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1.釣りに行きたい!!

 木曜日、午後3時。

 眼下には見たこともないナブラが広がっていた。

 ナブラ。魚群と書く。おそらくオニヒラアジの群れだろう。


 ガボンと攻撃的な音。ジュボっと吸い込むような音が途切れることなく響いている。

 5百匹はいるだろうか。すべて3kg以上ある。

 繰り返しになるが、こんなナブラは見たことがない。


 釣り人にとってナブラはチャンスでしかない。そこにルアーを投げさえすれば、よほどへたくそじゃない限り確実に釣れるだろう。いや、絶対に釣れないほうがおかしい。

 釣り竿もある。リールもルアーも、道具一式持っている。それでも指を咥えて見つめるしかなかった。

 仕事中だったからだ。



 大嶺大樹はいわゆる釣りキチだ。周囲が見えなくなるほど釣りに熱中してしまう。釣りバカとも言われる。我が道を究めるスタイルに、同じ釣り人の友達からは敬意を込めて「変態」とも呼ばれる。

 これらは決して人を差別する言葉ではない。釣りと無縁の人が言葉狩りをしているだけで、言われた当事者からすると最高の誉め言葉なのだ。それほどまでに釣りに熱中している。



 そんな釣りバカの大樹の仕事は、信じられないことに公務員だ。

大樹が住む沖縄では、公務員は憧れの職業ナンバーワンと言ってもよい。南の楽園、観光地沖縄では選ばなければ仕事はあるが、基本的に低賃金で日本一所得が低い。公務員なら給料も生活も安定するからと、多くの人が公務員を目指す。しかし公務員がどんな仕事をしているのか、ろくに知る者は少ない。

 残念に思うのは、大樹は毎日のようにニュースで叩かれる、国の機関に勤めていることだ。


 特別職国家公務員というと良く聞こえるかもしれない。いずれにせよ公務員は国民の奉仕者であることは間違いないが、、業務は複雑で多岐にわたり、上下関係も厳しく、残業手当はほとんどでない。俗に言うブラック企業よりもはるかにブラックだ。

 休日出勤も多く午前様というのもざらにある。年休と呼ばれる有給休暇を消化した試しもない。やれ国会待機だ、やれ会計検査だ、やれ情報公開だ、個人情報保護と仕事だけはやたら多い。

 そのうえ、大樹の職場は連日新聞紙面をにぎわす埋め立て事業を担当しており、反対活動から円滑に工事が進捗できるよう、現場に職員が駆り出される。本来の業務もしながら、各地の活動家が終結した「最前線」の矢面に立たされるのだから、まったものではない。


 身心を病む者。そして職場を去る者も多かった。

 釣りバカ大樹も海を埋め立てることは不本意ではない。しかしこれは仕事なのだと割り切っている。


 ここ数か月、まともに休みも取れていないし、残業手当もろくにつかない。待遇改善を交渉しようにも、特別職国家公務員は労働組合も作れない。報道機関や世論に叩かれようが、残業が多かろうが耐えるしかない。


 そんな職場の目前。しかも勤務中。

 目に見えるところに巨大なナブラが現れたのだ。

 釣師なら誰もが興奮するだろうし、釣りをしない人だって興奮する大迫力の巨大ナブラが。



 大樹は寝不足だろうが何だろうが、沖縄では定番化した沖縄仕様のアロハシャツ「かりゆしウェア」に、背中には釣り竿…正確にはルアーロッドとリール。コンパクトに折りたためるタモ網の柄を背負い、ルアーや折りたたんだタモ網、釣り針を外すためのプライヤーなどを収めたベルトとポーチのセット…ベルトは自動膨張ライフジャケットを携行するのが出勤スタイルだ。

 明け方や夜中に近くの釣り場に現れては、出勤時間まで竿を振る。移動手段は最初のボーナスで買った原付である。原付なら駐車場を気にせず釣りができるし、邪魔になりそうならすぐに移動ができる。


 国家公務員とはいえ最初の給料は安い。

 大樹は高校卒業資格で受験できる国家3種を受験し、奇跡的に試験と面接を通過していた。工業高校の同級生はヤンチャなやつばかりだったが、真面目に授業を聞いていたおかげで教科の担任から受験を勧められ、現在に至る。

 地方公務員は技師、国家公務員では技官と呼ばれる。土木専攻なのだが、「技官だから」とパソコンから建築、電気までなんでも仕事を投げられる。同じ給料なのに事務官はいいよなと思うことが多かった。実際には事務官の仕事も多岐にわたるのだが。


 そんな職場でもいい人たちがたくさんいる。いい先輩、いい上司もいるし、同期の仲間もいる。同期とはいえ試験に合格した年齢がばらばらで、同期の絆みたいなのを感じた。後輩もでき、先輩面をするのに必死だった。


 後輩の中でも別格がいる。総務のマユちゃんだ。

 マユちゃんは大樹の2つ年下。すらりとした体格の女性職員で、長く美しい黒髪。誰にでも愛想がよく、職員から人気があった。

 マユちゃんとは懇親会で意気投合して雰囲気は悪くなかったし、むしろいい感じなのではないかと思ったくらいだ。


 大樹は釣りキチで変態の異名を持つ釣師でもある。

 彼女なんていない。理由は「変態」の異名を持つからではない。

 工業高校だったので、ほとんど出会いもない。小さい時から趣味人だったので同級生とは話が合わず、スポーツをしているよりも一人で釣りをしたり、池や海岸でタモ網を手に海の生き物を捕まえるほうがよほど楽しかった。友達も少なく、釣り以外に取り柄がない。

 仕事が忙しいので合コンなどにも行けないし、行くつもりもない。

 女性に興味がないわけではないが、話す自信もないし、釣り糸を通して魚と会話しているほうが楽しい、と強がったりしている。

 やはり彼女は欲しい。趣味を理解してくれる彼女が。


 県外出身で一人で沖縄勤務しているマユちゃんには釣り好きのお兄さんがおり、大樹に似ているらしい。なので大樹を兄のように慕っている。

 懇親会では酔いの勢いもあるのか、それとも性格なのか。マユちゃんからのボディタッチが頻繁にあった。女性経験がない大樹は体のあちこちが反応してしまい、ごまかすのが大変で全然酔えなかった。



 マユちゃんは天真爛漫でいつも元気だ。

 そして、今日も明るい声を響かせて、大樹が務める部署に駆け込んできた。


 「だいだいさん!港がすっごい泡立ってて、鳥もすごいんですよ!あれって何なんですか?」

 いつも以上に目を輝かせたマユちゃんの顔が迫ってきた。

港に沸くナブラだろうというのはわかった。


 係長が「大嶺、お前マユちゃんと中がいいよな!」とひやかしてくる。

 大樹はできればその話を聞きたくなかった。

 早朝、出勤時間までの間、眠気を我慢してナブラを待ち続けたのに、何も起こらなかったのだから。


 ちなみに「だいだい」というあだ名は、本名が大嶺大樹なので略して大大。小さいころから定番のあだ名となっている。


 マユちゃんが前のめりになって顔を近づけて質問してきたので、ものすごくドキドキした。細身のマユちゃん。かりゆしウェアのサイズが微妙にあっておらず、胸元がガラ空きで下着が見えるのではないかと思った。

 大樹は自分の顔が真っ赤になっているのを察していたし、それを上司や同じ課の人たちに見られたくないので、マユちゃんと廊下に出て、「あー、あれはオニヒラアジのナブラだね」と説明した。


 「群れているのは3kgくらいのサイズ、れきっとしたアジの仲間だよ。干物とかにするアジね。あいつはシラスが好きだから、港に追い込んでシラスを食べているんだよ。」


 「だいだいさん、あの魚釣れないんですか?」

 「いやー。毎朝狙っているんだけどね、こんなにすごいナブラは出ないよ。俺も運がないなぁ。」

 「ナブラ?」

 「魚群のことね。小魚が水面に追い込まれて、ああして白波を立てたりするんだ。鳥も騒いでるでしょ。もっと鳥が集まったら”鳥山”って言うんだよ。俺たち釣師や漁師は鳥の動きを見て、ポイントを決めることもあるよ。食べているのがシラスだから、使うルアーはこんな小さくて…」


 聞いていないことを、途切れることなくしゃべる。マニアの悪いところである。

 それでも「へー」と目を輝かせて聞き入るマユちゃん。

 自信をもって話ができる事。趣味。釣り。

 心躍る時間だった。


 「おーい!大嶺!!決済どうした!!」係長が割り込んできた。

 係員に仕事を任せ、ろくに仕事をしない係長。

 なぜか技術職の係に事務官の係長がついている。ブラック企業以上にブラックな勤務体制に情勢。心を病んだりして辞める職員も多く、現在のようないびつな体制になってしまっているのだ。仕方ないと思う反面、大樹は自分よりも高い給料をもらっていることに不満を持っていた。もっと仕事しろと言いたかった。

 係長からはたまに早く切り上げる時に飲みに誘われることもあったが、安い居酒屋で毎度割り勘だった。スナックに連れていかれることもあったが、オバサンしかいないうえ、ここでも割り勘。ケチなのだ。


 大樹は担当している工事の設計変更案件の決済を持ち回った。ほかの課の職員へ。課長へ。課を取りまとめる部次長、部長へ。

 そしてマユちゃんのいる総務、総務部長、局次長、局長まで。同じ説明を繰り返し、重箱の隅をつつくような質問をされ、時には差し戻しされて、一人一人に押印してもらう。計30人は持ち回りする。会議中の幹部を待ち、待機する時間がもったいないので、別の工事積算をチェックする。

 決済の残りは局長だけだったのだが、局長が帰宅したということで翌日の仕事となった。

 時間は20時を過ぎている。


 その後も別の積算を点検して係長に手渡す。マウスの動きやクリック音から、パソコンに標準装備されたゲームで遊んでいることがわかる。仕事しろよ係長。じゃなきゃ帰れ。職場には手当もろくにつかないのに、残業してますよアピールする悪しき風習があった。


 時間は23時を過ぎ、やっと帰宅できることに。

 国会で質疑を受けるかもしれないと、本省から待機を命じられ深夜2時3時まで待機されるのもザラにある。日付が変わる前に帰宅できるのは、まだ良いほうだった。


 こんな毎日なので、大樹はストレスが溜まっていた。

 それに今朝はナブラが出ず、勤務中にスーパーボイル(ナブラのことを英語でボイルという)を見てしまった。ナブラを教えてくれたマユちゃんとはいい感じの時間を過ごせたのに、仕事をしない係長に引き裂かれ、もうすぐ0時をまわる時間まで働かされた。夕飯も食べていない。


 釣竿を背負い、道具一式を腰に巻いて身支度する。手には原付用の黒いヘルメット。警備員のおじさんは釣り好きで時々おしゃべりをする間柄だ。「お疲れ様。まさか今から釣りにね?」と質問してくる。

 「もちろんですよ」と答えて職場をあとにした。人差し指がラインで切れないように二重になった、フィッシンググローブに手を通す。



 深夜の都市河川。沖縄の大動脈、国道58号を原付で走る。

 夜なので飛ばす車も多い。マフラーをふかして走り去っていく暴走族もどきみたいな連中もいる。たどりついたポイントは国道沿い。潮渡川にかかる潮渡橋。


 オレンジ色の光の街路灯が水面を照らしている。今日は小潮だ。

 それなりに水量があり、大潮の日に最大限満ちていたライン…潮見表で言うところの200センチ台より、やや下回るまで満ちていた。護岸に染みた水のあと、薄く生えた藻でわかるのだ。


 釣りをしない人に潮汐の話をしても、ピンとこないかもしれない。

 海面は月や太陽の動きで変動する。月の引力で水面の高さが変わるのだ。

月齢0日(新月)や15日(満月)のあたりは、引力の影響が大きくなるので干満の差が激しくなる大潮。大潮と大潮の間、半月の日は干満が緩い小潮。また、引力で引かれているとはいえ6時間ほどずれてやってくるので、月が水平線近くにある時が満潮、頭の真上や地球の裏側に月が位置しているときは干潮になる。

 西の空には半月が輝いていた。


 雲が緩く流れ、蒸し暑い。できれば早く帰ってシャワーを浴びたい。

 だが、釣師としては今日一日のモヤモヤを洗い流すため、何としてでも釣りたかった。

 疲れがたまって眠い。なので竿を振れるだけでもいい。

 釣れなくたっていいから、とにかく釣りがしたい。

 生活の時間を削ってでも釣りがしたい。釣り廃人である。


 忍者のように背負っている布製のケースから、2本に分割されたルアー竿(ルアー釣りに関しては竿ではなくロッドと言う)を取り出す。ケースはただのナイロンの布なので、原付で転んだり何かにひっかければ折れてしまう。通勤ついでの釣りには安物のロッドしか使わない。釣具店で3千円ほどで売っていた竿だ。


 腰回りのケースからリールを取り出す。

 国内有名メーカーのもので、リールに関しては3万円台のものを使っている。リールは骨董品のような年代物の中古リールを除いては、価格と性能が比例すると言っても過言ではない。高ければ高いほど、ボールベアリングの数や精度、つまりハンドルが軽くなる。本体重量も軽くなるし、ドラグ…魚とやりとりをするときに抵抗をかけて糸を送り出す装置の性能が上がる。何もかもが軽くてスムーズなので、釣りをするときの負荷が減る。本当は8万円以上する最高級のリールが欲しいのだが。


 今は主流となっているPEラインの0.6号が150mほど巻かれている。以前は釣りの道糸と言えばナイロン製のいわゆる「テグス」が主流だったが、ポリエチレンでできているPEラインが多用されるようになった。伸びが少なく感度が良いので、魚のアタリがわかりやすくルアーに動きをつけやすい。また、同じ太さなら引っ張り強度がナイロンよりも強い。

 ただし、PEラインは良いことばかりではない。だいぶ改良されたとはいえ、糸が絡まる(キンクする)と外れにくいし、岩や魚の歯、ヒレなどの摩擦にめっぽう弱い。細い糸を編んで作られているので、1本が切れるとその場に負荷がかかり、あっという間に断線してしまう。PEラインは強い道糸に見えるが、決して万能ではないのだ。


 なので、150m巻かれたPEラインの先端には、2mほどのフロロカーボンのハリスが巻かれている。フロロカーボンはナイロンによく似るがナイロンよりも比重が重く、PEラインほどではないが伸びが少ない。何よりも摩擦に強い。魚の歯やヒレ、エラ、周辺に点在しているであろう岩にこすれても切れるリスクが減る。

 ちなみにバスフィッシングではフロロカーボンをラインに使うケースもあるが、射程距離が必要な沖縄の釣りでは、硬くてゴワゴワなフロロカーボンを道糸に使う人はほぼいない。


 餌釣りではハリス、ルアーではショックリーダーと呼ばれる先端の糸は、道糸よりも太くなっている。太さは4号。餌釣りでは道糸よりも細いハリスを使うのが一般的だが、ルアーフィッシングでは、歯や岩へのこすれ(根ズレという)の心配がない限り、道糸よりも太いショックリーダーを使う。それぞれルアーや浮きなどの仕掛けを守る工夫である。


 PEラインとフロロカーボンのショックリーダーとの結束は、FGノットという結束で直結されている。一度食らいつくと締め付けられるハブのおもちゃの民芸品があるが、まさにこれと同じ原理で、引っ張れば引っ張るほどPEラインがフロロカーボンに食らいつく。PEラインとショックリーダーの結束には様々な方法があるが、PEラインに関してはFGノットを覚えておけば事足りる。

 いろいろな結束方法を覚えるとカッコよく見えるが、大樹は一つの結び方を確実に行う方がいざ大物が掛かったときに安心してファイトできると考えている。なのでPEラインの結束では、FGノットしか使わない。暗闇でも結べるほど練習した。最も自信を持って結べる結束方法なのである。


 ルアーはクランクベイトを選んだ。色は定番のオレンジだ。

 ルアー(疑似餌)なので、餌を準備する必要がない。手が臭くなることもないし、飽きたらすぐに片づけて帰宅することもできる。

 丸っこいボディに、水をかいてブルブルと震えながら潜るための透明のベロ「リップ」がついている。水中で抵抗を受けて震えるルアーは何種類もあるが、クランクベイトほど強烈に振動するルアーはない。

 また、胴体の中にはガラス玉だろうか、「ラトル」と呼ばれる玉が数個入っていて、振るとカラカラ音がする。暗闇で音を使って魚を誘うのだ。


 クランクベイトはバスフィッシング用のルアーとして知られ、沖縄ではあまり使われていないルアーだが、深く潜らせてリップをコツコツあてて、水底近くの獲物を狙うのには最適だ。夜の都市河川フィッシング…汽水域での釣りでは隠れた人気があり、ミナミクロダイの良型やゴマフエダイ、ヤイトハタなどのハタ類に実績があった。

 いずれも顎の力と引きが強い魚なので、針を軸の太いものに強化している。一般的にはトレブルフック(トリプルフック)を付けるが、海底をダイレクトに攻めるので、ダブルフックを上向きに、正面から見てV字になるようにセットしている。

 ちなみにクランクベイトにはリール操作を止めると浮く「フローティング」と、沈む「シンキング」がある。結んだクランクはフローティングで、ルアーをする人でもあまり知らないことなのだが、浮力が強いものほど、リップがしっかりと水をとらえるので、よく潜る。

 操作方法は、神経を集中させてゆくり引くこと。そして振動を感じること。感度のよいPEラインと竿先が、底の地質を教えてくれる。


 ブルブルブル・・・コンコン

 川底は岩だろうか。違う。コンクリート三面張りだ。

 護岸もコンクリートブロックで固められている。川底もブロックを埋め込んでいるか、コンクリートの流し込みで作られている。自然という要素がなく水路というほうが正しい。しかし、こういう水路にも魚はいるものだ。

 おそらく護岸沿い、不法投棄された自転車などの粗大ごみ、街路灯が照らす水面と影の境目、それが絡み合う構造物、つまり橋のまわりなど、ちょっとした変化のある場所がポイントだ。


 大樹は橋に近づいて、橋げたの奥へクランクベイトを送り込んだ。釣りでは頭の上で豪快に竿を振る投げ方がイメージされるかもしれないが、竿を低く構えて、より精密に投げる方法もある。釣りに関しては投げるというよりも放り込むが正しい。これらの動作を英語でキャスティングと言う。略してキャスト。アンダーキャストというやつだ。


 キャストがいいところに決まった。魚がいれば食うだろう。

 慎重にリールを巻く。ブルブル、コツコツと感触がロッドに。ロッドだけではなくリールのハンドルにまで伝わる。PEラインはそれほどに感度が良いのだ。


 その時、何かが聞こえた。

 誘っている声。

 最初は小さすぎて聞き取れなかったが、呼ぶ声だ。

 「ヘーイ、ヘーイ」


 あたりを見渡したが、人影が見えない。

 でも確かにヘーイ、ヘーイと大樹を呼んでいる。女性の声だった。

 大樹が無視するようにクランクベイトをキャストすると、その声が強くなった。


 左手を耳にあてて、どこから呼び声がするのか方向を探ろうと試してみた。

 国道58号、潮渡橋の下。動きを止めたクランクベイトが浮いて、小さな波紋を発している。

 オレンジの街路灯に照らされた水面と、橋の影の境目。


 鋭い視線を感じ、背筋がゾクっとした。

 声の主は橋の下、水の中に居たのだ。




 大樹は自宅で目が覚めた。


 正確には官舎とか、公務員宿舎と呼ばれる小さな団地だ。大嶺大樹は沖縄本島中部の出身で、通勤が大変なので那覇市内の官舎に住んでいる。社宅みたいなものなので家賃は格安。ただし単身の係員用なので部屋は広くない。前の人がきれいに使われているとはいえ、古めかしさを感じる。


 敷きっぱなしでぐちゃぐちゃになっている布団、室内干しで生乾き感のある洗濯物。いつも使うので出しっぱなしにしているアイロン台。そのくせ釣り具だけは立派に整理整頓されている。

 いかにも男という感じの臭いがする。幸いにしてタバコは吸わないが、残念ながら男臭い。燃えるゴミは週明けが収集日で、カップラーメンの器のまわりには小バエが集っている。


 昨日はどうやって帰ったのだろう。

 全く記憶がなかった。


 昨日からの青いジンベエザメのかりゆしウェアにスラックス、エアコンがついていないので蒸し暑く、かりゆしのボタンもはだけ、スラックスのベルトもファスナーも全開。靴下も履いていない。みっともない姿で気を失っていた。


 空が明るい。

 やばい、今何時だ!?遅刻だ!!


 慌ててスマホに手を伸ばす。バッテリーが切れていた。

 充電器を探してコンセントに挿したが、反応がない。


 いつも使っている気圧計付きのデジタル時計も、今日に限って見当たらない。

慌てて照明のスイッチに手を伸ばす。外からの日差しが強いので、室内の大部分が影となってしまってた。照明が付かない。

 顔を洗おうと、カップラーメンの器が放置された流し台の蛇口をひねった。水が出ない。電気料金も水道料金も引き落としされていたはずだが…それとも残高不足だったのか。ろくに通帳を見ていない。しまったと思った。

 公務員とはいえ安月給の係員。釣り具を買いすぎて残高がないのだと後悔した。正直自分の行動を呪うしかない。

 しかし、水道や電気が使えない理由は他にあった。



 ドアノブをひねって外に出てみる。

 そこには見たことのない海が広がっていた。



 驚くほど真っ白な砂浜。

 沖縄は開発や農地からの土砂流出が多く、赤茶けている海岸も多い。リーフをつぶして作った人工ビーチを除いては。

 人工ビーチではない。むしろ人工物がほとんど見えなかった。雑な石垣が少しだけ見え、その向こうに屋根。かやぶき屋根というのだろうか。それと、沖縄で見慣れた赤瓦屋根が見えた。


 あまりにも美しい海岸線。しばらく見とれていた。

 昨日見たすさまじい魚群の海とは明らかに違う様相の、心躍る美しい海。

 青い。とにかく青く透き通った海。


 少し海が荒れていて、沖のサンゴ礁が隆起したイノー(干瀬)があり、外洋に面したリーフエッジでは白波が立っている。風が思ったより強い。向かい風。太陽の向きからすると、西風だろうか。


 とりあえず、部屋に戻る。

 未知の世界が広がる不思議な状況。なのに手にとったのは、やはり釣り具だった。

 さすが釣りバカ。

 海を目前にして黙っていられるわけがない。


 それにどうせこれは夢だろうし、夢の中まで仕事を考えるのはやめた。

 たとえ夢でなかろうが、玄関を開けたら見たことのない海になっているんだから、職場がどこにあるのかさえわからない。遅刻になるのか欠勤になるのか知らないが、言い訳はできるだろう。

 ここには上司や同僚はいない。

 今日ばかりは仕事しない係長に頑張ってもらおう。


 というわけで大樹は釣りモードに。



 昨日使った道具よりもふた回りほど大きい。ルアーでいうところのミディアムタックルのセット。そしてライフジャケット、ポーチには昨日と違うルアーのケース。

 眼下に広がる砂浜に降り立った。

 さて、どのルアーを使うべきか。


 風が強いので、向かい風でも飛距離を稼げそうなポッパーを準備した。

 ポッパーは有名な釣り具メーカーならば、たいていどこでも作っている。バスフィッシングで用いられるカップ状の口を持つルアーで、70kgに達する巨大なロウニンアジが生息する沖縄においても重宝される。お尻に重心を持たせ、垂直または斜めに浮くポッパーが、地元の匠の手によって製作されている。ハンドメイドルアーというやつだ。


 大樹もハンドメイドルアーを作ることがあった。多くのルアーマンが最初に作ろうとするのは、水面で使う”トップウォーター”のポッパーか、ペンシルベイトだ。カップを掘るのが難しかった。コーティング材がカップのまわりに溜まり、たらこ唇のようになっている。

 ハンドメイドルアーの匠のように綺麗に色を塗る技術がなかったので、冗談半分で濃い紫色に緑のワンポイント。ナス色に塗装した。

 自作のナスポッパーを結わえ付け、キャスト体制に入る。


 「にゃあ」

 突然後ろから声をかけられた。

 そこには2人の女の子が立っていた。


 しくじった。後方確認をしていない。

 釣りは危険が伴う遊びでもある。落水して溺れたり、雷に打たれたりして死者さえ出る遊びなのだ。手慣れてくると、ろくに安全管理をしなくなる。とくに後方確認を忘れがちだ。

 「あ!ごめんなさい!大丈夫?」

 幸いにして、ルアーが女の子達に刺さることはなかった。


 立っていた女の子は猫耳。二人とも白黒のゴスロリ服。

 テレビで見るメイドカフェの店員のような服装の女の子だった。

 一人はセミロングで茶髪。もう一人は黒髪のポニーテール。黒髪と言っても、毛先だけは茶色がかかっているように見えた。

 

 「ウミンチュさんですかにゃ?」

 ウミンチュ。海人と書く。漁師のことだ。

 「いえぇ?違いますけど」

 「残念だにゃ……海人さんを探しているのにゃ」

 「おねえちゃん、このヒト変な恰好ですし~ 海人さんじゃないですよ~釣り竿持ってますけど~」

 「また主様に怒られるにゃ…」


 二人は涙を浮かべて、大樹をうらめしそうに見つめていた。

 耳と尻尾が垂れている。コスプレ衣装にしては、よく出来たギミックだなと思った。

 「…一応、魚釣るのは得意ですよ」

 耳がピクっと反応した。


 「お願いがありますにゃ」

 「主様は”アカジン”が必要だとおっしゃっています~」

 二人は姉妹だろうか。口調はそれぞれ違うけど、息ぴったりに見えた。


 「アカジン?ああ、アカジンね。」

 アカジンは和名をスジアラと言う、スズキ目ハタ科に属する魚だ。

 ハタ類は一般的に美味なものが多く、特にアカジンは最高級魚だ。卸値で3千円前後、高級料亭などでしか出回らない。すでに観光地と化して”市民の台所”には程遠い牧志公設市場では驚くような価格で販売されている。

 店頭では赤仁と表記されることが多いが、本当は赤い銭を意味する。換金性が高い魚なのだ。生命力が高く傷みにくい魚だからとも言われる。

 白身のアカジンは刺身はもちろん、汁物にすると濃厚かつ上品な出汁が取れる。


 英語ではレオパルド・コーラルグルーパー、またはコーラルトラウトの名で呼ばれる。ヒョウ柄のサンゴ礁に住むハタ(グルーパー)、またはマス(トラウト)という意味だ。欧米人が鱒と呼ぶのは、他のハタ類がウチワ型の尾を持っているのに対して、アカジンは切れ込みの入った尾をもっているからだろう。一般的なハタ類が巣穴近くで獲物を待つのに対し、アカジンは機動力があり、身が締まっている。



 白い砂浜には点在する岩、というよりもサンゴの群落が確認できた。

 サンゴ群落の間には白い道のようなスリットがある。

 アカジンは一般的には沖釣りで釣るものだが、上げ潮…干潮から満ちるときに、潮の流れとともに、このスリットに沿って移動してくることを地元の釣りブログの記事で読んでいた。


 寝坊して心底焦ったのに、仕事の事はすっかり忘れて、目の前に突如現れた海と猫耳娘に頼まれてロッドを手にしている。

 強い向かい風。押し寄せる波。皮靴もスラックスもずぶぬれになっている。


 仕事なんてどうでもいいや。仕事をしない係長に使われて、朝から晩まで働く。有給休暇なんてまともにとったこともない。冷静に考えて働きすぎだから今日くらいサボろう。事情が特殊すぎるから。

 マユちゃんには会いたいが、傍らで心配そうに見守る猫耳娘たちがかわいらしく、頼られている感じが心地よかった。

 同時に「釣らないといけない」というプレッシャーも感じつつ。


 アカジンは基本的に水面まで餌を追い回す魚ではないので、ポッパーからメタルジグに取り換えていた。

 20gのメタルジグが風を切って飛んでいく。着水後、リーリング…リールのハンドルを巻いて、あおられたPEラインをすばやく回収する。


 水深5mくらいだろうか。沖縄の海、特に美しく透明度の高い海は、水深の感覚がつかみにくい。知らない人が海に入ると、思いのほか深くて危うく溺れかけるなんてこともあるから注意が必要だ。


 メタルジグは鉛やアルミニウム、タングステンなどで出来た金属製のルアーだ。一般的には鉛にアンチモンという素材を混ぜた複合素材で作られている。アンチモンが鉛を硬くするらしい。タングステンは特に比重が高いが希少で加工がしづらく、樹脂に混ぜられている。自衛隊の護衛艦に積まれている近接防御用の機関砲「CIWSシウス」の弾丸にもタングステンが使われているのだとか。一般的には鉛でできたメタルジグが安価で流通している。


 いずれにせよ、かなり比重の重いルアーなので、リールを巻かずに放置していると、あっという間に沈んでしまう。着地した場所が砂地であれば良いのだが、サンゴの塊であれば引っかかってしまう。いわゆる根掛りというやつだ。

 そこで「カウントダウン」というテクニックで、沈めては巻き、沈めては巻きを繰り返した。文字どおり「何秒沈める」と決めてカウントしながら、魚がいそうな泳層、とりわけアカジンがいそうな水深を攻めた。また、カウントダウン中に魚が食ってくることも珍しくない。メタルジグは水の抵抗を受けて、ヒラヒラとフォール(落ちる)するので、魚には魅力的に見えるらしい。

 アシストフックという、ひもが付いた釣り針が頭の部分のアイレットについている。尻側には釣り針はついていない。


 アカジンという魚は多少機動力があるとはいえ、基本的にハタの仲間なので、待ち伏せ型捕食の傾向が強い。サンゴとサンゴの間のスリットを移動し、サンゴのまわりで群れている魚が射程内に入るのをまって飛び掛かる。

 沖縄県の調査では、胃袋からスズメダイの仲間やベラの仲間、ヒメジの仲間が検出されている。これらの小魚は海底付近、サンゴの周りからからあまり離れない。一段と深くなったスリットで、頭を持ち上げた斜め姿勢で、餌となる魚の死角から飛び掛かる。


 ちなみにアカジンを含むハタ科の魚のこと全般を、沖縄ではミーバイと言う。スジアラも単にアカジンとする場合と、アカジンミーバイと表記する場合がある。ミーバイに漢字を充てると「目張」と書くが、沖縄にはメバルはいない。メバルはハタの仲間ではないが、アカジンとメバルは頭を上にして遊泳し、獲物を待ち伏せる。



 時間だけが流れた。かなり日が高くなった。

 猫耳娘たちは疲れたのか、木陰に座ってぼーっとしている。

 よほど疲れたのだろう。


 2度ほどアタリが出たのだが、食い込まない。

 波打ち際近く、ジグを回収しようとした瞬間に水面がモワっとして、鋭いアタリが出ただけ。おそらくダツの仲間が食ってきたのだろう。ダツは細長くて水面を泳ぎ、光に向かって飛んでくることが知られる。刺さって亡くなった人もいるという危険な魚でもある。

 ダツがいるときは小魚がいる、小魚がいるということは別の大物もいると考えたいものだが、残念ながらそうもいかない。ダツがいるときはダツばかりで、他魚種は釣ないことが多い。沖縄のルアー釣りあるあるの一つかもしれない。



 潮も引いてきた。沖のリーフの白波の様子も変わり、ビシ(干瀬)が見えるようになった。外洋に面するリーフエッジでは白波が立っていて、眺めた限りでは2~3km迂回しないと大きなビシに渡るのは難しそうだった。


 海岸のサンゴが隆起してできたであろう崖地に、長年の波風で削られてできたくぼみ。地質用語ではノッチという地形だ。崖のくぼみに不自然な官舎のドアがめり込んでいる。

 大樹はウェーダー(ゴム長)を部屋に取りにいくべきか悩んだ。ロッドを立てて歩きはじめると、猫耳娘の一人が心配そうに近づいてきた。


 「アカジン釣れませんかにゃ…?」


 釣ったことがあるとはいえ、船釣りで1度だけ釣ったことがある程度。陸っぱりの釣りとは勝手が違うし、知識だけではどうにもならないのも、また釣りなのだ。


 「主様に怒られるにゃ…」

 なんか申し訳ない感じがして、まだまだ頑張ろうと思った。

 ひどく汗をかいており、喉が渇いていることに気づく。水道が出なかったし、毎日残業の連続で、自宅には寝てシャワーを浴びるために帰る程度。冷蔵庫にはろくに飲み物が入っていなかった。

 たしか缶ビールが何本か入っていたはずだが、酒が入ってはまともな釣りができない。

 そんなことを考えていると、茶髪の猫耳娘が「喉渇いたのですかにゃ?」と察してくれて、水筒から飲み水を分けてくれた。


 ただの水、しかも生ぬるい癖のある水だったのだが、とてもおいしく感じた。

 少し苦い硬水。つまり水の採取地がサンゴ礁起源の琉球石灰岩から沸きだす地下水。アルカリ性の地質であることを示している。


 「おねえちゃん、どうしましょう~」

 黒髪のポニーテールが心配そうにしている。

 「アカジンは厳しくないかなぁ。この天気だし。ちょっと荒れているから。」

 「海人さんも海が荒れているから、漁に出られないって言ってたんだにゃ…」


 「なんでアカジンが必要なの?」

 「今日は主様の大事なお客様の接待があるのにゃ。その接待にはどうしてもアカジンが必要なんだにゃ。」

 「お魚屋さんはいないの?」

 「いつもは街のアンマーたちが売りに来るんですけど~ 海人さんたちが漁に出れないんで~ お魚がないんですよ~」


 アンマー…沖縄でお母さんのことだ。この島は沖縄の方言が使われている。しかしほとんど標準語に近い。

 「やっぱり主様に怒られるかにゃあ…」


 二人は涙を浮かべてる。

 それに主様ってどんだけ偉いんだよ。それに、そこまでしないといけない接待相手ってどういうやつなんだ。怒りが倍増したのはその後のこと。


 茶髪が突然、エプロンとワンピースを脱ぎ始めた。

 「ちょ、ちょっと!!」

 つい見ないふりをしてしまったのだが、やはり男。目が行ってしまう。

 背中には鞭打ちの傷跡。それも何本も。

 これは惨い。虐待されている。


 「とりあえず服着ようよ。わかったから…。」


 まだ青空が覗いていたが、雲が多く少しだけ湿った風に変わった。沖縄特有の厳しい日差し。蒸し暑いが、木陰に入ると強い風のおかげで多少気持ちよく感じた。二人の服のフリルが揺れて、髪がたなびいている。何かを感じ取ったのか、時々、耳がピクっと動く。

 少し休憩できたので、また釣りをすることにした。潮が下がっているので、ビシに渡ればイシミーバイは釣れるのではないか。そして、運がよければアカジンも狙えないか。

 イシミーバイは和名カンモンハタで、最大でも30cmほど。手のひらくらいがアベレージなのだが、同科のアカジンと同じく美味な魚だ。汁物にすると美味いことなどもアカジンと似ている。

 ただ、サイズが小さいので食べづらい。


 「イシミーバイじゃダメかな?」

 「イシミーバイ?わかんないんですけど~ 主様怒っちゃいますよ~」


 アカジンは潮に乗って上がってくるタイプなので、上げ潮を待たないと釣れない。潮が真逆だ。潮を待つしかない。


 「二人とも、俺の部屋で少し休む?」

 疲れた表情だった二人に、笑顔が戻った。

 ただ、散らかった男一人の部屋。はっきり言って汚いし、臭いも気になる。女の子に見られたらまずいものがないか気になった。洗濯物。その他男子特有のあれやこれや。


 崖から不自然に覗くドアを開けて、「ちょっと待ってね」とすばやく中に入る。

 洗濯物を物干しごとクローゼットに押し込み、ゴミ袋を台所の隅へ。


 これといってもてなすものもなく、茶菓子どころか飲み物すらない。自分が情けなく感じた。それでも猫耳娘たちは興味深々だった。

 テレビに蛍光灯、ティッシュにプラスチック製品。水の出ない水道。アイロン。目に映るものすべてに興味を持ち質問してくる。トイレなどはどうしよう。


 猫耳娘たちが持っていた水筒の水で喉を潤す。

 そういえば冷蔵庫。やはり電気が止まっていたが、冷凍庫にはわずかな氷が残っていた。この氷を入れて水を飲んだ!

 「冷たいにゃ!」 「美味しいです~」二人にとても喜ばれた。


 一息ついたら、おなかがすいた。

 気づいたときには、二人とも寝ている。

 猫が眠っているように丸まって、手をふにふにさせている。

 寝顔がすごくかわいい。寝息を立てている。

 やはり二人は姉妹なのだろうか。



 お腹がすいた。飯がないなら釣ってくるしかない。

 大樹は昨晩、街中の川で使っていた小物釣り用のライトタックルに持ち替え、小さなルアーが詰まったボックス、ゴム長、魚をキープしておくためのストリンガーという金具、ライフジャケットを準備した。

 ライフジャケットは防弾チョッキのような形で浮力材がパンパンに入ったもの。もちろん防弾ではないが、岩礁で転んだ時にクッション替わりにもなる。熱中症さえ気をつければ、これほど心強いライフジャケットはない。大容量のポケットがあり、使いそうなルアーが入ったボックスを忍ばせた。


 目の前の海もだいぶ引いていた。それでも目の前の砂浜は深かったので、少し離れたところの、干上がり始めた岩礁帯へ向かった。

 ゴム長を履いているとはいえ、慎重に入水する。藻が生えて滑るところや、時には海の対人地雷、毒魚オニダルマオコゼの心配もあるから、足元を見ながら。それに魚を驚かさないように静かに。

 また、今回は偏光サングラスも着用している。海面反射のギラツキを抑えられるので、安全対策にも魚を探すのにも重宝する。


 海況は荒れ気味で、いわゆる「ウサギが飛んでいる」状態になりつつあり、無理はできなかった。白波が白ウサギに見えるのだ。

 しかし釣り場としては全く荒れていなかった。

 先ほどなぜあれほどまでに釣れなかったのか。不思議なほどに魚がヒットしてくる。


 スプーンというルアーを投げてリールを巻く。魚がいそうなところで少しリーリングを止めて沈める。ヒラヒラと落ちるスプーンに、岩の隙間から魚が飛び出して食らいつく。

 狙いどおりイシミーバイだ。しかもほとんど25cm以上ある。良型ばかりだ。


 かつて湖の上に小舟を浮かべ優雅にランチを楽しんでいた家族。子供が誤って食器のスプーンを落としてしまい、それに魚が食いついたことからルアーフィッシングが生まれたと言われている。

 文字通り、柄が付いていないスプーンのような形で、リーリングするとヒラヒラ動く金属製の塊。沖縄本島北部に住む釣り人が製作販売している、沖縄仕様のスプーン。

 水中できらめく様子は、まるで小魚のようだ。


 1キャスト1ヒットの勢いで釣れるので、特に大きい個体だけストリンガーにキープし、残りはリリース。釣り針にあるカエシは潰しているので、リリースはスムーズに行えた。イシミーバイ以外にもベラの仲間やムラサメモンガラ(モンガラカワハギの仲間でカラフル)もヒットしたが、美味いイシミーバイのみに絞った。

 良型ばかりなのでファイトも楽しい。ただ、ラインを引き出されてぶっちぎられるようなドラマチックな状況がなかったのが残念だ。


 部屋の前の砂浜へ戻り、釣ったイシミーバイを折りたたみナイフで〆て、うろこや内臓を取り出した。

 そして砂浜に打ち上げられている流木と枯れ葉を拾い集め、ターボライターで火をつけた。俺氏はタバコを吸わないが、結び目の端末処理にターボライターを使う。釣り糸の端末処理専用品で、糸をを挟むV字型の切れ込みが入った金具が付いている。

 拾った木材が湿気ていて火がつかないのではと心配していたが、思いのほかすぐに火がついた。


 イシミーバイを枝に刺して、起こした火にくべようと思ったが、有毒の植物があるかもしれないので躊躇した。沖縄では毒草のキョウチクトウの枝でバーベキューをした人が亡くなった事例があるらしい。キョウチクトウは沖縄方言でミーフクラギ(目が膨れる木)と言い、樹液は有毒なのだ。樹木というよりもでっかい草のような感じで、ピンクや白の美しい花を咲かせる。基地のフェンスの周りで多く見かけるが、なぜかこの毒草は公園にも植栽されている。

 流木は煙で目が痛くなることがなかったので、大丈夫だろうと判断した。

一度部屋に戻り、割り箸をもってきて竹串替わりにする。味付けは海水。塩のみだ。


 いい匂いがしてきた。食欲をそそる旨みを感じる匂い。

 「おいしそうだにゃん」

 この匂いにつられたのか、猫耳娘たちも目を覚ました。

 窓がなく暑そうだったので、ドアを開けっぱなしにしていた。


 美しい海を眺めながらのイシミーバイの塩焼きは格別だった。

 それもガスで焼いたものではなく、直火で焼いたイシミーバイ。サイズもでかい。不味いはずがない。


 「こんなおいしいお魚、久しぶりだにゃん」

 「おいしいですね~ おねえちゃん」

 猫耳娘は夢中にむしゃぶりついている。グルグルと喉を鳴らしながら、飲み込むときにブルブルっと首を振る。まさに猫のしぐさだ。

 イシミーバイは骨が鋭く硬いので、食べるときは喉に骨が刺さらぬよう、注意が必要だ。


 「ところで君たち、何者なの?そうだ。俺も自己紹介してなかったね。名前は大樹。大嶺大樹です。」

 あらたまって挨拶するのは気まずい。

 「ミキーですにゃ」

 「マヤ~ですぅ」


 ミキー・・・つまり三毛ってことだろうか。茶髪の子は耳の色や尻尾が三毛色。

 マヤーは耳も尻尾も黒い。沖縄では猫のことをマヤーと呼ぶので、そのまんまの名前だった。


 「大樹様はここに住んでるんですかにゃ?」

 「いやー、昨日ね。仕事帰りに釣りしてたら記憶なくしちゃって、気が付いたら部屋ごとこの海岸に飛ばされてたわけね。っていうか。ここどこなの?」

 「ナーファ」


 ナーファ?祖母が那覇の人のことを「ナーファンチュ」と発音していたのを思い出した。ここは那覇なのか?そういえば、ドアがめり込んだ崖に見覚えがあった。波の上宮の岩場にそっくりだ。

 でも波の上宮はないし、朱色に塗られら橋も、周囲のコンクリートの建物もない。過去の沖縄、那覇なのだろうか。いや違う。ここにいる女の子たちは沖縄とは無関係の、ゴスロリとかメイド服の類を着ている。言葉もほぼ標準語を使っている。

 知っているようで未知の世界。これが異世界というやつか。手をつねってみたら痛みを感じた。


 なのに不安を感じなかったのは、美しい海。かわいい猫耳女子に囲まれ、美味い魚をほおばっているからだと思う。心地が良い。

 それとも仕事から解放された安心感か。どうせ帰れないのだから、このままこの海を楽しんでしまおうと企んだ。それぞ釣りバカの極み。釣り廃人。


 潮が引ききった海岸線。さらに雲が増えて、青空が見えなくなっている。先ほどよりも風が強くなった。海側の釣りは厳しい。ゆえにアカジンは難しいだろう。

 心配なのは猫耳娘たちのことだ。主とやらに罰を与えられ、怖い思い、痛い思いをしなければならない。

 どうにかして、女の子達を守りたい。


 女の子と言えば、職場の同僚マユちゃん。他の職員。先輩方に連れて行かれるスナックの、オバサンと言ってはいけない女の子くらいしか話していない。女の子と喋れるガールズバーに行こうかとも思ったが、そこで時間とお金を使う前に、釣りに費やしてしまう。

 女の子と同じ時間をゆったり過ごすことが殆どなかったので、大樹は猫耳娘たちに感情移入してしまったのかもしれない。


 「この天気じゃアカジンは難しいね。アカジンの代わりの魚を探そう。」

 猫耳娘たちは不安そうな顔をしながら、コクリとうなずいた。


 とりあえず、アカジンと同じくらい美味しくて、海が荒れても釣れて、美味い魚を考えてみた。アカジンにイシミーバイ。ハタ科の魚が頭から離れなかった。


 「そうだ、君たちが言う主様ってどこに住んでいるの?」

 「この丘を越えたところですにゃ」

 「この近くに川はある?」

 「あぁ・・・ナーファは島なので、中には川はないですよぉ。飲み水もウルクから売りに来るんですよぉ」

 ウルク。ああ、小禄か。たしかに昔の那覇は離れ島だということを聞いていた。今の那覇も、安里川、久茂地川、国場川、そして昨晩釣りをした潮渡川で区切られた出島なのである。


 島と島の間。川なので波も落ち着いているだろうし、追い風になるポイントも探しやすそうだ。それに塩分濃度がかなり低いはずだ。

 そういう所には、ヤイトハタやチャイロマルハタというハタ科の魚が多く生息している。また、英名をマングローブジャックという、ゴマフエダイもいる。ゴマフエダイはカースビーと呼ばれる赤黒い魚で、切り身にしてアカジンと言えばごまかせるかもしれない。


 食味で言うとカースビーよりもヤイトハタだろう。アカジンと同じくハタ科の高級魚だ。

 沖縄ではアーラミーバイと言われ、数十kgに成長する巨大魚だ。さすがにそれを釣り上げる道具は持っていないが。

 チャイロマルハタも美味いはずだが、シガテラ中毒の疑いがある。食中毒を起こして、この子たちが虐待を受けることは避けたい。



 部屋に戻り道具をこしらえる。

 バスフィッシング用の強めのベイトキャスティングタックル。釣りでよく使われるスピニングリールではなく、いわゆる「太鼓リール」が取り付けられている。糸を通すガイドリングとリールはロッドの背側に配置されている。リールを親指で抑え込む感じで操作する。

 釣り竿の曲がりに糸が干渉しないよう、ガイドリングの数が多い。竿は8フィート(約2.4m)あり、リールも大きい。PEラインの1.5号が巻かれている。


 ルアーは昨晩使ったクランクベイトのほか、小魚のような形のミノー、そして大量のソフトルアー、これを使うための釣り針とオモリ。特にオフセットフックという、軸が太い釣り針を用意した。

 ショックリーダーも30ポンドと50ポンド。比較的大物を狙う仕掛けだ。


 Tシャツと長ズボンに着替え、トレッキングシューズを履いた。ズボンは作業服屋で買ったもので、大きなサイドポケットがついている。どこかで水をくめればいいなと、ゴミ箱に捨ててあったペットボトルも何個か持った。


 「さあ、行こう。」

 猫耳娘たちの先導で主様とやらの屋敷方向に向かった。とはいえ主様やその関係者に接触するのは避けたいので、恐る恐る足を進めた。にぎやかな街を避けて石畳の細い道を歩くこと数十分、途中土がむき出しの大きな道路を2本横切って、那覇と本島の間の水路に出た。


 水路というよりも入江のような感じだ。

 読みどおり波が穏やかで、追い風に位置している。

 古めかしい木造船がたくさん集まっている、天然の港。今では少なくなったサバニという小型漁船も多い。何かの本で知った山原船もある。帆船に交じって動力船もあるようだ。黒い煙を出してゆっくりと進んでいる。石炭で動いているのだろうか。

 すぐにキャスティングしたい気持ちを抑え、偏光サングラスごしに海底の地形を観察する。


 海底は砂地のところが多く、アーラミーバイが住む感じではなかったので、近くの岩場を目指した。陸地に岩場があるということは、地続きの岩場があるはずだ。

 よく探すとサンゴ起源の琉球石灰岩に交じって、島尻泥岩が露出している場所がある。

島尻泥岩(島尻層群泥岩)は沖縄群島の代表的な地質の一つで、またの名をクチャと言う。紺土と書いてクンンチャ=クチャと呼ぶのだろうか、やや青みがかかった太古の海泥が固まったものだ。

 土木技師である大樹にとってはなじみの深い土で、硬いので建物や橋などの構造物の「支持層」としても用いられる。しかし、削るとサラサラになり、風化すると「ジャーガル」という黄土色の土になる。


 猫耳娘たちは爪で削ってサラサラになった島尻泥岩を手や腕にこすり付けながら、ニャアニャア言っている。

 泥岩と言っても泥臭いことはなく、いかにも無機質的な匂いがする。そういえば、クチャ配合の美容製品があったことや、祖母から聞いたクチャをシャンプー代わりにしていた話を思い出した。


 大樹は周囲確認をすると、ビュイーンと音を立ててキャスティングを始めた。ベイトタックルは独特の音がする。スプールという糸を巻いているパーツが勢いよく回転する。サミングと言って着水直前にスプールを抑え、その動きを止める。サミングをしないと回転が止まらずに糸がグシャグシャになってしまう。バックラッシュというやつだ。


 海底地形を確認したかったので、テキサスリグを使った。

 リグ=仕掛けの意味で、中通しオモリとオフセットフックのシンプルな仕掛けに、エビなのかカニなのかよくわからないデザインの、ゴムのような質感の生分解プラスチックで出来たソフトルアーをオフセットフックに付ける。ぱっと見ると餌釣りの仕掛けのように見える。

 人によってはアピールのためにオモリとフックの間にビーズ玉なども入れるが、無くても十分釣れるという確信があったので、ビーズを省いている。


 着水後はロッドを高く保ち、微動だにせずに道糸に目を凝らす。数秒後、ピンと張った糸がたるむ。ルアーが着底した瞬間だ。沈んでいる途中は水の抵抗で糸が張るのだが、着底すると抵抗が消えて糸がたるむ。馴れると糸を伝わる感覚でわかるのだが、追い風が吹いているので感覚がつかみにくく、目視のほうがわかりやすかった。


 そのまま2秒待ち、ダッシュで7回巻いて、また落とす。海底を跳ねるエビのように。

バスフィッシングではアピールさせるためにずっと動かすようだが、実際のエビはずっと跳ね回らない。逃げたあとはじっとして、やり過ごそうとする。魚にとって、エビがやりすごそうとする時間は捕食するチャンスでもある。

 ダッシュで巻くのは比重が軽く水に浮くPEラインの浮力を活用して、できるだけ高くルアーを跳ね上げるためだ。ルアーが跳ね上がれば岩を乗り越えることができ、根掛りしにくくなる。ロッドの動きのみで跳ね上げることもできるが、アクション直後リール操作に移るまでにわずかにルアーが沈むので、むしろ根掛りのリスクが増えてしまう。


 コン、コンコン

 アタリがある。もっていかない。

 ココン


 ソフトルアーは3インチ(約7.6cm)それ以下のものは持っていない。大物に的を絞りたかったからだ。アタリが出て乗らないのは、魚が小さいからだろう。

 小物がルアーをつつくのは良い傾向だ。大きいやつが横取りしようとやってくる。


 ゴン!!!!

 重さが乗った!!


 すんなり上がってきたのはゴマフエダイの40cmほどの個体だ。タックルが強すぎて、ファイトを楽しむ感じではなかった。自分の世界なら大喜びのサイズだったのだが、この不思議な”那覇”では、まだまだデカいやつがいるはずだ。あれだけ良型のイシミーバイが釣れたのだから。

 その後もコンスタントにアタリがある。判を押したように、同じようなゴマフエばかり釣れる。

だいぶ日も傾いてきた。


 「みんな、何時までに帰らないといけないとかあるの?」

 「接待は日没からですにゃ。そろそろお料理の準備で戻らないといけないですにゃ。」


 パターンがわかってきたので、簡単にヒットする1kgほどのゴマフエをストリンガーにかけ、7匹持ち帰ることにした。

 できればアーラミーバイが欲しかったのだが、こればかりはどうしようもない。自然豊かでスレていなくても、はじめてのポイントは難しい。ゴマフエパターンがわかっただけでも良しとしたい。アカジンをオーダーした主様とやらが、ゴマフエで納得してくれるかわからないが。


 大樹はポーチの小さいポケットに忍ばせていた折りたたみナイフを取り出し、エラの上をザクザクと刺しはじめた。目が一瞬にして輝きを失う。かわいそうだが、おいしく食べるためにはこれらの処理は必要な事なのだ。

 また、エラを切って血を抜いた。血が生臭くなる原因なので、できるだけ抜いておきたかった。ストリンガーで落ち着かせているので、サラサラと血が抜けた。ファイト直後は酸欠気味になり、ドロドロ血になってしまう。


 そのあと、さらにおいしく食べるために、尾びれの付け根を切り、脊髄をむき出しにした。ナイフと同じポケットから取り出した、適度な硬さがあるワイヤーを脊髄の芯差し込んだ。魚がビクビクビクッと激しく痙攣する。この反応は何度やっても馴染めず、背中がムズムズする。

 その後、内臓を取る。ウロコは表面保護のためにあえて残している。


 当然ながら時間がたてば魚は腐る。

 一見するとこれらの行為は惨く見えるが、血抜き、神経締めをすることで腐る時間を遅らせることができる。血生臭いという言葉があるとおり、血が生臭い原因となるから、食べるなら血抜きだけでもやったほうが良い。


 「ミキーちゃん。マヤーちゃん。それじゃ、主様とかいう人のところに行こうか。」

 「はいにゃ。」

 「は~いです~。」


 自然海岸から藪をかき分け、再び土がむき出しの道へ出る。街に近づくと通行する人が増えてきた。いかにも沖縄っぽいしましまの芭蕉布の着物の人もいれば、スラックスにワイシャツという洋服の人もいる。ケモミミや角が生えたコスプレみたいな人も。まるでテレビで見たハロウィンイベントのような不思議な世界だった。

 馬車も走っている。馬というよりもロバのようで、小さく貧弱に見えた。小さい体でリズミカルに馬車を引いている。

 建物は通り沿いこそ赤瓦屋根で整然とし、しっかりした作りになっているが、一歩裏に入るとかやぶき屋根の家ばかり。料理中なのだろうか、モクモクと煙が上がっている家もある。


 にぎやかな通りに出た。

 居酒屋のようなところは賑やかで、道で寝ている酔っ払いもいる。沖縄では路上寝がちょっとした社会問題になっているが、ここでは100m置きくらいに1人くらい、酔いつぶれた人が転がっている。

 酔っ払いに何度か絡まれたが、ミキーがうまくいなしていた。手慣れた感じだ。


 たどり着いた場所は、遊郭街だ。建物が立派で、二階建ての建物も多い。

 女性経験のない大樹にとって、遊郭…現在の風俗街は緊張した。

 おそらく性的な接待もするであろう遊女たちが、木の檻から「にーさ~ん」と声をかけてくる。沖縄独特の結い上げた髪の遊女たち。地元のテレビ番組に登場する民謡歌手を見ているようで、あまりそそられなかった。遊女たちの髪飾りは光輝いており、おそらく金が使われている。なんとなく不釣り合いで悲しく輝いているように見えた。

 あまりそそられなかったのは、二人の猫耳娘がとびっきり可愛く見えた事もあるのだと思う。


 「ジュリの皆さん、売られてきたんですにゃ…」

 ミキーが寂しそうに言った。

 ジュリ・・・女郎の沖縄読みのことなのだろうと、大樹は解釈した。

 「私たちは拾われてきたですぅ」

 マヤーが続く。


 「南国亭」という、あまりにもストレートな名前の料亭にたどり着いた。

 もっといい名前はなかったのだろうか。この世界においてはポップすぎる名前に感じる。ミキー、マヤーが働く店はここらしい。そもそも、働いているのか、働かされているのか。

 大樹の職場はブラック企業以上にブラックだと思っていたが、上には上がいるもの。

 三人は裏口から建物に入った。同時にポツリと雨が落ちてきた。


 調理場には普通の人もいれば、猫耳、兎耳といろんな人物が働いていた。

 「ミキー、マヤー、アカジンは?」料理長らしきオッサンが怒鳴った。

 「今日は天気が悪くて、アカジンどころか魚が無かったですにゃ」

 「代わりにこの魚を釣ってもらったですぅ」

 「はぁ?主様の注文はアカジンだぞ。どうするんだよ」


 「えーっと、今日の海況だとアカジン難しくないですかね。向かい風でしたし。」大樹が口をはさんだ。

 「誰だおめえ。変なカッコしやがって」料理長らしきオッサンが包丁をギラリと見せた。

 それは俺のセリフだ。なぜならこのオッサンは、オッサンなのに兎耳が生えていた。コントを見ているようで、にやけ顔をこらえるのに必死になった。


 「この娘たちがどうしてもアカジンが必要って言うんで、浜から狙ってみましたけど、さすがは最高級魚。赤い銭。簡単には釣れませんよね。漁船も港に避難していましたし。」

 「ギョセン?」

 「あー、漁師…海人の船ですよ。島と島の間にたくさんありましたよ。沖には出てないみたいでしたね」

 「ああ、チキショーめ。今日大事な商談があるというのによ。お客様が遠路はるばるやってくるんだ。どうすんだ。」

 「カースビーだって美味いじゃないですか。神経締めしてるんで絶対美味いですよ。冷蔵庫とかないですよね?」

 ゴマフエダイ、略してゴマフエという名称は沖縄ルアーマンにしか通じなさそうだったので、あえて方言名のカースビーを使った。

 「シンケイジメ?レイゾウコ・・・ああ、氷室か?あるぞ。」

 「え?氷あるんですか?」

 大樹は古めかしい街並み、カマドで炊事。電気なんてなさそうな世界。氷があることに驚いた。しかも亜熱帯の自然環境のはず。どうやって製氷しているのだろうか興味が沸いた。


 兎耳おじさんがブツブツ言いながら、手早くゴマフエを処理し、三枚におろした。

 柵取り…刺身になる直前の塊から、尾に近い部分を少し切って口に含む。尾に近い部分は細くて刺身が取りにくいので、試食に使ったのだろう。


 「美味い!こいつは美味い!!本当にカースビーなのか?さっきの神経締めとかいうやつのおかげなのか。こいつは良いな!」

 「はい。それと血を抜いてありますから…できるだけ美味しく食べるための処理をしてあります。氷室があるならな2~3日寝かせるとさらに良いですよ。」


 「アラはマース煮でいけるな。おい、マース煮の準備だ。塩とショウガだ!ニラも欲しい。」他の従業員がそそくさと準備する。


 ミキー、マヤーはほっと胸をなでおろして、その場でへたり込んだ。

 「釣り人さんよ。ありがとな。で、金はいくらだい?」

 「え?金ですか?いえいえ、普通に釣りしてただけですから。」

 「そんなわけにはいかねえよ。こんな美味い魚釣ってくれたんだからよ。」

 「それじゃー、すみません。お水が無くて喉がカラカラで…お水もらえますか?」

 「すまねえな。気が利かなかった。おーい、冷たい水を。冷たいお茶でもいいぞ!」


 ミキー、マヤーが慌てて動き出した。琉球ガラスのコップに冷たいお茶が差し出された。

 「お替りたくさんありますにゃ」

 「釣り人さんよ、腹減ってるだろ。飯も食ってくかい?」

 「それはありがたいです!」

 「休憩室があるから、ちょっと休んでな。出来上がったら猫たちに運んでもらうさ。」


 マース煮の準備がされ、良い香りが漂った。一気にお腹がすいて、腹の虫が鳴いている。

 ちなみにマース煮というのはシンプルな塩煮のことだ。沖縄では定番の煮付け法である。


 「で~きま~した~♪」


 猫耳娘たちが運んでくれたマース煮はホロホロとして生臭さが一切なく、塩の加減もちょうどよくて今まで食べたマース煮の中で最高だった。一緒に煮付けられている豆腐、ニラ、ショウガも絶品で一気にたいらげる。

 また、お釜で炊いたご飯も信じられないほど美味い。あとで塩分取りすぎかもと心配になったが、残った汁とご飯の組み合わせは格別だった。

 恐る恐るお替わりをお願いしたら、兎耳料理長も猫耳娘たちも喜んでくれた。


 大樹はお腹がいっぱいになり少し眠くなったが、これから主様とやらが猫耳娘に虐待するのではないかと考えたら眠れなかった。どんな奴なのだろう。


 ミキー、マヤーの二人も一緒にマース煮…まかない飯を食べていたので、主様について聞いてみる。

 「主さんってやっぱり怖いの?」

 「そうですにゃあ。でも私たちを養ってくれていますにゃ。」

 「怖いですけど~、お世話になっていますから~。」

 「あと、すごい妖術を使いますにゃ。」

 「妖術?」

 「人を遠くに飛ばしたり、おかしくしちゃいます~。」


 大樹は自分がこの世界に飛ばされてきたことと、職場の転勤を思い出した。

 そして飛ばすという言葉が、なぜか左遷に変換された。

 仕事をサボっている後ろめたさがあったのかもしれない。


 「飛ばすってどんなふうに?」

 「何里も先に飛ばしたり、行方不明になることがあるんですよ~ 主様の妖術で~」

 「頭がおかしくなっちゃった人もいますにゃ。」

 なんだかよくわからない。ブラック企業ならば過重労働やストレスで頭がおかしくなる事もあるはずだけど。


 人前でしゃべるときのような変な汗が出てきた。

 緊張しているのは大樹だけではなく、配下にいる猫耳娘たちも同じこと。むしろ当事者なのでもっと緊張しているはずだ。

 この二人を絶対に守らないといけない。大樹はあらためて思った。



 南国亭の前に馬車が止まる。街で見かけた馬よりもしっかりした、馬らしい馬が馬車を引いていた。

 猫耳娘達があわただしくかけだして行った。

 どうやら、主様とやらが帰ってきたらしい。



 大樹は主様がどんな奴なのか見ておきたく、回り込んで料亭の庭の生垣から覗き込んだ。

 傘を差しだすマヤー。

 「お帰りなさいませ。主様。」


 馬車から下りてきたのは、華やかな和服に身を包んだ、花魁のような派手な美女だった。胸がはだけて、かなりの巨乳に見える。顔よりも胸元に目が行ってしまった。

 金髪で外国人のように見えた。まつ毛が長く、ギャルのメイクだ。猫耳娘とは違うタイプの美人。尖った耳をしており、大きな金のピアスが輝き、キセルを咥えている。

 そしてこの美女には、水牛のような角があった。


 「ヘーイ。みんなお疲れ」


 大樹はこの声に聞き覚えがあった。

 それに、ヘーイというフレーズ。

 この世界に飛ばされる前。気を失う直前に潮渡川で聞いたあの声。


 思い出した!!

 潮渡川に伝わる「仲西ヘーイ」という怪談がある。潮渡橋で「仲西ヘーイ」と叫ぶと、神隠しに会ってしまうという伝説だ。沖縄の人気ウェブサイトの記事で見たことがある。その記事によると神隠しこそなかったが、スマホの電源が落ちるなどの怪奇現象が起きたという。

 この金髪美女がおそらく潮渡橋の妖怪仲西ヘーイで、自分は仲西の声を聴いたあと、この世界に飛ばされたのだ。つまり、俺は神隠しにあったということなのか!?


 「アカジン調達できたぁ?」

 仲西ヘーイと思しき女性が気だるそうに質問する。

 「すみませんにゃ…海が荒れていて海人さんも漁に出ていなかったですにゃ…」

 「三日前から言ってたよねー。なんで早く調達しなかったわけ?」

 鋭い目つきでミキーを睨みつける。昔のヤンキー漫画のスケバンのように見えた。


 「ほんと猫って使えないねぇ。のんびりしすぎじゃね?ミキー、マヤーはあとで私の部屋に。」

 ミキーもマヤーもブルブル震え、泣きそうな顔をしている。耳が垂れて、尻尾が下にカールしている。


 「あのー!ちょっといいですか!!」

 大樹が飛び出した。

 主様こと仲西ヘーイが妖術を使い、人を異次元に飛ばすやばい奴だという事は理解できたが、どうにか二人を助けたい一心で。


 「こ、こ、この二人について釣りをした者であります。残念ながらアカジンは釣れませんでしたが、別の新鮮な魚を釣ってあります。どうか別の魚で代用できないでしょうか。」


 仲西ヘーイは今までの鋭い目つきから一転。目を見開いて驚いた。


 「あれ、大嶺殿?なんでここにいるのさ?」

 「は??」



 「ミキー!マヤー!お客様来ちまった!!ダッシュで準備しろ!!」

 「は、は、はいにゃ!!」「はいですー!!」

 「大嶺殿、ご無礼失礼いたしました。すぐにご準備して案内しますゆえ…」


 あまりの突然のことに大樹は状況がよく飲み込めなかったが、ミキーやマヤーが言っていた接待相手とは、どうやら自分のことらしい。 


 大樹の頭の中は、再びクエスチョンマークだらけになった。


(つづく)

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