛兵だけでなく、仙闘機を操る機功の使い手……黄武十二聖の四人を出し抜かなければ、王族に危害を加える事は出来ない。
この鉄壁の護りを破り、王族に危害を加える事は、不可能に違い。
王族達は万全の護りの中で、黄国最強の武術家を決める戦いを、観戦しているのである。
突如、闘源郷の西側の観客席から、歓声が上がり始める。
歓声は程なく、津波のように闘源郷全体に広がって行く。
天翔が、歓声が上がった理由を口にする。
「白虎門より、西素華が現れました」
闘源郷の中央にある円形闘技場には、東の青龍門、西の白虎門、南の朱雀門、北の玄武門という四つの門がある。
素華は西の白虎門から、姿を現したのだ。
天翔や天元などの王族達も、白い虎……白虎を象った石造りの門の方に目をやる。
白虎門の前には、白い功夫服に身を包んだ、色白で長身の女性……素華がいる。
功夫服とは、武術家が修行や戦闘の際に着る服であり、上衣は短袍、下衣はズボン風の袴という組み合わせが多い。
この功夫服に、革で強化した動き易い布靴というのが、武術家の標準的な格好である。
後頭部で結われた長い髪を、馬の尾のように揺らしながら、闘源郷の中央に向かって歩き続ける素華の右手には、方天戟の柄が握られている。
方天戟は槍や矛などと同じ系統の、長柄の武器であるが、突き刺す矛としての穂先だけでなく、柄の先端の両側に、月牙という側刃が装備されているので、突き刺すだけでなく、斬り裂いたり薙ぎ払ったりと、多彩な攻撃を行う事が出来る。
観客達から、歓声と拍手で迎えられた素華は、闘技場の中央に辿り着く。
黄国において武術の源……戦闘の源と呼ばれる聖地である、闘源郷の中央に。
闘技場の中央に立った素華は、王族達がいる北側を向くと、身構える。
衆人の注目を一身に集めた素華は、そのまま舞を踊っているかのような、優美な動きを見せ始める。
殆どの人々は、素華が対戦相手を待ちながら、武術の様々な技を織り込んだ、一連の動作……いわゆる套路を披露し始めたのだろうと思い、素華を眺めていたのだが、一部の者達は戦慄した。
素華の動きの意味を理解出来る、機功を習得している者達は……。
「あれは……機功套路?」
機功にも通じている天元が、驚きの声を上げる。
機功は未だ修行中の身である天翔も、天元の言葉に頷く。