17:兄と妹
「……グレイス」
帝国の令嬢たちにダンスを誘われ離れて行ったフリッツと入れ違いになるように、兄がわたしのところへやって来た。テレーズさんと何曲も踊らなくて良いのかと思えば、どうやらテレーズさんは皇帝陛下に呼ばれて挨拶に出向いているらしい。神殿長様が彼女の隣にいるのを確認していたら、苦笑した兄が肩を竦めた。
「名前だけの神殿長になったが、一応、『聖女』と挨拶回りはしなきゃならないらしくてな」
「名前だけ?」
「ああ、おまえに言ってなかったか」
兄が給仕からシャンパングラスをふたつ受け取り、ひとつわたしに手渡す。わたしと同じ色の前髪を手で梳きながら、兄は声を低くした。
「あの男は、元々『西』の人間でな。国がしていたおまえへの仕打ちや、テレーズへの虐待を見兼ねて、陛下の下に逃げ込んだんだ」
「まあ、そうだったのですか」
「テレーズが連れてきた聖獣が、過去の『聖女』のことも陛下に教えてくれた。そういうわけで、一応形として神殿長の椅子を与えはしたが、実権は陛下が配置した補佐官にある」
もう、神殿も好き勝手できなくなるだろうよ、と。いつもと同じ声音でそう言って、兄はグラスに口を付けた。わたしもそれに倣って喉を潤してから、そっと目を伏せる。
わたしが知る神殿長は、最初からずっと、大人としてまともな人だった。実家でのわたしの扱いを見抜いて保護してくださったのも神殿長なら、『聖女』として不慣れなわたしを気遣ってくれたのも、馬鹿の尻拭いのための厳しすぎる皇太子妃教育に疲れ果てたわたしを庇ってくれたのも、神殿長だけだった。わたしから見えていたものが全てではないのだろうけれど、わたしはわたしの知る神殿長の姿だけを記憶していたい。
そんなことを訥々と伝えれば、兄は「それでいい」と笑う。おまえは何も気にするな、と口にするその表情は、どことなく母の面影があった。
(お兄さまから聞いていないことは、たくさんあるけれど——きっと、わたしには知る由もないもの、なのでしょうね)
兄がいきなり公爵位を継いだ顛末も、義妹の最期も、親だった人たちの結末も。馬鹿で愚かな前帝たちのことも、わたしは兄から聞かされた範囲の事柄しか知らない。けれど、この国を捨てたわたしには——あのひとたちのことなんて、綺麗さっぱり「どうでもいい」ものだと判じてしまえる薄情者のわたしには、それくらいでちょうど良いのだ。
過ぎた時間は戻らない。過去の選択が変わることはない。わたしはとうの昔にこの心の行く末を選んでいて、思い描いた理想を掴み取った後なのだ。だから、過去のしがらみに耳を傾けることなく、これからの未来に目を向けるべきなのだろう。
「……陛下はこれから、グレンツェントとの交流を増やしていきたいとお考えだ。交易路を整備し、陸路での交易を整える計画でな。おまえの住む街は、きっとこれから玄関口となる。その時に混乱がないよう、しっかり街を支えるんだぞ」
まあ、おまえなら心配要らないだろうが。そう笑う兄が、わたしの左手に視線を向ける。そこにある花弁型の痣を見る目は、どことなく懐かしそうだった。わたしの視線に気付いたのか、兄の黒い双眸が細くなる。
「昔、母上が言っていた。おまえは精霊の愛し仔だから、いつかそのお膝元に還る日が来るって」
「お母さまが?」
「ああ。その時が来たら好きにさせてやれと、俺はそう教わった」
わたしの知らない、母との思い出。それは兄にとって大切な記憶なのだろう、語る口調は普段よりずっと穏やかだ。
「母上は、グレンツェントの精霊信仰を信じていた。聖獣に聞いたよ。『愛し仔』の血を引いていたんだな、母上も」
「わたしも、そう聞いたわ」
「おまえは『愛し仔』として、アデルトルートが約束した精霊たちの下へ還った。求めた自由の行先に、運命が待ってたんだろ」
運命。現実主義で少し捻くれている兄の口から、そんなロマンチックな言葉が飛び出すとは思えなくて、わたしはまじまじと兄の顔を見やる。目を逸らした兄の耳元が赤い。照れ隠しに唇を尖らせて、彼は不満そうに呟いた。
「なんだよ。俺とおまえを育てたのは母上だぞ」
「それは……ええ、そうね。わたしたちは『似ている』のだものね」
「そうだ。俺たちは『そっくり』なんだよ」
それは、わたしたちふたりだけの、幼い頃の合言葉。変わってしまった家の中で、絶対的に信用できるのはお互いだけになって。よく似た色を持つわたしと兄は、『似ている』と確かめ合うことで、互いを支えに生きていた。母と同じ淡く青色がかった白銀の髪と、母によく似た暗い色の瞳は、わたしたち兄妹を強く結びつける「絆」だったのだ。
そしてそれは同時に、母とわたしたちを結ぶものでもあった。同じ母に慈しまれた者同士、わたしたちは似ていて当然なのだ。兄はわたしがお人好しだとか頑固だとか言うけれど、それは兄もそうであるように。兄の本質が意外とロマンチストだったところで、驚く必要はないのだろう。
「だから、グレイス。おまえは、安心して好きに暮らせ。この国のことは何も心配しなくていい。おまえが好きに生きてるように、俺も好きに生きてるから」
「お兄さまが好き勝手できるのなら、確かにこの国は安心ですわね」
「だろ?」
「ええ。それに——テレーズさんもいてくれますし」
ダンスで盛り上がる人波の向こう側から、こちらを目指して歩いてくるテレーズさんが見える。灯りを全て反射しているのではないかと見紛うほど美しい金髪が揺れるたび、周囲の視線を自然と集める彼女。凛と伸びた背中は『聖女』に相応しく、そして力強い眼差しは、目前の兄とも似ていた。
国の行末を本気で考えている陛下が、国の頂に立っている。その隣では、知的な眼差しの令嬢が陛下を支えている。臣下というより右腕と呼ぶに相応しい立ち位置に兄がいて、国を浄化する『聖女』もその横に並ぶ。陛下によってようやく日の目を見たまともな民が国を導き、より良い未来のために皆で明日の幸福を願う。そういう国になったのなら、確かにもう、わたしは何の憂いもなくフィリグランに帰ることができる。
「ありがとう、お兄さま」
「俺は何もしてねえよ。ただ……そうだな。貴族籍も戻ったことだし、家はいつでもおまえの実家だ。俺が顔出せって言わなくても、これからは勝手に遊びに来い」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらうわ。でもまずは……ちゃんと、お式には呼んで貰わなきゃね?」
「……来年の夏だ」
また兄が目を逸らして、照れたように笑う。ふふ、とこぼれた笑い声は、扇子で隠すのが間に合わなかった。わたしはとことん淑女であることを忘れてしまったけれど、兄も、兄の隣に並んだテレーズさんも、わたしを咎めはしなかった。
(ああ——街に、帰りたいわ)
気の置けないひとたちと過ごす夜会は楽しいものではあるけれど。煌びやかな皇居も、マナーだらけの貴族社会も、決まりごとの多いダンスも、艶やかなドレスも。どれも全てがもう、わたしが得た自由には分不相応なものばかりで。少しばかり窮屈に思えてしまうのは、わたしがもう、ただの「グレイス」だからだろう。
『悪役聖女』としての物語はとうに終わり、追放されエンドロールすら終わったあとにようやく始まった、端役ですらないわたしの人生。それはどこまでも眩しいばかりの毎日で——わたしはそれが、何よりも愛おしくて。
そういう日々を手にできたことに、改めて感謝の気持ちを抱きながら、わたしは兄やフリッツたちと共に夜会の会場を後にする。頭の中は既に、フィリグランでの未来でいっぱいだった。
最終章:了
残り、エピローグ2話にて完結になります。




