04:前世の記憶と魂の国
のんびり水馬に揺られながら、森の中の細い道を進んでいく。道と呼ぶのも名ばかりのそれは、代々の交易商人たちや森の動物たちが安全を確かめながら踏みしめ続けた、獣道のようなものなのだろう。無論、舗装はおろか整備らしいものは何もされてはおらず、わたしもただ前へと進んでいた。
(本当に、ようやく夢が叶ったのね)
水馬の手綱を握る手に、期待でぐっと力が篭もる。
ただ、自由に生きたいと思っていた。それはわたしがグレイスとして生を受けるよりもっともっと前。前世の世界で伴侶を得ることになった、その瞬間からずっと。
わたしには、『ニホン』という国で、前世を生きた記憶がある。
前世でのわたしは、どこにでもいる少女だった。その国で少し珍しかったのは、信心深く神様を信じる敬虔な両親の家庭に育ったことくらい。あとは普通の教育を受け、普通に暮らしていた、普通の女の子。両親に倣って、毎日ちゃんとお祈りを欠かさない、真面目な子供だったと思う。そして、学校の先生になって、穏やかに子供たちと暮らしたいという、その世界では極めて普通の、歳相応な夢を抱いていた。
けれど、祖父母の事業が失敗して、夢を諦めなければならなくなった。両親では支払い切れない膨大な借金を肩代わりしてもらう代わりに、お金持ちの息子のところへ嫁がねばならなくなったのだ。相手は十歳も歳上。そのとき、わたしは十八歳だった。
それでも両親は、わたしの好きにしていいと選ばせてくれた。そんな両親が、前世のわたしは大好きだった。本音を言えば自由に生きたかったし、夢を諦めるには若すぎた。でも、自分の夢を優先させたら、その借金のために祖父母も両親も死んでしまうことも、分かっていた。だから選んだのだ。不本意な結婚をすることを。
伴侶となった金持ちの息子は、それはもう最低なひとだった。若いうちは妻を金で買ったのだと言ってはばからず、自慢するときだけ前世のわたしを連れ歩いた。子が産まれてからは、家庭の外に他の女性を侍らせて遊び三昧。老いてすぐに病気になり、それからはほとんど寝たきり。体が動かなくなっても口だけは一人前で、あれしろこれしろ、ああじゃないこうじゃない、だからおまえはダメなんだと、とにかく口うるさいひとだった。
(だけど、頑張ったのよねえ。神に誓ったのだから、って)
病める時も健やかなる時も、伴侶を大切にして生きるのだと。神にそう誓いを立てたのだから、望まずして得た伴侶であっても尽くすべきだと懸命だった。そうしていればきっと、いつかは報われるはずだと。いつか自由に生きられるようにと神に祈りながら、二十年にも及ぶ介護生活を乗り越えて、きちんと伴侶を見送った。最期の時、そのひとは「また君に看取られたい」と言い残して旅立ったのだから、きっと彼の人生は悪くないものだったんだろう。五十二年、わたしにとっては、彼に縛られてばかりの結婚生活だった。
(それで、さてこれからって時に、自分も死んじゃったんだもの)
長い介護生活は、老齢になっていたわたしの体を蝕んでいた。わたしは夫であったひとを見送ったその年の暮れに倒れて、そのまま家に戻ることなく死んでしまった。呆気ない、あまりにも呆気ない最期だったと思う。
そして、そう思ったのは、前世のわたし自身だけではなかった。遺された子供たちが、あまりにも惜しいと泣いてくれた。それだけでも充分だったのに、子供たちは祈ってくれたのだ。「どうか母が、来世では自由に生きていけますように」——と。
そして、その祈りは聞き届けられた。「神様」という、人智を超えた存在に。
『あなたがあのまま死んでしまうのは、あまりにも惜しい終わり方でした。こんなに早く、こちらに迎えるはずではなかったのに』
死して訪れたのは、神がおわす死後の国。それとも、生まれてくるまではずっと住んでいたはずの、魂の国。
わたしの目の前で光り輝く『神様』という存在は、前世のわたしが信じていた存在とは少し違っていた。けれどそれは言うのだ。前世の世界の人々が信じている『神様』というものは、この魂の国の存在や力の欠片を受け取った人々が、それぞれのイメージで拡げて行ったものなのだと。そしてそれは前世の世界だけではなく、他にいくつも存在する世界の、どこでも似たようなものなのだと。そしてどの世界のひとたちも、何の宗教を信じていたひとであっても、死後はこの魂の国へと戻り、そしてまた再び別の世界へ旅立って行くのだと言う。
男性にも女性にも聞こえる不思議な声でそう言うと、さらにそれは教えてくれたのだ。前世のわたしは毎日欠かさず祈りを捧げ暮らしていたから、前世で叶わなかった分、次の人生を豊かにしよう、と。
『あなたに、私の加護を与えましょう。さすればあなたはきっと、次の世界で己の好きなように、自由に暮らせることでしょう』
その代わり、と輝く存在は続けた。このままでは世界ごと身を滅ぼしてしまうひとりの少女を、どうか救ってあげてほしい、と。
どういうことかと問うより早く、わたしは魂の国から別の世界へと巡らされた。そうして次に生を受けたのが、いまのこの世界。グラン・ソレイユ帝国の、ラ・グラス公爵令嬢グレイスとしてだった。
(まあ結局、その『加護』が仇になって、自由を得るためにこんなに時間がかかってしまったのだけれど)
持って生まれた膨大な魔力も、失うことなく保ったままの前世の記憶や魂の国の出来事も。加護として与えられたもの全てが、いままでのわたしを色んな立場に縛り付けていた。あの皇太子なんて、それこそ前世の伴侶であったひとにそっくりで、溜息も出ないくらいひどい男だった。公務を全て婚約者に丸投げし、その日の気分で言うことを変え、不機嫌に当たり散らし、自分に仕えることを当然と思う。婚約者を奴隷か何かだと思っている、そういう男だ。
あのまま、公爵令嬢にして『聖女』のグレイスとして皇太子に嫁ぎ、ゆくゆくは皇后として帝国に尽くし終わる人生など、まっぴらごめん。だからこそ、わたしは企んだのだ。すぐそばにいる野心家の義妹を利用して、帝国からの追放という形で、この人生に今度こそ自由を手に入れよう、と。
身勝手であることは分かっている。魂の国で『神様』が言っていた世界や少女うんぬんも、いまのわたしには、何のことなのかも分からない。けれども、今度こそは譲れなかった。わたしにとって見れば、ただそれだけの話だ。
(お兄様を巻き込んだのは、申し訳なく思ってはいるけれど)
幼い頃からわたしに特別な加護があることを知っていた兄は、わたしの計画を打ち明けても、特段反対はしなかった。兄には兄の思惑があるようで、あの皇太子との婚約破棄は大歓迎だったらしい。渡りに船だと言って、あれやこれやと協力をしてくれた。
(きっと、お兄様なら最後まで上手くやるわ。わたしの出番はここでおしまい。あとは楽しく暮らすだけよ)
長い旅の果てに待つ自由は、一体どんなものなのか。逸る気持ちで手綱を引けば、わたしが編み上げた水馬は、わたしの心ゆくままに森を駆け抜けてくれるのだった。