第三話 声を上げて泣けばいい。 1
「信行……さん?」
私と、榊くん。
二人を観察するように交互に見比べ、眉をひそめている男性の名前を、私は震える声で呟いた。
戻ってきた……の?
なぜ?
驚きと戸惑いで混乱する私に、信行さんは、見覚えのあるコンビニの白いレジ袋を差し出した。
「あ……」
財布だ。
私が、財布を忘れていることに気付いて、届けに来てくれたのだ。
そう思い当たった。
その、残酷な優しさが、返って心の傷を深く抉った。
切り捨てるなら。
ううん。
切り捨てたなら、
中途半端な優しさほど、残酷なものはないのだから。
今は、会いたくなかった。
せめて、この心にぱっくりと開いた傷口が塞がるまで。
会いたくはなかったのに。
今にも血が噴き出しそうな、胸の痛みに堪えながら、私は、震える指先で、差し出されたレジ袋を、受け取った。
「あ、ありがと――」
「礼など、必要ない」
言いかけたお礼の言葉は、感情を廃した、冷たい声に遮られた。
それは、静かな怒り。
三年という月日の中でも、私が一度も見たことが無い静かで、激しい怒りの炎。
「まさか、二股を掛けられるような器用な女だとは、思わなかった」
グサリと、言葉という名の鋭い楔が、胸の奥深い場所を穿った。
確かに、榊くんは、『深夜のホテルにお迎えに来る男』。
その表層だけを見れば、彼の誤解も仕方ないのかもしれない。
でも、その理由を、考えてもみない。
頭から、決め付けている。
その事実が、哀しかった。
ジロリ、と、信行さんは、榊くんに、挑発的な鋭い視線を投げつけながら、更に毒を含んだ冷たい声音で、言葉を続ける。
「この女は、不感症だよ。まるで人形を抱いているみたいに、味気ない」
その毒気を、ものともせず。榊くんの表情は、平然としたまま動かない。
「そんなこと、とっくに知っているだろうけど」
口元に、薄い笑みすら浮かべて。
信行さんは、更に辛辣な言葉を吐いた。
「こいつを女にしたのは俺だから、なんとかしてやりたかったが、もうお手上げだ」
――この人は、誰?
こんな人、知らない。
私の、知っている奥田信行という男性は、こんな物言いで、他人を傷つけるような人じゃない。
寡黙だけど、優しい、人なのに。
こんな風にさせているのは、私なの?
胸の奥で、大きな感情の波が、唸り声を上げている。
今にも、理性という名の脆いタガを弾き飛ばして、噴出してしまいそうなその波を、私は、ぎゅっと唇を噛んで、押さえ込んだ。
そして、落ちる、暗い沈黙。
静かな、痛いほどのその沈黙を破ったのは、穏やかな榊君の声だった。