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テルル(新版)  作者: 御上ナモ


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第十話 君、温かな宝物

「はぁ、はぁ」

 私は暗い下水路を不確かな足取りで歩いていた。 背中には意識を失ってぐったりとしているテルを背負っている。

 頭がふらついてきて、視界がぶれる。

 足にも手にも震えが来てる。

 背中のテルが信じられないくらい重く感じた。

 ほんの5センチもないはずの水深がこんなにも足を重くさせるのか。

 それとも、私がそれだけ消耗しているのか。

 ふと、頭に名案に思える考えが浮かんだ。

 そうだ、いったんテルを下ろして休もう。

 着水地点からここまで、600メートルは離れている。

 そうすぐには追手はこない、はずだ。

 一度、テルをゆっくりと壁に寄りかからせて、地べたにしゃがみ込んだ。

 体がぶるぶる震える。服に、尻に不愉快に冷たい水がしみてくる。

 今になって全身の擦り傷が妙に気になってきた。

 さっきの光。

 私の中から漏れ出てきていたあの蒼い光は、宙から私の意に添うように現れたあのねじれるような白糸はいったい―――。

 そこまで考えた途端、不意に記憶がぐにゃりと揺らいで、ふっと色が消えて、わたしは一つ瞬きをした。

 ぐるりぐるりと視野が揺れたのちに我に返った。

 はたと思う。

 今の今まで、私は何を考えていたんだろう。

 考えがうまくまとまらない。

 思い出しかけたのに指先から零れ落ちていくナニカがあった気がしたのだけれど。

「げほっ」

 咳と同時に出たべとつく何かが水に跳ねた。

 ああ、くそ。喉が痛い。

 疲れで混乱しているのかもしれない。

 落ち着け私。大丈夫だ。まだ体は限界じゃない。

 まだ、頭も回っている。

 少し休んでから、テルを背負って逃げればいい。

 中心部から外縁へ逃げるルートを思い出すのだ。

 どこかで食料を手に入れて、寝床を確保して、ああ、まずは飲み水が最初だろうか。

ぱしゃり、ぱしゃりと、遠くで足音が聞こえた気がした。

 ああ、と喉から声にならない声がこぼれる。

 逃げなくては。

 まともに動かない体を叱咤し、立ち上がろうとした瞬間、足にうまく力が入らなくてテルに向かって倒れこんでしまう。

 倒れた私の額に押し付けられたテルの体は冷え冷えとしていて、いつもの、体温が高めのテルとは正反対だった。

 テルは同年代の少年たちと比べても背がかなり低い方だ。

 さっきあんなに重かったとは思えないほど、その体は小さい。

 本当に、小さな体だ。

テルの息が荒い、熱っぽい呼吸をしている。

 額に手を当ててみたが手の感覚が鈍く、よくわからなかった。

 前髪を横に払い、土埃で汚れたテルの額をスカートのすそで軽く拭う。

 間近で見るテルの顔は眉をゆがめていてなんだか泣きそうにも見えた。

 視界にちらつく邪魔な横髪を耳にかけ、額と額を合わせる。

 私の心臓に痛烈に痛みが走った。

 ―――熱だ。

 おそらく疲れと、冷たい下水に頭まで使ったことが原因だろう。

 体を温めようにも燃やすものが無い。

 飲み水も、食料も無い。

 下手をすると死んでしまう。

「ルー。こんなところで死なないで」

 私は赤子をあやすように、なるべく優しい声で話しかけた。

 ルー。なんとも懐かしい呼び方だ。でも、その声を聴いてもテルはピクリとも反応しない。

 眠ったように壁に寄りかかりながら、荒く乱れた呼吸をしているテル。

 昔、酒場で喧嘩を挑んで返り討ちにされた奴に、思いっきり殴られた頬は2,3日腫れが引かなかった。

 昔、ざっくり切った腕は治るのに半月かかった。

 でも、今までのどんなケガも、テルが死ぬかもしれないと、すすり泣いている胸の、この強烈な痛みと比べたら霞んでしまう。

 暗い下水管に一条の光りが差し込んできた。

 遠くから終わりを告げる死神のように、水音が近づいてくる。

 こちらをもてあそぶように、金属の擦れる音が聞こえる。

 ああ、あの顔が見たい。

 いつも私の肩の下くらいをせわしなく動き回り、私に全部を預けているように笑いかけてくれるあの顔。

 何の目的もなく生きていた私に、生きる理由を与えてくれたあの顔。

 温度が無かった私の生に、いつまでも消えない灯をともしてくれた君の笑顔を。

 ああ、もう一度私に向けてほしい。

 今だけ。もう一度。もう一度だけでいいから。

 私を暗闇から救い上げて―――。

 私の耳の奥にあの日の雨音が反響し始めた。

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