守護者達のクーデタ
2039年8月11日 ジュペリア大陸 神聖ロバンス教皇国 首都ロバンス=デライト
2029年から2030年にかけて、クロスネルヤード帝国を操ることで間接的に日本と争った「神聖ロバンス教皇国」の首都ロバンス=デライトでは、第54代教皇であるアレサンドロ6世ことヴェネディク=メデュラを中心として、教皇庁の幹部会議が開かれていた。
「この世界からニホンが消える! 何と喜ばしいことでしょうか!」
日本国の帰還は世界魔法逓信社の報道を通してこの国にも知れ渡っていた。幹部の1人である教皇庁長官のダマッス=ファコニーは、日本がいずれ消失することを心から喜ぶ。
「全くです。これでもう“血の穢れを好く罪人”共が 大手を振ってこの大陸を闊歩することも無くなる!」
教皇庁の外交部長であるニウゲス=プラダウィリーも、ダマッスの言葉に呼応する。彼らにとって日本国が広める「現代医療」は、彼らが信奉する「イルラ教」の経典に反するものである為、彼らは日本人を毛嫌いする者が多数であった。
「やはり“神”は我々を見放さなかった・・・我らこそ正しかったということですね!」
内務部長のシルウェスト=フローリッヒは、イルラ教の唯一神である“ティアム神”へ感謝の言葉を述べる。
「ニホン国との関係が絶たれれば、クロスネルの皇帝も我々の手元に戻って来るでしょう。今までニホン国によって穢されたこの大陸を浄化する為、再び教化事業を進める必要がありますな」
国防部長のローレンス=ムーンビードルが述べた“教化事業”とは、異教徒であり、歴史的に因縁のある相手である「アラバンヌ帝国」への侵略行為のことだ。元は数多の兵力を誇るクロスネルヤード帝国の軍事的支援を当てにして行っていたのだが、彼の国が日本に負け、また皇帝が変わって日本国と深い友好関係を築いてからは、クロスネルヤード皇帝はロバンス教皇のことを完全に無視する様になっていたのである。
さらにアラバンヌ帝国が日本国と国交を築き、加えてその国内に日本軍を駐屯させた為、より一層手出しが出来なくなっていた。だが、日本国が消えることで、ローレンスはそのどちらも一気に解決されると考えていたのである。
「・・・」
幹部たちが歓喜に沸くその一方で、浮かない表情をしている者が1人居る。それは他でも無い教皇アレサンドロ6世であった。彼は先代教皇が「日本=クロスネルヤード戦争」の終結時に辞任した際に行われた教皇選挙にて、日本国からの金銭的支援を受け、有権者への贈賄によって教皇の地位に就いたという経緯があった。
それ故、彼は事実上“日本国の傀儡”であり、日本国大使館から秘密裏に送られる要求に従って国政を行って来た。その結果、神聖ロバンス教皇国は既に日本政府によって経済的に骨抜きにされていたのである。
(・・・どうしてこんなことに!)
アレサンドロ6世は1人頭を抱える。だが、盲目的な狂信者たちはこの危機に気付いてすらいない。
〜〜〜〜〜
2040年1月4日 日本国 東京都
日本国が帰還する日まであと1ヶ月と10日、国外に進出していた企業はその多くが日本国内への引き揚げを終えている。また、屋和半島に建国されたアメリカを初めとする「在日外国人国家」や、夢幻諸島や屋和西道などの転移後に獲得した領土である「外地」に住んでいた者たちも、その多くが日本国内へ戻って来ていた。
また世界各地に点在する租界や貿易基地に駐屯していた自衛隊の各部隊も、日本国内への再移転を終えており、後は地球への帰還を待つばかりとなっている。
「帰還反対ー!」
「国民投票を再開しろ!」
「政府は48%の国民の意思を無視するのかー!」
新年が明けたばかりであるにも関わらず、日本国の地球への帰還に反対する勢力がデモ活動に精を出している。名目上は国民投票によって帰還が選ばれたとは言え、それはわずかな差であり、この様な事態が起こるのはわかりきったことであった。
「混沌としているな・・・まるで転移したばかりの頃みたいだ」
警視庁公安部の刑事である開井手道就はデモ行進の様子を見て複雑な心境になっていた。
・・・
同日・夜 千代田区 皇居構内 宮内庁
正月3ヶ日が終わり、元旦に伴う宮中祭祀を一通り終えたことで、宮内庁の内部には何処かほっとした様な雰囲気が漂っている。この日の夜は数人の役人たちが残業や夜勤の為に残っていた。
「・・・くあ〜っ!」
1人の役人が大きく背伸びをする。ふと窓の外を見ると、日は既に落ちきって真っ暗になっていた。豊かな自然に囲まれた皇居構内は東京23区とは思えない程に静かで暗い。まるで深遠な森の中に居る様であった。
「・・・?」
その時、窓の外をサッと通り過ぎる影を見つけた。役人は何か鳥類が通り過ぎただけだと思って気にもとめない。だがその直後、正面の入り口がこじ開けられる鈍い音が聞こえてきた。さらに夜勤の役人たちがいるオフィスに不穏な人影が現れる。
「・・・な、何だ! お前ら!?」
役人たちはいきなり現れた武装集団に驚く。はじめはテロ組織の突撃か何かかと思ったが、彼らが身に纏っている服を見て、役人たちは更に驚いた。
「て・・・『天皇直属近衛府』!」
彼らは帯青茶褐色と表現される国防色の生地と金ボタンからなる隊服を身に纏っていた。旧帝国陸軍の軍服を彷彿とさせるその服を着られる組織は、日本国内に1つだけである。
「庁舎内に居るのはこれで全員だな・・・抵抗の意思を捨てて投降せよ。命令に従えば命までは獲らない! 両手を組んで床に伏せよ!」
「・・・!?」
宮内庁の役人たちは、皇室を守護する筈の兵士たちから脅迫されるという状況に理解が追いつかない。だが一先ず、この場を穏便にやり過ごす為に、役人たちは近衛兵の命令に従う。兵士たちは両手を頭の後ろに組んで床の上に伏せた役人たちの上に馬乗りになると、その両手と両脚を素早く拘束していった。
「お前たちは御皇室をお守りする為の“盾”だ! こんなことを陛下が望まれる筈が無い、悲しまれるだけだぞ!」
役人の1人が床の上に臥したまま啖呵を切る。天皇の名を頂く部隊の反乱行為は皇室の名誉を傷つけかねない。
「それは分かっている。だがこの国の未来の為だ! 今は如何なる罵詈雑言を浴びせられようとも、後世は我々の正しさを称えることだろう」
だが、役人の言葉は隊員たちの意思を変えることは出来なかった。彼らは自らの正しさを信じて疑わない。
「宮内庁庁舎・・・制圧完了!」
近衛府隊員の1人が耳に付けた小型通信機を介して何処かへ報告を入れる。斯くして、宮内庁は近衛府によって制圧されることとなった。
千代田区桜田門 警視庁
時計の針は深夜1時半を回っている。東京の治安を守る警察機関である「警視庁」庁舎の中では、夜勤や残業をしている警察官たちが眠い目を擦りながら仕事に就いていた。そして警視庁の内部部署の1つである「公安部」の第三課では、1人の女性管理官が夜勤をしている。彼女の名は利能咲良、国家公務員一般職試験を合格して警察庁に入庁した準キャリアの警視であり、現在は管理官として警視庁の公安第三課に出向していた。
「ハァ・・・」
利能は小さなため息をつく。日本国が地球へ帰還する日まであと1ヶ月と少しまで迫り、それに伴って帰還に反対する勢力のデモ活動が激化していた。故に公安部や刑事部の刑事たちは不測の事態に備えて気が立っており、管理官である彼女が残っているのも、“帰還反対派”が何時何処で何を起こすか分からないからである。
プルルルル・・・
「!」
その時、利能のデスクの電話が鳴った。彼女は慌てて受話器を取る。
「警視庁公安部公安第三課管理官、利能です。もしもし・・・?」
この時間に管理官のデスクに掛かってくる電話など碌な案件ではない。利能は緊張しながら電話の向こう側に要件を尋ねた。
『こ、此方『皇宮警察本部』! こ、『近衛府』に襲撃されている・・・うわあ!!』
「も、もしもし? ・・・もしもし!?」
断末魔に似た叫び声と共に電話が切れる。受話器の向こうに何度か呼びかけてみたが、ツー、ツーと単調な音が繰り返されるだけで応答は無かった。
(皇宮警察からの電話、『近衛府』の襲撃・・・即ち『近衛府』がクーデタを起こしたということ?)
利能は唐突に舞い込んで来た短い情報から思案を巡らせる。警視庁公安部を含む日本の「公安警察」は、政治団体や諸外国の大使館、スパイ、密輸組織、労働争議などの他に“自衛隊”も捜査対象としており、中でも右派的思考の持ち主が集められた「天皇直属近衛府」は警戒の対象であった。故に右翼団体を担当する“公安第三課”と、最も間近で近衛府を監視する“皇宮警察”の間にはホットラインが繋がれており、それが鳴ったということは近衛兵たちが何かを起こしたということを示していた。
「緊急連絡、皇居内で緊急事態発生!」
利能は放送室に内線を繋ぐ。その後、緊急放送が庁舎内全域を駆け巡り、眠い目を擦っていた刑事たちは臨戦態勢へと移行した。
防衛省 市ヶ谷庁舎 会議室(臨時特別対策本部)
最初の通報からおよそ50分後、皇居で起こっている異常事態については警視庁から防衛省へ伝えられていた。偶然この時間まで起きていた防衛大臣の鈴木実は、閣僚の中で最初にこの事態を知ることとなっていた。
「総理には連絡がつかないの?」
「今、総理公邸と大臣の皆様の私邸に連絡を入れているところです」
鈴木の問いかけに防衛官僚が答える。
「練馬駐屯地の第1師団に連絡を・・・。警視庁特殊部隊も何時出動出来るか分からん状況な上に相手は『近衛府』なんだろう? 第1普通科連隊に出動の準備をしておけと伝えておいて」
「『治安出動待機命令』を・・・!?」
「そうだ・・・これは“国家存亡”の危機なんだよ、早く! 中原国家公安委員長にも連絡を!」
総理や他の閣僚とも連絡がついていない今の状況では、鈴木が指示を出す他無い。彼は首相から「治安出動」が命ぜられる可能性を考慮し、自衛隊に対して「治安出動待機命令」を下した。官僚が驚きの声の上げたのは、治安出動待機命令というのは「治安出動」と同じく今まで発令実績が無かったからである。
「『近衛府』から何か要求は? 『宮内庁』と『皇宮警察本部』が人質にとられている訳だよね? 何より気がかりなのは両陛下の安否だが・・・」
鈴木は側に立っていた部下に対して矢継ぎ早に質問を投げかけた。普段は飄々としている鈴木も、“皇居構内で発生した自軍によるクーデタ”という前代未聞の事態に対して、動揺を隠し切れなかったのである。
「現在、警視庁とその所属署の警官が出動を開始しており、皇居と外界を繋ぐ全ての橋を封鎖中です。また特殊犯捜査係が出撃準備を進めており、警視庁特殊部隊と共に警視庁航空隊と提携して上空より皇居内へ侵入する用意がある様です。また今のところ、犯人グループからの要求などは確認されていません。しかし、両陛下の安否も分からない状況です。何とか巡回の皇宮護衛官に連絡を取れば、地下通路より赤坂御用地へ御誘導出来るのですが・・・」
1人の防衛官僚が現在の状況について詳しく伝える。依然として緊迫した状況が続いており、予断を許さない。加えて真夜中ということもあって、十分な対策を迅速に整えることが出来なかったのだ。
「・・・情報も人手も少なすぎる! せめて夜が明けてくれたらな」
鈴木は焦燥感に駆られながらも手も足も出せないもどかしさに苦しむ。官僚たちも対策に苦慮する中、臨時の特別対策本部が置かれた会議室に1人の職員が駆け込んで来た。
「し、失礼します!」
血相を変えたその男は息を整えると、木更津から届けられたある知らせをその場に居る全員に伝える。
「飛行許可の無い多用途ヘリコプターが・・・ベル412EPXが木更津駐屯地を離陸した形跡があると・・・現地より報告がありました!」
「・・・?」
官僚たちはきょとんとした表情を浮かべる。鈴木も困惑した顔をしていた。だが、その職員が告げた言葉の意味を理解した時、彼らの顔色が一斉に青くなる。
「まさか・・・『第1ヘリコプター団』に協力者が居たのか? ・・・しまった!」
天皇直属近衛府は中央即応連隊や第1空挺団の中から、特に精強かつ皇室への忠義心が厚い者たちが選抜されて組織されている。故にその設立の過程において「陸上総隊」と密接な関わりがあるのである。そして、今回のクーデタはそんな密接な関わりを利用したものであり、近衛府単独での行動ではなかったのだ。
「・・・!」
ふと窓の外を見てみると、そこには既に、規則的かつ重厚な羽音を響かせる巨大な甲虫が2つ飛来していた。
千代田区 首相官邸・公邸
緊急の連絡を受けてベッドから飛び起きた伊那波は、スーツに着替えて公邸を出発する準備を進めていた。内閣府の職員たちも宿舎や自宅から次々と集まって来ており、あとは首相が官邸に到着するのを待つばかりとなっていた。
「今は鈴木大臣が指揮を執っているんだな?」
「はい、先程『治安出動準備命令』を発令されました」
公邸から出て官邸へ向かう総理に、内閣府の職員が現状を説明する。伊那波は鈴木が治安出動準備命令を発したという知らせに驚いていた。
「まあ・・・致し方ないか」
伊那波はぽつりと呟くと官邸の方へ急ぐ。彼は自身の任期中に前代未聞の事件が次々と起こることに対して嫌気が差していた。
パタパタパタ・・・
「!?」
その時、上空からヘリコプターの音が聞こえて来る。伊那波を含めたその場に居た全員が空を見上げると、そこには陸上自衛隊の多用途ヘリコプターであるベル412EPXの姿があった。そのヘリは地上を照らすライトで屋外を歩く伊那波の姿を見つける。そして機内から5名の隊員が降下して来たのである。
「・・・な、何だ、お前たちは!?」
思わぬ形で退路を断たれた伊那波は、自らの前に現れた自衛隊員たちに素性を尋ねる。彼らがクーデタを起こした一団の隊員であることは明らかであった。
「私は天皇直属近衛府・第2中隊隊長、野鷹康太郎と申す者です」
その中の1人が敬礼しながら伊那波の前に立つ。その人物は今回のクーデタの首魁である野鷹康太郎一等陸尉/大尉であった。彼は今回の行動に至った理由について伊那波に説明を始める。
「突然の無礼をお許し頂きたい。だが、我々にはこれ以外の手段がなかった。我々には今回の行動に至った目的がある。その目的を聞いて頂けたのであれば、直ちに宮内庁と皇宮警察を解放し、加えて皇居内部に立て籠もっている私の部下たちを投降させましょう。加えて申しておきますが、我々と共に飛来したもう1機のヘリは赤坂の議員宿舎屋上に着陸しており、その地上近辺には私の部下たちが展開していますので・・・」
「・・・!」
野鷹は伊那波の対応次第で降伏の意思があることを伝える。現在彼らに占拠されている「宮内庁」と「皇宮警察本部」には、合わせて100名近い職員が囚われていた。そしてもう1機のヘリは赤坂議員宿舎のヘリポートに着陸しており、加えて宿舎の周囲は野鷹の部下たちが展開していたのである。伊那波は選択肢が無いことをすぐに理解する。
「分かった・・・話を聞こう。だが・・・君1人だけだ、武装は解除して貰うぞ」
「・・・深謝致します」
意を決した伊那波は“一対一での話し合い”、且つ“武装を解除する”という条件の下で野鷹一尉の要求に応じる。野鷹はこれを快諾し、2人は首相公邸の中へと入って行った。
そして野鷹らを乗せて来たベル412EPXは首相官邸の屋上ヘリポートに着陸し、その中から降りて来た隊員たちによって、首相官邸はしばしの間占拠されることとなる。その一部始終を塀の外から見ていた総理大臣官邸警備隊の隊員たちは、手出し出来ないもどかしさを抱きなかがら、首相が無事であることを祈るしかなかった。
首相公邸 応接間
応接間へと通された野鷹一尉は、伊那波と向かい合う形でソファに座していた。
「さて・・・君たちの目的とは何か、聞かせて貰おうか」
伊那波は鋭い視線で野鷹に問いかける。野鷹はゆっくりと口を開いた。
「我々の目的はただ1つ、この国の・・・『日本国』の帰還を中止させることです」
「・・・」
野鷹の告げた目的は、おおよそ伊那波の予想通りのものであった。野鷹一尉は黙ったままの彼に対して、目的の詳細について語り始める。
「東亜戦争が終結して間も無く、この国はこの世界へ転移し、数多の困難と戦乱を乗り越えて来ました。転移の直後こそ、日本が歩む道は最早滅びのみと言われていましたが、全国民の血と汗によって、既に滅亡の危機は過ぎ去り、エルメランドに対する勝利によって、“世界の盟主”たる地位を確立しました」
野鷹は日本国がテラルスに転移してから今までの記憶について語る。15年という決して短くない歳月の中で、この国は懸命に戦って来たのである。
「確かに・・・経済力は衰退しているかも知れない。ですが・・・いずれこの世界にも産業革命は起きる! 日本国の転移によって歴史の針は加速している筈です。さすれば、外需は更なる増大を見せる。重工業は回復して日本経済は再び上向きに発展していくでしょう。地球への帰還は必要ないんです! この世界ならば、日本は永遠に世界の盟主でいられる!」
野鷹一尉はテラルスへの残留を強く訴える。世界中から感謝されている“世界の盟主”という地位を捨て、再びきな臭い国々に囲まれて金づるの様に扱われる運命など、彼は受け入れることが出来なかった。
「君の言っていることは正しい。だが、そうじゃないんだ。この世には避けられない運命というものがある・・・」
「?」
青年将校の陳述を一通り聞いた後、伊那波は深いため息と共に口を開いた。野鷹は彼の言葉の真意が分からず、怪訝な表情を浮かべる。
『フフフ・・・そうゆうことよ、お若い軍人さん・・・』
「・・・誰だ!?」
その直後、野鷹の耳に女性の声が聞こえて来た。野鷹は聞こえない筈の声に驚き、首を左右に振りながら声の主を探す。すると、応接間の一角に不自然な旋風が現れた。それはたちまち突風へと成長し、周辺に置かれていた調度品や窓のカーテンを吹き飛ばす。そしてその旋風が収まった時、渦の中心があった場所に1人の女性が現れたのである。
「・・・何だ、お前は!?」
野鷹一尉は突然現れた女性に警戒心を抱く。だが、女性の方は彼の敵意など気にも留めず、唯々微笑を浮かべていた。
「私の名はジェラル=ガートロォナ、冥界の神ハルトマの使徒」
「“神の使徒”・・・? ふざけているのか!?」
ジェラルは自身の素性について説明する。野鷹は使徒と名乗る彼女の言葉を信じず、普通であればふざけているとしか思えない彼女の言動に嫌悪感を露わにした。
「いや・・・彼女の言葉は嘘では無いよ。そしてあんな国民投票を行ったのも、彼女の忠告があったからだ」
2人のやりとりを見ていた伊那波は、少しばかり興奮気味の野鷹を落ち着かせる様な口調で彼に話しかける。
「これから話すことは、全て墓場へ持って行け・・・」
「!」
全ての始まりはおよそ7ヶ月前の6月下旬まで遡る。伊那波は帰還の真実を語り始めた。6月23日に幽霊船に乗ったジェラルが留萌に現れたこと、空想小説とまで呼ばれた“極北レポート”の内容から、彼女が本当に“神の使徒”である可能性が極めて高いこと、そして彼女から、彗星がテラルスに最接近する日、すなわち今年の2月11日に日本国が神の手によって地球へ戻されること、そしてそれは避けられない運命であることを説明したのである。
「・・・馬鹿な! こんな、こんな得体の知れない女の言うことを信じて、貴方方内閣は国民を騙したというのですか!?」
野鷹は伊那波の説明に納得がいかなかった。そしてあの国民投票が茶番であったことを知り、憤りを覚えていた。
「国民は・・・僅差ではあるが自ら地球に帰る道を選んだ。あの投票結果は本物だ、別に騙したことにはならないだろう。それに・・・彼女は我々が発見するまで『扶桑』の管理をしていて、この理不尽な帰還の見返りとして、あの艦のデータベース内に封印されているブラックボックスを明かすパスコードを教えてくれた。確かにこの世界で得た資源採掘権は全て失うが、あの艦の技術を得れば、今まで夢物語だった宇宙での鉱掘が十分に採算が取れる商売になるんだ」
「ですが・・・『扶桑』の技術を、28世紀の技術を21世紀に生きる我々が真に我が物と出来るまで、どれほどの年月が掛かるか・・・それに国連に『扶桑』の存在が知れたら、大量破壊兵器を所持しているとして、その廃棄または提出を強要されることになります! 『扶桑』の存在が一般に明かされている以上、その隠匿は不可能ですし、帰還早々に経済制裁を受ける可能性もあります!」
伊那波と野鷹は舌戦を繰り広げる。伊那波は帰還に対する見返りがあったことを告げるが、野鷹はいくら「扶桑」の技術という見返りがあったとしても、それを活かせる状況に無ければ意味が無いと考えていた。
「我々も同感だ。だが、先程も言った様に帰還は避けられない。どうやら神の御意志だからな」
野鷹の言う通り、「扶桑」を理由に国際社会から非難を浴びて、経済制裁を受ける可能性は多いにある。伊那波もそれは予測していたが、それはどうしても避けられない運命であった。
「多くの人の人生を狂わせる神など、私は信じない!」
野鷹は帰還が避けられない運命であることを受け入れることが出来ない。そうでなければ、今まで築き上げた地位と名誉をかなぐり捨て、部下たちの人生までも巻き込んで、今回の騒動を起こしたことが無駄になってしまう。
「運命は確かに・・・時には人に苦痛を与え、その人生を大きく狂わせてしまう。だが運命は人を苦しめる為に存在するんじゃない、それを乗り越えて強くなれるものなんだよ。確かに『地球』でどんな困難が待っているかは分からないが、我々は1度それを乗り越えた。だから信じよう、自分たちの力を・・・」
「!」
伊那波は愕然とする野鷹に諭す様な口調で語りかける。野鷹は伊那波の顔を見上げた。その後、彼はおもむろに椅子から立ち上がると、耳に装着していたインカムを介して部下たちに連絡を入れる。この時、時刻は午前4時を回っていた。
「・・・私だ、作戦を終了する。皆、私の一存に良く付き合ってくれた、礼を言う」
野鷹一尉は今回のクーデタに関与した自身の部下たちに行動終了の一報を入れる。彼は簡潔な文章のみを伝えただけで無線を切ってしまった。彼の言葉を聞いた隊員たちは、自分たちの目的が達成されたものだと思い込み、笑顔で警官隊に投降することだろう。
「運命を乗り越えるか・・・。ですが、私はまだ納得した訳ではありません。この女が嘘をついている可能性もある訳ですからね!」
野鷹はそう言うと、部屋の壁際に立っていたジェラルを指差した。彼女は野鷹の指摘を肯定も否定もせず、くすくすと笑う。その後、彼は公邸内に突入してきた総理大臣官邸警備隊に投降し、公邸から連れ出されたのだった。
斯くして、日本国の帰還を阻止する為、「宮内庁」と「皇宮警察本部」、そして「赤坂議員宿舎」を人質に取った、野鷹康太郎一尉以下「天皇直属近衛府・第2中隊」の隊員と「陸上総隊」の一部隊員、合計231名は、首謀者である野鷹一尉の一報を合図に人質を解放し、彼ら自身は現場に駆けつけていた警官隊に投降した。天皇の守護者たちによるクーデタ未遂事件は、発生からおよそ6時間後に終結し、結局は治安出動が発令されることは無かった。
この「一・四事件」は後に伊那波内閣最大の危機としてメディアに報道され、宮内庁長官が声明を発表する事態になった。声明ではこの事件が近衛府の独断であり、陛下の意思が介在していないことが特に強調された。そして野鷹一尉をはじめとして、今回の一件に関与した自衛隊員については全員が除隊を余儀なくされた。また、「天皇直属近衛府」については、所属する隊員のおよそ2割がクーデタに参加したということで内部調査を受けることになり、長期の活動停止が言い渡されることとなった。
次回、最終話「建国記念の日」です。




