私の大切なモノ。
第4話
昼食が終わり、午後の仕事に取り掛かろうとデスクを立ち上げる。
「春山さん」
私の目の前に座っている彼は、優しく微笑むとペットボトルに入った紅茶と共に小さなメモを渡してきた。
無言で受け取り、メモを読むと【俺のメアドと番号、書いておくんで登録しておいてください☆】といかにも若者といった字で書いてあり、私は思わずクスリと笑った。
床においてある鞄から自分の携帯を取り出し、アドレスと番号を登録する。
そして、そのままメールを新規作成し【春山です。宜しくね。番号は……】とだけ入力して送信ボタンを押した。すると、十秒も経たないうちに返信が来て、【仕事終わったら連絡します】と表示されていた。
それを見て携帯を閉じると、彼から貰った紅茶を口に含む。ほのかに甘い匂いが鼻を抜ける。
眠気を誘うほどではないが、少し心がほっとするような味に安心感を覚えながら午後の仕事に向かった。
仕事が一通り終わり、部長に今日の仕事内容を報告して私はオフィスルームから出る。
既に時刻は六時を回っていて、定時で上がっている人が大半なせいでがら空きだった。
散り散りに聞こえてくるタイプ音も聞きなれたものだ。
私が帰る頃にはそれも静まり返っているのが普通のなのだが、今日はなぜか捗って仕事がいつもより早く終わった。
自分のオフィスにも何人か液晶と睨めっこしている人々が居たが、いつものメンバーである。
だが、今日はそのメンバーに岸辺君が加わっていた。
「大丈夫かな……」
コンピュータのデスクトップと睨めっこをしている彼を心配そうに見つめながら、私はオフィスの外にある休憩所で一人携帯を弄っていた。
左手首に巻いた安物の腕時計から発せられている秒針の音が、無機質に響き渡る。
自動販売機の重い響きに、秒針の規則正しい刻みがいい感じにマッチしていた。
「……っ」
首ががくん、と落ちる。あまりの気持ちよさに寝ていたのだろうか。
いきなり落ちたせいで痛みを感じた首をさすりながら、腕時計を見る。
時刻は七時半を回っていて、微かに聞こえていたオフィスの音もなくなっているようだった。
「あー……もう岸辺君帰ったかなぁ」
落胆しながら、携帯の画面を見る。
ディスプレイにはメールが一件表示されていて、岸辺君かと思って慌てて開くが全くの別人だった。
「はぁ……」
溜め息を吐きながら、傍らにある鞄を手に取ろうとする。が、そこにあるはずのそれは無かった。
慌てて立ち上がり、周辺を探すが見当たらない。寝ている間に誰かに取られてしまったのか。
「馬鹿だ」
泣きそうになりながら、椅子に座り込む。
鞄の中には、両親から貰った大事なお守りが入っているのだ。成人して一人暮らしを始める時に、厄介事に巻き込まれないようにとわざわざ神社でお祓いまでして買ってきてくれた。
そんな両親の分身のように大事にしてきたお守りもなければ、財布もない。今日は岸辺君とご飯を食べる予定だったのに寝過してしまうし。
なんてついていない日なのだろう。
「……もうやだ帰ろう」
そう思い立ち上がると、一番会いたかった人の声が私の耳に入ってきた。
「春山さん」
振り返ると、腕を組み、壁に寄りかかりながら柔らかい笑みを浮かべている彼がいた。
そして、その腕には見覚えのある鞄。
「それ……」
「あ。春山さん寝てたんで、誰かに盗まれたらいけないと思って預かっておきました」
「よっ……よかった……」
安心した反動で腰が抜けて座り込んでしまう。そして、目からは大量の涙が流れていた。
「えっ、春山さん!?」
驚いた表情で私の元へと駆け付けた岸辺君が、私の背中をさすった。
立てますか?と心配そうにいうものだから心の中で笑ってしまう。
すると、何を思ったか私を軽々と持ち上げお姫様抱っこの形になり、そのまま歩きだした。
「ちょっ、岸辺君何してるの!?」
「お姫様抱っこです。春山さん泣いてるし腰抜けちゃうし。危なっかしいんで俺が抱っこして連れて行きます」
真剣な眼差しでそういうものだから、私の心の奥を見透かされてしまうのではないかと思うとひんやりとする。
――どうしよう。私はこの人が、好きになってしまったのかもしれない。
もしも、彼がこの感情を知ったらどうするのだろう。
嗚呼、きっと引かれてしまうな。
このまま時が止まればいい。ドクドクと脈を打っている心臓の音も、彼に聞こえなければいい。
ずっと、永遠にこの時間を過ごせたら幸せなんだろうな。
そう思うと、だんだん顔が熱くなってきた。
「き、岸辺君、私はもう大丈夫だから下ろして……」
「……嫌です」
「え?」
「俺がこのままがいいです。駄目ですか……?」
悲しそうな目でこちらを見る。
そんな目をされて、嫌だなんて言えるはずがなかった。
「……このままで、いいよ」
俯きがちになりながらそういうと、彼は顔をパッと明るくさせて私を抱き直した。
外から見た感じでは細身で筋肉はなさそうだったのだが、実際触れてみると結構筋肉質なようだ。
がっちりと私の肩を握る彼の手は、私を落とさないようにしてくれているのか力が込められている。
嬉しいな、と思いながらその腕に身を委ねた。