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手袋とマフラー

作者: 矢宮順晴

恋人とのすれ違いはどうやったら解決出来るのか。

 黙り込んでいる(りょう)の横顔は、肩にかかる艶やかな黒髪に隠れていて、表情を伺い知れない。だから、今の感情を読み取ることも出来ないが、怒っている、という雰囲気だけは感じられた。どこがまずかったのか、今日の行動を振り返っても、思い当たることはなかった。あれなのか、これなのか、と候補に挙がる場面はあっても、決定打にはほど遠い気がするから、謝り方もわからなかった。

「涼ちゃん、お腹空いてる? 喉乾かない? 涼ちゃんの大好きな抹茶スイーツのあるお店入らない? たくさん歩いたから、一休みしようよ」

 意識して発声している、猫撫で声の俺の誘いに、恋人は少しだけ顔を上げた。完璧に、怒りの感情を宿した表情だった。首を横に振って、意思表示をしてくれただけ、まだ救いがあると感じて、密かに、安堵のため息をついた。無言を貫くときは、その状態が一週間くらい続くことを、経験上知っているからだ。

「涼ちゃん、アー君、また気に触ることしちゃったかな? 謝るから理由を話してよ。せっかくの箱根旅行だから、仲良くしたいよ」

 名前が(あきら)だから、あだ名がアー君という、最初は安直だなと思っていたネーミングも、今ではすっかり愛着が湧いていて、恥ずかしげもなく、自ら口にしている。

「自分でアー君とか言うの、馬鹿みたいだから止めた方が良いよ」

 ようやく口を開いたと思ったら、これだ。以前に冗談で、「アー君はね」と言ったときは、「可愛い」と絶賛していたくせに。今は、俺の神経を逆撫でする方向に意識を向けているようだ。だけど、これで俺が怒ったりすると、たとえ仲直りをしたとしても、事あるごとに対応の不備を持ち出されて、責められる羽目になる。それは避けたいから、ここは堪えるしかない。

「ごめん、ごめん。言い直すね。俺、何かしたかな? 訳を知ってちゃんと謝りたいな。この旅行、ずっと楽しみだったから、良い思い出を作りたいよ」

「自分で気づいて謝らないと、意味がないと思います。ずっと楽しみにしていたのは、あなただけじゃありません。悪い思い出になるか、ならないかは、あなた次第です」

 ああ、今度は丁寧語で通す作戦か。経験上わかる。これは、相当に骨が折れる展開だ。下手をしたら、二泊三日の旅行中、ずっとこの状態かもしれない。まだ二日目の昼なのに。相手から聞き出すのは、諦めた方が良さそうだ。だけど、脳みそをひっくり返しても、落ち度が見当たらない。早起きをして、強羅にある旅館を出発して、箱根神社でお参りをしてから、箱根湯本に戻ってきた。箱根湯本に戻る電車内で、だんだんと口数が減っているのに気がついた。疲れているのかと思ったが、「お昼ご飯どうしようか?」に返答がなかったことで、理由が怒りだとわかった。

『いったい、どうしたら良いのか』

 俺は、心の中で呟き、途方に暮れてしまった。

 ***

 恋人のアー君が、途方に暮れた表情をしている。困らせているな、仲直りしたいなと思う温厚な自分と、僕が傷ついた理由がわかっていない無神経さを許せない、反省すべきだと、糾弾する冷酷な自分とがせめぎ合っている。アー君が頭を掻いて、ため息みたいな深呼吸をして、時折僕の表情を盗み見てくる仕草が、可愛くて、愛しくてたまらない。だけど、綻びそうになる口角を、無理矢理引き締めて、怒りの感情をアピールする。

『理由なんて、一つしかないじゃないか。本当に鈍いな』

 箱根神社でお参りをしたときだ。快晴の青空に秋風が爽やかさをプラスして、参拝にはうってつけだった。本当は指を絡めて、恋人繋ぎをしながら歩きたかったけど、僕は我慢した。

同性同士の恋愛に、世の中は寛容になったと言われているが、それは表立って否定や差別する人がいなくなっただけだ。僕達が異性のカップルみたいな振る舞いをすれば、好奇の目線をそっと向けてくる人や、聞こえない距離だと判断してから、批判を耳打ちする人達で、世の中は溢れている。僕は気にしないが、アー君は違う。バイセクシャルの彼は、たまたま今は男性である僕と交際しているが、女性のことも好きになれる。だから、世間体を重視している。本人に直接的に問うと、否定をしてくるけど、行動の端々にそれを感じる。

外で手を繋げないことは、まだ許せた。アー君にきちんと拒否されたことはないけど、前に街中でアー君の手の甲に触れたとき、羽織っていたダウンジャケットのポケットに、両手を隠したことがあった。柔和な笑みを崩さない彼を見て、無意識で悪気はないのだろうと思った。それからは、甘い恋人繋ぎは諦めた。だけど、今日の仕打ちはあんまりだった。

 箱根神社には、「平和の鳥居」と呼ばれる撮影スポットがある。芦ノ湖に浮かぶ、朱色の鳥居を前に記念撮影をして、ネット上に投稿することが流行っている。とりわけ目につくのは、カップルで撮られた写真で、数多くの投稿に触発されて、僕も撮りたいとアー君にねだった。そして、この旅行が決まった。僕にとって、今回の旅行、最大の目的がアー君と鳥居の前で、二人で写真を撮ることだった。はっきりと二人で撮りたいとは、確かに言わなかった。だけど、まさか僕が一人で立っているだけの写真を撮って、早々に切り上げるとは予想もしていなかった。「一緒に撮ろうよ」と、僕が言い出す前に、アー君は足早に去ってしまった。男女のカップルが、後ろに長蛇の列を作って待っていたから、アー君を引っ張り戻して、再度撮影をしたいとは言えなかった。

「可愛く撮れてるよ。涼ちゃんは、本当に美形さんだね」

 アー君は、自分のスマートフォンの画面を僕に見せながら、満足そうにしていた。可愛いと連呼する彼からは、愛情を感じられた。わからない振りをして、暗に撮影を拒んだ訳ではないみたいだった。だけど、僕があの鳥居で写真を撮りたかった真意を、汲み取ってはくれなかった。

 箱根湯本に戻る道中、落ち込む自分をどうにか奮い立たせて、アー君との会話を続けた。まだ旅の途中だし、楽しくなるはずの時間は残っているから。だけど、どうしても頭によぎってしまう。きらきらした水面に浮かぶ、幻想的な鳥居の前で、大好きな人の隣で笑っている自分の姿が。何度も空想して、指折り数えて、この日を心待ちにしていた。はしゃいでいたのが、馬鹿みたいだ、恥ずかしいと思えてきて、それはアー君への怒りに繋がった。だんだんと、口を開くのが苦痛になって、僕の言葉に無邪気に反応するアー君が憎らしくて、沈黙することを選んだ。

「涼ちゃん、旅館に戻る? 温泉入って、お部屋でのんびりしようか」

 あの手この手で、僕の機嫌を取ろうとするアー君の顔には、困り果てたと書いてあった。眉根が下がり切って、今にも泣きそうだった。健気だな、可哀想に、でも本当にわからないの、ちゃんと考えて。色々な思考が渦巻いて、一つにまとまらなかった。返事をしない僕に、アー君の視線が集中している。見つめていたって、状況は好転しないよと、教えてあげたかった。

「涼、そろそろ話をしてくれ。こうやっている間に、時間はどんどん過ぎて行くよ。せっかく苦労して、二人の休みを合わせたのに勿体ないよ。俺の落ち度は謝るから。お願いだ」

 アー君が、僕の名前を呼び捨てにした。相当に切羽詰まって、余裕がなくなっている証拠だ。勿体ない時間にしているのは、アー君が原因だよと喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。言い合いの喧嘩に発展するのは、避けたかったからだ。懇願する恋人に、ヒントの一つでも与えたかったけど、意地を捨てきれない僕は、結局黙りこくることを選択した。

『いったい、どうしたらわかって貰えるのかな』

 僕は、心の中で呟き、箱根湯本の商店街を幸せそうに歩く人々を、虚しい気持ちで眺めた。

 ***

 涼の心の扉は、一向に開く気配がない。無言のまま、旅行の日程を消化するのが、現実味を帯びてきた。箱根にどうしても行きたい、箱根神社の鳥居の前で写真撮影をしたいと、熱望していたのは涼なのに。

一番の目的だった、平和の鳥居は、最高のロケーションだった。雲一つない、澄み渡った秋空と、水中に浮かぶ真っ赤な鳥居が、芦ノ湖の水面に反射していて、額縁にそのまま入れれば、名画が完成するくらい、美しかった。その景色に負けず劣らず、美しい恋人がセンターに立ち、それを撮影した。これ以上ないほど、素敵な一枚になったと自負している。芸能人の写真集の一枚だと言われても、疑う人はいないはずだ。インターネット上に投稿すれば、涼が望んだ通り、たくさんの賞賛が、集まるだろう。涼の願望を叶えられた自分を、褒めてあげたかった。しかし、現実はこの有り様だ。念願が叶って、上機嫌の涼と、観光地を散策する自分を空想していたのが、馬鹿みたいだ。

『ここまでになったのは、手繋ぎ事件以来か』

その事件の日々が脳裏をかすめて、元々の沈んだ気持ちに、暗色が上塗りされて、憂鬱の色が濃くなった。あれを乗り越えるのに、一週間を要したことを考えて、牢獄に幽閉されるような気持ちになった。


 去年の真冬の出来事だった。クリスマスイブを三日後に控えていた日曜日で、涼と一週間分の食材の買い出しに、スーパーへ向かっているときだった。同棲するために借りたマンションから、徒歩十分とかからない場所に、大型のスーパーがあり、車を持っていない俺達は、頻繁に利用している。

「今日の夜は、アー君の大好物のトンカツを作るよ。明日は、僕の大好物の鯖の味噌煮にしてね」

 炊事、洗濯、掃除を持ち回りで担当するのが、俺達のルールだ。

 クリスマスムード漂う街中を、涼は俺の隣を足取り軽く、踊るようにして歩いていた。涼は、十二月が好きだ。クリスマスと年末がもたらす、お祭りみたいな雰囲気が、気分を高揚させるから好きだと、この時期になると毎年口癖のように言っている。

「了解。明日は特別大きな打ち合わせもないから、定時で帰れると思う。涼ちゃんも、残業にはならなそう?」

「うーん。水曜日に休みを取ってるから、ちょっと前倒しで、診療費の請求作業を片づけてから帰る。だから、少し遅くなるかな。アー君、水曜日の休みはちゃんと取れそう?」

「シフト上は、人手も足りてそうだったし、急な休みが何人も出なければ、現場に駆り出されることもないから、大丈夫かな。明日遅くなるようだったら、連絡してね」

「休み取れなくなったら、怒っちゃうからね。あんまり遅くならないように、頑張るけど、了解しました」

 涼は総合病院で医療事務を、俺は消防隊員として働いている。消防隊員と一括りに言っても、実働部門と事務部門で働き方は大きく異なる。元々は不規則な生活を余儀なくされる、実働部門に所属していたが、涼との同棲生活を始めるために、事務部門へ異動願いを出した。給料が多少下がっても、一緒にいられる時間を確保したかったからだ。

 涼とは、救急隊員の人手が足らず、手伝いに駆り出されているときに出会った。涼の勤めている総合病院に、救急車で患者を搬送したとき、受付の対応をしてくれたのが、涼だった。お互いマスクをしていて、目元しか見えなかったが、二人とも一目惚れだったことが、交際を始めてからわかった。初対面から一ヶ月で恋人関係になり、二年目で同棲を始めた。そして、交際三年目のクリスマスイブを、目前にした買い出しへ向かう途中で、事件は起きた。

 手を繋ごうとしたのに、拒否された。それが、涼の言い分だった。そんなつもりはなかったと、俺は何度も説明した。確かに、涼の手が触れたような気はした。そのタイミングで、たまたま寒さから逃れるために、両手をダウンジャケのポケットに入れただけだ。外で手を繋ごうとしたことが、三年の間になかったから、涼の求めていることがわからなかった。そう弁明したが、理解は得られなかった。

 涼は買い物中も、帰宅してからも無言を貫いて、夕飯のトンカツを作り終えると、早々に自分の部屋へ引っ込んでしまった。一人で食べた大好物は、熱々だったのに、少しも美味しく感じなかった。翌日も俺からの一方通行なコミュニケーションが続いた。受け手がいるのに、いない。居場所をなくした虚しいだけの言葉が、マンションの部屋を彷徨っていた。

 次の日、十八時前には帰宅して、リクエストのあった、鯖の味噌煮を用意して、涼の帰りを待っていたけど、一向に帰ってこなかった。十七時が定時なのに、約束した連絡も入らないまま、リビングのかけ時計は、二十一時を示していた。心配になって何度か電話をかけたけど、電源が入っていなかった。涼の職場まで様子を見に行こうと思い立ち、出かける準備をしていると、玄関のドアが開く音がした。

「涼、お帰り。心配して、今から迎えに行こうと思ってたよ。遅くなるなら連絡してって、言っておいたじゃないか」

 涼からは、謝罪の一つも返ってこなかった。テーブルの上で、すっかり冷め切った鯖の味噌煮を一瞥すると、口もつけずに自室へ入って行った。

「涼、たくさんた働いたからお腹空いてるよね? 出てきて一緒に食べよう。昨日のことは謝るから。手だって繋ぐからさ。頼むよ」

 ノックをして、ドアノブを捻ったけど、鍵がかけられてしまっていた。心配でやきもきした気持ちと、手料理が無駄になることによる徒労感が、俺から余裕を奪っていた。

「もういい。勝手にしろよ。そのまま拗ねてたら、クリスマスイブの予定はなしだ。仕事入れちゃうからな」

「あなたがそうしたいなら、そうして下さい」

 一日ぶりに発した言葉の他人行儀さに、俺の顔面は炎を宿したように、熱くなった。不快感が心臓の辺りを締めつけて、昂る感情を制御出来なかった。

「ずっとそうやってろ! せっかくの計画が台無しだ。全部キャンセルするからな」

 興奮状態ながらも、頭の片隅で、こういう言い方をすれば、慌てて部屋から出てくるのではないかとの計算もあった。しかし、これが全くの逆効果であり、涼の怒りを増大させる、新しい燃料となってしまった。この喧嘩が終了した後も、対応の不味さを指摘される場面が度々訪れて、俺はその都度、謝罪をしなければいけなくなった。


 苦い思い出から学んだ教訓は、どんなに涼が拒絶する態度を取っても、俺が感情的になってはいけない、それをすると、事態は悪い方向にしか進まない、ということだ。だから今、目の前でちっとも楽しくなさそうにしながら、黙々と抹茶パフェを頬張る恋人を、どうケアするか、じっくりと冷静に判断しなくてはならない。

「このお店、抹茶スイーツが有名で雑誌にも載ってた人気店なのに、案外並ばずに入れて運が良かったね。美味しい?」

 答えを言い当てなければ、閉ざされた心の扉は開かない。それはわかっているが、見当もつかない俺は、当たり障りのない会話で、お茶を濁すことにした。

 ***

 アー君が、抹茶のアイスを食べながら、「美味しい?」と聞いてきた。抹茶味はそんなに好きじゃないくせに、無理をして食べている。だから、顔がちょっと歪んでいる。僕の機嫌を直したくて、取っている行動だけど、僕が望んでいるのは、無理して苦手な食べ物を、咀嚼することなんかじゃない。


 去年のクリスマスイブは、休みを取り消して仕事をした。アー君が色々と計画を練ってくれていたみたいだけど、内容は全く知らされていなかった。仕事をしていれば、気が紛れるかと思ったけど、実現しなかったデートへの妄想が止まらなくて、仕事に集中出来ず、いつもより腕時計の針が進む速度を、遅く感じた。

 仕事を終えて、いつもより数倍の疲労を感じながら、クリスマスムード一色の街を一人で歩いた。ドア越しに聞いた、アー君の怒気を含んだ声を思い出していた。アー君が、声を荒げて怒るのは初めてのことだった。驚いたし、クリスマスイブの予定がなくなってしまうと、焦ったけど、部屋からは出なかった。「手だって繋ぐからさ」と、義務のように言われたのが腹立たしかったから。そもそも、手を繋ぐことを拒否していない、偶然ジャケットのポケットに両手を入れただけ、と説明されたところにも、悶々としていた。それが嘘だとわかっていたからだ。

 僕は見ていた。アー君が、前から歩いてくる、星柄が散りばめられた赤いマフラーを巻いた、ショートボブの小柄な女性に見惚れていたのを。過去にも、そんな場面はあった。これまでは、見て見ぬ振りをして、やり過ごしたけど、あの瞬間はその選択が候補から消えていた。僕だけを見て欲しい、目移りしないで欲しい。共に過ごす月日を重ねるほどに、強まる独占欲が身体を動かした。今までは遠慮をして、躊躇していた、他人の目があるときの身体的接触を、試みた。その行動がもたらした結果は、僕を打ちのめした。

「どうしたの?」と、優しい笑みを浮かべながら、問いかけてきたアー君が、無意識で悪気がないのであろう、その対応が、愛しいけど、憎かった。

 夜の街を一人で歩いていても、気分が晴れることはなくて、アー君と仲直りしたいと思える、心境を変えられる何かが起こることもなくて、僕はすごすごと家路についた。

毎日、おはようの前に謝罪、おかえりの前に謝罪、おやすみの前に謝罪をするアー君が、気の毒で可哀想になって、会話を再開したのは、喧嘩をしてから一週間後のことだった。安心して、緩み切った笑顔で「これからは手を繋いで良いからね」と、言ったアー君のあくまで受け身な姿勢に、僕が何に傷ついて怒りを感じたのか、それを本質的には理解していないアー君に、僕は落胆した。そして、二度と自分からは手を繋がないと、心に誓った。


 惚れた弱みで許してしまった自分を納得させたくて、本当に謝って欲しかった部分には言及しないで、隙を見つけては、怒鳴られたことを茶化すように指摘することで、溜飲を下げようとした。

そんな幼稚な仕返しに躍起になって、クリスマスイブ事件を、しっかりと解決せずに、反復される謝罪に根負けしたから、この旅行でもこんな喧嘩が起きている。だから今度ばかりは、宥めすかされて、根本の問題を無視して話を終わらせてはならない。僕の口から説明したら、きっとアー君は「わかったよ。気づけなくてごめんね」と、言ってくれる。でも、それでは意味がない。落ち度はなかったと、思い込んでいるところが問題であり、自分の無自覚さが、優しいけど優しくない部分が、僕を傷つけていることを、わかって欲しかった。

 そんな願いを込めた僕の視線を、抹茶アイスを食べ終えて、手持ち無沙汰にしているアー君は、どう感じて、どう捉えているのだろう。前回、折れたのは僕の方だ。だから助け舟は出さない。アー君だけで答えを導いて欲しい。もし、導き出せなかったら、どんなに惚れていても、アー君との関係を継続することは、難しい。瀬戸際にきていることを、警告するように、僕はアー君の鳶色の瞳を見つめ続けて、離さなかった。

 ***

 涼は意味深な視線を、俺に送り続けている。目が合ったまま、逸らそうとしないから「この後、どこ行こうか?」と、聞いてみたけど、当然のように返事はない。言葉は発さないけど、栗色の瞳が何かを訴えているのは、伝わってきた。怒りよりも、悲しみに満ちていて、瞳の表面が微かに濡れていた。俺は嫌な予感がして、胸騒ぎを感じていた。この膠着状態のまま、手をこまねいていると、取り返しのつかない事態に発展する。そんな予感がした。

「涼、ごめん。俺の悪いところは謝るから。だけど、話をしてくれないと謝りようがないよ。教えて欲しい」

 俺が、謝罪の言葉を重ねるほどに、涼の表情は険しくなり、悲しみは深さを増しているようだった。真意を読み解かない、ただの謝罪は、最大の悪手だと悟った。そして俺は、かける言葉を失うしかなくなった。観光地にふさわしい喧騒が、耳障りだった。若者に人気があるこのお店の席は、カップルで埋められていて、自分の記憶と向き合おうとすると、彼ら、彼女らのはしゃいだ声が、集中力を削いだ。

 旅館の温泉が楽しみだ、美術館に行きたい、さっき、テレビの収録をしている芸能人とすれ違った、家族にお土産を買わないと、楽し過ぎたから帰りたくない、など、普段は気にも留めない他人の会話が、鮮明に聞こえていた。何も頭に浮かばないのは、この雑音のせいだと、思いたかったのかもしれない。自分の不甲斐なさから目を背けたくて、無駄な情報に耳を傾けて、気を散らしているのかもしれない。

 涼は、もうすぐパフェを食べ終える。そうなったら涼は、別れを宣言する。そんな意思が、涼が発している眼光から感じられた。愛想を尽かした、別れよう。過去に交際した人達が、俺の元を去って行く前に残した台詞が、記憶の隅から飛び出てきた。今の涼は、その言葉を口にする、一歩手前の雰囲気を纏っていた。そして、別れを宣言した人は、別人のように冷たくなり、どんなに縋りつこうが、待ってはくれない。それも過去の苦い経験上わかっていた。

「ここの鳥居、神々しくて、まさしくパワースポットって感じだったよね。タツヤ君、連れてきてくれてありがとう。さっそく、友達から『いいね』貰ったよ。私、ずっと行きたかったから、めっちゃ、嬉しい」

「鳥居の前に立った瞬間に、不思議と身体が軽くなったよな。俺も、パワースポット巡りが趣味になりそう。リサちゃんが嬉しいなら、俺も嬉しいよ。俺はネットに投稿とかしないけど、二人で撮った写真は待ち受けにする。ご利益ありそうだし」

「多分、私達が一番幸せそうに写ってるよ。私も待ち受けにしちゃおう。宝くじとか買ったら、当選しちゃかもね」

 隣の席から、そんな会話が聞こえてきた。俺達も行った、箱根神社の平和の鳥居について、話をしているようだ。涼の耳にも届いたのか、視線が彼らの方に向いていた。唇を尖らせて、恨めしげにしている。

 その様子を見ていて、俺は箱根神社での時間に、答えに通じる鍵があると、直感した。すぐさまスマートフォンの、写真データを見返してみた。美麗な景色と、麗しい容姿の涼が互いの魅力を引き立てている、素晴らしい一枚だ。しかし、画像を拡大して見てみると、涼は能面を被っているみたいな無表情で、喜怒哀楽を感じさせなかった。念願が叶ったとは、とても思えない様だ。俺は、ようやく閃いた。脳みそに電流が走った。『タツヤ君』に感謝を伝えたくて、隣の席に頭を下げた。

***

『リサちゃん』が羨ましかった。恋人が、自分の望みを叶えてくれた上に、叶えられたことを、喜びに感じている。そして、二人の幸せな瞬間を切り取った一枚を、ラッキーアイテムにしている。僕のしたかった理想を、隣のカップルはいとも容易く、実現している。しっかりと、心が通じ合っている証だ。失礼なことをしている自覚はあったけど、彼らを観察して、会話を聞き漏らさないようにしていた。自分達の世界に入り込んでいて、不躾な僕の行動も、目には入っていないようだ。

 アー君が、急に慌ただしく動き始めた。スマートフォンの画面を凝視してから、数秒も経たないうちに、さっきまでの、道に迷った子供みたいな不安げな表情から一変して、自信に満ち溢れた、精悍な男性の顔つきに変化した。その変わりように、僕の心臓が、高鳴っていた。鼓動が激しくなり、首筋がじんわりと熱くなってきた。アー君は『タツヤ君』に、お礼を伝えるように頭を下げると、すぐさま立ち上がった。その勢いで、座っていたウッド調の丸椅子が後ろに倒れた。次は額と頬が熱くなり、髪の毛の生え際に汗が浮かんだ。

「涼、もう一度あの鳥居へ行こう。二人、並んで写真を撮ろう。いや、俺が涼と一緒に撮りたい。それが俺の答えで、願いだ」

 差し伸べられた、大きな手のひらを、僕はとっさに握っていた。涙が、眦から滑り落ちて、生クリームの痕跡が残る、パフェグラスの底にこぼれ落ちた。

 ***

 俺達は、ずっと手を繋ぎながら、平和の鳥居を目指した。日が完全に落ちる前には、到着しそうだ。通行人の目を気にしているのか、手を離そうとする涼を繋ぎ止めて、俺はクリスマスイブ事件について、改めて謝罪をした。すると涼の口から、明かされていなかったもう一つの怒りの理由が、語られた。

 買い物に行く途中、すれ違った女性に見惚れていた。それが発端だった。俺はすぐに、その女性の存在を思い出した。そして、涼の思い違いに胸を撫で下ろした。女性が着用していた赤いマフラーが、涼のために用意した、クリスマスプレゼントと同じ物だった。だから、涼が巻いたときを想像して、つい見つめてしまっていた。確かに見てはいたが、理由は涼の想像とは全く異なる。

「喧嘩が終わった後も、『今年はプレゼント交換をしません』って、宣言されたから、今も俺の部屋に眠っているよ」

「じゃあ、女の子に見られるから、手を繋ぐのを嫌がった訳じゃないの?」

「そんなの考えたこともないよ。今だって、ずっと繋いでるだろ。じゃあ今年のクリスマスは、手袋をプレゼントするよ。その上で繋いだら、もっと防寒対策になるよ」

「アー君、本当にごめんなさい。手を繋ぎたくないとか、他に目移りしてるとか、勝手に勘違いをして、決めつけて。それに、クリスマスの計画まで潰しちゃって」

「俺の方こそ、ソロショットを撮りたいとか、勝手に決めつけてごめん。今回の箱根事件で、おあいこにしよう。俺達少し、会話のコミュニケーションが不足していたね。これからもっと会話を大事にしよう。心で思っていたり、考えたりしているだけじゃ、伝わらないし、すれ違っちゃうから」

「うん、これからは黙ったりしない。ちゃんと嫌だったことを説明して、わかって貰うように努力する。それで、たとえ言い合いになったとしても、言葉にしないと伝わらないことがあるよね」

 夕陽に照らされた、涼の満面の笑みが、出会ってから最も幸福な気持ちに、俺をさせた。帰ったら、出番を失っていた赤いマフラーを、涼の首に巻いてあげたいと、撮影の順番待ちの間、俺は考えて、それを言葉にしようと口を開いた。

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