06:フリッツという青年
「あ、れ……?」
閉じられてばかりだった目蓋が震えて、髪と同じ色の睫毛に縁取られたそれがゆっくりと開いていく。その奥に隠されていたのは、まるで海のように美しい色の、見事な碧眼だった。フリッツはぱちぱちと数度またたくと、不思議そうに室内を見る。それから、その双眸がわたしを捉えた。
「お目覚めですね……フリッツさん」
「えっ、と……君、は……」
フリッツは起き上がろうとして、けれどすぐふらついて失敗する。無理もない。体内の魔力である程度は維持できるとはいえ、一週間も寝たきりで、ほとんど栄養を取っていないのだ。どんなに鍛えた人間でも、すぐに動けるはずがない。
「わたしはグレイス。ここはわたしの家で、あなたの解呪を続けていました。フェリーが、ここにあなたを運んだんです」
「フェリー、が、」
「はい。もう一週間、あなたは眠ったままでしたから」
わたしの言葉に、フリッツの目が丸くなる。「そんなに?」と呟いた彼は、起き上がろうとしていた背中をベッドに預け直した。何がどうあれ、すぐ起きるのは不可能だと、彼自身が理解したのだろう。
『起きた』
『起きたね』
『グレイス、良かったね』
『良かったね!』
そんな彼の周りで、精霊たちがはしゃぐ。彼はそれを興味深そうに見やって、そしてもう一度わたしを見た。けれど、彼が何かを言葉にしようとした矢先、彼は喉が張り付いたように咳き込む。
「まずは、水分からですね。白湯は飲めそうですか?」
回復のためには、足りていない水分からだろう。そう考えて問いかければ、フリッツは首を縦に振った。わたしは彼の元から離れて、キッチンでお湯を沸かす。沸騰したお湯は、風の精霊がすぐに適温まで冷ましてくれた。
「どうぞ……背中にクッションを入れますね」
無理のない範囲でフリッツの背中を支え、頭が少し持ち上がったところでクッションを呼び寄せる。それだけでもしんどそうなフリッツを見て、水の精霊がわたしのところにやってきた。
『お手伝いするよ!』
「あら。お願いしていいかしら」
『もちろん、まかせて!』
水の精霊が手を振ると、コップの中に入った白湯を一粒持ち上がる。それは正確にフリッツの口元へと移動し、その唇に触れた。
『飲ませてあげる』
「あ、ああ……」
驚くフリッツが口を開けた隙に、精霊が白湯の粒を口に入れる。フリッツは目を丸くしたまま口を閉じて、しばらくしてから飲み込んだ。乾き切っていた喉に白湯はたっぷり必要だったらしく、あっという間にコップの白湯がなくなる。もう一度持ってきたおかわりの分まで飲み干すと、フリッツは疲れた様子でクッションに沈み込んだ。
「手間をかけてしまって、申し訳ない。僕のことは、フェリーから聞いていると思うが……」
「ええ。仲間を庇って、魔獣に噛まれたのでしょう? フェリーにはわたしが連絡を入れるから、まずはゆっくり休んでくださいな」
ちょうど、フェリーとの交換ノートが届いたばかりだ。取り急ぎ返事を書いてノートを送れば、フリッツの目覚めの報はつつがなくフェリーに届くだろう。
そう思った予想は正しく、ノートを受け取ったフェリーは、その晩にはシュテルケを伴ってわたしの家にやってきた。あまりの速さに驚くわたしに、彼は王国で忘れ去られていた古い転移魔法を再興した使い手で、麓の領都からこの街くらいの距離であればすぐに移動して来れるのだと打ち明けてくれる。
「良かった……!」
「本当にもうダメかと……」
嬉し泣きするふたりに、フリッツはまだよこになったまま、けれどしっかりと「心配かけてすまなかった」と言葉を交わしていた。聞けば三人は親友同士だそうで、フリッツがこうして無事に目覚めたことはとても嬉しいのだという。お祝いに、冬の間は貴重な牛の香味漬け肉を出してくれば、フェリーとシュテルケはまた泣きながら夕食を採っていた。
「——本当に、なんとお礼をしてよいか」
ふたりの喜びようを見ながら、フリッツが何度も同じ言葉を繰り返す。持ち前の魔力を回すことで、夜には起き上がれるようになっていた彼は、ココアのカップを両手で持ったまま、改めて頭を下げた。
「お礼なんて、何も必要ありませんよ」
「いえ、何もしないわけにはまいりません。命の危機を救っていただいた上に呪いの解呪までしていただき、更にこうして世話になっているのですから」
「気にしないでください、フリッツさん。わたしが、自分でやると決めてやったことですから」
本当に気にしなくて良いのだと伝え、フェリーたちのためにも早く回復するよう言い添える。フリッツは申し訳なさそうにしながらも、しっかり首を縦に振ってココアを飲み始めた。
「そうだぞ、フリッツ。仕事が山積みだ」
「早く元気になって、早く仕事に戻ってください。フェリーが過労で倒れる前に」
「……今しばらく、僕はここで寝込んでいよう」
気の置けない親友たちとそんな冗談を交わしつつも、フリッツはめきめき回復していった。フェリーの同僚として魔導師として勤めているらしく、魔力が多いのが功を奏したのだろう。
目覚めた翌朝には、パン粥が食べられるようになった。その日の午後にはベッドから立ち上がり、離れの水周りまで歩けるようになる。更に三日も経てば、街の子供たちの手習いを終えて帰ってきた時には、当然という顔をして家の周りを除雪していた。氷点下を軽く下回る寒さをものともせずに。
「そんな……フリッツさん。病み上がりに無理は禁物ですよ?」
「全然、無理はしてないんだ。むしろ、倒れる前より身体が軽い。魔法の調子もすこぶる良くって」
「それは……倒れる前から、お疲れが溜まっていたのではなくて?」
「そうかも知れない。やはり、ここはもう少し休養を取るべきか」
眩しいくらいの碧眼を細めて笑うフリッツに、思わずわたしも笑ってしまう。元気になったフリッツは、とても嬉しい快活で、そしてよく冗談を口にして笑う、とても愉快な青年だった。交わす言葉に嫌味はなく、どこかの馬鹿とは違い周囲をよく見ている。フェリーの親友というだけあって博識で、わたしが知らない王国の伝統魔法にも精通していた。彼が教えてくれる、連合王国の昔話や各国の風土や風習の話も、とても分かりやすくて面白い。昨日の晩などは、つい話し込んで夜更かししてしまったほどで——これほどまでに話が弾む異性に出会うのは、前世も今世も含めて初めてのことだった。
「しかし、休みたいのは山々なんですが……いい加減仕事に戻らなければ、そろそろフェリーにどやされそうだ」
苦笑したフリッツが、「復帰したくない」とわざとらしく溜息を吐く。その大袈裟な仕草にまた笑いながら、わたしは家の玄関を開けた。
「では、フェリーに怒られる前に、ちゃっかり休憩としませんか? 街の食堂のおかみさんが、クッキーをたくさんくださったんです」
「バターのいい匂いはそれか! ぜひ、お茶の時間としようじゃないか!」
すぐに除雪を終わらせてしまうからと笑って、フリッツが除雪機を握り直す。踵を返した彼の、長い亜麻色の髪が動きに合わせてふわりと舞った。その毛先が、銀世界の光を透かして優しく光るのを見やってから、わたしは先に家に入る。優しい顔をした好青年は、何がそんなに面白いのか、除雪を続けて笑っていた。




