02:帝国からの追放
追い立てられた先、廊下を曲がった所で、ひとり、兄が立っていた。公爵家当主である父は義妹の方に忙しいから、代理として兄がわたしの後処理を一任されたのだろう。そう判断したわたしを見下ろして、兄の星空のような黒い瞳がこちらを射抜いた。次いで、わたしを捕らえていた近衛兵たちを。
近衛兵たちが息を飲んだ瞬間。兄は、出し抜けに頭を下げた。
「本来であれば、許されない願いであることは分かっている。しかし、後生だ。この愚妹と、最後に話す時間が欲しい」
問われた近衛兵たちが、困った様子で顔を見合わせる。無理もない。帝国を四分した広域領のひとつ、北方広域領を任されたラ・グラス家の次期公爵が頭を下げたのだ。いくら皇太子殿下直属の近衛兵とはいえ、公爵位よりは低位の家出身の彼らが戸惑うのも仕方ないだろう。
「むろん、家の名に誓って逃亡なぞさせる気はない。私の拘束魔法で、愚妹を捕らえさせてもらう」
帝国では、魔力を持って生まれてくる者は多くない。拘束魔法など、便利な魔法を使えるのも貴族だけ。魔力があればあらかじめ魔法の規模と効力が定められた魔術を使えるけれど、それは高位貴族の魔法には敵わない。
それを知らないはずがない公爵嫡男が、爵位を持たない近衛兵に頼み込んでいる。実力行使をしなかったことが、兄の真摯さを物語っていた。それゆえ、近衛兵は絆される。
「逃げないのであれば、五分だけなら……」
「わ、私は何も聞いていない……」
近衛兵は明後日の方向を見てそう言うと、私の腕から手を離した。もちろん、逃亡などする気はない。兄の拘束魔法がわたしの足を凍りつかせるのを待ってから、わたしはせいぜい傍から悪女に見えるよう首を傾げて見せた。
「で、何か?」
「おまえ……自分がどんな処罰を受けたのか、理解しているのか?」
「ええ、もちろんですとも」
「おまえはもう、当主権限で聖徒名簿からの除籍が決まっている。家に帰る場所はない」
「そうでしょうね」
くすくす、くすくす。ついさっきまでは全力で顔面を固めていた反動で、つい気安く笑みがこぼれる。反面、兄は心底面倒そうに深く深く息を吐き切ると、わたしへ顔を寄せてきた。
「獣に見付かるな。鳥を寄越せ」
短く、低く、小さな言葉。近衛兵には聞こえなかったであろうそれに、わたしは「おや」と目を見開いてみせた。わざとらしいそれを見抜けるのは、目前のこの兄しかいない。
「全く……手間かけさせやがって」
ひとり呟くように言って、兄がわたしから離れた。わたしは見慣れた黒い瞳を見上げ直して、唯一心残りとなる恩人への伝号を頼む。
「テオお兄様——いいえ。テオフィル・ド・ラ・グラス次期公爵様。神殿長様に、グレイスがお世話になったと感謝をお伝えくださいませ」
「知るか」
苦虫を噛み潰したような顔で、兄がわたしから遠ざかる。それを合図に近衛兵がわたしの両側に戻り、腕を拘束するのを見届けてから魔法が解かれた。行っていい、と手を振った兄とすれ違い様、彼の呟きが耳に届く。
「これが夢なら、まだマシだったのにな」
ええ、そうでしょうとも。そう思ったものの口には出さず、わたしはそのまま、宮殿を後にする。門のところまで馬車が来ており、どうやら監視の下、この身はすぐさま『悪魔の森』へ送られるらしかった。
「テオフィル様も、こんな悪女が妹とは、お気の毒にな……」
「同じ空気を吸うのすらはばかられる。おい、馬車は交代で見張りだぞ」
「おい、早く乗れ」
パーティのドレス姿のまま、皇族所有の高速馬車へと追い立てられた。国中の道路を最優先で通過できる皇族の馬車であれば、広大な帝国の東端に位置している件の森まで、一日と掛からずたどり着くことだろう。そして恐らく、あの皇太子殿下は、行先掲示が『悪魔の森』と記されたこの馬車に乗るわたしは、晒し首同然の辱めだとでも思っているに違いない。
「さあ、この大罪人め。今から『森』へ向かうまでの間、精々自分のしたことを振り返ることだな」
「どうしてこんなことになったのかと、悔やんで悔やんで震え上がる頃には、『森』でひとり置き去りにしてやるよ」
ご丁寧に、高位貴族用の魔法遮断素材で内装が編み挙げられた馬車に腰掛け、わたしは窓へと視線を送る。真向かいに座った監視役の近衛兵が苛立つ声すら無視して、行儀悪く窓桟に肘を付いた。
(どうして、ねえ……)
今回、この断罪劇に至った理由は、実に簡単だった。その野心がためにわたしから何もかも横取りしなければ気が済まないカトリーヌが、わたしから婚約者と『聖女』の立場を奪いたかった。ただそれだけのことだろう。
カトリーヌは、聖徒名簿上ではラ・グラス公爵当主の弟夫妻の一人娘となっている。わたしから見れば従姉妹に当たる。彼女とその母親は、父親であったジュスタン様が儚くなられて半年も経たないうちに、父に『保護』され我が家へやってきた。忘れもしない。わたしが五歳になったばかりの、寒い冬の日だ。
亡き母に似て背が高いわたしとは違い、カトリーヌはとても小柄で、可憐という言葉を絵に描いたような、見事な少女だった。皇室へ献上される南方特産のビスク・ドールよりも可憐な彼女は、しかし、かなりの野心家で、相当わがままな性格をしている。なにせあの義妹は、次から次へとわたしのものを強奪し、わたしを嘲笑うことが趣味なのだから。
初めは、父親。次は、部屋。ワンピースにドレス、アクセサリーと続いて、母の形見の髪飾り。おもちゃや絵本は、カトリーヌが奪う間もなく、その母親が全て捨てていた。カトリーヌへ、真新しいものを公爵に買わせた上で。
そういう義妹だったのだから、彼女からしてみれば、十歳で測定した魔力鑑定に歯噛みしたに違いない。国内最高峰の職である宮廷魔導師レベルの魔力値であった彼女でも、わたしの魔力値には及ばなかった上に、『浄化の魔法』は使えなかったのだから。
『なんで! なんでグレイスなんかが「聖女」なの!? しかも、皇太子さまと結婚って、どういうこと!!』
帝国における『聖女』とは、女神様からの特別な加護を受け『浄化の魔法』が使える者のことを指す。数十年から百年ほどの周期で現れ、人々を導き、平和をもたらす存在だと言われている。『浄化の魔法』はその名の通り、万物の穢れを払い、全ての呪いを破棄し、あらゆるものを癒すことが出来る特別な魔法だ。特別ゆえに皇室に入ることが義務付けられており、わたしはその場で皇太子との婚約を決められた。
『信じられない! グレイスのくせに!!』
兄によると、その晩のカトリーヌはそう叫んで荒れに荒れたという。女神様を奉る神殿へ引き取られることになったわたしは、直接荒れ狂う彼女を見てはいないけれど。
あれから八年。カトリーヌは虎視眈々とわたしが得たものを奪い尽くす算段を整えていた。『聖女』としての公務があって自由が効かないわたしとは違い、華やかに社交界に出入りしていたのだから、そりゃあ細工も罠も簡単に仕掛け放題だったことだろう。そして、彼女の壮大な計画が仕上がったのが今晩だった。
(きっと今頃は、ほくそ笑んで殿下に甘えているんでしょうけれど……)
流れていく帝都の景色を眺めながら、薄く長く息を吐く。もう二度と見ることはないだろう故郷の景色だとしても、何の感慨も起きなかった。
だって、わたしと兄以外は、誰も知らないのだ。もちろんカトリーヌも、皇太子殿下だって気付いてはいない。ラ・グラス公爵は、きっと考えもしていないだろう。目前の近衛兵を始めとする帝国の国民も、広大なる領地を統べる偉大な皇帝陛下も、みな、何も分かってはいないのだ。
この断罪劇は——公爵令嬢にして『聖女』であったグレイス・ド・ラ・グラスの終焉は。他の誰でもない、わたし自身が望んで起こしたものだということを。