元婚約者が浮気してできた子どもを手に君との子どもだよと淀んだ瞳で迫ってくる。いえ、あなたと浮気相手との子どもです。私は無関係ですのでお帰りください
イレーヌ・ド・ヴァロワは王太子殿下ジルベール様の婚約者。お父様が侯爵という、それはそれはお高いお生まれの令嬢ということになっているらしい。お高く止まっているわけじゃないのだけれど?
高位貴族というのはよくそう思われがちだわねと、高位貴族の令嬢達と話す時もあった。それに彼には最近困ったことがある。
ジルベール様の周りにはいつもニコニコした庶民上がりの可愛い女の子、名前は確かマリシアとか言ったか、その子と仲睦まじい親密なご様子。殿下はいつもその子ばかり見ていて、真の婚約者なんて眼中にないみたいだった。
「まったく、私をないがしろにするなんていい度胸ね」
そうは言っても表向きは取り繕って、婚約者としての役目を果たしていたのは一応ヴァロワ家の名誉もあるし、それに婚約破棄なんてこちらから願い出るなんてありえないと思っていたんだけどある日、ジルベール様がそれはそれは申し訳なさそうな顔で言ってきた。なんだか、簡単に終わるみたいに思っている相手の様子。
「イレーヌ、君には本当に申し訳ないと思っている。だが、僕の心はマリシアにあるんだ。どうか僕たちの婚約を解消か破棄をしてほしい」
きた、この展開!と待っていたのだけれど心の中で、ニヤリと笑った。実はお父様からこっそり聞かされていたことがあるのだ。
「イレーヌ、もし殿下の方から婚約破棄を申し出てきたらヴァロワ家には莫大な慰謝料が支払われることになるんだ」
婚約者がマリシア様に夢中になっている間、ちゃっかり美味しい話を聞いていた。そんな価値でもないと楽に別れを選択はしないけれどもちろん、表面上は悲しそうな顔をして見せるのはおちゃのこさいさい。他にも婚約していた理由がウチにはあるものの。
「殿下……そんな……わたくしを捨てるというのですか?」
って、涙目の演技もバッチリで、たっぷりの涙。イレーヌは練習をたくさんしたから完璧でしょうと内心勝ちに酔いしれ、ジルベール様は演技にすっかり騙されてますます申し訳なさそうな顔になった。
不貞をまるで、悲劇のように語るなど落ちたものだ。
「本当にすまない。君のことは一生忘れない」
「わかりました。お元気で」
最後に少しだけ寂しそうな声を出してみた。一捻り、忘れたくても忘れられない気がする。あなたが。
「殿下のご決意が固いのなら、わたくしは身を引きますわ」
すっぱり縁を切る数日後、王家からヴァロワ家にそれはもうびっくりするくらいの金銀財宝が届けられた!
慰謝料も契約通り、満足できるほどであったからお父様は満面の笑みで褒める。
「イレーヌ、よくやった!」
頭を撫でてくれた。慰謝料でずーっと欲しかった豪華な宝石の首飾りをいくつか買う。王子妃になる女には派手だからと買えずにいたのだ。
それから、広くて日当たりの良い別邸を建てて、そこで優雅な一人暮らしを始めた。ジルベール様とマリシア様はどうなったかって?
知らない。
でも、たまに聞こえてくる噂では庶民との結婚は色々大変みたい?
身分違いの恋ってそんなに甘くないのよねぇ。
ゴシップ記事や新聞を読む使用人達にたまに聞いたりするが怒鳴り合いが聞こえてくるとか、攻め合う声があるだとか。王家なのに漏れ出る噂は権威の揺らぎ、こちらは今新しいお屋敷で可愛い猫たちに囲まれて、のんびり過ごしている。
令嬢のスローライフ。婚約破棄してくれたおかげでこんな素敵な生活が手に入ったんだから、ジルベール様には感謝しないと!って、心の中だけで思っておくわ。
ふふ、婚約破棄って思ったよりずっと蜜の味がする。
優雅な別邸での生活は本当に快適で朝はゆっくりと起きて、美味しい朝食をテラスでいただく。午後は庭園で読書をしたりお気に入りの猫と昼寝をしたり。
夜はキラキラ輝く宝石を眺めながら、美味しいワインを嗜む。ジルベール様との婚約が破棄されて本当に良かった。
あのままあの方と結婚していたら、きっと退屈な毎日だったでしょうし、きっと浮気性で苦労しただろう。
そんなある日、別邸に見慣れない男性が訪ねてきた。
庭の手入れをしている庭師が困った顔でイレーヌを呼びに来る。
「イレーヌ様、お客様がお見えです」
誰かしらこんな時間に。応接間に通された男性はすらりとした背格好で、落ち着いた雰囲気の素敵な人で深い青色の瞳が知的な光を湛えている。
「突然の訪問、失礼いたします。わたくしは、ドミニク・ラオン・ライナーと申します」
ライナー?
確か、隣国の伯爵家の次男の方?
「ライナー様、ようこそいらっしゃいました。何かご用でしょうか?」
ドミニク様は柔らかな微笑みを浮かべる。
「実は、以前よりイレーヌ様の噂を耳にしておりまして。婚約破棄されたと伺い、もしよろしければお慰めにお伺いしたいと」
お慰め、ね。まあ、悪い気はしない。
それにこうして見ると、ドミニク様はなかなか魅力的だしジルベール様とは違って、落ち着いていて大人の余裕を感じさせる。それからというもの、ドミニク様は時々この別邸に訪れるようになった。
様々な国の珍しい話や興味深い書物の話、一緒に庭園を散歩したりお茶をしたりする時間もとても心地よかった。
最初はただの物珍しさだと思っていたけれど、彼の優しい眼差しや知的な会話に触れるうちに、今まで感じたことのない温かいものが芽生え始めた。
ある夕暮れ、庭園のベンチで二人で話している時、ドミニク様が真剣な眼差しでイレーヌを見つめてきた。
「イレーヌ様、初めてお会いした時から、あなたの聡明さと美しさに心を奪われておりました。もし、よろしければ……わたくしと、もっと親しくお付き合いいただけませんか?」
ドキッとした。ジルベール様からの求婚とは全く違う感覚に胸の奥が、ほんのり温かくて、少しだけドキドキする。
「……そのようなお言葉をいただけるとは、思ってもおりませんでした」
少し照れながらいえばドミニク様は、優しく微笑んだ。
「どうか、ドミニクとお呼びください。あなたの気持ちを教えていただけませんか?」
彼の青い瞳をじっと見つめたら瞳には、優しさと真剣さがある。
「……ドミニク様」
婚約破棄は確かに私に莫大な慰謝料をもたらしてくれた。優雅に暮らせる資金も、それ以上に、ドミニク様という素敵な人に出会うことができた。
「はい」
もしかしたら、あの時の婚約破棄は不幸ではなく新しい幸せへの扉を開くためのものだったのかもしれない。
「よろしくお願いします」
ジルベール様、マリシア。
あなたたちのおかげで、私は今、とても幸せ。
「こちらこそ」
心の中でそう呟きながら、ドミニク様と手を取り合う。ドミニク様との穏やかな日々を送る中で、イレーヌの心には新しい興味が湧き上がる。
莫大な慰謝料で不自由のない暮らしを送る一方で。
「何か自分の手で、人を喜ばせるようなことがしたい」
と、感じ始めたので探してみることに。ある日、庭園で育てている美しい花々を眺めている時、ふとそんなことを思う。
「この花びらの色や香りを活かして、何か素敵なものが作れないかしら?」
イレーヌは以前から美容には興味があったが、自分で何かを作ったり、商売をしたりすることは考えたこともない。ドミニク様と出会い、色々な話を聞くうちに新しいことに挑戦する勇気が湧いてきた。
善は急げ。早速、イレーヌは古い書物を読み漁りハーブや花の効能、香りの調合について熱心に学び始め、別邸の庭には様々な種類の花やハーブが植えられ、小さな植物園のよう。色々庭師に注文もし、試行錯誤を繰り返すうちにイレーヌはいくつかの自信作を生み出す。
庭で採れたバラを使ったほんのり甘い香りの化粧水、ラベンダーのやすらぎを与える効果を活かしたクリーム、鮮やかなマリーゴールドの色を抽出した、リップグロスなど。出来上がった化粧品をまずは自分の親しい友人に試してもらうことに。すると、皆は優しい使い心地と自然な香りをとても気に入ってくれた。
「イレーヌ様、こんな素敵なものが作れるなんて、本当に才能があるのね!」
と、口々に褒めてくれる。友人たちの言葉に勇気づけられたイレーヌはこれなら、もしかしたら商売になるかもしれないと考え始めドミニク様に相談してみると、彼は目を輝かせて賛成してくれた。
「イレーヌ様の美しい感性と努力があれば、きっと素晴らしい化粧品ができるでしょう。こちらも、できる限りの助けさせていただきます」
ドミニク様の温かい支えを得て、イレーヌは本格的に化粧品ビジネスを始めることを決意。
「ドミニク様。こういうアトリエを作ろうと思いますの」
「いいですね。出資しますよ」
「まぁ。ありがとうございます。けれど大丈夫ですわ」
まずは別邸の一室を研究室兼アトリエ作業場に改装、必要な器具や材料を揃えブランド名を考えることに。
「庭園の花々から生まれた、自然な美しさ」
コンセプトに庭を意味するジャルダン、自身の名前「イレーヌ」を組み合わせたジャルダン・ディレーヌという素敵な名前を思いつく。
パッケージデザインにもこだわり、花柄を基調とした上品で可愛らしいものを選び一つ一つの製品に、心を込めて手書きのメッセージを添えることにした。企画は楽しく、いよいよ最初の製品を販売する日がやってきた。
親しい友人やドミニク様の知人などに声をかけ、小さな展示会を開く。お試しになる会場にはイレーヌ様が丁寧に作った、色とりどりの化粧品が並べられた。
バラの香りの化粧水、ラベンダーのやすらぎを与えるクリームマリーゴールドの鮮やかなリップグロスを前に訪れた人たちは美しい見た目と優しい香りに、すぐに魅了される。
「まあ、なんて素敵なの!」
「使い心地もとても良いわ!」
友人たちの評判は上々で、用意した製品はあっという間に売り切れてしまうイレーヌの心は、喜びと達成感で満たされた。
「私にも、人を笑顔にできることがあるんだ……!」
商品を次回も買いたいと注文が殺到して、益々富が増えていけば元婚約者がアポイントなしでやってきた。不躾を通り越して気持ち悪い。
平民同士の家じゃないのだから、気軽に来られても迷惑としか思えないのだが?
「はぁ。何用ですか」
「助けてくれ!」
「主語もないのに、わかるわけないじゃないですか。頭が悪くなられましたのね」
「なんだその、口の聞き方はっ」
怒鳴りつける男は己が不法侵入寸前の肩書をぶら下げていることをとんと理解せず、しかも開口一番に突然顔が厚いことを言い出す。なんとなく何を言うのか大体わかるけども。
「すでに縁が切れた関係なのです。口の聞き方も何もありません。あなたは私からしたら他人になったのですよ?おまけに私からしたからあなたは加害者、なのですが?わかってないからここまで来られたのでしょうね」
ため息を吐く。
「だから、その口の聞き方はっ」
バシッ!
扇子を大袈裟に開くとびくりと相手は肩を揺らす。
「王太子殿下。あなたは私にあの時、なんと言いました?愛した人ができたから婚約を無かったことにしてほしいと、確かに聞きましたわ。なにか間違えているかしら?」
イレーヌは一言一句覚えている。
イレーヌ、君には本当に申し訳ないと思っている、だが僕の心はマリシアにあるんだ、どうか僕たちの婚約を解消か破棄してほしい。
「殿下はおっしゃいました。間違いありません。書記の方にも確認しましたもの」
「そっ、それはっ。その……マリシアはわがままで下品で、マナーもめちゃくちゃで。話し方もまだ庶民臭くて。食べる時くちゃくちゃするし魚料理をフォークで崩して、見ただけで吐き気がして」
え?
これいつまで続くのかしら?といわゆる、愚痴を言い出す男に辟易した。
「殿下。耳うるそうございます。おやめになって」
「笑う時口を大きく開けるし。トイレに行った時に洗ってないと聞いた時は耳を疑った。母上に楯突いて空気を悪くするし。母上にあんな女を選ぶなんてとずっと文句を言われ、父上にはお前のせいで王家の金が減ったと怒られるし」
この人、止めてと言ったのにそもそも、聞いていないらしいと呆れてものも言えないわと、額に手をやる。
もしかして、ここへ来たのは王家に身の置き場がないから逃避しに来たとか?
我が家をおひとり様の極上のお城を避暑地にしないでもらいたいし、この家はもう人でいっぱいだからジルベール様が入る余地はないのだ。
「マリシア様がここへ来たと知ったら、私は彼女に恨まれますわ?もうお帰りになって?」
犬を払うように告げる。
「な、そんなことを言わないでくれ。ここにしか居場所がなくて。それに、マリシアは君に敵わないはずだ。マリシアは平民だから貴族の君に手出しはできない」
いや、そういうことを言いたいのではなく単に、女の嫉妬心について話している。そこに爵位はあまり関係ないしそもそも、爵位を気にするのならとっくに王太子と離れたりしている。
「私はそういう意味で言ったのではありません。婚約者ではない貴族子女の家に王家の紋章を付けた馬車に乗って、やってこられては迷惑だと言っているのです」
図々しく婚約者を奪っていったりしない。あの、マリシアという女性が貴族ならば家族達がやめなさいとでもいい、止めていただろう。
「大丈夫だ。私と君の仲ではないか。今更冷たくしないでくれ。確かに婚約者ではなくなったが、幼なじみではないか」
王太子とその婚約者との間に迂闊に入り、婚約を壊したとなればお家断絶の憂き目も視野に入ってくる。ではなぜ、マリシア様の時はお家断絶に至っていないのかというと。
「幼馴染の縁も切ったつもりだから、ご迷惑だと言っているのです。私があなたのことを嫌いだから言っているのです。いい加減に理解してくださいませんか」
王太子がどうやらそのとき、すでに関係を結んでいたとかいないとか、二人は結ばれるために嘘をついて互いに口裏を合わせた可能性もある。
「な、なにを。私はそんなもの認めてないぞ!?」
ことは、王家しかわからない。多分、今でもジルベール様に王家の影が張り付いているだろうし。
「認めるも何も最初に私と殿下の関係を切ったのはそちらではないですか。なんです?好きな人ができたから、婚約をなかったことにしてくれとは。私を馬鹿にしていますよね?王家の王妃教育をなんだと思っているのですか。どれだけの時間を犠牲にして、どれだけの時間を王家のために使ったと思っているのですか」
恐らく、屋敷の外からでも見張っている……と、思う。いるかいないかも、イレーヌには結局知らされることはなかったので憶測になるが。
「なんだ。その言い草は。貴族と言うものは、王家を支えるためにいるのだぞ?今更そんなことを言って、もっと早くに嫌だと言えばよかっただろう?私に八つ当たりをしないでくれないか」
男の言葉に手がぶるりと震える。
「八つ、当たり?」
怒りの震えだった。
「八つ当たりと言うのは何の関係もない、何の関与もない人が言える言葉です。殿下は当事者ではないですか。好きな人ができたからといって私を切り捨てましたわ。いとも簡単に。普通ならばもっと反論して、婚約を継続させようと足掻く利がこちらにありました。抗議しなかったのは、慰謝料を貰うことが決まっていたからです。そうでもなければ、あんなに綺麗に婚約を解消できることはなかったはずです」
切々と冷静になって、あの時のその後の可能性を説明してあげたのにジルベール様が次に告げたのは、婚約解消に伴う慰謝料のことだった。
「そう、それのことも言いたかったんだよ」
「それとは?」
謝ることもしないで何を言うと。
「慰謝料のことさ。そろそろ戻してくれないか?流石に払わせすぎだと思わないか」
「は、はい?払わせすぎだ、とおっしゃっているのですか?あの金額を?私は王太子の妃になることが決まっていて、将来は王妃に決まっていた身なのですよ?」
ぶるぶると身体が震える。信じられないわ、この人っ。
ただの貴族と貴族の結婚ではないのに、頭から自分が貴族の頂点だと言うことを忘れているのではないのか?
「だが、王太子妃にならなかったじゃないか?」
きょとんと、まるで自分が無罪のような様子で、あどけない顔をしながら残酷にイレーヌへ大鉈を振り下ろす。
「っ!!!!」
貴様が言うなっ!!!
扇子をその頭に突き刺したくなった。つい、汚い言葉を叫びそうになって手を抓る。
(この人は、頭の病。頭の病なの。常識がない、王族としてはならないほどの頭の病気っ)
何度も自分に言い聞かして、なんとか相手が気狂いなのだと納得させなければ、ただのバカであり、人として人間の機微を察せない王族として一番素養のない。王になってはいけないような存在となってしまう。
「もう帰ってもらってもよろしいかしら」
前々から疑ってはいた。庶民を王妃にしようとする、その頭に。なぜ王家は……いや、もしかしたら。
「だから居場所がない。それに慰謝料の話がまだ終わっていないだろう。話をすり替えないでくれ。君はそういう性格だったんだな」
色々と推測できるものの王家が手綱を握れていないのならば、さっさとこの不貞王太子を追い出さねば。
「はぁ。どんな性格を想像していたのか、知りたくもありませんし、こっちのセリフなのですが?すり替えてません。正当な慰謝料なので返金はしませんわ。これでよろしい?では、ごきげんよう」
居場所云々については触れない。こちらにまっったく。これっっぽっちも!関係ないから。
マシリア様については噂というか、お父様情報によれば王子妃候補にもないらしい。
「ごきげんようではない。何度も言わせないでくれ。まだ話は終わってない。おい、放せ!」
実はまだイレーヌを諦めていないのかもしれないと、疑いを濃厚にさせる王太子ジルベール様が自由にしているところや、我が家に来ることを止めないのはそういった思惑も関与しているのかもしれない。
「イレーヌ。この護衛に離すように言ってくれ」
部屋にいた護衛に合図し、拘束してもらう。隣国に移ろうかしら?
この国がどんどん嫌になってきた。
「さようなら。二度と来ないでください。あと、高度なマナーと王室の教育を受けさせてもらっているのならば、先触れという基礎の基礎をやってくださいまし」
別に、この国の家族と別れても本来王家と結婚する時点で王家の人間になり、滅多に会えなくなる。
「放せ!僕を誰だと思っているのだ!」
「王家は貴族の家に勝手に来て勝手に上がっていいという、そんなための肩書きではないのですよ。そんなこともわからない方が、権威を主張しないでくださいませ。王家の信頼をこんなことで失落させたいのですか?」
故に、あまり変わらない。結婚するか、移住するかの違い。そうだ、ドミニク様にも相談しよう。
ジルベール様が外に出たと聞き、馬車をお見送りするところまで見たと報告を受けようやく肩の荷が降りた気分。
全くもう何の関係もないというのに幼馴染だとか、恐らくそれだけではなく姉か妹のような感覚で距離感を誤って認識しているのではないかしら?
でないと、気楽に金を返せなどと言わないはず。それどころか最初は愚痴を吐いていた。
誰もお悩みならば言ってください、なんて一言も述べてないというのに勝手に来たと思えば開口一番に「助けてくれ」とはイレーヌを格下に思っていることが嫌でも理解できる。早速、王家宛に抗議文をしたため送りつけよう。
「はぁ。疲れたわ……紅茶をお願い。濃いのをね」
「かしこまりました」
「あと、これを。王家とドミニク様へ送ってちょうだい」
「了解しました」
執事へ預けて、ソファに体を沈み込ませる。王太子妃教育を受けたがそんなものを殴り捨ててしまうくらい憔悴した。
「隣国に行きたいわ……ドミニク様に、会いたい」
王家とは、慰謝料の他に契約で王家からの不干渉を得ているのにそれを破ったのだから、抗議できるのだ。王家としては、王太子はそのことを知らなかったということにするつもりなのが透けて見える。吐き気がしそうだ。
「頭痛もしてきそう」
無性に恋心が出来始めている相手の名をつぶやく。多分、王家はドミニクのことでイレーヌを取られるかもしれないと焦っていてこのような、無謀な真似をしたのかもしれない。
「王家がこんなことを容認するなんて、余程切羽詰まってるのかしら」
あの王太子には荷が重い気がするし、もっと別の人にイレーヌを口説かせた方が脈のあり方が変わる気がしてきた。
「第二王子……」
どう見ても、聞いても人選ミス。手紙には王子妃にならなかったのだから、慰謝料を返せと言われたと猛抗議の文を書いておいた。お父様にも猛抗議してもらおう。
流石に当主からも怒りの手紙を貰えば、王家も二度目という軽率なことはしまいと思いたいが、あのポンコツ王太子を生み出した製造元だから不安になる。
王家には王弟や第二王子がいて、王位継承権を持つので息子に継がせたい王と王妃は焦るのだろう。
別に第二王子でもそれなら構わない気がするのでジルベール様よりかは、マシ。マリシアを選ぶという素晴らしいの反対を行く、先見の明。
「ぜひ、第二王子になってほしい」
首を振り、ぶるりとなる。あの第一王子であり暫定王太子の男が下手に王になった場合もしや、イレーヌを王命で第二妃にする、なんてことを言い出しかねない。
イレーヌ、悪いけど……の後に、婚約解消をなかったことにしてくれないかい?と恥もなく言いそう。
「あの、ジルベール様ならやりそう」
貴族院が許さないと思うし、父も認めるわけがないのだがあのポンコツが兵を動かしたら流石のイレーヌも無理矢理連れて行かれるやも。
「あの人が王になったら誰も止められない」
震えがいつまでも止まりそうにない。紅茶がサーブされ、ようやく一息つけるまでその想像は未来なのではと恐ろしくなってきた。この家は別邸といえ、公爵家の持ち物なのにそこへずかずかと来てずかずかと返せだの、マリシアは酷いだの言い出す程の愚か者。脳の病気の疑いのあるジルベールに人としての普通を求めるのは些か、楽観的過ぎるのかもしれない。
「こうしちゃいられない。お父様に報告しなきゃ。早馬は……」
父にも手紙を出そう、そうしよう。こちらは化粧品やクリームなどの企画、製造について考えたいというのに余計な手間を増やす王家には愛想が尽きた。元々、忠誠も敬愛も尊敬もしてなかったがそんなものはイレーヌにジルベール様を押し付けた時点で、湖水湖に沈めた。
二度と浮上することはないほど、深く深く。お父様もあの王家はと溜め息を吐き、出来の悪い方の息子を勧めてきたことに憤っていた。
この婚約は一人娘しかいない公爵家に対する直系への干渉を行った王家の罪であり本来、許されることではないのになぜイレーヌ達は大人しく王宮へ馳せ参じたのか。
「早い話、内から見た方が見限るかどうか、判断しやすいからなのよねぇ」
顎に手をやる。どのようなことになろうと、この婚約はなくなると父は断定し王とは考え方が分れていたのだ。嫌だと一度断り、二度目にあの契約書を作成したことでわかるというものなのにあれで察せない王家の者達に呆れた顔をしたのだと、教えてもらったりしていた。
なるほど。それにしても、王様達が今更になってこんなにも焦り出すなど王宮でなにか異変が起こりつつある予兆なのかもと、そこもお父様に聞いておこう。知らないよりも、知っておかないととてつもなく嫌な予感を覚えるのだ。
数日後、別邸に父からの手紙とドミニクが同じくらいの日程で届いた。
「あなたのお父上からのお手紙を届けにきました。イレーヌ様」
「まあ。生まれて初めて、こんなに嬉しい手紙と配達人に会うことができるなんて。幸せ者ですわ」
「おや。随分と嬉しいことを言ってくださる。どうやら、不遜なものにでも会ってしまったのでしょうか」
ドミニクは恐らく父から殿下のことを聞き及んだのだろうか、それともドミニクもなにか情報を知る方法を持っているということなのか。他国の王太子の元婚約者のことを早くに知れるくらいの、太いパイプを持つのかもしれない。
「確かに、会ってしまいました。口を開けばワンワンと言い続ける、私の自慢の庭に勝手に入ってくる犬が」
「それはそれは。大変でしたね。相手は粗相をしたりしませんでしたか?犬というのは相手が焦ったり怒ったりしても、遊んでもらっていると思って。いつまでも、逃げ回りなかなか捕まえられないのです」
詳しいなと目を丸くする。
「お詳しいのですね。経験が?」
「ええ。私の見た犬は純粋な心を持つ穢れのないものでしたが」
可愛いわ、と和む。犬と戯れるドミニク様を見てみたいものだ。
「ドミニク様の知る犬は随分と賢いのですね?うちに迷い込んで侵入してきた犬は、血統書付きなのですが。躾がどうやらうまくいかなかったらしく……粗相というよりも鳴き声がずーっと捕らえるまで聞こえましたの。今も思い出すだけで頭痛がしそうなのです。おまけに、高貴な者の犬なので下手に扱えず。次回また迷い込んでこられてもうまく追い払えるか」
王太子を犬に例えて、息を吐く。手綱を親達は握る気もないのに放し飼いも大概にしてほしいわ、とドミニク様に打ち明ける。
「そうでしたか。そのような時に近くにいられなかったのが、悔しいです。耳を塞ぐくらいはしてあげられたのに」
不甲斐ないと嘆く。
「そんなことはありません。確かに耳障りな遠吠えがあり、今も思い出すだけで胸がざわつきますが。問題は来ることよりも。その犬が本当に首輪を引きちぎって自由を得たときです。お相手を放って、こちらにこられるのはいけないことなのですよと言ったのに……この家を避難所代わりにするどころか。私を他所の犬と勘違いして、襲ってくるかもしれないことなのですよ」
マリシア様を犬に例えてまた頭を揉む。見当違いなことをされては、たまったものではない。
「困ったものですね。犬笛でも購入しておきましょう。それと、護衛や兵も多く配置しましょう。イレーヌ様のお父上からも許可を得ていますので。詳しくは手紙にあると思われます」
「ドミニク様。ありがとうございます」
こちらにもたっぷり涙を溜めて、彼へ送る嬉しい心とこちらの涙は本物だ。偽物と違う部分は気持ちの問題。元婚約者というだけのジルベール様に、家に訪問されて血圧が上がっていたけれど下がっていく感覚に、涙を拭う。
「イレーヌ様。安心してください。お父上のお眼鏡に適ったようです。こうやってお手紙を託してもらえました。隣国への避難もちゃんと伝わってます」
「では、行けると?」
「はい」
ドミニクは心得ていると目を細めると、潤む瞳をそのままに笑う。
「早く行きたいです。ジルベール様の顔を見てしまい、恐ろしくて仕方ありませんの。あの人、何食わぬ顔で慰謝料を払わせすぎだというので、今までの分と言いましたら。王子妃にも王妃にもならなかったのだからと、素知らぬ様子で言いましたのよ?」
あまりにも酷い言葉だと怒る。妃教育は厳しいというのにならなかったから、なんだというのだ。
「困った方ですね。いや、犬ですね。自分から無理矢理下ろしたというのに。いうことかいて、ならなかっただろうとは。ならなかったのではなく。ならせる気をなくした、または、ならせる気をなくさせたの大間違いが見受けられます」
「そうなのです」
同意者ができて、こくりと頷く。
「わざわざ、目の前で好きな者ができたと言われて、他になにを言えたでしょう。破棄か解消を選べと。継続を最初から提示しなかったのは向こうなのに。告げる前から嫌だと、無理だと言わせる気など、ない証ではないのかしら?」
今思い出しても一方的な通達だ。相談の前段階なし、各方面への根回しもしてない。
「酷いですね。お慰めしに来て正解でした。過去の自分の英断に感謝してますよ。そんなことを言っておいていざ、結婚前のこととは言え元婚約者であるあなたに次の婚約者の愚痴を言うなんて、男の風上にも置けない。ああ。犬でしたね」
そうなのである。ジルベールはよりにもよって、追い出した元婚約に原因となった庶民の悪口を告げにきたのだ。
「ま、まさかとは思いますが。私がおうた、いえ、ワンワンと共に吠えてくれると思って。共感して欲しくて愚痴を述べにきたのかもしれません。慰謝料のことは後付けに聞こえましたので。どちらかというと、前半の為に我が家の門を通ったのだと思います」
庶民の次なる、婚約者であるマリシアの悪口を言えば。好機に見ていなかったイレーヌならばわかってくれる、とでも思っていたのか?
単に気安い仲だと自己申告していたので、言いに来たのか?
もう夫婦になる予定もないのに、夫になることもない男の愚痴なんて魚のエサにもならない。
「そこまで、今まで近くにいたのならその関係がまだ続いていると思い込めるのかもしれません。なまじ、嫌われるような肩書きではなく、その人の周りに必ず集まるようにと教育を受けている方達ばかり。嫌いなどと、態度には絶対に出されませんからね。自分が嫌われるという可能性すら頭にないのかもしれませんよ」
その例えに、ぞくりとするほどの的確さを感じ心理分析が優秀過ぎる。
「ドミニク様。さすがです。私はあの犬の思考回路まではわかりませんが、特権を今まで浴びるほど甘受してきた血統は伊達ではありませんもの。大体、当たっていると思います。もしかしたら、本当にそのままの真理かもしれません」
「好かれて当たり前。なにをしても許される。ですね」
「まあ、マリシア様の件で、成功体験をしてしまいましたし」
いくら王族でも許されない婚前のことなのに、しかし、王と王妃が許してしまい躾ける機会を悠然と失ったわけだ。二人で会話し、その日は終わるが、問題はすでに水面下で音もなく迫ってきていたことをイレーヌはまだ気付いてなかった。
父からの手紙を受け取り、隣国に行く準備をしている最中、また厄災が我が城の門を無作法に叩いてみせた。
「イレーヌ様。また例の王太子様が来られたようで」
「なんですって?あれだけ抗議をしたのに?王家はなにしているのっ」
イラつきながら口元を引き結ぶ。ドミニクはまだ滞在しているので、鉢合わせしないように伝えてもらう。
いくら、口説かれているとはいえ、隣国の貴族とこの国の王太子を出会わせたりすることは憚られたが、決してジルベールの心配ではなくドミニクの身の安全のためであって、死んでもジルベールの為にひと肌だって脱ぎはしない。
「王家に早文を。早く引き取りに来てと!すぐに」
伝えると屋敷の者達がサッと動く。護衛をたくさん引き連れて王太子のいる部屋に向かう途中、父の手紙を浮かべた内容によると、王子の妃にも候補にもなってないマリシア様に動きありとのこと。
現在はお子がその腹にいる可能性があるので保護している状態で動いたということは、生まれたということなのだろうと書いてあった。
おめでたいことではないか?
おめでたいけど、我が家にはもうなんの関係もないこと。
「なんのようなの?この前のことは両陛下から叱責されたでしょうに、堪えてないというの?鋼すぎる精神ね」
それに、生まれたのならばジルベールはこんなところに来ている暇はないと思うのだがと疑問をたくさん浮かべ、客室へと向かう。追い払いたいので渋い茶を注文しておく。
「ここにおられます」
昨日も手紙を受け取り、情報を洗い直す。
「はぁ。開けてちょうだい」
父によれば王家が未練がましくお金を寄付してくれと、返してくれと本音を言えないから寄付を言ってきているが無視するようにと、手紙をさらに貰っていた。
「ごきげんではありませんので、挨拶はしません」
イレーヌの展示会が大盛況で余計に惜しくなっているのだろうが惜しむべきなのは、自分たちの生産した物の品質が大幅に悪質だったくせに、無理矢理押し付けて持続と修理もなんのサポートも付けずに購入者に丸投げしたことだ。イレーヌは室内で寛ぐ男を見て眉をひそめた。
「イレーヌ!会いたかった!」
前は助けてくれなのに、今日は会いたかった、とな?
益々、怪しい……万が一の時ように書記も同席させてある。それと、ドミニク様がイレーヌの意見を取り込んで作った、試作品の映像記録を撮れる機器。
大きいが、調度品に似た作りにしているのでバレにくいのでちょっとでもあの、将来暴君になりそうな男の弱みをギリギリと握り、一生締め付けられるものを撮りたい。下手に王命を振りかざす可能性がイレーヌの中で堂々の一位を謳歌しているのだから、鼻歌をするように、軽やかにこれは王命であると言い始めることに賭けてもいい。
「イレッ」
「ひっ」
なんとジルベールは足をはっきり動かし、こちらへ来て腕を広げるが、護衛がすかさず王太子の前に妨げるように出た。中途半端な手を渋々下す。
「全く、無粋な護衛だ。僕とイレーヌの中に入るなど。折角、イレーヌと」
なにか言い出して余計に怖さが起こる。
「殿下。お早く要件を。こちらも暇ではありませんの」
気味悪さがランクアップしたから、早口で足す。
「そんなことを言わないでくれ。僕と君の仲ではないか。確かに婚約はなくなったが。しかし。ほら、見てくれイレーヌ。僕と君を再び結び直してくれるだろうモノを持ってきたのだよ」
男は前と同じ、否、前よりさらに意味もわかりたくないことを口にしながら、隣に置いていた大きな大きなバスケットをテーブルに乗せる。やけにドンと音をさせたそれが、なんとも嫌な音。
「煩いから鳴かなくてよかったよ。ナクと煩くて敵わない。医師から貰った睡眠薬を一応、持参しているから煩いと思ったら言ってくれ。すぐに飲ませよう」
「……なにを」
ある一つの可能性に行き渡り、体がかつてないほどガタガタと揺れる。
「まさか」
カゴの中を見たくない。彼の言い草は犬や猫ではない、そんなもので直るものはない。
「殿下、あなたは」
だとすれば。今、彼が持ってこれる命。
「あなたは」
鳴くと彼は言ったがそれはイレーヌの耳が勝手に変換しただけ。
「ひっ。そんな」
もし、それが〈泣く〉というものなのだとしたら。
「誰か、あの人を呼んでっ」
なんということだろう。おまけに、睡眠薬をとこの人手なしは言いはしなかったか?
「勝手に連れてきたというの?」
睡眠薬をどのみち、どの動物に使う事も本来はしてはならない。
「生後数日なのに」
睡眠薬は成人に適切な指導の元、使われるものなのだ。
「いや。だ、誰か」
「イレーヌ様!お気を確かにっ」
護衛もメイドも執事も、王太子という名の異常者を前にカチカチに身を凍らせていた。
「イレーヌ?泣きそうになっているのかい?」
人なのに化け物に見える男に心配されるくらいなら、本物の化け物の懐へ行った方がまだ救いがある。
「ドミニクッ!ドミニク!!助けて!助けてッ!助けて!」
物理的に接近されないのは頭では理解できるけれど、このヒトもどきは自分の血を分けたものを。
「イレーヌ!?どうした?大丈夫だよ?怖くない。ほら」
いや、見せなくていいから!!
皆の心が一つになるが無邪気な手が布を取り去ると全員がああ、と諦めと失望とよくわからない重いなにかを吐き出す。
「イレーヌ。ほら、僕らの赤ん坊だ。可愛いだろ?」
その可愛い存在になにを盛ろうとしたんだ、こいつはと周りは白い目で見つめる。
「イレーヌ様!」
ついに、待っていた救世主が現れた。ドミニクを呼びに行ったものも、ドミニクも部屋の空気に戸惑いつつとりあえずイレーヌたちのそばに近づく。
「あれ、緊急事態って聞いてきたのですが」
「ええ。大事です。王太子殿下の子を殿下が勝手に、持ち出したようなのです」
心は凍りついているが、口からはさらりと説明ができた。冷静じゃないのに不思議な感覚だ。嬉しくもないが、今は適切な説明がなにより優先される。
「え?」
さすがのドミニク様も目を点にし、カゴの中の赤子を見る。
「見ての通り、生まれたての王家のお子」
「聞いてくれイレーヌ!マリシアの産んだこいつは僕の子じゃなかったんだ!酷い裏切りだと思わないか?」
「なっ」
「ドミニク様!耳を!」
ドミニクの手を持ち彼の耳へ寄せて塞ぐ。これは、王家崩壊並みの秘密にドミニク様であれ、危険だ。
「ジルベール王太子殿下。今すぐそのお子を離して」
さっきからイレーヌとの子だとか、こいつだとか言うその心理が危うく思えて、赤ん坊を持たせてはいけない精神状態。
「お子?ははっ。だから、この赤子は僕の子じゃなかった。マリシアは他の男とも関係していた。見てくれ、この髪色。瞳の色も」
無理矢理赤子の目を開けようとしている気配に、イレーヌとドミニク様は両腕を持ち動きを封じた以心伝心の一瞬の出来事。
「なにをするんだ?離してくれ?」
まるで、何もしてないじゃないかと言わんばかりの無自覚なのに目が心なしが濃い色をしていて、目の下に隈が薄らある。
「殿下。あなたは心を壊しつつあるのでしょう。赤子に睡眠薬を盛るのも、目をこじ開けようとするのも」
王子の赤子でなかったのは、まあ、そうなるわよねと思う。多分、流れ的にイレーヌが婚約を解消したきっかけになったマリシアとジルベールの関係を持った云々の発端は、おそらくマリシアの杜撰なものなのだろう。
いつから殿下と庶民上がりの娘が出会ったかなど知りたくもないので、報告書を読まずにいたことを少し後悔。
だが、順番はどのみちわかる。王家に保護される前にすでに腹には王家のものではなく、違う血筋のものがあったのだろう。いくらなんでも王家に監視されての不貞は無理なので時系列で見れば自ずと、囲われる前になる。
誰が父親かはわからないが、怪しいからこそ王家はマリシアを婚約者候補にも王妃候補にもしなかった。
辻褄と、王家の今までのなにもしなかった理由が垣間見えるので知らなかった王族は、王太子くらいのものだったかもしれないから生まれた瞬間、自分とは違う血筋を感じ取ったジルベール様は酷く朦朧とし、愕然としたのだ。
今ここにいるのは絶望し終えた男、抜け殻なのだ。
それにしてもと首を傾げ、赤子から離してから腕を拘束しておく。
「おいおい、まるで、罪人のようではないか?外してくれ」
「外さなければ、話を聞いてあげましょう。外すのなら追い出します」
「私は王太子なのだぞ?敬いというものを」
「出て行きますか」
「イレーヌとの子として育てればいいと思ってだな」
「出て行きますか、殿下」
やはり、まともに話を聞いていないのか、亡霊のようにぶつぶつと言うだけで問答のようなものになってないので、ドミニク様もその異様な様子に赤子を見つつ聞いてないフリをしている。
「殿下、帰ってもらってもいいのですよ?あなたはもう婚約者でも、幼馴染でもないですから。無関係な赤の他人なのです。聞こえていますよね?壊れたフリをしても私にはわかるのですよ。卑怯なところは昔からありましたからね。殿下を別名で卑怯者と呼んでも構いませんのよ」
汚いものを見る目でジルベール様に対して、嫌悪感を伝えると彼はぶるっと震える。
「なぜだ?この子を共に育てれば」
言葉に詰まる相手へすかさず、挟む。
「なぜ私がジルベール様の子供でもなかった、無関係な赤子を見なければ?」
「だって、君は私の婚約者だ」
関係者一同、この部屋にいる者たちは息を呑む。
「私はもう、婚約者じゃありません。ジルベール様が婚約を解消するように、命令なさいましたもの」
「命令なんて」
「しましたの。貴族は王族の言葉に従うようにと教育を受けて、その通り婚約はなくなりました。そうでしょう?よかったではないですか」
にっこり笑う。この人が王子ではなく、人に化けたヒトモドキなのだと思えば怖さも多少薄くなる、わけもないが。
「よかったって、どこがだい?愛するマリシアに裏切られて、王太子だって父上が弟になるって言うんだ」
「あら、そうですか。まあ、なるでしょうねぇ」
「えっ」
ジルベール様はきっと、そんなの間違ってます、私が王様に言ってあげましょう、なんて言葉がかけられると思っていた顔をしていた。同意してもらえない悲しみの顔。
「裏切られたと、おっしゃいましたね」
「ああ」
「では、殿下は誰も裏切ってませんか?」
「ん?」
裏切りなんて、そんなバカなと歪んだ笑みを浮かべる王子に全員きっと(嘘だろ!?)と思い描いているに違いない。この人はこう言う人なのだ。ドミニク様も言っていただろうと想い出す。
許す、許されないのことを考えない、まず全部思った通りに動くという前提で彼は生きている、と。
「私を裏切りました」
ドミニク様が少し反応したが、それよりもジルベール様が強く否定する。
「してない。何を言うんだい?」
「では、教えてください。婚約者がいる男が婚約者ではない女と、関係を持つ意味を」
「そ……れは」
すかさず切り込む。
「浮気、ですわよね?」
「な、ちがっ。マリシアとは真の愛を」
「なぜ、その前に婚約を破棄してくれなかったのですか?」
「お、大袈裟になるだろ、そうだろう?」
「大袈裟?誰がどう大袈裟になるのです?」
絶対に逃さない。
「父上や、母上。君だって大袈裟にして慰謝料をたくさん」
「ええ。正当な慰謝料ですけれど」
イレーヌは容赦なく追い詰めていく。
「では、次です。なぜ、大袈裟になると思ったのです?普通は誠意を見せるべきですよね?見せてくれませんでしたが」
「み、見せたよ。覚えてるだろ?」
思い出そうとするが、ない。
「君と婚約破棄か婚約解消をしたいと、言っただろう?」
「え、あれがあなたの誠意?」
本気か?
「ああ!イレーヌはきっと悲しかったろう。悪かったね。でも、もう大丈夫。マリシアは嘘つきで子供もあの通り、イレーヌと育てるからっ」
「えーっと、それで?育てて何になるのです?」
聞けば、焦れた様子で目をふっくらさせる。
「イレーヌは意地悪だね。育てて、好きにすればいいんだ」
「好きに、とは?」
「うーん。例えば、大きくなったら資産のある家と結ばせて、そのお金で僕の父上や母上に渡して、君の慰謝料も上乗せすればきっと僕たちは許されるだろう」
「さっっっぱり、理解できません」
思った通り、もうこの人はダメなのだなと烙印を押す。自分と関係のない赤子を勝手に誘拐して、育てて資産家に売りつける。
「殿下。王国の太陽でいなければならない、王太子殿下に申し上げますと」
つまり、恨みを赤ん坊にぶつけたいという、理屈に沿っているようで大幅にズレている計画。
「え、なんだろう」
バカだバカだと思っていたが。
「まず、ですね。この赤子は聞いていると貴族の血は薄いとなります。マリシア様は庶民の血筋。そして、さらにマリシア様の血筋を受け継いでいるこの子はさらに貴族の血が薄いのですよね?」
「ああ。そうかもね」
他人事。
「そんな薄まった、貴族の血を持つ者は貴族ならば忌避します」
血が濃くなりすぎたとなると、別の話だが。
「そうかな?」
だから、他人事。
「そして、一番重要なのですが」
ここで、一息呼吸させるとジルベール様は期待に目を輝かせた。
「ジルベール様が、この世で一番関係ないです」
真実を知ってもらう。
「……えっ?」
それでも彼はまだ気付かない。
「あのですね。ジルベール様と恋人同士だったマリシア様は他に恋人がいましたが。それって王家に保護される前ですよね?恋人になってから保護されたのですよね?」
「あ、ああ」
「婚姻なさってない。しかも、婚約もまだ。そうですね?」
「うん。まだだよ」
未婚の母状態にあるのか。
「では、ジルベール様はやはり無関係になりますわね」
「いや、だから僕はあいつが我が子だと思って、信じて待ってたのに。勝手に生まれてきたくせに。僕は王太子を外されるんだ。あの実子ではないこのせいでっ」
ここまで、映像機器で撮れればもう王家など恐るるに足りない。
「あのですね。庶民は貴族と同じようにはなりません。マリシア様は庶民の出。価値観が違っただけでしょう。それに、殿下のお子様でないなら、殿下は本当になんの関係もないのです。法的にも」
「法的?」
「ええ。この国は法を厳守してますから。当たり前ですが、血のつながりがない赤ん坊を好き勝手できる権利はあなたにありません」
ああ、やっと言えたなとふう、と息を吐く。
男が壊れかけのなにかのようなフリをしていたから、随分と遠回しになってしまった。
「権利が、ない」
一言呟き、呆然と座りこける男を尻目にドミニク様が恐る恐る声をかけた。
「取り敢えず、この子を王宮に返そう。ついでにその、父親でもないのに誘拐した男も」
ドミニク様の言葉に皆は頷き準備しながらも、簡単に予測がつくことを浮かべる。今頃、赤子とジルベール王太子が行方不明になっておおわらわだろう。
「ドミニク様」
馬車で向かう最中、二人きりの車内で礼を言う。
「あの時、駆け付けてくださりありがとうございました」
「いいえ。向かう途中、あなたが私を呼ぶ声が聞こえた時は心臓が高鳴りました」
「高鳴ったのですか?」
「ドミニク、と呼んでくださった」
「あ、そう、なのですか?覚えてません。必死でしたので。ジルベール様が赤子に睡眠薬をと言い出して」
「え!?そ、それはまだ聞いてなかったことですが。なんとも恐ろしい目にあったのですね」
「そうですね。厄年なのでしょうか」
「いいえ!」
ドミニク様はイレーヌの手を握る。
「あなたの個人店はあんなに大盛況です。たまたま巡り合わせが悪かっただけなのでしょう。それに、私と出会えたことを吉だと少しでも」
「あ、ドミニク様……」
「ドミニク、と。もう一度」
「ドミ」
ガチャ。
「イレーヌ様、着きました」
言いかけた甘い空気も飛散した。お互い照れてまたの機会にと共に降りる時、いろんな者たちが先触れで集まっていたが、一際目立つほどボロボロな女がヨタヨタとおぼつかない足でこちらへ来る。
「私の赤子を返しなさいよッ」
その女はジルベール様にではなく、イレーヌへと殺意にも似た目で進む。
「泥棒!ジルを取られたからって、私の赤ん坊をっ。ジルも、あなたのせいで変になったのよ!」
(ああ。この人がマリシアなのね)
産後まだ、間もないはず……というか、よく王太子ではない血筋を産んでおいてその発言をまだ言えるとは。流石は王命で結んだ婚約をめちゃくちゃにしただけは、ある。何も言う気になれなくて無視。
「黙れ」
でも、イレーヌよりも声を上げてくれたのは隣にいた愛しい人。
「よくもそんなことが言えたな。イレーヌ様が穏便に身を引いたから貴様は生きているのだ。それを、命の恩人に向かって。いうことかいて、泥棒?変化の原因?全て貴様がやったことが今になって芽吹いただけだろう」
今や、王宮の玄関口は野次馬のような高位のものや、働く者たちで多い。
「ジルベール王太子殿下は貴様という存在を愛していた。貴様はどうやら違ったようだ。国賊。国家の反逆罪にも匹敵する罪を生まれたばかりの我が子に背負わせた意識もない者が!イレーヌ様を責める資格があるというのか?」
ハッとなる中で子供はまだすやすや寝ていて、ちゃんと確認をしてないのでまだ王太子のお子という身分が適応されると思い、二人の馬車に乗せている。従者や下働きの者たちにはあまりにも重すぎる存在なだけに。でもこの子は生まれた瞬間、許されない身になっていた。
ジルベール様はもしや、それに耐えきれなくてイレーヌの子供として共に育てようと子を殺すことを回避しようと?
考えている間にもドミニクの正論は続く。
「泥棒だと?貴様はなにを聞いていたのだ?泥棒ならば返すことはしない。返しにきたのは殿下が赤子を見せにきてくださったので、共に婚約者と出産の祝いを伝えにきただけだ。はやとちりにも程がある。それに、隣国にもすでにそのことを伝え、早くも隣国の王家の方が祝いのカードを送ってくださるとのこと」
(ドミニク、様)
ドミニクの言葉を聞いた瞬間、イレーヌはこの人の優しさに目頭が熱くなった。これでこの子は理不尽に死ななくて済む。見なかったらなんとも思わなかったが、わざわざ王太子が実在の赤子を目の前に見せにきた。その赤子が亡くなればいくら無関係とはいえ、あのときの赤子が、と永遠に心の傷になる。
「なんですって!」
「なんだと!?」
叫ぶのは赤ん坊を隠したがっていた面々だろうから、隣国の王に赤子の存在を知られてはおいそれと処分もできまいと、そんな想いを感じ取る。イレーヌは涙をちょっとだけこぼし、残りは帰ってからだと気合を入れた。ドミニク様はイレーヌを婚約者と言い、庇ってくれたのだ。
こんな王太子やら赤子やら、なにかと騒動に巻き込まれる女をこんなことがあってなお、背中を見せてくれる。打算でも構わないと思った。
王宮に赤子と王太子を返還し終わり、少し待って欲しいと両陛下から引き止められたけれど。別に断ることなどできたが、ドミニクは頷いたので付き合うことに。この茶番を終わらせねば。イレーヌらにとってこの一連の騒動は全て王家由来なので、さてさて、どんな言い訳をしてくるのか。
「イレーヌ嬢、ドミニク子息、来てくださって感謝します」
相変わらず言葉だけは丁寧だ、言葉だけは。
「それはどうも。では、今後のことですが。王家たる殿下が我が家に来た回数と時間をまとめたので、慰謝料の支払いをお願いします」
スッと、紙を出す。
「な、ま、待ってくれ」
「そ、そうよ、イレーヌ」
「イレーヌ?」
王妃に向かって威圧感のある笑みを向けたのは、なんという上から目線という蔑む瞳を向ける。まだ、イレーヌを呼び捨てにするつもりか?と。
「イレーヌ・ド・ヴァロワですわ。王妃様」
「そ、そうでした。忘れてませんわよ?い、イレーヌ様」
お互い王家と公爵家とはいえ、家格は同じ系譜、どちらかが逆の立場でもおかしくないし王太子とは、嫌だが従姉妹なのである。何代かは親戚のときもあったとかで。王妃の呼び方を修正させたのはもう義理の母親でもなんでもないから、嫁と姑の関係ではないのに馴れ馴れしくしないでほしい。
おまけに、この二人の息子に不貞されて婚約解消した未来の妻だった女に、よくそこまで接せられたものだと呆れる。普通、息子の親ならば肩身を狭く感じざるをえないはずなのに全然そんな感じがしない。面が厚い、さすがは親子である。
「王妃様、王様、私達になんのご用ですか?」
「その、今回のこと誠に申し訳なかった」
「今回のこと、ですか」
「ええ。反省してますのよ」
「反省ですか?許すと言わなければ、家に帰してもらえないということですか?」
聞いてみると、二人はギョッとした顔になる。え?
なんなのでしょう、普通のことですが。謝ったから許すという次元ではない、特に今回は、いや、前回もだが。
「いや、いや。許せなどと」
「違うわよ」
「では、わかりました。これでいいですか?」
許すと言わないイレーヌに二人は顔色を悪くする。
「そ、そうだ。そちらの子息と婚約したと聞いたが」
王が言いかけた時、王妃が言葉を遮り言いたいことだけを告げてくる。
「聞き間違いではないのかしら。ほらジルベールはまだあなたのことが好きなのよ。だから、ほら」
「王妃!」
王が焦るが、王妃は「あなた、ここで引いたらジルベールが可哀想でしょ」と小声で囁く。聞こえているのですが、忘れたのかと呆れる。イレーヌは王家の教育を受けて、聞き耳もマスターしているのだけれどとことん、こちらを下に見ている。
「両陛下」
ぴしゃりとした声に二人は囁きあっていた声音を止める。
「なんだ」
「どうしたの、イレーヌ、様」
「私の婚約者をまだ、ご紹介しておりませんでしたね。彼は隣国のドミニク・ラオン・ライナー。ライナー伯爵家三男なのです。縁あって現在。同じ屋敷に暮らしておりますのよ」
「初めまして。自己紹介が遅くなり申し訳ございません。ドミニク・ラオン・ライナーと申します。彼女とは正式に婚約をしております。イレーヌ様のお父上からも、しっかり許可を得ていますのでご心配ありません」
イレーヌは内心、笑う。
「そ、うか。公爵が」
「それは、おめでとう」
公爵が許可をしていると言った時の彼らの顔。
「ふふ。ありがとうございます。そちらの王太子殿下とマリシア様も元気なお子が生まれ、さぞ、この王宮も今後華やかになるでしょう。隣国から祖国の栄華を見守っております」
にっこりと、決別の言葉を送る。
「はは、ありがたい」
「ほほほ、そう、ね?」
栄華などどこにもない、だって赤子は王太子の子ではないのだから。
「では、私達はこれで」
「あ、あの待って、もう少しだけ」
「やめぬか」
王が王妃を止めている間に外へ出た。
これは未来の話になるが、この国はマリシアとその子を国から追放し永久に入国禁止とした。罪人とすると、経歴が残るので罪には問えず辛うじてできる追放にしたのだろうけれどいち早く情報を得て、親子を回収したイレーヌ。
その際、ボロボロな状態で涙を流したマリシアはひたすらイレーヌにごめんなさいとずっと謝り続けていた。
マリシアたち親子は王家のようにもう、贅沢はできなかったがそれでも、子供に笑顔を向けられるような生活は維持できた。
イレーヌたちが作った施設に入って、ずっとドミニクとイレーヌ達に感謝をしながら過ごせたのだという。再度やはり王家ごとダメだわねと、ミレーヌは父に見限っておいた方がいいと改めて言ったが、父は父なりになにかあるのか、薄く笑ってイレーヌの頭を撫でた。もしかしたら王家だけは変化するかもしれない。
王太子はあまりのことをしでかして継承権こそ取り上げられなかったらしいが……。
「どうしてですか、父上、母上!?わたしは彼女との子どもを育てようとしたのです。なぜ取り上げられねばならないのですか!?」
王太子は到底納得できないと叫ぶが、元婚約者に現在の婚約者との子どもを二人の子どもと言い募る姿を見て、誰も王太子に押す派閥はいない。
「何を考えてお前は元婚約者のところに押しかけたんだ」
現実逃避にしても今も言い続けるのは、王族として幻滅されるばかりだというのに。王も王妃も冷めた瞳で笑っていない、かつての婚約者の女の態度を見て驚いたがこのような支離滅裂な真似をされたらああも言うだろうと、流石に再婚約は諦めた。
「なぜって、そんなの」
「やめてちょうだい。聞きたくなんてないわ。あんな女を選んだのはあなたよ」
母親の王妃が青白い顔で息子を非難するが、彼女とて今回の騒動を甘く見た一人だ。今回のことが知れわたるのは時間の問題。王家が笑われる存在になるのは最早避けられない。
王太子は項垂れて将来的に幽閉に近い扱いを受けながら、公務を淡々と送る日々に身をやつすことになる。
「ドミニク様」
イレーヌとドミニク様は現在、隣国へ引っ越しの最中。バラのコサージュを作っていた道中は話すことしかないので、それに隣国でも展示会をし各国に商品を売り込んでいくつもりなのだ。
「なんでしょう。イレーヌ様」
せっせと数を増やしていくコサージュを箱に入れて、ドミニク様に向けて笑う。彼は隣国で宣伝をし始めているといい、試作品をすでに配るという有能さを見せつけていた。
「ありがとうございます。赤子は少なくても直ぐには、どうにかされないでしょう。エゴというのは分かってますが」
「そのようなことをおっしゃられないでください。私は、あなたにわらっていてほしいだけなのですから」
「ドミニク様」
「ドミニクと。イレーヌ様」
「ドミニク様こそ、様付けではないですか」
「イレーヌ様は私の姫ですからね」
軽く笑うと彼はイレーヌの作った花の飾りを手にして、頭に飾る。
「やはり、なんでも似合うのですね。私の屋敷にたくさんイレーヌ様のためのものをご用意しています。ぜひ、手に取って私に見せてくださればと思います」
カァ、とほおが赤く染まる。
「ドミニク、もう、それくらいで」
「これはいいことを知りました。照れると私をそう呼んでくださるのですね。可愛い方だ」
指を絡めて、目線も絡まるがイレーヌはもう甘すぎて思わずドミニクの肩をぽんと叩いた。
「あまり意地悪を言うと、ドミニクが寝ている時に頭に同じものを付けますわよっ」
そう述べると彼は大きく笑う。
「そんな生活、夢のようではないですか。ひと足先に体験させてもらえるというのなら、好きなだけやっていただきたい」
会った時から予感はしていたがこの人には勝てる気がしないとイレーヌはドミニクを見つめ返す。
「ふう。これからのあなたとの生活は退屈しそうになくて、何よりです」
見つめる瞳は蜜のように甘いがそれだけではなく、しっかりと一人の人間として尊重してくれていることが何よりも嬉しい。
「ははは。イレーヌ様が品質にこだわるのですから、これからも維持に努めるとしましょう」
彼はおどけたように締め括った。
やがて隣国で咲くイレーヌのブランドであるジャルダン・ディレーヌ。女性達の憧れの店として有名になるがそれを運営する夫婦も、国一番と謳われるほどにお互いを愛し。人々の暮らしをよくしたいという理念に沿い続け、やがて国からも認められることになるのだろう。
「お父様、お父様〜」
「どうしたのですか。小さな姫」
庭に面する場所でくつろいでいた父親に娘が駆け寄る。
「お母様がお化粧使っちゃだめだって」
ヒックヒックと泣く娘に父は優しく頬撫でた。
「おや、また途中で逃げてきましたね?まだ続きがあったはずですよ?」
「続きって?」
娘は丸い目を赤くしながら、知りたくて堪らない先を足す。
「確か、子供でも使える化粧を作ったとか言っていましたよ」
「えっ、えっ、お母様が!?でも、使っちゃダメってさっきは怒ったわ」
それは、大人用のものを使おうとしたからだろうと、笑う。
「ほら、お母様に謝ってきたら今度こそ最後まで話を聞くのですよ?」
「うん。お兄様は今日帰ってくる?」
「そうですね。明日を予定してましたね」
息子のことを思い出して、教えれば娘は母親のところに向かい、お母様、と呼ぶ声にまた笑う。
「イレーヌを慰めねばなりませんね」
そうは言うが、夫の顔は嬉しそうに綻んでいた。
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