七日目 Seven days to say goodbye
彼女は、もう泣いていなかった。
駅前の時計台の下で、月島澪は僕を待っていた。
昨日までと同じように、約束の時間より少し早く来ていたのだと思う。
薄いベージュのコート。
風に揺れる髪。
小さなバッグ。
昨日、公園で泣いていた人と同じ人には見えなかった。
いや、同じ人だ。
泣き終えた人の顔をしていた。
僕が近づくと、彼女は静かに顔を上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつも通りの挨拶だった。
でも、その声には、昨日まであった迷いが少なかった。
何かを決めた人の声だった。
僕も、今日は何かを決めて来た。
鞄の中には、僕の記録ノートが入っている。
この一週間の記録。
彼女の日記を読んで書いたこと。
忘れるなと書かれた過去の僕の言葉。
彼女を好きになった自分の記録。
七日目の僕が、八日目の僕へ残そうとしていたもの。
そのすべてが、鞄の中で重く沈んでいた。
「行きましょうか」
澪が言った。
僕はうなずいた。
「はい」
駅前から海辺までは、昨日と同じ道を通った。
商店街を抜け、住宅街を抜ける。
道の端には、乾いた落ち葉が溜まっている。
秋の風が吹くたびに、それが小さく擦れ合った。
澪は、昨日より少しだけ前を歩いた。
僕が隣に並ぶと、彼女は速度を落とす。
けれど今日は、こちらを気にしすぎることはなかった。
海に近づくにつれて、空気の匂いが変わっていく。
潮の匂い。
少し冷たい風。
遠くで鳴る波の音。
昼前の海辺には、人の気配がほとんどなかった。
夏が終わったあとの海は、どこか取り残された場所のように見える。
海の家もない。
子どもの声もない。
砂浜には、風でついた細い模様だけが続いている。
空は薄く晴れていた。
青いけれど、夏の青ではない。
水で薄めたような、遠い色だった。
僕たちは、砂浜の手前にある遊歩道を歩いた。
波は静かだった。
寄せて、返す。
寄せて、返す。
同じ動きを繰り返しているように見えるのに、同じ波は一度も来ない。
澪が足を止めた。
「波って」
彼女は海を見ながら言った。
「戻ってくるように見えますよね」
僕は何も言わず、隣で海を見た。
「寄せて、返して。また寄せて」
彼女は少しだけ笑った。
「でも、戻ってきているわけじゃないんですよね。次に来る波は、さっきの波じゃない」
風が、彼女の髪を揺らした。
澪はそれを押さえなかった。
「同じ場所に来ているだけ。似た形をしているだけ。見ている方が、同じものが戻ってきたと思ってしまうだけ」
僕は彼女の横顔を見た。
彼女は、僕を見なかった。
「私は、ずっとそうしていたんだと思います」
「そうしていた?」
「あなたが戻ってきたと思いたかった」
波の音がした。
「あなたが私を忘れても、また同じ場所に来て、また同じように話して、また少しずつ近づいてくれたら、それは前のあなたが戻ってきたのと同じだと思いたかった」
澪は海を見つめたまま続けた。
「でも、違うんですよね」
僕は黙って聞いていた。
「毎回、あなたはちゃんと別のあなたでした。優しくて、少し不器用で、本の話になると急に言葉が増えて、私が笑うと安心した顔をする。そういうところは同じでした」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「でも、前の日々を持っていないあなたでした」
僕は何も言えなかった。
何を言っても、彼女の一年には届かない気がした。
澪は、砂浜へ降りた。
僕もその後を追った。
靴の下で、乾いた砂が小さく鳴る。
海辺には、誰もいなかった。
遠くに鳥が一羽、低く飛んでいるだけだった。
澪は波打ち際から少し離れたところで立ち止まった。
「ここです」
彼女は言った。
「ここで、初めて手を繋ぎました」
僕は、その場所を見た。
砂。
波。
風。
遠くの水平線。
何も思い出せない。
けれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「付き合う前でした」
澪は、ゆっくり話し始めた。
「三年前、あの公園で会ってから、何度か本屋やカフェで会うようになって。ここに来たのは、たしか五回目くらいでした」
五回目。
その言葉が、今の僕には遠かった。
「その日は、風が強くて。私の髪がずっと顔にかかっていたんです。あなたは、何度も何か言おうとして、やめていました」
「僕が?」
「はい」
澪は少しだけ笑った。
「すごくわかりやすかったです」
「何を言おうとしていたんですか」
「手を繋いでもいいですか、って」
僕は少し息を吐いた。
「言いそうですね」
「言いました」
澪は、海を見た。
「でも、その前に波が来て、私が少しよろけたんです。あなたは反射的に手を取ってくれました」
僕は、自分の右手を見た。
何も覚えていない手。
「そのあと、あなたは慌てて離そうとしました。でも、私が握ったままにしました」
澪は、自分の手を見下ろした。
「初めて手を繋いだのは、そういう感じでした」
風が吹いた。
僕はその話を、自分のもののようには聞けなかった。
でも、ただの他人の話としても聞けなかった。
何かが、胸の奥で静かに沈んでいく。
「キスをしたのも、ここでした」
澪の声は、さっきより小さくなった。
「その日の帰り際です」
彼女は少しだけ目を細めた。
「あなたは、また何か言いかけていました。私は、そのときにはもう、あなたが何を言おうとしているのかわかっていました」
「何を?」
「私を好きだと」
僕は息を止めた。
「でも、あなたはなかなか言えなくて」
「それは、たぶんそうですね」
「だから、私が言いました」
澪は振り返って、僕を見た。
「私も、あなたが好きですって」
その言葉を聞いた瞬間、波の音が遠くなった。
僕の中には、その記憶がない。
でも、彼女の声でその場面を聞くと、そこにいた自分の輪郭だけが、少しだけ見えた気がした。
澪は続けた。
「あなたは、びっくりして、それから笑いました。すごく安心した顔で」
彼女の目が少し濡れていた。
でも、まだ泣いていなかった。
「そのあと、キスをしました」
僕は彼女を見ていた。
「ここで」
「はい」
澪はうなずいた。
「ここで、あなたは私に愛を誓いました」
愛を誓った。
その言葉は、重かった。
恋人だった。
付き合っていた。
親しい関係だった。
そういう言葉より、ずっと重い。
「何て言ったんですか」
僕が聞くと、澪は少しだけ笑った。
「言いますか」
「聞きたいです」
「恥ずかしいですよ」
「僕が言ったことなら、僕が恥ずかしがるべきですね」
「そうですね」
澪は、海の方を向いた。
「あなたは言いました」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「忘れたいことがあったら、僕が一緒に覚えておく。忘れたくないことがあったら、僕が何度でも思い出させる。だから、これから先も一緒にいようって」
僕は、何も言えなかった。
何度でも思い出させる。
その言葉を言った僕が、彼女を何度も忘れた。
これほど残酷なことがあるのかと思った。
澪は静かに笑った。
「今思うと、ひどい約束ですね」
「澪さん」
「責めているんじゃないです」
彼女は首を横に振った。
「嬉しかったんです。本当に。あのときは、世界で一番嬉しい言葉だと思いました」
波が、静かに寄せてきて、すぐに引いていく。
「でも、事故のあと、その言葉だけがずっと残りました」
澪の声が震え始めた。
「あなたは覚えていない。私だけが覚えている。あなたが何度でも思い出させると言ったことを、私だけが思い出している」
僕は拳を握った。
「だから、もう」
澪はそこで言葉を止めた。
それ以上言わせてはいけないと思った。
僕は鞄を下ろした。
中から、自分の記録ノートを取り出す。
彼女の前で、それを両手に持った。
「僕も、話があります」
澪は、ノートを見た。
それが何か、すぐにわかったようだった。
「それは」
「僕の記録です」
僕は表紙に触れた。
「この一週間のことも、過去のことも、あなたの名前も、僕が何度もあなたを好きになっていたことも、全部書いてあります」
澪は何も言わなかった。
「昨日、あなたの日記を読んで、僕は決めました」
風が強くなる。
ノートの端が、ばらばらと鳴った。
「このままでは、僕はまたあなたを縛る」
「縛る?」
「はい」
僕はノートを見た。
「僕の記録には、あなたのことが書いてあります。あなたが何を言ったか。どこで泣いたか。何を好きだったか。僕がどこであなたを好きになったか。七日目の僕が、八日目の僕へ、忘れるなと書いた言葉も」
澪の表情が少し歪んだ。
「それがあれば、八日目の僕はまたあなたを探すかもしれない。あなたを知らないのに、記録だけを頼りに会いに行くかもしれない。そして、またあなたは僕に説明しなければならない」
「それは」
「あなたは断れない」
僕は言った。
「たぶん、断ろうとしても断れない。僕が困っていたら、あなたはまた手を伸ばしてしまう」
澪は黙っていた。
その沈黙が、答えだった。
「だから、断ち切るには、僕があなたを完全になかったことにするしかない」
澪の目が揺れた。
「そんなこと」
「できるわけがないと思っています」
僕は正直に言った。
「今の僕は、あなたのことをなかったことになんてできない。あなたの日記を読んだ。あなたの話を聞いた。昨日も今日も、僕はあなたのことばかり考えている」
声が震えた。
「でも、八日目の僕は違う」
澪の唇が、かすかに震えた。
「八日目の僕は、たぶんあなたを知らない。なら、その僕にあなたへたどり着く道を残してはいけない」
ここへ来る前に、僕はスマホの中も整理した。
連絡先。
通話履歴。
メッセージ。
予定表。
写真の中で、彼女につながるもの。
指が何度も止まった。
けれど、残せば道になると思った。
僕は鞄から、小さな金属の缶を取り出した。
携帯用の灰皿だった。
本当は、こんなことをする場所ではない。
だから、燃やすのは小さく切り取った紙だけにした。
風で飛ばないように、水も持ってきた。
僕はノートを開いた。
彼女の名前があるページ。
本屋。
公園。
カフェ。
美術館。
海沿い。
一緒に暮らした一週間。
七日目の叫び。
忘れるな。
忘れるな。
忘れるな。
僕は、そのページを一枚ずつ切り取った。
澪は、声を出さなかった。
ただ、泣きそうな顔で見ていた。
「生活の記録は残します」
僕は言った。
「病院のこと。薬のこと。久世先生のこと。自分の症状のこと。それは残さないといけない」
僕は彼女を見た。
「でも、あなたに関する記録は残さない」
「どうして」
澪の声が、小さく漏れた。
「どうして、そこまで」
「あなたを自由にするためです」
そう言った瞬間、澪の目から涙が落ちた。
初めてだった。
今日、彼女は泣かない顔で来た。
もう泣かないと決めて来たように見えた。
でも、その涙は静かに落ちた。
僕は切り取ったページを、金属の缶の中に入れた。
ライターの火をつける。
小さな火が、紙の端に移る。
最初はためらうように。
それから、ゆっくり広がっていく。
文字が黒く縮れていく。
月島澪。
その名前が、火の中で歪む。
忘れるな。
その文字が、灰になっていく。
澪は泣いていた。
声を殺さずに、でも大きく泣くこともできずに、ただ涙を落としていた。
「実は」
彼女が言った。
「今回が、最後の希望だったんです」
僕は火から目を離さなかった。
「最後の希望?」
「はい」
澪は涙を拭わなかった。
「病院の売店で会った日から、七日だけ。もう一度だけ、あなたと初めましてをしてみようと思いました」
その声は震えていた。
「これで最後にするつもりでした。最後の恋にしようって、決めていました」
最後の恋。
その言葉に、胸の奥が締めつけられる。
「あなたが思い出さなくても、いいと思っていたんです」
澪は続けた。
「私のことを知らないあなたと、もう一度だけ恋をして、それで終わりにしようと思っていました」
僕は何も言えなかった。
「でも」
澪は燃えていく紙を見ていた。
「あなたは、終わらせに来た」
紙はほとんど灰になっていた。
僕は、用意していた水を少しだけ垂らした。
火が消える。
灰が、黒く沈む。
海風が吹いた。
けれど、灰は缶の中で濡れていたので、飛ばなかった。
僕は、缶の蓋を閉じた。
それで終わった。
少なくとも、八日目の僕が彼女へたどり着くための記録は、ここで終わった。
澪は涙で濡れた顔のまま、僕を見ていた。
「相沢さん」
「はい」
「最後に、お願いしてもいいですか」
「何ですか」
彼女は少しだけ笑った。
泣きながら、笑った。
「今日は、月島さんじゃなくて、澪って呼んでください」
僕は息を止めた。
その名前を呼ぶことが、どれだけ彼女にとって重いのか。
どれだけ残酷なのか。
どれだけ救いなのか。
僕には、まだ全部はわからない。
でも、断れなかった。
「澪」
彼女は目を閉じた。
その一言だけで、また涙が落ちた。
「はい」
波が寄せた。
僕たちの足元の少し手前で、白く崩れて消える。
「僕は」
言葉が詰まった。
「今の僕は、君を好きです」
澪は目を開けた。
「覚えていられないかもしれない。いや、きっと覚えていられない。でも、今の僕は、君を好きになった」
澪は何も言わない。
「たぶん、過去の僕もそうだった。何度も、何度も」
僕は笑おうとして、失敗した。
「だからこそ、終わらせます」
澪は泣きながら、うなずいた。
「はい」
僕は、一歩近づいた。
彼女も逃げなかった。
「最後に」
僕は言った。
「キスしてもいいですか」
澪は、小さく息を吸った。
それから、少しだけ笑った。
「初めて聞かれました」
「そうなんですか」
「前は、聞く前に顔に出ていました」
「それは、恥ずかしいですね」
「はい」
彼女は泣きながら、笑った。
「でも、そういうところも好きでした」
僕はもう一歩近づいた。
彼女の頬に、涙の跡があった。
僕はそれに触れなかった。
拭う資格があるのか、わからなかったからだ。
ただ、彼女の前に立った。
秋の海辺には、人の気配がなかった。
波の音だけがある。
風の音だけがある。
遠くの空には、薄い雲が流れている。
ここで、過去の僕は彼女に愛を誓った。
ここで、初めて手を繋いだ。
ここで、初めてキスをした。
ここで、何度でも思い出させると約束した。
その全部を、僕は覚えていない。
僕は、”初めて”彼女とキスをした。
彼女は目を閉じていた。
ほんの短い時間だった。
触れて、離れる。
それだけのことなのに、胸の奥が痛むほど静かだった。
唇が離れたあと、澪はしばらく目を開けなかった。
そして、ゆっくり目を開けた。
涙はまだ残っていた。
でも、表情は少しだけ穏やかだった。
「ありがとう」
彼女は言った。
「さようなら」
その言葉は、波の音に消えなかった。
はっきり、僕の中に残った。
「さようなら」
僕も言った。
澪は一度だけうなずいた。
それから、僕に背を向けた。
歩き出す。
砂浜に、彼女の足跡が残る。
波はそこまで届かない。
彼女は振り返らなかった。
僕も、呼び止めなかった。
呼び止めたら、全部が戻ってしまう気がした。
彼女は遊歩道へ上がり、ゆっくり歩いていった。
薄いベージュのコートが、風に揺れる。
その背中が小さくなっていく。
やがて、見えなくなった。
僕はひとり、海辺に残った。
金属の缶を手に持っている。
中には、濡れた灰がある。
僕の記録だったもの。
彼女へたどり着く道だったもの。
彼女を縛っていたもの。
空は少しずつ夕方の色に変わっていく。
秋の海は、静かだった。
波は寄せて、返す。
同じように見えて、同じ波は二度と来ない。
僕はその場に立ったまま、しばらく海を見ていた。
七日間かけて、僕は彼女に出会った。
七日間かけて、彼女を好きになった。
七日間かけて、彼女を忘れる準備をした。
そして七日目に、僕は彼女を自由にすることを選んだ。
明日の僕は、彼女を知らないかもしれない。
月島澪という名前も。
病院の売店も。
公園のブランコも。
美術館の宗教画も。
海沿いの遊歩道も。
この海辺で交わした、最初で最後のキスも。
何もかも、消えてしまうかもしれない。
それでも。
今日の僕は、彼女の涙を覚えている。
彼女の「ありがとう」を覚えている。
彼女の「さようなら」を覚えている。
だから、今だけは思う。
忘れることが、罪になるのではない。
忘れると知っていて、なお相手を縛ることが罪なのだ。
僕は缶を鞄にしまった。
帰ったら、久世先生に渡そうと思った。
あるいは、自分で処分してもいい。
どちらでもよかった。
もう、そこに彼女へ向かう道は残っていない。
風が吹いた。
海が暗くなっていく。
彼女との最後の七日目が、終わろうとしていた。
僕は、もう一度だけ海を見た。
そして、ゆっくりと歩き出した。




