《女スパイの試行錯誤》 5
ファブリッツィア=テナルディエは今、屈辱にさらされていた。
打ちっ放しのコンクリートの一室に一人きり。両手両足には堅固なヴァイツェン製の拘束具。我が身を振り返り、出てくるのは鉛よりも重い溜息だ。
「……ヘマったぁ……」
情けない声をこぼすのは、薄手の白いセーターに短い赤のプリーツスカート、黒のニーソックスに同色のキャップスという、至って普通の出で立ちの少女である。うなだれると、やや濃紺の色素を含む黒髪のポニーテイルがコンクリートの床を撫でる。
──あたしとしたことが本っ気でしくじった。今時、しかもこんな所で『あんなの』を見たとはいえ……そう、イレギュラーを予想していなかったとはいえ、侵入に気付かれていたことに気付かないなんて、本当に本物の馬鹿だった。現状はまずい。かなりまずい。っていうか非常にまずい。こんな時にカーネルが傍にいればなぁ……
「こんなモノ、なんてことないのに……」
己を縛る拘束具に、再び暗鬱な息をつく。これでは脱出など不可能だ。O.B.Kの救助は待てない。その前にどうにかされるに決まっている。
「どうにか……かぁ」
その『どうにか』を想像して、ファブリッツィア=テナルディエ──仲間達からはファーブルと親しまれている少女は身震いした。想像するだけで身の毛もよだつような拷問の数々がふりかかってくるだろう。そう遠くない未来に。
「はぁ……スパイなんてやめときゃ良かった……」
言ってはいけないとわかりつつも、つい口から出てしまう言葉がある。今のファーブルの科白がそうだった。彼女はさらに、捕らわれたスパイが自ら死を選ぶべきだということも知っている。それはいわばスパイのたしなみであり、絶対唯一の道である。そうでなければ仲間に迷惑どころではなく、危険が迫ることも重々承知している。だが、
「ごめん、みんな。あたしゃ臆病者なんだよぅ……」
冗談めかした呟きだったが、声は震えていた。語を紡ぐのすら困難な圧迫感が、彼女の心身を覆っていた。身体の震えも、寒さのせいではない。
──それにしたって、ヴァイツェンは一体何を考えているの? 『あんなの』を何に使うつもりなの? どうして『あんなの』が龍日にあるの? おかしいわよ、絶対に何かがおかしいわよ。カーネルに見えない未来なんて無いはずなのに。無いはずなのに、世界がカーネルの見た未来とは違う方向へ進んでいる気がする。
未来への恐怖と不安。仲間への罪悪感。絶対であるはずのカーネルへの猜疑心。それらの混沌の中にいたファーブルを、突如、激しい揺れと轟音が襲った。
「へやっ!?」
声を上げてから、こんな素っ頓狂なものではなく『きゃあ』とか『ほええっ』とか可愛いモノは出せなかったのかと、頭の隅で後悔した。
「地震!?」
そう思うほど、すさまじい振動と音だった。自分が監禁されているのは地下のはずだが、それでも尋常ではない揺れだ。まるで空から岩石の雨が落ちてきているような激しさだった。
それもそのはず。現実に、彼女の頭上では元帥府ビルが崩れ落ちていた。だがそれを知る由もないファーブルはただ、拘束され自由の効かない身体を必死に丸めて嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
嵐はすぐには去らず、二分ほどファーブルを怯え続けさせた。やがて揺れと音は徐々に収まっていき、今度は扉の向こうからヴァイツェン兵と思しき足音と会話がファーブルの耳に届く。
「なんだ、何事だ!」「上の階で何かあったみたいだぞ!」「襲撃か!?」「まさか、パンゲルニアが攻めてきたのか!?」
喧々囂々と遠ざかっていく。あまりに唐突な出来事に、ファーブルの心臓は破裂しそうなほどに動悸していてよく聞き取れなかった。脳そのものが鼓動をしているようで、半分放心状態にあった彼女は、しばらく何の行動も起こせなかった。
──もしかして今が脱出のチャンスとか?
そう思いついたのは一分以上経てからであった。
「えーと……じゃあまずはこの邪魔なものから」
と言いかけたところで爆音が響いた。
「うをうっ!?」
電流を流されたかの如く全身を震わせ、硬直する。心臓が喉どころか頭の中にまで来たかと思った。一瞬、目の前が真っ白になる。
全身から嫌な汗を流して待つこと十秒。もう何も起きませんように神様──と祈るファーブルの願いに、神は嘲笑を見せたようだった。
「「──ぁっ!」」
扉の向こうで、文字では表すことの出来ない悲鳴が二つ上がった。それに人間の倒れる音が二度続き、それっきり再び静かになる。
だが、沈黙のカーテンは五秒で引き裂かれた。
がちゃり、という音にファーブルは泣き出しそうになった。誰かが鍵のかかったドアを開けようとしている。ドアノブが回ろうとして、しかし鍵内の遮蔽物に邪魔をされる。ドアの向こうにいる誰かはそれを何度か繰り返したが、鍵がかかっていると得心したのだろう、すぐに静かになった。そして、
「鍵がかかっているみたいですね」
「解錠するのも面倒だな。昂殿、よろしく頼む」
「ぁあ? んなのテメエでやれよ」
「何を言う。技もなければ飾りもしない、ど真ん中ストレートの昂殿にぴったりの役割だというのに」
「そうかそうか、テメエ遠回りに喧嘩売ってくれてたのかよ。上等だ受けて立ってやろうじゃねえか」
「では浮殿、頼んだぞ」
「無視すんなゴラァッ!」
ずどん、ときた。鋼鉄製の扉の中央が砲弾の直撃でも受けたかのように窪んだ。と思った次の瞬間には、周囲の壁ごと扉が吹っ飛んでいた。まるでそれらが紙で作られた模型か何かのようだった。蹴破られた扉が剛速球よろしく宙をかっ飛んで壁に激突する。
──なんか、もしかして……ヴァイツェンの兵隊よりヤッバイモンが来てない?
扉の破壊によって生じた風に吹かれながら、ファーブルはそんなことを考えた。それは自分でも驚くほど明晰な思考だったが、身体の方は自分に正直だった。身体を小さくして、めいっぱいに目を見開き、扉の向こうから現れた人物達を凝視する。
片足を上げた、蹴り直後の体勢をとる赤毛の少年と、その背後に立つ凸凹な三人組。
こいつらは一体何者で、自分を助けに来たのか、それとも殺しに来たのか。最悪、女として最も屈辱的な行為をされるかもしれない。そんな思考がめまぐるしくファーブルの頭蓋骨の内を飛び回る。
「お待たせしました、玲瓏院宥姫様。あなた様を救出に参りました純と申します。ご機嫌はいかがですか?」
その少年はいきなり目の前にいた。瞬間移動でもしたのかと思うぐらい鮮やかな動作だった。素早く近づき、柔和な笑顔をファーブルに近づける。しかもかなりの美男子。艶のある、やや短い黒髪をファーブルと同じポニーテイルにしていて、金色の瞳はまるで内部から光を放つ琥珀のようだった。シャンプーも良いものを使っているのだろう。とても良い香りがして、ファーブルは不覚にも『彼の胸に飛び込んで目を閉じたら、とても気持ちよく眠れそうだなぁ』などと考えてしまった。
──っていうか玲瓏院宥姫って誰?
そんな疑問が頭を小突いて、眼前の少年の魅力に溺れるのを妨げた。
──もしかして誰かと間違えられてる?
「……あ、えと、その……だ、大丈夫……ですわよ?」
名前の響きからして身分の高い人間だと推測し、やや苦しいと思ったが、それらしい口調で話してみた。と、ここで思い出す。バトライザー元帥が誘拐したのは、確か龍日の貴族だったはずだ、と。
不意に視線を感じて周囲を見回すと、純と名乗った少年と、その背後にいる三人がじっくりとファーブルを見つめていた。リンゴだと思って手に取ってみたら実はトマトだったので少し驚いた──そんな感じの顔で。
「あ、ああ、いや、じゃなくて、いいえっ! わ、私……つらかったんですの。こんな所に一人きりで、会話も出来ずに……ごめんなさい、助けに来てくださったというのに、あまりうまく喋れずに……」
慌てたが、それでも途中からは自前の演技力を発揮した。貴族の令嬢ならこんな感じだろうとあたりをつけ、それらしく振る舞う。弱々しく、儚げに。思わず護ってあげたくなるような雰囲気を。凄まじいまでの狼狽と不安が胸内で渦を巻いていたが、全て表情筋の下に覆い隠した。
その甲斐あってか、永遠とも思える数瞬の後、そばにいる美少年が微笑む。どんな偏屈な人間でも、思わず心を開いてしまいそうな素敵な微笑だった。
翼を隠した天使がにこやかに告げる。
「あなた誰ですか?」




