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09:ガストホフ・ミンネ

 フィリグランの街をゆっくり見て歩いていれば、あっという間に午前中どころかお昼時まで過ぎていた。中央広場に戻ってきたときにはもう、朝立ち寄った食堂の昼営業時間が過ぎていて、わたしはひとり肩を落とす。代わりに、道行くひとに教えてもらったパン屋さんでサンドイッチを買ったら、こちらもとても美味しかった。多分だけれど、この街はどこで何を食べても美味しいに違いない。

 陽が東の森向こうへだいぶ傾いてきた頃になって、わたしはクラリッサが言っていた宿屋、ガストホフ・ミンネへと向かう。

 帝国と連合王国は同じ大陸、同じ世界にあるから、太陽も月も両国ともに西から昇って東へ沈む。でも、時の刻み方は帝国と王国とでまるで違っていた。帝国は一日を四つの時間帯に分けた上で、ひとつの時間帯ごとに更に六つの刻に分けていた。王国はといえば、わたしの前世の世界と変わらない。十二進法で一日は二十四時間。いまは午後の三時半。ただし、時計は左回りだけれど。

 時間の刻み方としては連合王国式の方が合理的だと思いながら、大通りを西に十分ほど歩く。テラコッタの屋根と同じ柔らかなレンガ色に塗られた建物が、宿屋兼居酒屋のガストホフ・ミンネだった。


「ごめんくださいな」


 一階にある酒場の方へ顔を出し、そこにいる男性へ声を掛ける。クラリッサと同じ赤毛の男性は、わたしへ目を留めるとカウンターへ出てきてくれた。


「ご用件をどうぞ、お嬢さ——」

「来てくれたのね、グレイス!!」


 ご主人の声を遮って、店奥からクラリッサが飛んでくる。奥から響いた「こら!」と叱る声は、きっとクラリッサのお母さんの声なのだろう。


「おすすめされた通り、お宿の手続きに来たの。それで、わたしはどうしたら良いかしら」

「それならえっとね、まずはこっちの台帳に名前を書いてほしいの!」

「こらこら、クラリッサ。勝手に進めないでくれるかな?」


 カウンターから帳簿を引っ張り出したクラリッサに苦笑しながら、ご主人が彼女をたしなめる。それでもにっこにこ顔のクラリッサは、待ちきれないとばかりにご主人を見上げた。


「だってお父さん、私話したでしょう? 朝出会ったグレイスよ。帝国の方から旅して来たんですって!」

「大丈夫、その話は聞いてたよ。だからほら、お嬢さんにはお父さんから説明するから」


 ご主人が前に出て、カウンターに改めて帳簿を広げる。それから、クラリッサによく似た瞳を細めて、わたしと目線を合わせてくれた。


「グレイス嬢、この宿は一泊で一ターレル。食事は付いていないが、各部屋にバスとトイレが付いているよ」


 帳簿の一番前。宿の説明が書かれたページを示しながら、丁寧に説明してくれるご主人。彼はわたしの襟元から顔を出しているベルンを見ると、小さく笑んでから続けた。


「猫ちゃんがいる場合は、一泊辺り五デューイが追加で必要になる。これはいいかい?」

「はい。もちろんです」

「連泊の場合、シーツ交換は毎日だけれど、部屋の清掃は二日に一回だ。部屋には金庫も置いてあるから、貴重品はそこに置いて身軽に散策してもらうこともできるし、別料金だが服の手入れもやっている。どうだろう? この街の他の宿屋よりは、安さにもサービスにも自信があるんだけれど」


 にっこり笑うご主人。その顔はさっきいたずらに笑っていたクラリッサにそっくりで、こちらも思わず笑ってしまう。もちろん、破格の値段で破格のサービスであることを理解して、わたしは一も二もなく泊まりたいと頷いた。

 ちなみに、今世の通貨は百年前から大陸共通になっている。一ターレルは銀貨で、前世で言うところの千円くらい。十ターレルで一ギルダー金貨、逆に一ターレルは十デューイ銅貨と交換出来る。複雑な計算が必要ない上に、とても分かりやすくて助かっている。


「希望宿泊日数は……一ヶ月くらいでしょうか。連合王国内での移住を検討しているため、可能であれば、移住申請が通るまではこの街に滞在したいと思っているんです」

「なるほど。そうなると、一ヶ月では少し足りないかもしれない。最近は西方からの移住者が少し増えていて、審査に時間が必要だと聞いたよ」

「では、二ヶ月分を先払いでお願いします」

「よしきた! もしよければ、サービスで移住申請の手伝いも請け負おう」

「まあ、それはとても助かります!」

「交渉成立だ。では、帳簿のここに、グレイス嬢の名前を書いてもらえるかな? もし難しければ、私の方で代筆しよう」


 親切にそう言ってくれたご主人から、大丈夫だと金属筆を受け取る。カリカリと帳簿に名前を書いて、続けて家名を書こうとして筆を止めた。わたしにもう貴族籍はないため、家名を続ける必要はないのだと。


「うん、これでいい。あとは料金を——九十ターレルだから……」

「九ギルダーですね。お支払いします」


 カバンから財布代わりの巾着袋を取り出して、金貨を九枚、ご主人へと支払う。帝国から持ち出してきたわたしの全財産は、九ギルダーを支払っても、まだしばらく生活できそうな程度残っていた。『聖女』として活動する傍ら、匿名で代筆業をしたり、神殿で神殿長たちの手伝いをしたり、身の回りの不用品を売り尽くしてきて得た脱出資金だ。


「確かに受け取ったよ。さあ、部屋の案内はクラリッサに任せよう。部屋は三階の南角部屋。鍵はこちらだ」


 わたしの代わりにクラリッサがご主人から銀の鍵を受け取ると、嬉しそうに「付いてきて!」と踵を返す。ご主人に一礼してからクラリッサを追いかければ、彼女は店奥の階段を弾むように昇り始めた。


「ね、おすすめだって言った通りでしょ!」

「ええ、本当に。素敵なお宿を教えてくれて、とても嬉しいわ」

「ふふふ、驚くのはこれからよ!」


 自信満々に胸を張るクラリッサが、わたしが借りた部屋の前に立つ。彼女は部屋のドアを開けると、「ようこそ!」と腰を折った。


「お父さんに頼んでおいたの。グレイスのお部屋は、いちばん眺めのいいこの部屋よ!」


 通されたのは、こじんまりとしながらも、大きめの窓が特徴的な部屋だった。やさしいグリーンカラーを基調にペールトーンで統一された調度品は、全体的に質が良い。ベッドに敷かれた布団はふかふかで、隣接した水周りもとても綺麗だ。

 これはきっと快適に過ごせるだろうと感動していれば、ベルンが早速襟元から飛び降りて、ベッドで丸くなった。喉をゴロゴロ鳴らして、心から気持ち良さそうだ。


「とっても素敵——ありがとう、クラリッサ!」

「どういたしまして! フィリグランでの滞在が、良いものでありますように!」


 きっとご主人の真似なのだろう。クラリッサはそう言って深くお辞儀をすると、「ゆっくりしてね!」と言い残して部屋を出た。わたしはベッドサイドのソファにカバンを置き、窓を開け放してフィリグランの街を眺める。

 朝と同じように明るい顔で行き交う人々に、各地で夕食を作り始める良い香り。賑やかで、のどかで、平和な街を照らす夕陽。どこまでも絵になる美しい街を一望して、わたしはゆっくり深呼吸する。


(これはお兄様に自慢してあげなきゃいけないわね)


 窓際から離れて、ベッドで眠るベルンの隣に腰掛ける。協力者であった兄へ、無事と現況を報せるメッセージを魔法で編めば、それは一見どこにでもいる鳩の姿へと変わった。飛び立った魔法鳩が見えなくなるまで、わたしは夕空を見つめるのだった。


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