第一話 別れ話は、ベッドの後で。 2
「どう……して?」
喉の奥に絡んだ掠れた声を、何とか口から搾り出す。
「理由は、色々あるけど――」
と、若干言いよどんだ彼は、私に視線を向けることはなく、まだ充分長さのある煙草を、ギュッと灰皿に押し付ける。
まだ、吸えるのに。
存在意義を否定され、いとも簡単にグシャリと押しつぶされるその姿が、そこはかとなく、哀愁を誘う。
OL生活三年目。
恋も仕事も、全てが順調。
だったはずなのに。
確かに心の隅にあった『何かが足りない感』
そんな満たされない日常を打ち壊したのは、三年越しの彼の、そのひと言だった。
「お前さ、不感症じゃないの?」
――オマエサ、フカンショウジャナイノ?
ふかん?
ふかんしょーって、なんだっけ?
妙に緩慢な思考の中で、ノロノロとその言葉の意味を咀嚼する。
あれか。
もしかして、彼が言ってるのは、
エッチしてても何も感じないっていう、あの『不感症』のこと……?
私が?
不感症なの?
いきなり投げつけられた言葉があまりにショッキングすぎて、ただただ、ぽかんと口を開け、彼の横顔を見詰めるしかできない。
「なんだか、人形を抱いてるみたいで、虚しいっていうか……」
『お前は不感症で人形を抱いているみたいで虚しいから別れる』
彼の言い分を要約すると、そういうことらしい。
随分と、酷い言われようだ。
身体の繋がりは、確かに大切なことかも知れないけど、心の繋がりだって、大切だと思う。そこの部分は、いったい何処に行ったの?
この人にとって私は、『それだけ』の存在だったってこと?
こんなとき、三年付き合った彼女としては、どういう反応をすればいいんだろうか。
そんな酷いこと言わないでって、不感症なんかじゃないって、怒ればいい?
それとも、別れたくないって、捨てないでって、泣き崩れればいい?
そんなの、
どっちも、御免だ。
突然の別れ話をされた、驚き。
茫然自失を幾分通り過ぎた、今の私の心の成分を分析するなら、たぶん、一番多いのは、虚しさ。
そう、なんだか、虚しい。
空虚の、虚。
中身、どっかにすっ飛んじゃって、何も残ってませんって感じ。
好きだと思っていた、好かれていると思っていた相手から浴びせられた、思いも寄らない残酷な言葉。
これが、彼の都合で『好きな女が出来た』からとか、不本意ながら、『好きじゃなくなった』『嫌いになった』とか言うならまだ怒りようも悲しみようもある。
けど。
けどよ。
よりによって――
先刻の彼の言葉が脳内リプレイされて、更に虚しさに拍車がかかり。
「そう……」
私は、特大のため息とともに、やっとのことでそれだけの言葉を吐き出した。
こんな時、素直に泣ける女なら、可愛げもあるんだろうけど。
あいにく、私は、こういう時こそ、『絶対泣くものか』と思う意地っ張りな 性格で。
なす術もなく、ただ、ベッドの上で、枕に顔を埋めたまま、彼が、黙々と帰り支度をし終える気配を、背中越しに感じていた。
「じゃあ、今日のホテル代は俺が出すから」
淡々とした声音の彼の言葉に、
「いいよ。今日は、私の払う番だから」
と、更に可愛くないことを言い。
だって、『ホテル代もバカにならないから、交互に払おう』って、二人で決めたんだもの。
前回は彼で、今回は私。
だから、私が払うのが道理ってものよ。
頭の片隅で、『払ってもらっちゃいなよ。どうせ最後なんだから』などと、甘い囁きでそそのかすブラッックな自分をねじ伏せて、
「私が払うから」
低い声で、念を押す。
「……そうか、じゃあな」
そっけなさ過ぎて、笑っちゃう。
ため息まじりの、それが、私と彼が恋人どうしとして交わした、最後の言葉。 静かに離れていく、気配。
パタリと閉じる、無機質なドアの音。
残された、静寂。
これで、終わり。
ジ・エンド。
初めての恋人よ、
三年間の思い出よ、
さようなら、だ。
ああ。
なんだか、妙に、むかっ腹が立ってきた。
あまりに冷たすぎる、彼の態度に。
それよりももっと、なす術もなく彼を見送るしか出来ない自分の不甲斐なさに。
素直になれない、意固地さに。
どうせなら、修羅場の一つも演じてみるんだったかな。
そうすれば、少しは気がすんだ?
でも、どうあれ、この事実は変えられない。
「あーあ。振られちゃった」
わざと明るく上げた声が、一人ぼっちの部屋に物悲しく響く。
泣かないよ。
絶対、泣かない。
ここで泣いたら、本当に何か大切なものを失くす気がする。
しっかりしろ、市村菜々葉。
あんたはもう、短大出たての、二十歳の女の子じゃない。
OL生活三年の、立派な社会人。
大人の女でしょ?
唇をギュッと噛みしめ気合を入れて、気だるい身体を、彼の匂いが残るベッドから引き剥がす。
熱いシャワーを浴びて、キレイに洗い流そう。
彼の痕跡も、この身の内に潜む未練も、全部。
そう思ったのに――。
熱いシャワーを頭から浴びて、いくら力を込めて、体中をゴシゴシ擦ってみても、そうやすやすと、染み付いた想い出が消えてくれるわけもなく。
重い足取りで洗面所までトボトボとたどり着き、熱気で曇った鏡を覗けば、映っているのは、実に冴えない自分の姿だった。