第一話 僕と姉ちゃんの話
「いたっ」
ここは町のはずれのスラム街。
朽ち果てかけた廃屋のような建物がたくさん集まっている。
崩れかけた屋根を倒れた街灯で何とか支えている家や、つぶれてしまった納屋の上にその残骸を使って組まれているバラック。
綱が無くなっていて、石造りの井桁の横に、寂しげに滑車が転がっている井戸。
そんな類の建物が、荒れ地の上に危ういバランスで数多く載っている。
どこかでカラカラと物が転がっていく音が、空しく響いていた。
そんな貧民街と町の間をつなぐ裏路地の一角で、12歳くらいのみすぼらしい格好をした少年が、抱えている何かをかばうように地面に転がった。
かなりの距離を走ってきたようで息が粗く、埃っぽい黒髪から覗くうなじはうっすらと汗ばんでいる。 彼が抱えている巨大なパンは、少年が小柄なのも相まって見る者の遠近感をおおいに狂わせていた。
「おい、テルてめえ逃げんじゃねえよ」
息を荒らげながら、今しがたテルを蹴り飛ばしたばかりの足を下ろした13歳くらいの少年が、転がっているテルを見下しながら怒鳴る。
砂ぼこりで汚れた長ズボンから覗く裸足の足は地面を力強く踏み、テルから袋小路の唯一の逃走経路をふさいでいた。
転がっている少年の1.5倍ほどの身長とナイフのように鋭くとがった眼が特徴的なこの少年は、スラッグと呼ばれているこのスラムの住人の一人。
そして地面に転がった僕、テルはついさっき露店からかっぱらってきた大事なパンを掻き抱いてその人を見上げていた。
絶賛ピンチの僕は、最近になってこのスラムに転がり込んできた新人ストリートチルドレン。
僕の今までの人生は、ごく短い幸せな生活の後、他国から攻め込んできた兵士に親を殺されたところから始まる。
その後、預けられた親戚とは折り合いが悪く、僕はその親戚に半分無理やり兵士養成所に入れられてしまった。
養成所に入った当初は、これでやっとあの親戚の家から解放されると喜んでいたのだが、僕は養成所でも自分の居場所を見つけられなかった。
記憶が定かではないほど昔から、僕は自分でもあきれるほど、完膚なきまでに『戦う』ということができなかった。
座学は得意だったのだけれど、実技がてんでダメ。ミジンコ程度の戦闘力もないと教官からお墨付きをもらった。
どうもその苦手っぷりは養成所の歴史に残るほどの物だったらしく、教えても教えても上達しない僕にさじを投げてしまったのか、僕はほぼ何もできないままなのに、なぜか飛び級で訓練所を卒業させられてしまった。
そして、ついに迎えた初陣で、接敵するや否や恐ろしくなった僕はさっさと逃げだしてしまい・・・。
現在は綱紀粛正のために追われる羽目になった逃亡兵、というわけだ。
1年ほど前から万引きやらスリやら、イカサマのまねごとやらをしつつ、軍から逃げ隠れしながらなんとかその日をやり過ごしている。
しかし、今日はまた一段とついてないなぁ。
そうぼやくような気持ちで周囲を見回してみる。
右を見ても左を見ても壁。
背中には冷たい地面の感触があり、停滞している空気が逃げ込んだ場所が行き止まりであるということを主張している。
そしてたった今走りこんできたばかりの唯一の脱出口にも仁王立ちをしたスラッグがどんと構えていた。
道の方にちらりと2つの影法師が見えた気がした。 いつもスラッグの周りを付きまとっている取り巻きのちびっこ2人だろうか。
そんな愚にもつかないようなことが宙にとどまって、ポンっと消える。
露店のおっちゃんからも、スラッグからも散々追い掛け回された上に、蹴り飛ばされて転ぶわ、そのせいで膝も切るわで最悪だ。
ああ、本当についてない。
そうは思うものの、僕は落ち着いた気持ちで、怒鳴り散らしているスラッグを見上げる。
そろそろ、だと思ったから。
「最近お前態度でけぇんだよ。弱いうえに新参者のてめえがでかいツラすんじゃ」
「新人で悪かったな?お前程度が私の弟に何してくれてんの?」
「姉ちゃん!」
大通りから差し込む光を、後光のように纏った人物がそこに立っていた。
すごんでいるスラッグの言葉をさえぎり、背後から彼の肩を叩いたのは、かろうじてワンピースだと判別できるようなぼろを纏った、15歳くらいの少女だった。
ミディアムロングの髪はやや傷んではいるものの、裏路地に差し込む一条の光を蒼く、黒く反射している。
髪は濃い藍色で、光が当たっている部分は明るい空色の輝きを放っていた。
10人とすれ違えば10人が振り返りそうなほどの可憐な顔と、どこかはかなさを感じさせる幼い容姿。
そして、そのはかなさを打ち消してしまうほどの、 吹き抜けてくるような強い意志を宿した淡い藍色の瞳。
彼女は自分よりも頭2つほど背が高い少年相手に、まるで自分こそがこの世の王だと主張するかのように、ずかずかと詰め寄っていく。
ずんずん少年に近寄っていく少女と、それと対照的にどんどんと離れていく少年。
後頭部を壁にぶつけるまで後退したスラッグは万歳をするように手を上げた。
「お、おい。てめえ、今日は町の反対に遠征してるんじゃ・・・」
胸を張った少女の小さな口から、美しい声でスラムの住人らしい粗野な言葉が飛び出す。
「あー。アイツ弱すぎたから秒でボコって戻ってきたわ。あの程度で私に楯突こうなんて千年早いし」
「そ、そんなわけねえだろ!?ヴェルンはこのスラム最強の喧嘩自慢だ!いくらお前でもそんなに簡単には・・・」
「ヴェるーん」
少女がポケットから取り出した形容しがたい形の何かを見るなり、少年の顔は真っ青になり、ガタガタ震えながら滝のように汗を流し始めた。
「そ、それは・・・」
「ノリでモギッてきちゃったけど別にいらないし・・・。ほい」
少女は親指と人差し指の爪先だけでつまんだその謎物体を、ちょっと持ち上げてチラッと見た後、無造作に少年の顔に向けてほおった。
「ぎゃあああああ!」
顔にべちゃッと音を立てて着弾したそれを反射的に払い落とした少年は、必死に顔をこすりながら、脱兎のごとき勢いでどこかに逃げ去ってしまった。 すさまじい勢いで遠ざかってくスラッグの足跡は、それに追従するかのような2つの小さな足音とともにすぐに聞こえなくなった。
「うえ、ばっちいな、これ」
少女はワンピースの腰回りで手を拭いたあと、 ぼーっと地べたに座り込んで一部始終を眺めていたテルに声をかけた。
水と瑠璃の瞳には仕方がない奴だと嘆息するような、私がいなければいけないと胸を張るような得意げな自負がきらめいている。
「テルさ。ちょっとくらいは自分でも抵抗しようって気概とかないの?」
そういわれた僕は気まずげに目をそらす。
そうはいっても無理なものは無理なのだ。
今からこの人が僕を倒そうとする。僕に痛みを与えようと、こぶしを振りかぶってこちらに近づいてくる。
そう考えるだけで僕の体はまともに動かない。胸が締め付けられて視界が狭まって足が、手が、冷たく、言うことを聞いてくれなくなる。
「ま、お前の臆病は今に始まったことじゃないし。ほら。さっさと帰んぞ」
そういって少女はテルからぷいっと目をそらし、すたすたと向こうの方に歩いて行ってしまった。
「ちょ、ちょっとまってよ。半分くらい持ってくれてもいいんじゃない?」
「えー?めんどい」
「そんなぁ」
僕の姉ちゃんは、いつもピンチになった僕を助けてくれる、絶対的な僕のヒーローだ。
今も僕のことを、ちらりとも振り向かずに行っちゃうし、いつも意地悪なことを言ってくる。食べ物に意地汚くて、僕の分まで遠慮せずにとってくし、寝相が悪いせいで寝ている間にしょっちゅう蹴られる。だけど。
「あっ!」
滑り落ちそうなパンを持ち直したとたん、つま先に軽い衝撃を感じて世界がぐるっと回る。
目の前に差し込まれるように地面が急に現れる。体と同じく空転する思考の中で、とりあえずパンをつぶさないように、受け身を取らなければと考えた時。
既に僕の体は姉ちゃんに支えられていた。
姉ちゃんの手を借りて体勢を立て直した僕はふと下を見る。
足元の地面からはとがった廃材の破片の先がのぞいており、あのまま地面に倒れこんでいだ時の結末が、ろくでもないものであったことを主張していた。
「ほんとにテルはよくこけるよなー」
姉ちゃんはこれ見よがしに特大の溜息を吐いてから、パンを片方奪い取った。
「やっぱりテルは私がいないといけないな!」
そのパンを乱雑に肩に担いだ姉ちゃんは僕を振り向きながら笑った。
夕日に照らされた八重歯が赤く光る。
赤くなり始めている陽が暖かく照らす道を一人でずんずんと歩いていくワンピースの少女。そして少し遅れてたったったっと追いかけていく一回り小さな少年。
この町で数週間前から見られるようになったいつもの光景だった。




