《女スパイの試行錯誤》 1
O.B.K。
指導者『カーネル』を中心とするその集団は、所属する者全てが一般人にはない特殊能力を有しているのが特徴だ。一般では総じて『超能力』と呼ばれる力を持つ彼らは、自らを超人類と称し、ヴァイツェンの北東部で独立を宣言した。当初、ヴァイツェン軍に比べて圧倒的に少数だった彼らを弾圧するのは、赤子の手をひねるようなものだと考えられていた。客観的に見てもけして楽観ではないその考えは、しかし青天の霹靂によって打ち砕かれた。O.B.Kのメンバーは、全員が不死に限りなく近い、肉体再生能力の持ち主だったのだ。
どれだけ身体を打ち砕かれようとも、細胞の一欠片でもあればそこから再生することのできる生命体。それも信じられないような速度で。
さらに彼らの持つ特殊能力の数々に、千人を超えるヴァイツェンの派遣隊はあっけなく敗れ去った。
なにせ銃弾の嵐で蜂の巣にしようが、手榴弾でバラバラにしようが、彼らは十秒足らずで復活してしまうのだ。そして再生後には、不可視の刃が悪魔の爪が如くヴァイツェン兵に襲いかかり、ズタズタに切り裂く。戦闘はわずか半日足らずで終わりを告げ、退却するヴァイツェン軍の損耗率は五割、O.B.Kのそれはゼロという、目も当てられない結果が出た。
当初、この戦闘結果を虚偽や妄想として取り合わなかったヴァイツェン上層部も、同じような結果が連続して三度も出ると、流石に目の色を変えた。三日間にわたる議論の末、とうとう最高司令官である元帥が陣頭に立つ、壮大な作戦が立案された。
作戦名は〝マジェスティック・スープレッション〟
これこそが世に言う『愚かな威風堂々たる弾圧』である。
その結末は、日の目を見ることのない歴史書にはこう記されている。
ただ一言、『敗北』と。
詳しく語ればこうなる。まずヴァイツェンは、生き残った兵士達の報告からO.B.Kの特徴の一つを捉えた。それは、『カーネル』と呼ばれる男の傍にいる者ほど強力な力を振るっていた、というものと、大勢の犠牲の果てに捕虜にしたO.B.Kメンバーは本国に連れ帰った途端に特殊能力を失ってしまった、というものだった。しかもその捕虜は、心臓を撃ち抜くと再生することなく即死したという。
導き出された結論は単純明快だった。おそらく『カーネル』こそがO.B.Kの力の源なのだ、と。他の者達はカーネルから『力』の供給を受け、その異能を振るっているにすぎない。カーネルさえいなければ、O.B.Kはただの烏合の衆となる。
例えるならO.B.Kは、カーネルをエネルギー供給システムの核とする、究極的な集合生体兵器。つまり、『カーネル』こそが『O.B.Kそのもの』なのだ。
カーネルを殲滅する。それこそが〝マジェスティック・スープレッション〟の鍵だった。
だが彼らは細胞の一欠片からでも復活する。そのため、攻撃は徹底的に、やりすぎなほどやらねばならない。だが、ヴァイツェン軍のほぼ全兵力をこの作戦に投入したのは、それだけが理由ではないだろう。間違いなく当時の政府の矜持によるものが大きい。我が国内に置いて独立宣言など許してなるものか、という。
もっとも、合理的な理由もある。独立を許してしまえばそれに続く地域が出て、ヴァイツェンという国家は内部から崩れていってしまう。それを防ぐためにも、見せしめとしてO.B.Kを徹底的に潰す必要があったのだ。
歴史には敗北と記されているが、作戦自体は成功した。実際ヴァイツェン軍はカーネルを殲滅することに成功したのだ。ただし、損耗率が八割という、戦略的にも戦術的にも愚かな数字を犠牲にして。
悪夢はそれだけではなかった。確かに、新開発の大口径レーザーによってカーネルの全身を塵一つ残さずに消滅せしめたところまでは良かった。カーネルの『力』の供給は途切れ、その瞬間に本来ならば即死状態にあった者達はそのまま死神の懐に捕らえられた。だが。
一呼吸もせぬ内に、新たなカーネルが発生したのだ。
消滅したカーネルのすぐ傍にいた、年端もいかぬ少女だった。黒髪黒瞳だった彼女だが、その瞬間、まるでカーネルの魂が乗り移ったかのように、その髪と瞳から急激に色が抜け、雪のように白い髪と鮮血のごとく赤い瞳にへと変化してしまったのだ。
それはヴァイツェンの兵士達にとって、あまりにもあまりにも絶望的な光景だった。
『力』の供給が再開され、超能力者達は凶器を取り戻した。そこからの展開はもはや一方的でしかありえなかった。精も根も使い果たしてようやくカーネルを倒したヴァイツェン軍に、新生カーネルを打ち倒す気力などわき起こるはずがなかった。それ以上に、何度倒してもカーネルは復活してしまう、という考えが、彼らの脳裏に焼き印となって刻まれてしまった。戦いに意味を見いだせなくなったのだ。
戦意を失い、士気の下がった集団に勝利など望むべくもない。想像を遙かに超える怪物を目の当たりにした恐怖に、統制は乱れ、兵士達は命令も待たずに逃げ出した。
無様な敗走だった。当然、当時の軍部と政府の高官数名が責任をもって失脚し、以降、O.B.Kはヴァイツェンの北東部を奪い取り、支配下に置くこととなる。
以上が三十年前に起きた『愚かな威風堂々たる弾圧』の顛末である。
詳しい状況を、当時の政府は記録に残したがらなかった。それ故、ただ一言『敗北』と記したのである。よってこの戦いの記録はほとんど残ってはいない。
唯一、その戦闘に参加した人々の記憶を除けば。
『私はあの時のことを絶対に忘れない』
男のその告白を、ファーブルことファブリッツィア=テナルディエは盗聴機越しに聞いた。声の主を彼女は知っている。『傭兵元帥』の異名を持つアレックス=バトライザー元帥。ヴァイツェン軍部における重鎮中の重鎮である。
「そりゃ確かに忘れられないでしょうけどね。でも、いい加減忘れてもらわないとこっちが迷惑なのよ」
バトライザーに届かないと知りつつも、ファーブルは口に出して言った。その声の成分はほとんどが毒で、微量だが同情の粒子も含まれている。
『そう、忘れられるものか。あの悪夢は、今でも私を蝕んでいる。毎晩毎晩、夢の中であの光景を見ては、私の怒りの炎は燃え上がる。私が死ぬか、奴が死ぬまでこれは続くだろう。私は、そのどちらも座して待つつもりはない』
「だったらとっとと自殺すればいいでしょうに」
今度こそ純粋な毒を込めてファーブルは吐き捨てた。バトライザーは彼自身の執務室におり、ファーブルはその部屋から五メートルほど離れた排気ダクトの中にいる。あちらの声は絨毯の中に仕込んだ盗聴機が運んでくれるが、こちらの声はあちらには届かない。
『しかしな、バトライザー元帥。目的のためとはいえ、龍日の貴族を誘拐するというのは……』
『必要なことだ。カーネルを倒すためにはな』
「倒さなくていいって言ってんのになぁ……」
やれやれ、とわざとらしく肩を竦めようとしたが、狭い排気ダクトの中では少し無理があった。
『傭兵元帥』はその名の通り、傭兵から元帥へ駆け上がった男を指す。三〇年前、アレックス=バトライザーは名も無き傭兵だった。ヴァイツェンの地方出身で、二十歳の時に親友と共に故郷から出てきた。いわゆる〝愚かな威風堂々たる弾圧〟の頃には二四歳。幾度と無く死線をくぐり抜け、熟練の戦士に成長していたという。
ファーブルの仕入れた情報によれば、バトライザーは〝威風堂々たる弾圧〟で唯一無二の親友を失っている。
『私はな、奴をこの手で倒すために……ただそれだけのために走り続けてきた。地位も権力も、目的を果たすための手段でしかなかった。……あなたにはこの気持ちがわかるか?』
「ま、普通はわからないわよね。いくら友達が殺されたからって三十年間も恨めるもんじゃないでしょ? しかも戦闘だったんだし。この場合は可哀想だけど死んだ方が悪いわよ。戦場じゃ弱いってのはほとんど犯罪でしょ?」
『……君の気持ちが私に理解できるか否かは、この際、問題ではないだろう』
「ほらね?」
『問題なのは君の事情よりも行動だ。君は正気か? 国防の頂点に立つ者としてどれほど軽率な行為をしたのか、わかっているのかね?』
バトライザーに詰問する声の主をファーブルはまだ知らなかったが、次の瞬間、その正体が判明する。
『わかっているとも、アレッキノ首相。間違いなく愚かな行為だ。そう、あの時の作戦と同じようにな』
ウィルフレッド=アレッキノ。ヴァイツェンの首相にして、政府の最高権力者である。この国で唯一人、バトライザーと肩を並べることの出来る男だ。
『この事実が神威天照帝に知れてみろ、間違いなく戦争だ。何の意味もない、ただの戦争が始まる。馬鹿馬鹿しい話だ。パンゲルニアとの決着もまだついていないというのに』
アレッキノの声には諦めと疲労の色が濃い。声を聞いているだけだというのに、初老の男が情けなく頭を振っている光景がファーブルの脳裏に浮かんだ。
パンゲルニア。言わずと知れた世界最強大国の名だ。訪れたことがなくとも、名前ならば誰でも知っている。ヴァイツェンでバトライザーやアレッキノの名を知らない者はいても、パンゲルニアの名を知らない者はいない。世界の覇王、それがパンゲルニアだ。
列強のことごとくがパンゲルニアに頭を垂れる中、傲然と顔を上げてパンゲルニアを睨みつける国が二つある。〝科学軍事国家・ヴァイツェン〟と〝竜の棲む天空の国・龍日〟だ。特にヴァイツェンはパンゲルニアに次ぐ大国であるだけに、その敵愾心は強い。パンゲルニアさえ倒れれば、世界の筆頭に立つのは自ずとヴァイツェンになるのだ。二国の間に戦いの火ぶたが切って落とされてから、もう二百年にもなる。龍日に至っては言わずもがな、神を自称する存在が下げる頭など持っているわけがない。
共通の敵を持つ同士として龍日とヴァイツェンは手を結んでいる。だがそれは、『敵ではない』だけであり、決して『味方』を意味してはいなかった。二国の間に友好関係はなく、利害関係のみがあった。よって、ほんのわずかなきっかけでその関係に綻びが生じ、二国があっという間に戦乱の火口へ落ちていくのは、それこそ火を見るより明らかだった。
『龍日ごとき、何を恐れる必要がある? カーネルを倒したならば次は龍日だ。我が国ではまだ実用化に至ってはいないとはいえ、星体兵器など恐れるに足りん。我々は数の上で絶対的に勝っているのだからな』
「そりゃまあ、あっちは空飛ぶ天然要塞とはいえ、悪く言えば島国だもんねぇ。国民総生産を比べたら象と蟻。でも……純軍事力の話になると、そう簡単じゃないと思うんだけどなぁ」
ファーブルと同様のことを思ったらしく、アレッキノもバトライザーに苦言を呈する。
『しかし、あちらには天使がいる。戦術的には無視していいが、戦略的には無視できないぞ。極論、我々が天使に暗殺された場合、ヴァイツェンは龍日に敗れることになる』
その声は濃くしすぎたコーヒーのように暗く、苦い。
龍日の天帝が天使を戦力として投入してくることは疑いようがない。だが問題はその用途だ。精鋭兵士として戦場へ出してくるのならば問題はない。いくら一騎当千の猛者でも、多勢に無勢では万が一の勝ち目も消えようものだ。天使一人を倒すのに千人でも足りないというのであれば、二千人の兵士をぶつければいい。それだけだ。しかし、天使を暗殺者として送り出してくるのならば話は一変する。研ぎ澄まされた最強の矛はどんな障害をも貫き、アレッキノやバトライザーの心臓へ突き刺さるだろう。何よりも強い百獣の王でも、一匹の虫が運んできた病原菌で死ぬことがあるのだ。その場合、龍日は他国からの誹りを免れないだろうが、あの気位の高い神威天照帝のことだ。アレッキノやバトライザーの変死に対して平然と『敵ながら不幸なことだ』などと言いかねない。
アレッキノの心配をバトライザーは笑い飛ばした。
『杞憂だ、首相。アレさえ完成すれば我々はカーネルだけではなく、龍日はもちろん、パンゲルニアとて目ではない。相手が天使だろうがゴールデンブラッドだろうが、一瞬でケリがつく』
『それは完成すればの話だろう。しかも、例え完成したところで、どうしようもなく愚かな行為であることに違いはない。それこそ我々の方が世界中から白い目で見られるぞ』
アレッキノが苦々しく吐き捨てるのを聞きながら、ファーブルは喉に飴を詰めた子供のように唸った。
「うー……だからぁ、その『アレ』って何なのよ? っていうかそれを知りたくてさっきから盗聴してんでしょーが。出し惜しみしてないではっきり言ったらどうなのよ!?」
我知らず怒鳴りつけ、ダクトの中に反響する自らの声に耳をやられた。
「あぁあぁあぁ……落ち着けあたし。怒っても仕方がないし、ここは辛抱強く──」
『誰だ?』
「ひょえっ!?」
いきなり聞こえた誰何の声にファーブルは思わず素っ頓狂な声をあげた。大声を出したせいで見つかったと思ったのだ。だがそれは勘違いだった。
盗聴機から、勢いよく扉を開く音が耳に飛び込んできた。それは荒々しい足音を伴っており、入室者の焦りをしらしめた。
『失礼します!』
どうやらバトライザーの部下のようだった。ファーブルはほっと胸をなで下ろす。なにせ見つかればほぼ間違いなく命はないのだ。焦るなと言うのは無理な話だった。口から心臓が飛び出すかと本気で思った。
『何事だ』
『ほ、報告いたします! グランツ中将とスイートス中将の邸宅が、何者かによる襲撃を受けた模様です!』
『!?』
二人の緊張によって空気が凝固する音を、ファーブルは聞いたような気がした。
『グランツ中将とスイートス中将か……確か彼らは同期で、以前から犬猿の仲だったな。まさか軍の内部抗争ではないだろうな、元帥?』
『うむ……だが、奴らとて馬鹿ではない。これほど分かり易い武力闘争をやるとは、流石に考えにくい』
『では何だと言うのだ? テロリストか? それとも龍日の天使がもう攻めて来たとでも?』
アレッキノの吐き出した皮肉は、それこそ皮肉なことに真実の一部を言い当てていた。だが彼もバトライザーも全知全能の身ではないため、それを知る由もない。
『案外、O.B.Kの手先かもしれん』
さらりと出た元帥の科白に、首相が絶句するのがわかった。何故ならばファーブルも同じ気持ちだったからである。
O.B.Kの手先。その言葉がギクリという音をたててファーブルの胸に突き刺さる。それは他でもない、ファーブル自身のことだった。
しかし一拍の後、あることに気付いて彼女は混乱に陥る。
「……っていうかちょっと待って? あたしここにいるよね? っていうか襲撃なんてしてないし……ど、どゆこと?」
一体どこの誰が──いや、どこの馬鹿がヴァイツェンの中将に襲撃をかけるというのか。まったく予想がつかない。O.B.Kのメンバーでないことだけは確実だ。カーネルの命を受けて調査している自分がここにいる。そういった役目の者がヴァイツェンに来ているのなら、こちらにも連絡が来ているはずだ。
よしんば思想テロリストだったとしても馬鹿すぎる。やるならばもっと民間で象徴的な建物を狙うべきだ。それを、こともあろうに軍幹部の邸宅を襲うとは。国家の面子というものを舐めすぎている。破壊行為を楯にとって政治的要求をするどころではない。跪いて泣いて許しを請おうが絶対に殺される。『国家』という人間の集団が作り上げた悪魔──否、死神に喧嘩を売るとはそういうことなのだ。
『生存者は? 他に情報はないのか?』
本来、軍の人間ではないアレッキノの質問に答える義務などないのだが、それでも若い声の軍人は素直に答えた。
『それが……生存者はなく、スイートス中将にいたっては邸宅を爆破されておりまして……』
『では目撃者は?』
冷徹なバトライザーの声が、しどろもどろな士官の精神に冷水を浴びせかけたようだった。敬礼をする、鋭い衣擦れの音をファーブルは聞く。
『は、はっ! まだ詳細は確認中ですがスイートス中将の邸宅付近で戦闘があった模様です! おそらく犯人と思われる三人から五人からの集団で、我が国のものではない武器を使用していたとのことです!』
ヴァイツェン製の武器ではない。この事実の意味するところは単純かつ明快だ。これはヴァイツェン人の仕業ではない。何故なら、パンゲルニアに逆らうヴァイツェンは実質的な鎖国状態にある。ヴァイツェンが自ら閉じこもっているのではなく、周辺国の張り巡らした鉄条網に囲まれているのだ。よって武器であろうが日用品であろうが他国の製品がヴァイツェン人の手に渡ることはほとんどない。それはバトライザーやアレッキノのような高官でも同じ事だ。よって襲撃の犯人は他国の者と考えるのが妥当だった。
しかし、一体どこの誰が? O.B.Kではない。もとよりあの集団は保守的で自ら打って出たことはこれまで一度もない。ではパンゲルニアか? いやあそこは矜持の高い国だ。やるなら真っ正面から正々堂々と攻めてくるだろう。それとも龍日が? まさか、龍日とヴァイツェンは表面上だけとはいえ安全保障条約を結んでいるのだ。そんなはずはない。神威天照帝とて現時点でそのような暴挙には出ないはずだ。いや、出ないと信じたい。ならば一体──
奇しくもこの時、ファーブル、バトライザー、アレッキノの三人はほぼ同じ思考の軌跡をたどっている。
『……それで、グランツとスイートスはどうした? 奴らもやられたのか?』
思い出したようなバトライザーの声だった。聞くまでもなくおおよその見当がついていたのであろう。
『あ、はっ……せ、生存は確認されておりません!』
と答える部下の言葉に、彼は驚いた様子を見せなかった。やはりな、と短く呟き、
『さがっていい』
その一言で部下を追い払う。青年将校は『失礼します!』とひときわ大きな声でファーブルの耳をつんざき、早々に走り去った。その足音が聞こえなくなったのを確認してからアレッキノが口を開く。
『……元帥。話はいったん中断しよう。お互いに急用が出来てしまったようだ。やってしまった事と起こってしまった事はもうどうしようもない。次に会うときはこれからの方針を話し合うこととしよう』
意外に明晰な声だった。どうやら今の報告で、居眠りをしていたアレッキノの守護天使が目を覚ましたらしい。彼は元来、逆境に強い政治家だった。これまで何度も崖っぷちを歩いてきた結果、現在の地位にあるのだ。真に追いつめられたときこそ冷静沈着でいる必要を誰よりも知っているし、それができるからこそ得た首相の地位だった。
『うむ。犯人の処理はこちらに任せてもらおう。アレに関しても逐一連絡を入れる』
『こうなったら一蓮托生と言ったところかね? 期待していよう』
失笑とも苦笑ともつかない声を残して、アレッキノが部屋を出て行く。その気配を察したファーブルは、忌々しげに舌打ちした。
「ああもう! 今日も『アレ』が何なのか聞き損ねたっ! っていうかあいつら何なのよいい年した男が二人してアレとかコレとか微妙な代名詞なんか使って密談して! なんか卑猥だっていうのよエロ親父どもっ!」
ダン、とダクトの内側に両手を叩き付ける。寒いわけでもないのに震えが止まらない両腕をダクトに押しつけながら、ファーブルは深く深く息を吐く。まるで体内で荒れ狂う感情を吐き出すかのように。
「……あー落ち着け、落ち着けあたし。やめよう、怒っても良いことなんてなんもないって。そんなことはわかってるんだから。とりあえず今回は諦めて次に期待しよう。そうしよう」
自分に言い聞かせるように口早に呟く。最後に大きく、ぶるり、と身震いすると震えは収まった。ふぅ、と息をつく。
「……ま、とりあえずいくつかの確証と手がかりを掴んだわ。やっぱりヴァイツェンの奴ら……特にバトライザーの奴、なんか企んでるわね。龍日の貴族を誘拐してるみたいだし。『アレ』さえ完成すればO.B.Kなんて目じゃない、なんて言ってた。誘拐した貴族となんか関係あるのかしら? っていうか尋常じゃないわよね。安保条約結んでる国の貴族さらってくるなんて。普通ありえない。……でも、ってことは……『アレ』ってそれほどのことをする価値があるってことよね?」
考えていることを口に出して整理していくのは彼女の悪癖だ。諜報員としては欠陥だが、彼女の能力はそれを補ってあまりある。ぶつぶつと呟きながらメモを取り出し、要点を記入していく。
「パンゲルニアをモノともしない『アレ』。誘拐された龍日の貴族。謎のテロリスト集団……」
そこまで言葉にしてみて、不意に気付く。いや、気付いたと言うよりそれは直感に近い。カーネルの波動を受けられない土地でも彼の役に立てるよう、エージェントとして研ぎ澄まされたファーブルの勘が、警報を打ち鳴らしたのだ。
「……何かが動き始めている……? 歴史に残りそうな何かが……?」
自分の手で書いた文字列を眺めていると、漠然とした不安が胸中に生まれる。
──だけど、おかしい。輪廻歴史の文献にはそんなこと一言もなかった。カーネルも言っていた。この世界は同じ事を何度も繰り返しているって。だから輪廻歴史にないことなんて起こるはずがない。全ては大昔に決まっていて、何もかもが予定通りにいく。あたしたちは滅びない。だから不安になることなんてない。ないはずだ。
「ないはず、なのに……なんだろ、この感じ……」
右拳を胸の真ん中に押し当てる。鉛の固まりが胸骨の隙間にこびり付いたようだった。
ファーブルはしばらく凝然とメモを見つめていたが、やおら、
『もう少しだぞ、セシル。もう少しでお前の仇がとれるんだ。待っていろよ、お前のいる場所に大勢の敵を送ってやる。せいぜい楽しんで戦えよ……』
聞き覚えのない声が耳に入り込んできて、ファーブルは不意に我へ返った。誰の声だろうと思った時には、答えが脳裏に浮かんでいた。
「……バトライザー元帥?」
現在、部屋にいるのは彼だけのはずだ。よく聞いてみると、声のトーンと口調が先程と変わっているだけで、声の波長はバトライザーのそれだった。
『しばらくしたら俺も行くからな。そしたら二人でまた可笑しくやろうじゃねえか……』
その声音は、普段の彼のものではなかった。先程まで彼を取り巻いていた冷徹さや鋭利さが、跡形もなく消え失せていた。明敏犀利の傭兵元帥が今、すでに他界した戦友に向かって、少年のような言葉を紡いでいるのだ。
「…………」
イヤホンをはずした理由を聞かれても、ファーブルは『これ以上聞いてはいけないと思った』ではなく、『これ以上盗聴する価値がないと判断した』と答えただろう。
「……まったく。おっさんが気色悪い喋り方してんじゃないわよ、恥ずかしいわね……」
溜息まじりに吐き捨て、ファーブルは動き出した。その顔には何とも言い難い、複雑な表情がある。
「んじゃ、まずはさらってきたっていう龍日のお偉いさんの顔でも拝んでみよーかしらねー、っと」
小悪魔のように囁くと、一転してにやりと笑みを浮かべる。そして衣擦れの音すら立てずに排気ダクトの中を進み出す。並ではない速度だ。
諜報員にのんびりしている余裕など無いのだ。