07:宿場街フィリグラン
トンネルを抜けた先に広がっていたのは、朝日を浴びて輝く広大な森と、道を下った先にある立派な宿場街だった。道端には案内板が設置されており、眼下に見える街がフィリグランという名であることが記されている。
テラコッタの屋根、壁が色とりどりに塗られた家々、街の真ん中には噴水がある広場も見えた。街の周りには、山から流れる清流を利用して作られた、防犯用の掘が巡らされている。美しい街並みは、故郷とは違う趣だ。思っていた以上に栄えた宿場街に驚きながらも、わたしは水馬を降りて残る山道を下った。
「おはようお嬢さん! かわいい猫ちゃんも! 観光のひとかい?」
街の入口。交易路から曲がった先にある門の前から、気さくに門番が声を掛けてくれる。国が変わったのだから、その言葉は当然グレンツェント語だ。帝国を出る計画を立てた頃から勉強して、グレンツェント語は習得している。会話に困ることはなく、許可証を見せながら、わたしもつられて笑顔になった。
「帝国から旅をしてきたのですけれど、ゆくゆくは王国での移住希望なんです。長期滞在は可能かしら?」
「帝国から? そりゃあ珍しい! 移住は申請にちーっとばかし時間がかかるが、滞在はお好きなだけどうぞ!」
門番は許可証が本物であることを確かめると、門の向こうへ続く道を空けてくれた。その帽子に『ヴァイスバルド自治区』と刺繍されているのを見上げながら、わたしは礼を言ってレンガ造りの門、というよりは、門を併設した塔を抜ける。
街は、高山を西側に控え、山から流れる川を南端に、ほぼ正方形に拓かれていた。交易路沿いの宿場街であるから、都市のように広くはない。けれども、馬車も通れるメイン通りが、広場を中心に東西南北へ伸びている程には広い。道の左右には商店や宿が立ち並び、朝から人で賑やかだ。行き交う人々の出で立ちは様々で、けれど総じて明るい顔をしているのが印象的だった。
「えーっと……まずは朝ごはんね。それから、しばらく泊まる宿を見つけないと」
爽やかな朝の広場で呟けば、同意するようにベルンが鳴き声を上げる。こんな風に、自分で自分の行動を決められるのは初めてで、少しだけ戸惑ってしまった。何をしてもいい。何をしなくてもいい。わたしの気持ちの赴くままに、やりたいように生きていい。手に入れたばかりの自由は、慣れるまで少しかかるかもしれない。
「どこに行こうか?」
襟元から顔を出したままのベルンに笑いかけてから、わたしはきょろきょろと辺りを見渡した。それから、南に少し進んだところにある食堂の看板を目印に、メイン通りを下って歩く。
「おや、いらっしゃい!」
窓に飾られた花々とピンク色に塗られた壁が良く目立つ、かわいいけれど立派な外観の建物。古くはあるものの良く手入れされた食堂に響く元気な声は、少しふくよかな女将さんが発したものだった。
「見ない顔だね、お嬢さん。観光かい?」
「いえ、旅をしてきて。しばらくこの街に滞在したいなと思っているんです」
「へえ、若いのにえらいねー! 座って座って! コーヒーと、それからグラタンなんてどうだい?」
「はい、ありがとうございます」
明るい女将さんに勧められるまま、外が見えるバルコニーの席に腰掛ける。柔らかな朝日を浴びていれば、間もなく、いい香りのコーヒーが運ばれてきた。おかわりは自由だよ、と笑う女将さんに礼を言えば、彼女はばっちりウインクをして戻っていく。
料理を待ってコーヒーを飲んでいれば、周囲を行き交う人々の話し声があちこちから聞こえてきた。これから帝国への交易に向かうと語る商人。山奥の貯水施設を建造中の王立魔導師たち。魔獣からの護衛を担う魔導騎士部隊が、姿勢正しく通り抜けていく。東方諸国からの旅人や商人、この美しい宿場街に観光に来た人々も多いらしい。帝国で見かけることは少ない、海を挟んだ別大陸の国々の装いをした人も見かけた。
「まさか森の中に、こんな素敵な街があるなんてね……」
その恐ろしさばかりを言い伝えられていた森と地続きとは思えない、発展し拓かれた森。山の向こうはこんなにも違うのかと、目に映る全てが新鮮に映る。少なくとも、王都から遠く離れた僻地であるはずのこの街が栄えているというのは、寂れた村々を回って歩いていたわたしから見れば、かなり意外だった。
「はい、お嬢さんお待ち! 当店自慢のグラタンだよ!」
「まあ、美味しそう! ありがとうございます」
女将さんが運んでくれた熱々のグラタンに、思わず声が上がってしまう。チーズとはちみつがたっぷり掛けられたそれは、絶対美味しいと分かる香りだった。どうぞごゆっくり、と告げられて早速、わたしはカトラリーを手に取る。
チーズをたっぷりすくって頬張った一口は、熱かったけれど本当に美味しかった。まろやかなチーズは帝国ではほとんど出回っていないものだ。きっと、森の近くに良い酪農場があるのだろう。はちみつの甘みが、チーズとベシャメルソースの塩味を引き立て、バターの香りが鼻に抜ける。目に付いたところに立ち寄っただけだったけれど、この食堂は大当たりだ。
「待って、あなたは冷めてからよ、ベルン」
自分も食べると言わんばかりにミーミー鳴くベルン用に、グラタンを小皿に取り分ける。ふーふーと息を吹きかけて冷ませば、白い湯気を上げていた小皿は間もなく程よく冷えた。ベルンはわたしの懐から抜け出し、隣の椅子の上でグラタンの匂いを嗅ぐと、はぐはぐ頬張り始める。その様子を眺めながら、わたしも食事を再開する。
通りを行き交う人々は、時間が経つにつれ増えていった。少し離れた場所には公園があるらしく、子供たちが遊ぶ声も聞こえてくる。商店は店を開け、軒先に様々な商品を並べ始めていた。
(このあとは、ゆっくり町を見て歩きたいわ。宿探しは、それから後でもいいかしら)
誰に邪魔されることもなく、のんびりと食事を摂りながらそう考える。見た事のない商品を取り扱う商店が並ぶメイン通りは、往復してくるだけでも時間がかかりそうだ。街を囲う防壁沿いの粉挽き小屋も、町の南端の川の方も見てみたい。長期滞在するならば、いつか自分で好きな食事を作るために、食材市場の様子も確かめておきたかった。
(やりたいことが、次々に生まれてくる)
町へ入ったときに、自由に慣れるまで時間がかかるかもと思ったばかり。けれども、ほんの僅かしか過ぎていないはずなのに、わたしの頭の中はもう、やりたいことでいっぱいだった。思いがけず魅力的なこの街が、わたしの自由を素敵に彩ってくれたおかげだ。
(きっときっと、楽しい時間になるわ!)
自由を得て初めて出会った街。宿場町フィリグラン。幼い頃お母様に読み聞かせてもらった絵本の世界のように美しいその街は、あの頃夢見た鮮やかな自由で満ち溢れていた。