「最後のバス停」
冬の夕暮れ、雪は細かく舞っていた。
山間の小さな町。バス停のベンチに腰を下ろし、俺は白い息を吐く。
ここへ来るのは、十年ぶりだ。
バス停の屋根は少し傾き、時刻表の文字はかすれている。それでも、あの日のままだ。
十年前――俺は母と口論をした。
「お前は自分のことばかりだ」
そう言った母の声を、俺は振り返らずに背中で切り捨てた。
この町を出るバスに飛び乗り、二度と戻らないつもりだった。
都会での暮らしは、思っていたよりも鮮やかで、思っていたよりも孤独だった。
仕事は長時間、休日はスマホとコンビニ弁当。友人らしい友人もできず、帰省もせず、母への連絡も途絶えた。
そんな日々の中で、一本の手紙が届いた。
差出人は、町の隣人・田島さん。
『お母さんが入院しました』
短い文の最後に、病名や余命のことは書かれていなかった。だが、田島さんがわざわざ俺に知らせるほどだ。嫌な予感は当たるものだ。
そして昨日、二通目が届いた。
『お母さん、昨日……』
手紙の文字が滲んでいたのは、俺の涙のせいだった。
帰る意味は、もうないのかもしれない。
それでも、ここに来たのは、母と最後に会った場所が、このバス停だからだ。
あの日、雪の降る中、母は俺を追ってきて、寒そうに立っていた。
「行くのね」
それだけ言って、俺の荷物に小さな包みを入れた。
中身は、手編みのマフラー。
「都会は寒いって聞くから」
俺はそれを受け取らず、ベンチに置いてバスに乗った。
窓越しに見た母の姿は、小さく震えていた。
――そのマフラーは、もうどこにもない。
雪が強くなってきた。
ポケットの中で、くしゃくしゃの手紙を握りしめる。
ふと、バス停の柱に気づいた。
そこに、何か布の端が結びつけられている。
近づいて見ると、それは色あせた毛糸のマフラーだった。
編み目はほつれ、ところどころ穴があいている。それでも、俺にはわかる。
母が編んだ、あのマフラーだ。
雪に濡れたそれを手に取った瞬間、指先が震えた。
なぜここに? 誰が?
答えは出ない。ただ、母がここに残したのだとしか思えなかった。
――もしかしたら、俺がいつか帰ってくることを、信じて。
その時、遠くからエンジン音が聞こえた。
バスだ。この町から出る最後の便。
俺はマフラーを首に巻く。
少しチクチクして、暖かい。
雪の中、立ち上がる。
バスが停まり、ドアが開く。
運転手が不思議そうに俺を見た。
「乗りますか?」
俺は首を振った。
「いえ……今日は帰ります」
母のいない家が待つ町へ。
でも、もう逃げない。
マフラーの温もりを胸に、俺は歩き出した。
雪は静かに降り続け、バス停の周りだけが、不思議と暖かく感じられた。