《アンドロイドの産声》 4 完
彼女は闇の中にいた。
何もわからない。
自我の存在すらわからない闇の中に。
わからないということは、何も知らず、何も思い出せないということだ。
考えることすら出来ない。
そこに自我は存在しない。
何も思わず、何も考えず、ただひたすらそこに在る。
在ることさえ意識せずに。
時の流れも関係なく。
いつから、いつまでそうしていただろうか。
一瞬でも永遠でも彼女にとっては大した違いはなかった。
やがて、目の前に光が来た。
眩しい。それが初めて思ったことだった。
視覚が来る。
瞼を開けると様々な情報が一斉に回路を駆け抜けていく。
光の波長を一つ一つ、しかし瞬時に処理していくことで視覚に風景が形作られる。
明るい部屋だった。
狭いも広いもわからない。判断するための材料が見あたらない。彼女は初めて空間を認識したのだった。
人がいた。
一人、二人……六人。
視点が低いためか、胸から下しか見えなかった。
体に上手く力が入らず、ぎこちない動きで彼女は視線を上げた。
赤い髪の男性がこちらを見ていた。
「なぁおい、なんでオレなんだよ?」
「純殿にはまかせられまい。私と浮殿は女性が苦手だ。貴殿が一番の適任だ」
「細村のオッサンはよ?」
「彼はダメだ」
赤い髪の彼は、背後の金髪の人と何かしら話をしていた。
彼女にはその内容が理解できない。
呆然とその光景を見つめている。
すると、赤い髪の人はこちらに向き直って、近づいてきた。
「……よう」
彼はぶっきらぼうに片手を上げる。
彼女は理解できない。その声が何を意味するのか。その仕草が何を表すのか。
体が勝手に動き、彼女は硬い動きで小首をかしげた。そういった仕草をした、という意識はまるでなく。
彼女はじっと彼を見上げた。
しばらく見つめ合う。
不意に、彼が片手を伸ばして彼女の頭に乗せた。
撫でる。
「…………」
沈黙が続く。彼女は頭を撫でられるという行為に対して、どんな反応をして良いのかわからなかった。
憮然と、彼が言った。
「なぁテメ……お前」
そこで言葉を切る。彼女は無言のままその続きを待った。
彼は咳払いを一つ。
「お前、泣けよ」
意味がわからなかった。泣け、という言葉が理解できなかった。だから彼女は何もしなかった。
「もう泣いていいんだぜ」
その言葉はするりと、何の抵抗もなく彼女の心の深いところまで降りてきた。
訳がわからなかった。
だが、彼の言葉は彼女の心の琴線に触れた。
何故か、両の瞳から涙が出そうになった。
「──!」
彼女は、自分でもよくわからない理由で、それを我慢しようとした。
目が潤む。視界の彼が、滲む。
わからない。何故、涙が出てくるのか。何故、それを我慢してしまうのか。そもそも、涙とは一体何なのだろう。
動き出して間もない言語機能が、彼女の中で静かに責務を果たしていた。
我知らず唇を強く引き結んで涙を堪える彼女に、彼は頭を撫でながら重ねて言った。
「だから、泣いていいっつってんだろ。遠慮すんな」
やめて、と彼女は思った。
やめて、そんな事を言わないで、泣いてしまうから。
その思いは言葉にならなかった。全身の筋細胞と神経網の起動がまだ完全ではなかったのだ。それに、口を開けば涙がこぼれそうだった。
彼女はさらに唇に力を込め、眉根を寄せた。
体がふるふると震えていた。
彼はそんな彼女を見て、小さく息をついた。
「しょーがねぇなぁ……」
そう言って、彼は彼女を抱き寄せた。
彼女は、彼の胸の中に抱きしめられる。
頭と一緒に、背中までさすられた。
「ほら、こうすりゃ泣きやすいか?」
彼の言葉が、心の根幹を激しく揺らした。
発作が来た。
「あ……」
声が漏れた。
だけどダメだ。泣いちゃいけない。どうしてかはわからないけど、泣いてはいけない。彼女は自分に言い聞かせる。
だけど、頭を撫でてくれる手の温かさが。
背中をさすってくれる優しさが。
どうしようもないほど。
「あ……ああ……」
たまらない。
体の震えが大きくなる。自分でも押さえられない。
感情の高ぶりがどうにもならない。発作の波が、何度も何度も押し寄せる。
「あ……あ……ああ……」
それでも彼女は拳を固めて我慢した。もうほとんど泣いているようなものだったが、まだ涙はこぼしていない。だから自分は泣いていないのだ、と言い聞かせていた。
彼が言った。
「我慢すんな。お前は泣いていいんだ。許してやるから。誰も怒らねえから」
先程までの無愛想な声じゃなくて、とても優しい声だった。
耳から入ったその声は、すぐに彼女の芯に染みこんでいく。抵抗が出来ない。
息を呑む。
「……!」
もうダメだった。
限界を超えてしまった。
全身の震えが止まらない。心のざわめきが収まらない。
涙が、目尻からこぼれた。
「あ……!」
泣いてしまった。
そう思った瞬間、彼女の心の堤防は消滅した。
「あ──!」
止まらなかった。
感情は、加速度的に。
次の瞬間、彼女は大きな声を上げた。
遠慮も制御も何もなかった。
哀しみなのか、怒りなのか、感激なのか、それさえわからなかった。
ただただ巨大な感情の奔流が彼女を責め立てていた。
大きく口を開けて、涙をどんどん流して、声を張り上げて、彼女は泣いた。
赤子のように、火がついたように。
自ら彼にしがみつき、服を握りしめて、力の限り声をあげて泣いた。
彼女は生まれて初めて泣いたのだ。
頭を撫でられる度、背中をさすられる度、彼女の涙は目の奥から涸れることなく湧き出てきた。
「おー、よしよし」
彼が慣れない手つきで、彼女をあやす。
その優しさが嬉しかった。
抱きしめられていることが、とてつもない幸せだった。
自分でもよくわからない内に溜まっていたものを全て吐き出すように、彼女は泣き続けた。
大きな声で。
大きな声で。
自分が誰なのか、わからないまま。
彼女は今、産声を上げたのだから。
To Be Continued…?




