01:婚約破棄
「——グレイス・ド・ラ・グラス! 俺は、グラン・ソレイユ帝国皇太子、イディオール・ド・ラ・ソレイユの名において、貴様との婚約を破棄し、その妹、カトリーヌと婚約する!!」
暦が夏に差し掛かった、収穫月の満月の夜。この国の主要貴族たちが集められた建国記念祭パーティも佳境へ達し、皇太子殿下とのダンスのためにホールの真ん中へ出た、その立ち位置のまま。差し出されたのは殿下の手ではなく、朗々と響き渡る大声だった。
「……謹んでお受けいたしますわ、殿下。ですが……理由を、お聞かせくださいますか?」
便宜上ああそうですかと頷くわけにもいかず、わたしは自分よりも低い位置にある殿下の目を見つめ当たり障りのない問いを口にする。婚約が決められた頃から散々わたしの背の高さについて文句を言われてきましたけれど、この敬いようがない御方を見上げなくて済むのは幸いだった。
本来の予定を無視し、突如始まった婚約破棄の宣言。上座におわす彼の父——帝国皇帝が止めないことを鑑みるに、この宣言はもう、帝国皇家の了承の下に行われているのだろう。
「何を白々しく! 貴様の罪と証拠は、この俺が確かに掴んでいる。浅ましくも自らを『聖女』と偽り、真なる『聖女』たるカトリーヌを長年虐め続けた罪、どう申し開く!!」
その殿下の隣では、小柄で愛らしい義妹が大きな瞳を伏せながら、殿下に縋り付くようにしてすすり泣いていた。周囲からは「当然の結末だ」とか「あの『氷の聖女』もついに断罪されるのか』」といった、嘲りの囁きが聞こえてくる。
『氷の聖女』という二つ名は、義妹が吹聴した悪評を鵜呑みにした貴族たちが言い始めた蔑称だ。馬鹿——いえ、少し頭の巡りがよろしくない皇太子殿下の隣にいるわたしが常に表情を変えなかったことや、我が家が帝国北方を管理するラ・グラス公爵家だからという理由もあるらしいけれど。大抵の場合は、「氷の様に冷徹な悪女」という意味合いらしい。
「恐れながら、殿下。仰られたようなことをわたくしがしてきたという、証拠はおありなのですか?」
せいぜい、その冷徹な悪女に見えるよう、扇子を広げて口元を隠す。冷ややかに細めた目元だけで殿下を見やってみせれば、周囲からはわたしが殿下を睨みつけているように見えることだろう。「もちろんだ!」と得意満面な殿下を前に、心の中が氷点下なのは真実なのだけれど。
「そうやって、いつも俺を馬鹿にしやがって! 俺はお前が言うような馬鹿ではない!! カトリーヌの母親や、神殿の小間使いたちから確固たる証拠を得たからこそ、貴様をこうして断罪しているのだから!」
なるほど。何もかもお粗末なこれはやはり、わたしと殿下の婚約破棄ではなく、わたしの断罪劇だったらしい。初めて知ったわ——いえ、これが断罪劇だったことの方ではなく。殿下が、御自らは馬鹿ではないとお思いのことの方が。
「……いいえ、殿下。わたしくしは女神様に恥ずべきことなど何ひとつしておりません。ゆえに、わたくしには申し開くことなど、何もございません」
「帝国に伝わる『聖女』を騙ったおぞましき所業、死して償ったとて足りない重罪である! それを承知の上で、己が罪をまだ認めぬか!」
「何もございませんと、申しております」
事実、わたしは何もしていない。だからこそ背筋を伸ばし、扇で口元を隠す。わたしの思惑など何も知らない他者から見れば、これは格好のスキャンダルで、格好の娯楽だろう。弱きを助け悪しきを挫く最高のヒーローと、そんなヒーローである殿下に救われた可憐なヒロイン。断罪されるは恐ろしき罪を重ねに重ねた、愚かで哀れなおばかさん。
けれども、それでいい。わたしが悪者であればあるほど、若い頃に好んで読んだロマンス小説のクライマックスみたいで、きっととっても面白いもの!
(……あら。喜ぶのは、まだ早いわ)
思わず持ち上がりそうになった口許を引き締めて、誰からもわたしの心情が見えぬよう扇を引き寄せる。断罪劇は、いままさに最高潮へ達していた。
「まあよい。貴様が何と言おうと、処罰は変わらぬ。貴様は身分剥奪の上、死刑と——」
「待って、イディ!」
「どうしたのだ、カトリーヌ?」
はらはらと泣いていた義妹が——カトリーヌが、殿下を愛称で呼びながらその腕を引いた。誰が見ても愛おしい者を見つめる甘い瞳でカトリーヌを見下ろす殿下に、周囲の令嬢たちから羨望のため息が漏れる。まあ、お顔だけはいいものね殿下は。お顔だけは。
「お願い、死刑だけはやめて。あんな人でも、私の姉なの……昔は優しかった、お姉さまなの……」
「カティ……」
「お姉さまが歪んでしまったのは、きっと私のせいなのよ。本当はいけなかったのに、私がイディの愛を受けてしまったから。だから……私はお姉さまに恨まれて当然だから……死刑だけはやめて。お願い……」
瞳を潤ませて殿下を見上げるカトリーヌは、それはそれは、美しかった。きっと、腕自慢の宮廷画家たちが、いまこのふたりの姿をこぞって絵に描くことだろう。そしてふたりの愛は、永遠に語り継がれる伝説になるに違いない。「悪しき姉をも赦してと泣く、慈悲深い聖女カトリーヌ」と「嘘偽りを見抜き真の聖女をこそ愛した賢帝イディオール」として。
それなら、それで構わない。このふたりの行く末など、私には何の関係もないものなのだから。だからどうか、早く、この断罪劇を終わらせてほしい——鍛え上げているとはいえ、わたしの表情筋が、我慢できなくなってしまう前に。
「何と……何と心の美しい淑女なのだ。まさに『聖女』……」
「ゆえにこそ女神様は、カトリーヌ嬢に『聖女』の御力をお預けになられたのだろう」
「まさかあのような悪女でも、その減刑を願い出るなんて……」
周囲から上がる感嘆の声に耳を傾けていた殿下が、カトリーヌに「本当に良いのか?」と問う。カトリーヌはまたはらりと涙を零しながら、「はい……!」と頷いて返した。そして、彼女が殿下に抱きつく、その一瞬。ちらりとこちらを見たカトリーヌの、私がよく知る方の冷めきった青い瞳が瞬く。心底勝ち誇った光は、誰に見咎められることもなくすぐさま伏せられた。
「そうか、カティ。君は……ならば、良い。君の願い、この俺がしかと聞き届けた」
「殿下……! でしたらば、お姉さまはわたしの——」
「グレイス・ド・ラ・グラス! 貴様を『悪魔の森』へ永久追放とする!! 森へ到着後、二度とこの国の敷居を跨ぐことは許さぬ!! これは命令だ!」
抱きつくカトリーヌを抱き締めながら、それでも精一杯ふんぞり返って、殿下がそう言い放つ。これには居合わせた貴族たちも度肝を抜かれたようにざわめき始めた。もちろん、殿下の隣のカトリーヌも青ざめている。
まあそうだろう、と辺りを見渡した。それが助けを求めているようにでも見えたのか、わたしと目が合った幾人かが、気まずそうに目を逸らしたり、はっきりと顔を背けたりする。それでも誰ひとり動かず、喋らず、静まり返った大ホールの真ん中で——わたしはもう一度背筋を伸ばした。そして、その場で淑女の礼として膝を折る。
「皇太子殿下並びに、ラ・グラス公爵令嬢カトリーヌ様のご恩情に、感謝申し上げます」
ホールに響いたわたしの声。『聖女』を騙って純真な義妹を虐め抜いた稀代の悪女——『氷の聖女』、グレイス・ド・ラ・グラスの物語はこれで終わった。死ぬより過酷な僻地への追放という、皇太子による見事な断罪によって。
「そんな……! イディ!」
「ああ、カティ。そんなに嘆くことはないのだ。この手であの首跳ね落とせぬのは残念だが、行き先はあの『悪魔の森』。三日と生きてはいられんさ」
カトリーヌの見事な金髪を優しく撫でながら、殿下が震える彼女を慰める。それから近衛兵に「連れて行け」とだけ命じると、彼は真っ青なカトリーヌを連れて控え室へ下がっていった。
(あの子は、わたしの追放先のせいで青くなってるんじゃないと思うわ)
あの子のことを誰より知るわたしは、そう思いながら小さく息を吐く。それに腹を立てたらしい近衛兵に両腕を強く掴まれたけれど、この先に待つものを考えれば、痛みなど何も気にならなかった。
「さあ来い! この悪女め!!」
腕を掴まれたまま、引きずられるようにしてホールを追い出される。喜劇が終わったはずなのに、パーティ会場はまだ、静まり返ったままだった。