目覚めの刻 ― 乱世の幻影
絶望的な沈黙が、理久の問いに答えた。
「……ログアウト、できないのか?」
その言葉は、戦場の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かない。いや、この世界には、そのコマンドを受け付けるサーバーそのものが存在しないのだと、本能が理解していた。
「嘘だ…そんなはずは…」
理久は、地面を這うように後ずさった。パニックが、思考の回路を焼き切っていく。
もう一度、今度は叫んだ。
「ログアウト! ログアウトしろ! 強制終了! コード999、管理者権限でアクセス!」
エンジニアとして知る限りの緊急コマンドを、意味もなく羅列する。だが、現実は非情だ。返ってくるのは、すぐ側で兵士が断末魔の叫びを上げ、肉体が断ち切られる生々しい音だけ。
ここは、ゲームではない。
ここは、出口のない、地獄だ。
その事実に全身が支配され、理久が恐怖に凍りついた、その時だった。
「おい、そこの突っ立ってるの」
不意に、頭上から鋭くもどこか気だるげな声が降ってきた。
ハッと顔を上げると、そこには一人の少女が、まるで最初からそこにいたかのように、小屋の屋根に腰掛けていた。
煤けたようなボロボロの着物。腰には、彼女自身の背丈ほどもある巨大な鎖鎌が、異様な存在感を放っている。栗色の髪が風に揺れ、その奥から覗く赤い瞳が、値踏みするように理久を見下ろしていた。
「その様子…それに、その綺麗な服。あんた、まさか“参着者”か?」
聞き慣れない言葉。だが、理久は藁にもすがる思いで、その少女に問いかけた。
「さ、参着者…? それより、ログアウトは!? こっから出る方法は!?」
「あー…やっぱり、そうか」
少女は、やれやれと言った様子で屋根から軽やかに飛び降りると、理久の目の前に立った。
「ログアウト? そんなもん、ねえよ。少なくとも、あたしは知らないね。ここは、そういう場所だ」
「そんな……」
「あたしは霞。あんたと同じ、『参着者』だ。ここに来て、今日でちょうど100日目になる」
100日。その言葉の重みに、理久は絶句した。
霞は、そんな理久の様子を意にも介さず、腕を組んで続けた。
「まあ、絶望するのは勝手だが、あんたにはまだやってもらうことがあるかもしれない」
「…やってもらうこと?」
「ああ。あたし一人じゃ、どうにもならん厄介事が一つあってな」
霞は、顎で北東の方角を指し示した。遠くから、微かに、あの不快な電子音のようなノイズが聞こえてくる。
「あの山の向こうに見える見張り台に、**『嘆きの石』**ってのがある。あれが数日前からあのクソみてえな音を立てて、おかげで『歪み』の化け物がウヨウヨ湧いてきてるんだ。マジでうるさくて、兵士たちの士気もだだ下がりで、たまんねえ」
「歪み…化け物…」
「あんたも見てるだろ、あの影みたいな奴らだ。あたしは、あれを斬り捨てることはできる。だが、どういうわけか、石本体には近づけない。あの音を聞いてると、頭がおかしくなりそうだ」
そこで霞は、初めて真剣な目で理久を捉えた。
「あんたみたいな新入りは、たまにワケのわからん力を持ってる時がある。物理法則を無視したり、あたしたちじゃ触れないもんに干渉したり、とかな」
その言葉に、理久の脳裏で、ログイン直前に見たあの奇妙な記憶がフラッシュバックした。
『…きっと、次は…』
あの声は、一体。
「どうだ? 取引と行こうじゃないか」
霞は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「あたしが、あんたを化け物から守ってやる。その代わり、あんたは、そのワケのわからん力で、あの石をなんとかする。このままここで野垂れ死ぬか、あたしと組んで生きる道を探すか。選べよ」
それは、選択のようで、選択ではない。
絶望の底に垂らされた、たった一本の、しかし、確かな蜘蛛の糸。
理久は、ゴクリと唾を飲み込み、震える声で答えた。
「……分かった。協力しよう。俺は理久。システム解析の知識なら、多少はある」
「へぇ、参謀様ってわけか。いいじゃん、頼りになりそうじゃん!」
霞は、快活に笑うと、理久に背を向けた。
「よし、決まりだな! さっさと行くぞ、理久! あのクソうるさい石を黙らせにだ!」
出口のない地獄で、理久は初めて、明確な「目的」と「仲間」を手に入れた。
それが、どんな茨の道に続くものかも知らずに。