第十一話 君、奇妙なざわめき
私の憶えている一番最初の記憶は、蒼色の中、じっとりと沈殿してくる赤い泥濘だ。
私という存在がこの世界に出現した時、両親というものは私の周囲にはいなかった。
私がこの世界に零れ落ちてきたとき、私はおそらく5歳か6歳で、私の視界は真っ暗だった。
私の上に、下に、横に積みあがっている所々に蒼白い糸が巻き付いた瓦礫の山。
そしてやっとの思いでそこから這い出た私の周囲に広がっていたのは一面の瓦礫の山と焼野原。
私はその時しばらくの間、瓦礫か何かにえぐられた後頭部の傷と左耳の裂傷を抱えて、呆然と立ちすくんでいたと思う。
遠くにひらめく炎が妙におどろおどろしく見えてひどく恐ろしく感じたことを今でも覚えている。
私が私という存在をとりあえず見つけたその時、周囲の世界は何らかの破壊と火災によって壊滅していた。
つい最近聞いた話ではあるが、頭に強い衝撃が与えられると、人は記憶を忘却の彼方に飛ばしてしまうことがあるらしい。
当時の状況から考えると、おそらく私は記憶喪失、ということになるのだろう。
私は当時南方大陸の北西部の端の国にいたようだ。
その後、ふらふらとさまよっていた私は見目がそれなりによかったのもあって、あっという間に人さらいにさらわれ、今いるここ、北方大陸にやってくることになる。
私が当時乗せられていた馬車は犯罪者を輸送する区画と、奴隷を輸送する区画に分けられており、そこで私は一人の女戦士と友たちになった。
彼女は私に喧嘩のやり方と、世の渡り方を教えてくれた。
そんなある日、私たちの乗せられていた馬車が襲撃にあった。
悪天候が続き、旅程が長引いていた奴隷商が業を煮やして強行軍を試みた結果、見事に盗賊にかち合ったのだ。
どさくさにまぎれてそこから脱出した私はラミストレイ連邦という国に流れ着き、そこの町を転々とする生活を送るようになる。
私はそのころ、日々を生きることだけを目的として、他に何もない生活を送っていた。
記憶もなく、家族もなく、手元にあるのは、ごく短い過去と、すでに先が見えている未来。
きっとあのまま生活をしていたら、流行り病でぽっくり死ぬか、どこかで危ない奴に目をつけられて殺されるか、それとも逆に殺すか。
その程度の未来だっただろう。
当時はそれ以外知らなかったため何の問題もなかったのだが、もしそうなっていたら私の人生はひどく退屈なものになっただろう、と他人事のように思う。
私は当時からそんな自分という存在を、どこか冷めた目で見ていたような気がする。
強い口調でごまかして、腕っぷしをふりかざすことで自分を強く見せようとしていた自分を、心の奥底で冷笑している誰かがいた。
自分が1番弱いことがわかっていてもなお、私は強いのだと言い張るその滑稽さを、嘲笑う視線をいつも感じていた。
そのころの私は、私という存在をどこか不確かなもののように見ていた。
つまるところ私は自分という存在にひどく自信がなかったのだ。
周りのどんな人とも似ていないこの蒼の髪。
まるでお前は人間ではないのだと主張してくるような『A00003341』というナンバリングのつけられたこの瞳。
私は3341番目に生みだされた替えの利く存在なのだと、そういわれているような気がして。
そんな意味も、目的も、『私』という確固とした存在もなかった灰色の生活の中、私はテルに出会った。
ひどく雨が降っていたあの日。
私が隠れ家に帰ろうと雨道を走っていたとき、通り道の途中、濡れた服のままで呑気に座り込んでいる人間が一人。
バケツをひっくり返したような雨に打たれながら、壁に背を預けて空を見上げているのを見つけた。
開きっぱなしの瞳に雨がどんどんと降り注いで、溢れている。
どうも足を片方ケガしているようだ。
一目見たときに思った。
こいつは私の嫌いな目をしている、と。
自分には何もない、と自分を卑下することに悦に入っていて、それでいて特に何もしないやつの眼。
そして、自分という存在に価値を見出せず、明日死んでも別にいい、とそんなことを本気で考えている奴の目。
ケガをして動けないこいつは、このまま放っておいたら明日には本当に死んでいるだろう、そう思った。
でも、私がそいつに抱いた感情はそれだけ。
こんな目をした奴なんてきっと掃いて捨てるほどいるだろう。
それこそ、三千人でも、四千人でも。脳裏に『A00003341』というナンバーがちらつく。
昨日までいたのにいつの間にか消えていたなんて奴は、この短い人生でも飽きるほど見てきている。
きっとこいつはもう誰にも見られることなく、今日ここで死ぬのだろう。
きっと私はこいつに目もやらずに横を通り過ぎていき、雨風がしのげる場所で毛布にくるまって眠るのだろう。
そう、考えたのに、私の足は動かなかった。
なぜか私の目はそいつから離れなかった。
理由はわからなかった。気づけば私はそいつの顔をのぞき込んでいた。
でも、今ならわかる。そのとき、私は。
いつも水で顔を拭うとき。
何か食べられるものを探して川をのぞき込むとき。
水面越しに刻み込まれるように感じていた眼。
お前に価値はない、お前なんて生きていても死んでいても同じだと語ってくる大嫌いな誰かの。
いや、違う。
私の心の奥底にある、私自身の瞳を。
そいつの中に見ていたのだ。
黒の髪、閉ざされた瞼、幼い顔立ち。
心の中でじわり、じわりと知らない熱が動く。
今までの記憶をさかのぼっても、同じ感触の感情はどこにも見つからなかった。
いつの間にか、私は口を開いていた。
『おい死にかけ。お前まだ死んでないだろ』
その声が聞こえたのか、そいつは閉じていた眼を少し開いて何かをつぶやく。
小さすぎて何を言っているのか聞き取れない。
なんだか私にはそいつの顔が泣き出しそうに見えて、胸がざわつくのを感じた。
もう一度、何かつぶやいた後、瞼を閉じたそいつは、なんだかすごく孤独そうに見えた。
無意識のうちに私はそいつの軽い体をそっと持ち上げていた。
冷たくて、小さい。こんな体で本当に動けるのだろうか。
そいつが急に身動きをしたことに驚き、手を放しかける。
胸が途端にざわめき出した。
雨音がこんなに鳴り響いているのに鼓動の音がうるさい。
冷え切った体の奥から知らない温度が湧き出てくる。
私はぞわぞわする胸を、高鳴る心臓を、落ち着けることに必死になる。
私はふわっと頭に浮かんだ疑問を吐き出した。
『お前。名前あるか?』
そいつは言った。
『・・・ぇ、るぅ』
・・・ルー、か?
私は未知なる感情の濁流におぼれていくようで。
胸の中にともった凄まじい熱に当てられたようで。
奇妙な酩酊感すら感じていた。
私に全体重を預けているルーという存在。
私が手を放すだけで簡単に死んでしまうであろうちっぽけな存在。
そんなものが今、私の腕に乗っかっている。
雨音が強まった気がする。
―――ああ、ひどく奇妙な気分だった。




