第4話 で、老後どうするつもりなんですか?
やっぱり源氏物語風のギャグ小説を書くならば、この人が居ないと始まりません。満を持して本物の主役様を登場させました。
都の噂は、もう止まらなかった。
六条御息所は距離を取り、紫の上は以前ほど感情を見せなくなった。女房たちの間では、原因も責任も整理されないまま、「明石の君」という名前だけが独り歩きしている。
――あの姫は危険だ。
――近づいた女が、皆おかしくなる。
そんな言葉が、半ば冗談のように、半ば本気で囁かれていた。さすがに、光源氏も無視できなくなる。
これ以上放置すれば、世の聞こえが悪い。
自分の面目にも、差し障りが出る。
源氏は、明石へ向かうことを決めた。
自ら出向く。
言葉を尽くす。
穏やかに、情をもって解決する。
――そうすれば、収まるはずだ。
少し、焦っていた。
一方で。
私は、その知らせを聞いた瞬間、内心で小さく拳を握った。
来る。
しかも、向こうから。
交渉のチャンスだった。
源氏の君が、わざわざ明石まで足を運ぶ。その事実だけで、もう状況は動いている。都での評判が、彼をここまで追い込んだということだ。私は女房に向かって、いつも通りの顔で指示を出す。
「いつも通りでいいわ」
声は落ち着いている。
だが、内心は違う。
――機嫌を取りに来るつもりなんだろうな。
――残念だけど、それ、誤解です。
源氏は「解決しに来た」つもりだろう。
けれど、こちらとしては「交渉が始まる」だけだ。
感情の話ではない。
今後の話だ。
私は知っている。この人が、どれほど情に厚く、どれほど言葉が巧みで、そして――未来の話を、ほとんどしない男だということを。
ほどなくして、来訪の知らせが届く。
私は、静かに息を整えた。
さて。
都を震えさせた噂の続きは、
ここからが本番だ。
再会は、穏やかだった。
久しぶりに見る光源氏は、相変わらず非の打ち所がない。立ち居振る舞い、声の調子、目線の配り方――どれも計算され尽くしていて、それでいて自然だ。
「久しいな」
柔らかく、親しみを込めた声。
「こちらは、変わりなく過ごしておられたか」
気遣い。
労わり。
相手を包み込むような距離感。
これが、都で“理想の男”と呼ばれる理由だ。私は、丁寧に頭を下げる。
「お心遣い、痛み入ります」
にこやかに。
礼儀正しく。
感情は一切乗せない。
源氏は、それをどう受け取ったのか。
――やはり、少し拗ねていたのだろう。
――見捨てられたと思い込んで、八つ当たりしたのだ。
そんな納得が、彼の中で勝手に成立しているのが、手に取るように分かった。
源氏は、さらに距離を詰める。
「そなたのことは、いつも気に掛けていた」
「大切に思っている」
その言葉に、嘘はない。
少なくとも、彼の中では。
――だから、少し優しくすれば、機嫌も直る。
――そうすれば、すべて元通りだ。
そんな考えが、隠しきれずに滲んでいる。私は、静かに頷くだけだった。
「ありがたく存じます」
それ以上でも、それ以下でもない。
内心では、別のことを考えていた。
――この人、相変わらず“今”しか話してないな。
愛している。
大切にしている。
気に掛けている。
全部、現在形だ。
十年後の話は出てこない。
二十年後の話もない。
老いた時の話も、当然ない。
情に訴えるのは上手い。
だが、それは感情の天才というだけだ。
将来設計は、相変わらず空白のまま。私は、その事実を確認しながら、穏やかな表情を崩さなかった。
源氏は「解決しに来た」と思っている。
私は「交渉が始まった」と思っている。
この認識のズレに、彼はまだ気づいていない。
――さて。
どこから、話を始めようか。
しばらくの沈黙のあと、源氏が口を開いた。
「言葉にするのは、野暮かもしれぬが……」
そう前置きしてから、彼は和歌を差し出す。感情を、最も得意な形に変換する。
忘れじと
思ふ心は
今もなほ
変はらぬ色に
宿りけるかな
――忘れない。
――今も変わらぬ想い。
――大切にしている。
源氏らしい歌だった。技巧も調べも整っている。情があり、聞く者の胸に自然と落ちる。
私は、一瞬だけ考える。返すべきは、同じ土俵だ。
技術で劣れば、「分かっていない」と切り捨てられる。
情に寄せすぎれば、誤解を強める。
だから、私はこう詠んだ。
移ろひて
色こそ変はれ
花とても
咲く時あれば
散る時もあり
――花は咲く。
――だが、必ず散る。
――それは、否定ではない。
源氏は、歌を聞いて、ほっとしたように息を吐いた。
――分かってもらえた。
そう受け取ったのが、表情からはっきりと分かる。
変わらぬ心。
移ろう時。
それでも想いは続く。
彼の中で、都合よく意味が補完されていく。
一方で、私の内心は静かだった。
――やっぱり。
この人は、時間の話をしていない。
「散る」ことは詠んだ。
「変わる」ことにも触れた。
けれど、その先がない。
散った後、どうするのか。
変わった後、何が残るのか。
十年後の話がない。
二十年後の話もない。
今の感情を、美しく言語化しているだけだ。和歌という形式は、感情を包むには最適だ。だが、未来設計を語るには、あまりにも短い。
源氏は満足そうに頷いた。
「そなたは、よく分かっておる」
私は、にこやかに視線を伏せた。
否定はしない。
訂正もしない。
――認知バイアスって、便利だな。
そう思いながら、私は確信していた。
この人は、
未来の話を一度もしていない。
感情と言葉では、埋まらない溝が、
今、はっきりと見えた。
源氏は、満足そうだった。和歌のやり取りが、彼の中できれいに収まったのだろう。感情は通じ合い、誤解は解け、あとは時間の問題――そんな顔をしている。
だからこそ。
私は、あえて穏やかな声で切り出した。
「先ほどのお言葉ですが」
源氏が、こちらを見る。
「それ、今のお話ですよね?」
一瞬だけ、空気が止まった。
責める口調ではない。
問い詰めてもいない。
ただ、確認しただけだ。
「……今、とは?」
源氏はそう返すが、もう少し慎重になっている。私は、微笑みを崩さず、続けた。
「十年後、二十年後のご予定は、どのようにお考えでしょうか」
源氏の視線が、わずかに揺れる。
予想外だったのだろう。
情のやり取りの延長で、こういう話が出てくるとは、思っていなかった。
私は、さらに一段、詰める。
「私、年を取りますけれど」
言い切りだった。
感情は乗せない。
現象として述べただけだ。
人は老いる。
それだけの話だ。
源氏は、すぐに答えられなかった。
怒らない。
声を荒げない。
だが、言葉が出てこない。
その沈黙が、すべてだった。
愛している。
大切に思っている。
変わらぬ心だと信じている。
それらは、すべて「今」の話だ。
老いた後の話がない。
役割が変わった後の話もない。
感情が薄れた場合の想定もない。
源氏は、初めて気づいた。
問われているのは、愛ではない。
責任だ。
未来に対して、何を用意しているのか。何を保証できるのか。
源氏は、視線を逸らした。ほんの一瞬だが、それで十分だった。私は、その様子を静かに見届ける。
――ここからだな。
戦いは、今、始まった。
源氏は、沈黙のあと、ゆっくりと息を整えた。
「……そこまで、先のことを考えねばならぬものか」
声音は柔らかい。問い返しではあるが、反発ではない。
「人の心は、移ろうものだ」
自分に言い聞かせるように、続ける。
「だからこそ、今を大切にする」
情の男として、正しい答えだった。
未来を確定させるよりも、今の想いを誠実に扱う。
源氏がこれまで、幾度となく切り抜けてきた論法だ。
私は、否定しなかった。
ただ、少しだけ首を傾げる。
「ええ。今を大切にすること自体は、とても大事だと思います」
いったん、受ける。
そして、切り返す。
「ただ……人は、老います」
源氏が、こちらを見る。
「美も、立場も、同じ形では続きません」
声は穏やかだ。だが、言葉は逃げ場を残さない。
「だからこそ、考えるのは“今の気持ち”ではなく」
私は、指を折るように、淡々と続けた。
「生活はどうなるのか」
「住まいは、どこにあるのか」
「後ろ盾は、誰なのか」
源氏は、すぐに答えられなかった。
反論の言葉はある。
だが、それはどれも情に寄ったものになる。
「……そなたは、ずいぶん現実を見る」
源氏は苦笑した。
負けを認めたわけではない。
だが、押されていることは、はっきりと分かっている。
私は、静かに頷く。
「現実は、逃げませんから」
それだけ言った。
源氏は、しばらく黙り込んだ。
この女は、感情で動かない。
言葉で丸め込めない。
しかも、話の筋が通っている。
――軽く扱えない。
それが、はっきりとした実感だった。
下手に放せば、都が揺れる。
適当に扱えば、評判に傷がつく。
そして何より。
この女は、先を見ている。
源氏は、視線を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……そなたは、聡い」
初めて、評価の言葉が落ちる。情ではなく、理で。源氏は、この場で結論を出した。
――この姫は、大事にせざるを得ない。
それは敗北ではない。
だが、主導権が移ったことは、否定しようがなかった。
私は、その様子を見て、内心で静かに頷いた。
――さて。
ここからは、条件の話だ。
話は、表向きには円満に終わった。源氏は、これ以上言葉を重ねなかった。代わりに、態度で示すことを選ぶ。明石の君への扱いは、明らかに変わった。贈り物の質が上がり、訪れの間隔が縮まり、何より――後ろ盾がはっきりとした。
これは情ではない。
判断だ。
源氏は、この姫を軽く扱ってはいけないと理解した。そして、それを正しく置ける自分を、少し誇らしくも思っている。
都の反応は、早かった。
「源氏が折れたらしい」
「明石の君は、やはり格が違う」
とりわけ、高位貴族の男たちの評価が高い。
「話が通じる」
「先を見ている」
「置いておけば、厄介にならない」
政治を知る者ほど、この価値が分かる。
一方で。
姫たちは、ざわついた。
愛を語らない。
情に縋らない。
それなのに、源氏が重く扱う。
――理解できない。
――だから、怖い。
自分たちの価値観では測れない存在が、都の中心に据えられた。その事実が、じわじわと恐怖になる。私は、その様子を遠くから聞きながら、内心で淡々と整理していた。
――あ、増えた。
――もともと、全部手に入る予定だったけど。
――今回は、ボーナス付きか。
感情は動かない。
勝確は、最初から変わらない。
ただ、少しだけ得をした。
それだけの話だ。
源氏は、最後に穏やかな視線を向けてきた。
評価だ。
恋ではない。
私は、にこやかに礼を返す。
そして、心の中で一つだけ、確認する。
――この人、未来の話を一度もしてなかったな。
その事実を、忘れないために。次の場所へ行く準備をしながら、私は静かに息を整えた。ここでの役目は、終わりだ。
流石は主役様、これまでの姫とはやはり格が違います。今回の和歌は正直かなり悩みました。特に明石の君の和歌は、物語的に認知バイアスの力を借りて主役様に誤解させなければならないため、二つの意味を持たせる言葉のチョイス…結構大変です。ただ…現代女性が憑依したら、こんな感じになるのではないでしょうかね。
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