第5話 勝ち組って、静かなんですよ
これが最終話になります。この回は主役様は登場しません。物語的には脇役の姫、しかし現在的価値観では勝ち組の姫様に登場してもらいました。
都の空気は、はっきりと変わっていた。
表向きは、何も起きていない。女房たちはいつも通りに行き交い、姫たちはいつも通りの顔で日々を過ごしている。だが、噂だけが、異様な速さで巡っていた。
「明石の君のところへ行った女は、戻ってこないらしい」
「紫の上様まで、ああなったという話よ」
六条御息所の名は、もう滅多に口にされない。紫の上の話題も、どこか腫れ物を扱うような調子に変わった。代わりに、囁かれる。
――近寄らない方がいい。
――関わったら、何かを失う。
葵上は、女房に向かって静かに告げた。
「用事がない限り、明石の話は持ってこないで」
その声音には、警戒があった。恐れというよりも、「関わらない判断」を下した者の冷静さだ。
玉鬘は、噂話を聞いても、笑って受け流す。
「へえ……そうなのね」
だが、決して近づこうとはしない。彼女はもう、消耗する場に自分を置かない術を覚えている。
女三宮は、はっきりと言った。
「……怖いわ」
理由は説明しない。説明できないからだ。
恋で争う世界の中で、恋を軸にしていない女が、二人も脱落させた。それは、理解の範囲を超えている。主役級の姫たちは、静かに距離を取った。
直接会わない。
文も送らない。
噂話だけで、十分だと判断した。
表情は穏やかだ。
だが内側は、明らかに擦り切れている。
感情を賭け、誇りを賭け、
それでも何も得られなかった疲労が、残っている。
一方で。
明石の君の邸は、静かだった。
誰も近づかない。
誰も挑まない。
それは勝利の喧騒ではない。
――近づきたくない存在になっただけだ。
都は、そう理解していた。
そして、それで十分だった。
明石の邸は、今日も静かだった。
朝は子の様子を見て、乳母の報告を聞く。昼には邸の帳簿に目を通し、足りないものだけを補わせる。後援者とは、必要以上に近づかず、離れすぎない距離を保つ。
それだけだ。
感情を揺らす出来事は、特にない。無理に喜ばず、無理に怒らず、悲しみに浸る理由もない。恋の噂も、都の動きも、必要な分だけ拾えば足りる。それ以上は、生活の邪魔になる。
私は内心で、淡々と整理していた。
――勝ち組って、忙しくない。
――むしろ、やることが単純。
守るものを守り、
減らすべき負荷を減らし、
余計な感情を抱え込まない。
派手な出来事は起きない。
だが、何も崩れない。
それが、勝者の日常だった。
昼下がり、明石の邸に珍しい来客があった。
最初に現れたのは、花散里だった。
「久しぶりね」
声が明るい。歩き方も軽い。都の噂話に疲れた様子はあるが、それを表に出さない強さがある。花散里は、昔からそういう姫だった。
主役にはならない。
けれど、空気を悪くしない。
そして何より、生活が安定している。
その後ろに、少し控えめに立っていたのが、末摘花だ。
――あ。
私は、内心で小さく声を漏らした。近くで見る末摘花は、思っていたよりずっと整っている。確かに平安的な基準では、派手さがない。だが、輪郭はすっきりしていて、目元も澄んでいる。
現代の感覚なら、十分に美人だ。
花散里も同じだった。
平安的な「美女」ではない。
だが、清潔感があり、表情が柔らかい。何より、無理をしていない顔をしている。
――ああ、なるほど。
評価基準が違うだけか。
私は、少しだけ皮肉を込めて言った。
「珍しい組み合わせね。都は、怖くなかった?」
花散里は、あっさり笑った。
「ええ、少しは。でもね」
肩をすくめる。
「近寄らない方がいい、って言われる人ほど、実際に会うと話が早かったりするでしょう?」
末摘花も、小さく頷く。
「噂だけで決めるのは、損だと思いまして」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
――やっぱり。
この二人は、分かっている。
恋に全振りしない。
感情を武器にしない。
だからこそ、生き残っている。
本音では、歓迎だった。
「どうぞ。せっかく明石まで来たのだもの」
花散里は楽しそうに目を輝かせ、末摘花は少し緊張しながらも、確かに安堵した表情を見せた。
主役様ではない。
だが、勝ち組だ。
私は、確信した。
――勝ち組姫は、ちゃんと見抜いている。
派手な戦場ではなく、
静かな場所に価値があることを。
三人で座ると、場の空気が驚くほど軽くなった。
花散里は、話がうまい。話題を振るのも、拾うのも自然で、無理に盛り上げようとしない。誰かが黙れば、黙ったままでいいと分かっている。
「都はね、最近ちょっと疲れるの」
笑いながら言う。
「みんな、恋の話になると、どうしてあんなに力が入るのかしら」
末摘花は、少し困ったように頷いた。
「……力を入れないと、置いていかれる気がして」
その言葉には、正直さがあった。話しているうちに、末摘花の貧乏癖は、どうしても顔を出す。茶器の置き方、菓子の取り方、布の扱い方――すべてが慎重すぎる。私はそれを見て、ためらいもなく言った。
「それ、持っていっていいわよ」
末摘花が目を丸くする。
「え?」
「使わないものが、溜まってるだけだから」
実際、源氏からだいぶせしめている。生活に必要な分は、とっくに超えていた。末摘花は何度も礼を言い、花散里は笑った。
「相変わらずね。余裕がある人の振る舞いだわ」
その流れで、和歌遊びになった。
「今日はね、あまり気張らない感じがいいんじゃない?」
花散里がそう言って、まず詠む。
風吹けば
花の行方も
定めなく
咲くも散るも
心のままに
――風吹けば、花の行方は定まらない。
咲くのも、散るのも、無理に逆らわず、心のままに任せればいい。
恋も立場も、執着しすぎない。流れに身を置きつつ、自分を擦り減らさない花散里らしい歌だった。
次に、末摘花が少し緊張しながら詠む。
思ふこと
言葉にせねば
消えぬやと
ただ書きつけて
夜を過ごしぬ
――心に浮かんだことは、言葉にしなければ消えてしまうのではないか。
そう思って、ただ書きつけながら、夜を過ごしてしまった。
――正直、拙い。
調べは崩れている。言葉も整理されていない。だが、迷いと不安だけは、はっきりと伝わってくる。末摘花は、少し顔を赤らめた。
私は、笑って首を振る。
「まあ、お気持ち表明なんて、適当でいいのよ」
末摘花が不安そうにこちらを見る。
「でもね」
私は続けた。
「形式だけは、ちゃんと覚えておけばいいんじゃない?」
否定もしない。持ち上げもしない。末摘花は、ほっと息をついた。
最後に、私が詠む。
うつろへば
うつろふままに
任せおき
残るものだけ
手元にぞ置く
――物事が移ろうなら、移ろうままに任せればいい。
すべてを引き留めようとせず、最後に残るものだけを手元に置く。
感情を否定しているわけではない。ただ、取捨選択しているだけだ。花散里が、素直に言った。
「……上手いわね」
末摘花も、深く頷く。
私は、その様子を見ながら、内心で静かに確信していた。
――ああ、この人たちも“生き残る側”だ。
恋に全振りしない。
感情を武器にしない。
だからこそ、ここまで残っている。
それが御法度だということは、三人とも分かっていた。
だからこそ、誰も声高には言わない。ただ、自然な流れで、盃が置かれただけだった。
「……少しだけ、ね」
花散里がそう言って、笑う。
少し、では済まなかった。
酒が進むにつれて、空気はさらに緩んでいく。都では言えない愚痴も、皮肉も、ここでは笑い話になった。
「本当にね、あの方たち」
花散里は、いつの間にか目を潤ませている。
「どうして、あんなに必死になるのかしら……」
泣き上戸らしい。涙を拭いながらも、声は明るい。
一方、末摘花は、完全に笑い上戸だった。
「ええ、ええ! もう、全部おかしくて!」
些細な話にも声を上げて笑う。普段の控えめな姿からは想像できないほど、よく笑う。
――こんな顔、都では見られない。
私は、それを眺めながら、素直に楽しいと思っていた。
気を張らなくていい。
勝ち負けを気にしなくていい。
だから、言葉が自然に出た。
「ね」
二人がこちらを見る。
「恋で勝とうとするから、みんな不幸になるんですよ」
一瞬、静かになる。
私は続けた。
「私は、生き残る方を選んだだけです」
花散里が、ふっと笑った。
「……それ、すごく分かるわ」
末摘花も、何度も頷く。
「ええ。生き残っている方が、いいです」
三人で笑った。
大声ではない。
だが、心からだった。
やがて、花散里がうとうとし始め、末摘花は畳にころりと転がる。
私も、瞼が重くなる。
酒のせいか、安心したせいか。
意識が、ゆっくりと溶けていった。
これでいい。
****
ふっと、意識が途切れた。
酒のせいか、笑い疲れたせいか、それとも――理由を考える前に、温もりが戻ってくる。
炬燵だった。
重たい布団。足元の熱。
聞き慣れたテレビの音。
私は、実家の居間で目を開けていた。
「……あ、起きた?」
母の声がする。
みかんの皮を剥く音が、すぐ近くで鳴った。
「昼間から寝て。ほんま、相変わらずやね」
私は、少しだけぼんやりしたまま、天井を見上げる。
夢だったのだと、分かっている。源氏物語の世界も、姫たちも、酒宴も。
でも――。
不思議と、後悔はなかった。むしろ、楽しかった、という感覚だけが、静かに残っている。
母が、ふと思い出したように言った。
「あんた、結局どうするの?」
私は、炬燵の中で足を組み直し、少し考えてから答えた。
「まあ」
一拍置く。
「感情論だけで決めるのは、非効率かなって思ってる」
母は、呆れたようにため息をついた。
「ほんま、変わらへんわね」
「うん」
私は小さく笑った。
価値観は、変わらない。
これからも、多分。
でも――。
どこかで、肯定された気がしていた。
生き残る、という選び方を。
私は、もう一度炬燵に潜り込む。
勝ち組は、静かだ。
夢の中でも、現実でも。
正月の実家暮らしで積もりに積もった毒を少しだけ吐き出す形で、源氏物語風ギャグ短編を書いてみましたが、楽しんでいただけたでしょうか?あくまでも源氏物語とは別物語。しかしあの時代に、現在の価値観を持った独身女性が入り込んだら…の形で書いてみました。第一話で書きましたように、私の一番好きな姫は花散里。ですから時間がある時に、今度は花散里を主役に置いて、また源氏物語風の物語を書いてみたいと考えています。
感想書いてもらえると嬉しいです。




