第三話 名前とモヤモヤの話
6月ごろの夜はまだまだ寒い。
ありがたいことに今夜は晴天だから、雨除けの布にくるまることができる。
腰から足先までは完全に外に出ているせいで、冷たい風をダイレクトに感じるが、これで上半身を覆えるだけでも快適さは全然違うのだ。
僕と姉ちゃんは一つの薄布にくるまり、向かい合うように寝転がっている。
曲げている手を少し伸ばせば届く距離にある姉ちゃんの顔は、やっぱりいつも通りで、僕と同じように生活しているとは思えないほどきれいだ。
そんな姉ちゃんの顔を見つめていると、僕の胸は奇妙に高鳴る。
姉ちゃんの顔には完璧なバランスですっと通った目鼻と、普段暴言ばかり吐いているとは思えないほど可憐な口がついている。
でもそんな顔とは正反対に、姉ちゃんの左耳はかなりいびつだ。
下半分がほとんどかけており、耳たぶなんかは影も形もない。
僕はふと目を姉ちゃんの後ろの夜空にやった。
姉ちゃんのいびつな耳の形に切り取られた空は、どこまでも吸い込まれていってしまいそうで、怖いくらいの綺麗な色をしている。
姉ちゃんの耳の少し上に、テルルという星が見えた。
太陽の尻尾、などと呼ばれているあの星はいつもきまって最初にひときわ明るく輝き始める一等星。 そして、僕の名前の由来にもなっている星だ。
でも、そんなたいそうな星の名前は臆病な僕に全然あっていない。どちらかというと姉ちゃんみたいな、強くて自分の意志を強く持っている人に合っているのではないかと思う。
ふと隣で姉ちゃんが身じろぎをしたような気がして、そちらを見ると、僕の視界に先ほどまで瞼に隠されていた蒼の瞳が飛び込んできた。
さっきまですごくきれいだと思っていた空の美しさがかすんでしまうほどのその瞳は、いつも僕の心をとらえて離さない。
選び抜かれた最高級の宝石をさらに磨き鍛え、世界一の名工がその技能を余すと来なく生かして、絢爛豪華な純金の台座にそれをあしらえるとしても、この瞳にはかなわないんじゃないか、と。
見るたびに僕の魂を震えさせるその瞳は、いつも通り、吹き抜けるような強い意志の輝きを宿していて。
ぼんやりとこちらを眺めていた姉ちゃんがふっと口を開いた。
「確かテルの名前って星から来てるんだよな」
一度横になった姉ちゃんが話すのはけっこう珍しい。
「うん。テルルだよ。ほら、あそこに見えるやつ」
姉ちゃんの背中側にある星を指さす。
「ふーん」
でも姉ちゃんは僕の指先に見向きもせず、ぼーっとこちらを眺めている。
「そっちから聞いといて反応薄くない?姉ちゃんはどうなのさ」
姉ちゃんは何でもないかのように空に目をやって言葉を返した。
「私、親とかそういうの憶えてないからさ。気になって」
薄く笑う姉ちゃんはいつもと何も変わらないのにはずなのに、まるで知らない人のようで。
僕の一番好きで一番嫌いな姉ちゃんの体のパーツ。
瞳。
その藍色の瞳の虹彩の周縁には、本来神聖不可侵なはずの神の御業を、素手で凌辱するかのように痛々しいほど事務的なナンバリングが刻まれている。
『A00003341』
姉ちゃんは5歳より前の記憶が無いらしい。
姉ちゃんが5歳の時からついていたそのナンバリングはきっと、それより前の出来事につながるものなのだろう。
だから、姉ちゃんには名前が無い。
でも、そんな風に狭いところへ自分を押し込めるようにして、空を見上げる姉ちゃんの顔をこれ以上見ていたくなくて、ふっと思いついたことを口にした。
「だったらさ。つければいいんじゃない?今」
「え?」
ふっと、見知った姉ちゃんが僕の隣に戻ってきたような気がする。
珍しくあっけにとられたような表情をして、姉ちゃんはパチリと瞬きをした。
「今つけようよ。姉ちゃんの名前」
「いや、別に・・・」
たまに姉ちゃんは何かをあきらめたかのような、自分という存在を世界から一歩引こうとするような顔をする。
そんなときの顔は瞬きをすれば消えてしまいそうなほど半透明で不確かで。
僕は姉ちゃんのそんな顔が嫌いだった。
そんな顔をこれ以上見ていたくなくて、僕は口を開く。
「好きなものとかどう?自分の名前なんだしやっぱり好きなものの方がいいよ」
「・・・そうはいってもな。パンとか肉・・・?」
姉ちゃんは自己中心的なように見えて意外と自分という存在に無頓着だ。
確かに食欲と睡眠欲くらいしか欲しい物が想像できない。
でも、さすがに自分の名前を決めるときに出す答えにしては、ふざけすぎている。
「あのさぁ。じゃあ姉ちゃんは明日からミートパンちゃんになってもいいの?」
「ちゃんっていうな」
ノーモーションで放たれたげんこつが腹に突き刺さった。
僕はちょっとせり出かけた夕飯を無理やり胃に戻してから口を開く。
「げほっ。・・・ああもう、だったら何か食べ物以外で好きなもの無いの!?」
「うーん」
姉ちゃんはごろりと寝返りを打って向こうを向いてしまった。
普段の姉ちゃんの背中は小さいけどすごく頼もしい。
でも、今の姉ちゃんの背中は、いつもよりもずっと小さく見えた。
数時間のようで一瞬のような時が流れ、空をぼんやりと眺めていた姉ちゃんがふと口を開く。
「・・・・・・テル」
「・・・」
「の、名前の元の星」
「・・・星の方ね!テルルね!?」
一瞬跳ねた心臓が姉ちゃんに見透かされるような気がして、僕は布をはね上げて起き上がった。
姉ちゃんの顔が見たくて、そして見たくない。
「あ、照れたな?お前照れたな?バーカ!」
「うるさいよ!姉ちゃんのほうがよっぽど恥ずかしいこと言ってるって!」
「はぁ!?」
しばし僕たちは取っ組み合って転げまわる。
まあ、身長も僕より高くて力も僕より強い姉ちゃんに僕が勝てるわけもなく、結局いつものように一発頭にいいパンチを食らった僕がいの一番に倒れ。僕はマウントポジションをとった姉ちゃんに、顔を足でぐりぐりされる羽目になった。 器用に動く足に、タコみたいな口にされた僕はまともにしゃべれない。
「へっひょくははへはひょうふるの?(結局名前はどうするの?)」
僕の言葉を無視して姉ちゃんはこちらの頬をもてあそんでいる。
延々と続くぐにぐにタイム。
そして姉ちゃんの足についている土でどんどんと黒くなる頬。
いつまで姉ちゃんは僕の顔をいじくれば気が済むのだろうか、と悟りを開いたような気持ちで考えていた時、ぱっと姉ちゃんの足が止まった。
すかさず起き上がろうとした僕のおでこに、強烈なデコピンが突き刺さる。
「あでっ!」
僕がぼてりと地面に倒れ込む。
少し、時が流れた。ふっと、流れるように言葉が紡がれる。
「・・・ルルってのはどうかな?テルルのルル」
満天の星空をバックに、自分の名前をルルと名乗った姉ちゃんは、いつものお姉ちゃんとは違ってすごく普通の女の子みたいに見えた。
少し頬を染めて横髪を人差し指に巻き付けているその女の子は、いつも乱暴な言葉で自分よりの背の高い男たちと怒鳴りあっている姉ちゃんと同じ人には全然見えなかったけど。
僕はそんな姉ちゃんの、そんなルル姉ちゃんの表情が全然嫌いじゃなかった。
むしろ、すごくかわいくて素敵だと。
そう思ったのだ。
だけど、そう思った瞬間僕の心に刺さっていた小さなトゲが急にうずきだした。
どこにでもいる女の子たちのように、いつかは姉ちゃんもどこかに行ってしまうのだろう。
そんなひどく当たり前の事実が、僕の胸にぐにゃりよまがった楕円を描いている。
ルルは僕の本当の姉ではない。
もっと言えば、ルルと僕が出会ったのはほんの一年前に過ぎない。
髪も目も肌の色も僕とは似ても似つかないルルと僕は、いうなれば一年前に僕と出会ったばかりの赤の他人でしかないのだ。
『姉ちゃん』、そう呼んでいれば今まではずっとルルは僕の隣にいてくれた。
一年前に出会った時から、ルルはずっと僕の姉ちゃんであり続けてくれた。
だけど、僕がもし、姉ちゃんじゃなくて、ただのルルとして僕を見てほしいと言えば、姉ちゃんは離れて行ってしまうのかもしれない。
そんな思いが頭を埋め尽くしているマーブル模様の渦に一筋垂れた。
僕はこちらを見つめてくるルルの蒼い瞳を見て思う。
ルルはいつか、遠い存在になってしまうのだろうか。
圧倒的な明るさで燦燦と輝いて、あまりにも明るくて手が届きそうに見えるけど、でも、絶対に届かない。
そんな、綺羅星のような存在に。




