第八話 あの日の話
薄膜を通したように近く遠く雨音が聞こえる。
視界の端に高いレンガ造りの建物がかすれている。
戦場から逃げ出して、追いすがる敵兵と自軍の兵から逃げて、やっとの思いで町まで逃げてきた。
とっくのとうに足の感覚なんて消えてしまっている。
そういえば逃げている最中に、味方からか敵からか、足を打たれたような気がする。
視界の下の縁にも、確かに投げ出された足と赤いものが見える。
でも、もう何も考えられなかった。何も考えたくなかった。
僕の開きっぱなしの瞳に雨粒が一つ、二つ。落ちてくる。
息を吸うたび、喉が焼けただれたように痛んだ。
少しでも熱を冷まそうとつばを飲み込もうとしたが、かすれていてもう何も出なかった。
僕は諦観とともに自分の視界に瞼を下ろそうとする。ああ、もう―――。
ふと、遠ざかっていた意識が少しだけ戻り、張り付いていた前髪が額からずれた。
『おい死にかけ。お前まだ死んでないだろ』
声。高い、女の声。
目がかすんでいてよく見えないが、目の前にいる誰かが膝に手を当ててこちらをのぞき込んでいる。 なんてひどい言い草だ。
せっかく寝られそうだったのに。
少なくとも、いまにも寝ようとしていた僕にかける言葉じゃないだろう。
何か文句を言ってやろう。そう思った僕は重い口を開いた。
『―――ぁぁぅ』
ああ、喉が痛い。
砂塵を吸い込みすぎたのだろうか。
僕の思いつく限りの悪態を受けたであろう女は、奇妙なものを見るようなまなざしで、こちらを見ている。
最後にいい憂さ晴らしができた。
そう妙な納得感を得た僕の意識は、だんだんと深いところに沈んでいく。
暗くて冷たい水の中。
暗い暗い闇の底。
周囲の水が僕という存在を飲み込もうとのしかかってくる。
凍えるように冷たい水は、僕の体からごくわずかに残っていた体温を奪い去っていく。
暗くなっていく視界が、消えていく体温が、僕という存在を、削り取るように、塗りこめるように、丁寧に、入念に消去していく。
ああ、寒い。寒いなぁ。誰か、僕を。
『小さいな。こいつ』
遠くで、声が聞こえた気がした。
手だ。
暖かい手。
そっと背中に回された手が僕の体をふわりと掬い上げる。
僕の右側がふわふわとした人肌を。触れているところから冷え切った体に、じんわりと伝わってくる体温を。
感じる。
なんて暖かくて、なんて安心するんだろう。
『おいお前。名前あるか?』
そんな声が聞こえた気がして。
『・・・ぇ、るぅ』
『・・・ルー、か?』
僕は細く、細く目を開ける。
灰色の空に吹き抜けるような一対の蒼が揺れているのが、見えた気が、した。




