第3話 恋愛に全振りすると、リスク分散できませんよ?
第三話になります。今回の主役様は、紫の上。やはりこの人が出てこないとダメでしょう…な感じで登場です。
次は、誰にしようか。
明石の邸で朝の支度をしながら、私はそんなことを考えていた。都では相変わらず噂が忙しい。六条御息所が距離を取っただの、明石の君は恐ろしいだの。好き勝手に言っているが、だいたい想定の範囲内だ。
さて、と。次に観測する対象は、もう決まっていた。
紫の上。
誰の目にも正妻。源氏の君の正統な伴侶。教養も容姿も申し分なく、都では「理想の妻」として扱われている存在だ。表向きの理由は、いつも通りでいい。
年始の挨拶。
女同士の無難な交流。
格式を守った、穏やかな訪問。
建前としては、完璧だ。
もっとも、内心はまったく別だった。
――正妻ポジションって、一見安定してそうで、一番リスク集中してる席なんだよね。
肩書きに全振り。恋愛に全振り。選ばれた、という物語に全振り。バックアップゼロ。分散ゼロ。冗長性なし。現代なら、まず勧めない構成だ。
源氏の君がいなくなったら?
気持ちが冷めたら?
別の女に目が向いたら?
その時、何が残るのか。
私は、衣の襟を整えながら、口元を緩めた。正直なところ、少し楽しみでもあった。
――正妻様、どこまで肩書きに依存してるんだろ。
――ちょっと煽ったら、どんな反応するんだろ。
性格が悪い自覚はある。だが、観測としては正当だ。安定していると言われる席ほど、実は脆い。その確認をするだけだ。私は静かに息を吐いた。
今回のテーマは、分かりやすい。
肩書き=安定、という幻想。
それが本当に機能しているのか、少しだけ、確かめに行くとしよう。年始の挨拶、という名目で。私は都へ向かう支度を始めた。
紫の上は、最初から整っていた。
所作に無駄がない。声は柔らかく、言葉選びは慎重で、相手に不快感を与えない距離を正確に測っている。都で「正妻」と呼ばれる理由が、一目で分かる立ち居振る舞いだった。周囲の女房たちも、抜かりない。
「正妻様であらせられますから」
「理想の御方にございます」
そうした空気を、自然に作り上げている。誰もがその役割を理解し、疑問を挟まない。ここでは、紫の上が中心であり、基準であり、揺るがぬ存在だ。
私は、丁寧に礼をした。
「年始のご挨拶に参りました」
にこやかに。穏やかに。敵意は一切見せない。紫の上も、微笑みを返す。
「ご足労、痛み入ります」
完璧だ。外から見れば、何の問題もない。だが――。彼女は、知っている。六条御息所が、距離を取ったことを。あれほど執着していた六条御息女が、あの明石の君と大喧嘩をしたあと、ふっと戦線から外れたことを。そして、都で囁かれている噂も。
――明石の君は、見た目どおりの姫ではない。
――関わると、何かが壊れる。
紫の上は、それを聞いている。だが、逃げるわけにはいかない。正妻という立場は、退かないこと自体が価値だ。動じないこと、揺れないこと、常に余裕を見せること。それが、正妻の務めだと、彼女自身が誰よりも理解している。
――私の方が、勝っている。
――正妻なのだから。
そう、信じている。信じなければ、立っていられない。だから、微笑みを崩さない。不安を表に出さない。明石の君を「やばい存在」だと理解していても、女として、妻として、逃げる選択肢は取らない。私は、その様子を静かに眺めていた。
にこやかに。無害そうに。
だが、観測は続けている。
この人は、どこまで「正妻」という肩書きに支えられているのか。もし、その肩書きが揺らいだら、何が残るのか。紫の上の微笑みの奥にある、ほんのわずかな緊張。私は、それを見逃さなかった。
さて。
ここから先が、本題だ。
しばらくは、穏やかな会話が続いた。
季節の話。年始の儀礼。都の噂話――ただし、核心には触れない範囲で。紫の上は、その境界線を正確に守っている。私は、その様子を見ながら、少しだけ首を傾げた。
「都は賑やかですね」
何気ない一言のつもりで口にした。
「お立場がはっきりしていると、余計な心配も少ないのでしょうけれど」
紫の上の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……立場がはっきりしている、とは?」
声は柔らかい。だが、問い返しが早い。
「正妻、というのは分かりやすくていいですよね」
私は微笑んだまま続ける。
「選ばれている、という安心感もありますし」
周囲の女房たちが、わずかに頷く。正しい理解だ、という空気。紫の上も、微笑みを深めた。
「ええ。身に余るほどのご厚情を、頂いております」
その返答は完璧だった。だが――。私は、もう一言だけ足す。
「ただ、選ばれている、というのは……今の話、ですよね?」
場の空気が、微妙に揺れた。紫の上は一瞬だけ黙り、それから視線を伏せた。怒ったわけではない。だが、内側で何かが刺激されたのは確かだった。
「……和歌を」
紫の上は、静かに言った。逃げではない。正面からの応答だ。そして、詠む。
選ばれて
変はらぬものと
思ふかな
契りの色は
時に染まらず
――私は選ばれた存在。
――この契りは、時に左右されない。
穏やかな言葉だ。安定している。揺らぎがない。だが、それは同時に、自分に言い聞かせるような響きでもあった。女房たちが、息をつく。
「なんと安定した御心」
「正妻の余裕でございますね」
空気は完全に、紫の上の側に傾いた。私は、少しだけ間を置いた。考えているように見せるのは、もう癖だ。それから、返す。
たよりとは
今あるものを
数ふれば
変はらぬなどと
言ふに及ばず
――拠り所とは、今あるものを数えた結果。
――変わらぬ、などと宣言する必要もありません。
技術的には、申し分ない。言葉の選びも、調べも、紫の上に劣らない。
だが、軽い。
感情を賭けていない。永続性を保証しない。「今はそうですね」程度の温度しかない。紫の上は、歌を聞き終えたあと、私を見た。その瞳に浮かんだのは、怒りではない。
違和感だ。
――この人、正妻という物語に、価値を置いていない。その事実に、紫の上は、はっきりと気づいてしまった。そして、気づいた瞬間から、胸の奥で、不安がゆっくりと動き出していた。紫の上は、まだ微笑んでいた。だが、それは先ほどまでの余裕ある微笑みではない。形だけ整えた、薄い膜のようなものだ。その下で、感情が動いているのが、はっきりと分かる。
――あ、これ。
私は内心で思った。思った以上に、効いている。最初は、少し突いてやるつもりだった。正妻という肩書きが、どれくらい実務に耐えるのか、軽く確認する程度のつもりで。
だが、紫の上は簡単に煽られてしまった。
これは、面白そうだ。私は、にこやかに首を傾げた。
「正妻という肩書きは、分かりやすくて便利ですよね」
紫の上が、ゆっくりと視線を上げる。
「……便利、とは?」
「ええ」
私は悪びれた様子も見せず、穏やかに続けた。
「立派なお立場であることは、よく分かります。ただ――」
ほんの一拍、間を置く。
「それがもし揺らいだ時に、ほかに支えとなるものは、お持ちでしょうか」
声は柔らかい。あくまで問いかけの形をしている。だが、その言葉には、逃げ道がなかった。紫の上の呼吸が、わずかに乱れた。
「私は……」
その声が、震える。
「私は、選ばれたはずです」
初めて、感情が表に出た。
「正妻なのです」
微笑みが、完全に消える。
「それ以上の立場が、この都にあるとでも思っているのですか?」
声が高くなる。理想の妻の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。周囲の女房たちが、息を呑んだ。紫の上は、もう止まらない。
「私は、選ばれました」
「私は、源氏の君に――」
言葉が、誇りと不安と怒りを一緒に吐き出す。私は、それを遮らない。ただ、静かに見ている。
――ああ、やっぱり。
正妻という肩書きに、すべてを賭けている。だからこそ、その肩書きが「保証ではない」と示された瞬間、世界が揺れる。紫の上は、完全に“妻”ではなく、“女”になっていた。
理想像は消え、感情だけが残る。
そして、その感情が、次に何を引き起こすのか――私には、もう予測がついていた。
紫の上の声が、はっきりと割れた。
「……あなた!」
抑え込んでいた感情が、とうとう堰を切る。
「何もかも分かったような顔をして……!」
正妻の余裕も、理想の妻の仮面も、もう残っていなかった。
私は一歩、前に出る。
逃げない。引かない。
「私は、肩書きに全振りしていないだけです」
にこやかに、しかし明確に。
「収入も、住まいも……源氏の君がいなくても回ります」
その瞬間。紫の上の手が、私の大垂髪を掴んだ。絹が擦れ、十二単の重なりが崩れる。雅な装束で、やっていることは完全に取っ組み合いだ。
「ふざけないで!」
紫の上の声は、もはや叫びだった。
「私は選ばれたのです!」
私は、その手首を掴み返す。力任せではない。ただ、離さない。
「ええ」
笑顔のまま、続ける。
「でも、選ばれているかどうかで、人生設計はしていません」
紫の上の顔が、怒りと恐怖で歪む。
「……あなたに、何が分かるというの!」
大垂髪が引き合わされ、衣の裾が畳に散る。都の中心で、正妻と姫が絡み合う――考え得る限り、最悪の光景だ。私は、もう一言だけ足した。ほんの、ついでのように。
「安心してください」
「私は――あなたと、同じ席に、最後まで座るつもりはありませんから」
紫の上の動きが、ぴたりと止まった。意味は、分からない。だが、何か決定的に違うことだけは、はっきりと伝わった。
――まあ、当然だ。
私は内心で、静かに肩をすくめる。紫の上は、「今」を戦っている。正妻という肩書きが続く限り、勝ちだと信じている。
けれど、私は知っている。
この物語の先を。
私の娘は、いずれこの都の頂点に立つ。正妻かどうか、愛されているかどうか――そんなものは、通過点に過ぎない。私は、今を争っていない。最初から、賭けている場所が違う。だから、同じ席に座り続ける気など、最初からなかった。女房たちが、悲鳴混じりに飛び込んでくる。
「御方、どうかお鎮まりを!」
何人もの手が伸び、絡み合った十二単を引き剥がす。袖が引かれ、裾が踏まれ、場は完全な修羅場になる。
第三者の目。
逃げ場のない、目撃。紫の上は、息を切らしながら立ち尽くした。完璧だったはずの姿は、もうどこにもない。私は静かに衣を整える。
泣かない。
崩れない。
――勝つ前提で、来ている。
紫の上は、視線を逸らした。正妻という理想像は、この瞬間、完全に崩壊した。私は小さく息を吐く。これはもう、戻らない。場に残ったのは、重たい沈黙だった。
女房たちが、慌ただしく動く。乱れた十二単を整え、大垂髪を梳き直し、何事もなかったかのように形を取り繕う。その動きだけが、やけに手慣れていた。紫の上は、女房に髪を直させながら、視線を伏せたまま口を開く。
「……先ほどは、取り乱しました」
声は静かだ。だが、先ほどまでの張りはない。私は同じように、大垂髪を整えさせながら、穏やかに応じる。
「こちらも、言葉が過ぎました」
形式的な和解。誰もが、それを理解している。紫の上は、顔を上げ、ゆっくりと息を整えた。そして、初めて考えてしまう。
――もし、選ばれなくなったら?
――私は、何を持っている?
正妻という肩書き。それがある限り、すべては守られると信じてきた。だが、それは保証ではない。ただの物語だ。
紫の上は、その事実を、否応なく突きつけられた。源氏との関係は、続くだろう。だが、以前ほど感情を賭けることは、もうできない。正妻という物語は、この瞬間、静かに空文化した。
一方、私は内心で小さく頷いていた。
――肩書きって、使えないなら意味ないんですよ。
――はい、これで二人目。
その日のうちに、噂は都を駆け巡った。
「紫の上様まで崩れたらしい」
「明石の君は、危険だ」
二人の主役級の女が、立て続けに戦線を離れた。都の空気が、目に見えて変わる。さすがに、源氏の君も気づいた。これは、拙い。これ以上放置すれば、世の聞こえも、自分の面目も、まとめて傷がつく。
――直接、行くしかない。
そう決意した頃、私は明石への帰路についていた。女房に見えないところで、私は拳を小さく握る。
「よし」
ガッツポーズ一つ。
「正妻様、脱落」
次は――いよいよ、本人だ。
今回も和歌の部分は、紫の上風と、明石の君(+中の人補正)風で書いてみました。なんとなく源氏物語風…の世界を楽しんでもらえると幸いです。源氏物語では、明石の君と源氏の間に生まれた姫は、明石の姫と呼ばれ、物語上では一条天皇の中宮となりますから、たしかにその事実を知っている明石の君の中の人的には、既に勝確状態です。とはいえ…その明石の姫を育てるのは、ここでマウントをとった紫の上という事を、中の人は忘れているのではないでしょうか(笑)。
感想書いてもらえると嬉しいです。




