36年振りの悪夢 弐
午前11時30分 東京都・千代田区 永田町 首相官邸
突如九十九里浜沖で勃発した空対空戦闘に対処する為、日本国の行政を担当する国の重鎮たちが集まっている。「国家安全保障会議」の中でも「緊急事態大臣会合」という形で開催された今回の会議には、内閣総理大臣である伊那波孝徳をはじめとする9人の閣僚たちが、首相官邸の会議室に集まっていた。
「九十九里浜沖では、依然として戦闘継続中です。一時は圧されていましたが、現在のところは此方の方が優勢となっているようです」
議長たる首相の決定で会議への参加を許可されていた、統合幕僚長の長谷川誠海将/大将は、現在の戦況について説明する。
「第1高射群には東方面への警戒を厳とする様に命じており、各防空拠点にもそう伝えてあります。何としても、この首都東京は護らなければなりません!」
長谷川海将は強い声で、首都の防衛を第一に掲げる。閣僚たちは焦燥感に駆られた表情を浮かべていた。
「それに加えて・・・少し前に領空内に侵入した野生龍についてですが、高度を落とす事無く首都圏へ向かっているとのことで、恐らくこのまま北西方向へ日本列島を横断していくものと思われます」
長谷川は補足事項について説明する。
「・・・龍とは言え、野生動物に構っている暇など無いよ。こちとら空飛ぶ円盤への対処で大変なんだから、情報はそちらの伝達を最優先にしてくれ」
この緊急事態の下で野生動物などに構ってられない。首相の伊那波はそういうと、官邸には九十九里浜の戦況についての情報を最優先に伝える様に指示を出した。
・・・
午前11時55分 九十九里浜から東へ約270kmの上空
日本国民が固唾を飲んで戦局を注視していた頃、九十九里浜沖の上空では、依然として熾烈な空中戦が繰り広げられていた。
「マーチ16、発射!」
第302飛行隊に属するF−35A戦闘機が、短距離空対空ミサイルである「サイドワインダー」を放つ。それはその戦闘機が追尾していた円盤の後方に命中した。
「・・・よっしゃ!」
パイロットである仲間大寛一等空尉/大尉は思わずガッツポーズをする。その円盤を覆っていたバリアは、4発目のミサイルが当たったところでようやく破れた様で、円盤は爆発四散しながら墜落していった。
一時は奇襲的な攻撃やバリアの存在で混乱していた航空自衛隊だが、今はパイロットたちが落ち着いたことで形勢を立て直すことに成功しており、速度の差を利用して優勢に戦闘を進めていた。
「グローリ4、発射!」
F−2が04式空対空誘導弾を発射し、また1機の円盤が落とされる。回りを見れば、既に17機の敵機が落とされており、残る敵はあと4機となっていた。
「あと一押しだ・・・! 頑張ってくれ!」
第302飛行隊の隊長機を操縦する磨額尚宣二等空佐/中佐は、目前に迫る勝利を求めて仲間たちを鼓舞する。敵の排除完了まであと少し、パイロットたちがそんなことを考えていた時、予想外のことが起こった。
ド ド ド ドカアァ・・・ン!
まだトドメを刺す前であった筈の残存の円盤が、突如爆発して海へと落ちて行く。F−2とF−35Aのパイロットたちは、きょとんとした表情でその様子を見ていた。
「一体・・・何だったんだ?」
磨額二佐はぽつりと呟く。海の上を見れば、銚子港を母港とする海上保安庁の巡視船「かとり」が、墜落したパイロットの救難活動を行っていた。
その後、図らずも戦闘を終え、敵機を全て排除することに成功した第3飛行隊のF−2と第302飛行隊のF−35Aは、それぞれのホームベースへと戻って行く。後に「九十九里浜事変」と呼ばれることになるこの戦闘の結果、航空自衛隊は敵機21機を全て撃墜することに成功した一方で、F−2戦闘機に8機の被撃墜を出し、パイロットに3名の殉職者を出すこととなった。
・・・
午後12時01分 東京都・千代田区 首相官邸
1時間にわたって繰り広げられた空対空戦闘が唐突に終わったその数分後、戦闘の結末について首相官邸に緊急の一報が入る。統合幕僚監部から統合幕僚長である長谷川海将へ、彼の携帯を通じて伝えられたのだ。
「現地からの報告です! 九十九里浜沖に現れた敵機21機についてですが、たった今、全ての撃墜に成功致しました!」
「おお!!」
長谷川はすぐさま、自衛隊から伝えられた報告の内容を口にする。それを聞いた閣僚たちは、一先ず胸を撫で下ろした。
「・・・良し、すぐに国民に発表しろ!」
「はい!」
首相の伊那波は、側に立っていた総理秘書官に指示を出す。命令を受けた秘書官は懐から携帯電話を取りだし、同官邸内の記者会見室に居るもう1人の秘書官へ連絡を入れる。間も無くすれば、会見台に立っている宮島官房長官の口から国民へ伝えられるだろう。
(・・・しかし、一体何だったんだ!? 突如として東から襲来した謎の円盤、とても嫌な予感がする。この国に何が迫っている?)
突如として識別防空圏へと侵入してきた謎の敵、この世界では圧倒的なアドバンテージがある筈の現代兵器でさえ手を焼いたという事実に、この上無い不安を感じながら、伊那波首相はふと窓の外を見る。
「・・・!?」
伊那波は怪訝な表情を浮かべた。何か巨大なものが空から落ちてきて、東京駅の方で爆発した様な紅い光が見えたからだ。血相を変えた役人が会議室に飛び込んで来たのは、それから程なくしてからのことである。
・・・
同区内 東京駅
首都圏を蜘蛛の巣の様に繋ぐ鉄道網の中心、日本の交通の中枢である「東京駅」には、常に数多の人波が行き交っている。この異世界で、人々は変わらない日常を過ごしていた。その時、空の向こうから風を切る様な音が響く。その音が聞こえて来る方を見上げれば、真っ赤で巨大な体躯をした異形の生物が此方に近づいているのが見えた。
「おい・・・何だあれは!!」
1人のサラリーマンがそれを指差す。他の駅利用者や職員たちも、空から落ちてくる様に降下飛来する“龍”に釘付けになっていた。しかし、地面に向かう龍が減速する素振りを見せないことが分かると、人々は途端に逃げ出し始める。騒動は連鎖的且つ刹那的に広まり、逃げ惑う人々の下敷きとなってあちこちで怪我人が出ていた。
「!?」
しかし、龍は地面から400mくらいのところで突如方向を変換する。本来の飛行速度に自由落下のエネルギーが加わった相乗速度はそのままに、身体を水平方向に向けた野生龍は、東京駅の付近に立つ「常盤橋セントラルタワービル」へ突進する。
ドカアァ・・・ン!!
「!!?」
この時・・・その場に居た全員がそのビルを見上げた。その中でも、21世紀最初の年に起こった「あの事件」を知る者は皆、目の前で起こったその光景に「36年前の今日」の記憶を重ねたことだろう。爆発した箇所から瓦礫やガラスの破片が落ちてくる。路上を歩いていた人々は逃げ惑い、東京駅の周辺一帯はパニックに陥った。
午前12時01分、南東方面から首都圏上空に侵入した1匹の野生龍は発見から約5時間後、日本一高い高層ビルである「常盤橋セントラルタワービル」B棟に激突したのである。
・・・
午後12時07分 首相官邸
数分後、事態の第一報が官邸へと届けられる。野生龍が高層ビルに激突した、その事実を知らされた閣僚たちは、あまりにも突飛な報告に現実味を感じられなかった。
「おい・・・何の冗談だ!」
「・・・!」
伊那波首相のその言葉で、閣僚たちの意識は現実へと引き戻される。九十九里浜での戦いを終えた矢先に飛び込んで来た現実に、彼らは狼狽するしかなかった。
「幕僚長! 第1高射群は一体何をやっていたんですか!?」
「・・・は、はい! すぐに状況の確認を!」
防衛大臣の倉場健剛は、近くに座っていた統合幕僚長の長谷川海将を糾弾する。長谷川はすぐさま携帯電話で統合幕僚監部と連絡を取り、入間基地に拠点を置く航空自衛隊第1高射群の本部との連絡を扇いだ。
『幕僚長、良かった! たった今、連絡を取ろうとしていたところだったんです!』
統合幕僚監部にいる長谷川の部下は、ほっとした様な声をしていた。彼の話を聞くと、どうやら第1高射群本部の方から連絡が届いているという。すぐに群本部と通話を繋ぐ様に命じると、程なくして入間基地の本部に勤務する第1高射群司令の声が聞こえて来た。
『先程各地のレーダーサイトから、千代田区の上空で突如野生龍の反応が変化したとの連絡があり、迎撃すべきか否かご指示を仰ごうと思い連絡しました。如何取り計らいましょうか?』
電話の向こう側に居る第1高射群司令の住良木嘉人一等空佐/大佐は、統合幕僚長である長谷川に龍を撃墜すべきかどうかの指示を求める。どうやら彼は、龍がビルに激突したということを把握していない様だった。
「もう遅い! 野生龍は常盤橋セントラルタワービルへ激突したんだ!」
『・・・えぇっ!? 何ですって!?』
事此処に至って、住良木一佐は事態の重大さを把握する。付近のレーダーサイトから龍の同行に関する続報が入間基地へ伝えられたのは、その数十秒後のことだった。
・・・
午後1時48分 東京駅付近
野生の龍が激突し、爆発炎上した「常盤橋セントラルタワービル」B棟の周りを、多数の報道ヘリコプターと消防防災ヘリコプターが飛び回っている。日本一高いビルからもうもうと灰色の煙が上がるその様を、都民たちは不安げな表情で見上げていた。
ビルの真下の路上では消防隊の車輌が駆けつけており、建物の中から避難してくる人々の救護に当たっている。しかし、龍が激突した箇所より上の階で仕事をしていた人々は、逃げ道を失い、取り残されていた。
『地上61階の内、龍が激突したのは45階付近だと思われます。現在、消防と自衛隊のヘリが屋上からの救助を行っていますが、45階以上に取り残されている人数はまだ100名以上居ると考えられ、全員の救助にはまだ時間がかかりそうです。
また、龍が激突した階層を支える支柱の強度が弱まっており、上部が崩落する危険性が高く、警視庁はセントラルタワービルの付近には近づかない様に警告を発しています』
報道ヘリに乗るニュースレポーターが、炎上する常盤橋セントラルタワービルの様子を伝えている。各報道局が伝える生中継を、全国民が固唾を飲んで見守っていた。彼らが配信する映像には、建物内に取り残され、窓から身を乗り出している人々の姿が映し出されていた。そして遂に、その瞬間が訪れる。
「・・・!?」
ビルの付近に居た消防隊員や救助隊員たちは、一斉にビルを見上げた。龍が突入した部分の階層を支えていた鉄柱の強度が限界に達し、潰れ始めたのである。バキバキと鈍い音を響かせながら、龍が突入した部分を境にして中折れしていく。
「キャアアァッ!!」
「・・・た、退避! 退避!」
空からガラスやコンクリートの破片が落ちてくる。此方に向かって倒れ込もうとしている上部階層の瓦礫から逃れる為、消防隊員や救助隊員は救出した負傷者と共に一斉に逃げ出した。ビルの上層はゆっくりと、だが着実に地面へ向かって近づいて来る。そしてとうとう、セントラルタワービルの上部階層は大量の砂煙を巻き上げながら崩落したのだ。
『ご、ご覧ください! セントラルタワービルの・・・龍が突入した箇所より上部の階層が今、崩落しました! 繰り返しお伝えします、野生龍の激突を受けた常盤橋セントラルタワービルは、その一部が地面に向かって崩落しました。尚、龍が突入した箇所より下部については、崩落は確認されていません。繰り返しお伝えします、常盤橋セントラルタワービルは、その一部が地面に向かって崩落しました・・・』
都民、そして日本国民はその光景を呆然としながら見つめていた。テラルスの市場経済を牛耳る栄華の象徴が、無残にも黒煙を上げながら崩れてしまったのである。このテラルスで最も安全だと思われていた首都がパニックに陥る様を見て、各国の大使や世界魔法逓信社の記者たちは現実味を感じることが出来なかった。
「に、逃げろ! もっと遠くへ!」
「うわああぁッ!!」
「た、助けてくれ!!」
建物の瓦礫や崩落によって発生した震動は、付近の建物を容赦無く襲う。被害は更に拡大していき、未だ多数の人々が居る東京駅にも影響を及ぼしていた。舞い上がった砂煙はまるで火砕流の様に付近の人や物を飲み込んでいく。
『信じられません・・・龍が建造物に激突し、セントラルタワービルが崩落するなんて、これは果たして現実なのでしょうか?』
報道ヘリに乗るニュースレポーターは、依然として報道を続けていた。そのカメラには地上で逃げ惑う人々の姿が刻銘に映し出されていた。
この「常盤橋事件」は、民間人を含めた死者231人、負傷者1200人という、日本国がテラルスに転移して以降の最大の被害をもたらした。そして、事件内容が「アメリカ同時多発テロ事件」と類似していることから「36年振りの悪夢」として、そしてこの後に起こる“惑星規模の大厄災”の切っ掛けとして、日本国民の記憶に刻まれたのである。