花言葉
桃子と祐太が出会ったのは、5年前だ。
ふわふわした、柔らかい肌。
小さな手。
全てが愛おしく、初めて弟ができたことが、とにかく嬉しくて仕方がなかった。
天使がやって来た。
その時は、本気でそう思った。
そんな昔の事を夢に見て、桃子は目を覚ました。
「おはよう」
桃子が朝食の準備をしていると、正親が起きてきた。
「お父さん、おはよう。」
正親は笑顔で桃子を見つめた。
「桃子、今日の祐太のお迎えは、僕がするから。」
正親が桃子に言った。
「分かった。いよいよ今日、帰ってくるんだね、お母さん。」
桃子は喜びを噛みしめるように、正親に言った。
「あぁ。そうだね。桃子が帰ってきたら、お母さんも帰ってきてるから。
僕も仕事は今日は休んだから、安心して学校に行ってきなさい。」
正親は穏やかな声で言った。
「ありがとう、お父さん。祐太、起こしてくるね。」
桃子は祐太を起こしにいって、3人で朝食を食べ、高校に向った。
「桃ちゃん!」
桃子は、桜の呼ぶ声に振り返った。
「今日は早いね!保育園は?」
桜が桃子に尋ねると、桃子は少し声を弾ませて言った。
「今日はお父さんが休みだから、保育園の送り迎えは無いの。…今日、お母さんが退院するんだ。」
「そうだったんだ!桃ちゃん、良かったね!」
桜は嬉しそうに桃子に言うと、桃子も一緒に笑った。
桃子は高校で授業を済ませて、途中まで桜と一緒に帰った。
何故か今日は、トイレ掃除に行ってもトイレの神様は現れなかった。
いつもならこの後、祐太の待つ保育園に向かうが、今日は違うからなのか、少し気持ちがザワザワする。
お母さんの退院のお祝いに、お花、買って帰ろうかな。
そんな気持ちが不思議と湧いてきて、帰り道にある花屋に立ち寄った。
色んな花の中から、見覚えのある花が目についた。
鮮やかなピンク色の可憐な花ーカランコエ。
カランコエ、香織おばちゃんが好きだったな。
香織は、詩織の歳の離れた妹で、若くして亡くなってしまった。
殆ど会ったことの無い人だったが、綺麗で優しいお姉さんだった記憶が蘇る。
「すみません、カランコエのブーケをお願いします。」
桃子は花屋の店員に言って、カランコエのブーケを手に帰宅した。
「ただいま。」
桃子が玄関のドアを開けて言うと、リビングから、聞き覚えのある声が聴こえた。
「桃子、お帰り。」
母・詩織の声だった。
リビングから祐太と正親と共に、桃子を出迎えた詩織は、嬉しそうに微笑んだ。
少し痩せてしまったけど、変わらない優しい笑顔だった。
「お母さん、退院おめでとう。」
桃子は、詩織にカランコエのブーケを渡した。
少し驚いた詩織は、カランコエのブーケを暫く見つめると、懐かしむように、目を細めた。
「カランコエ…。懐かしいわ。ありがとう、桃子。」
「手、洗ってくるね。お母さん、無理しないで休んでて。」
桃子は洗面所へ向った。
久しぶりに詩織の顔を見て、声を聴いて、安心と嬉しさでいっぱいだった。
久しぶりに家族4人での夕食。
「桃子が作ってくれたハンバーグ、とても美味しい!上手になったね。」
詩織が声を弾ませて言った。
「桃子は料理が上手になって、手際も良いんだよ。」
正親が詩織に言うと、桃子は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
祐太は、詩織が帰ってきてから、余程嬉しいのか、詩織から離れない。
楽しい食事の時間が済み、後片付けを詩織と桃子がしている間、正親と祐太はお風呂に入った。
「桃子、今まで苦労かけて、ごめんなさい。明日から、お母さん、料理とかするから、あなたは勉強や学校生活を大切にしてね。」
詩織は桃子に、申し訳無さそうに言った。
「大丈夫?私、手伝うから、無理しないでね。」
桃子は心配そうに言った。
「大丈夫、ありがとう。」
詩織は桃子の頭を撫でると、そう言った。
祐太が寝床につくと、正親と詩織と桃子は、お茶を飲みながら、ひと息ついていた。
暫くすると、詩織が正親と目を合わせて頷き、桃子に切り出した。
「お父さんとお母さんね、祐太に、本当の事を明日伝えようと思うの。」
「本当の事って…祐太が生れた時のこと?」
桃子が尋ねると、詩織は深く頷いた。
「そう。祐太が生れた時のお話、あと、香織の事を。」
「香織おばちゃん?どういう事?」
詩織の妹、香織と祐太の繋がりを知らない桃子は、驚いた。
「桃子、あなたにもきちんと話さないとね。…祐太を産んだ母親は、香織なのよ。」
詩織は、真っ直ぐ桃子を見つめて、言った。
そして、香織と祐太の話を続けた。
5年前、突然、香織から詩織に電話がかかってきた。
遠くに暮らしている香織に、詩織が最後に会ったのは、詩織達の母の葬儀以来、3年近く経っていた。
時々、連絡は取っていたが、10歳離れた妹の香織は、仕事で全国を飛び回っていて、多忙だった。
「お姉さん、久しぶり。元気?」
「香織?久しぶりじゃない。元気よ。あなたは?」
詩織は香織に尋ねると、香織は少し言葉を濁しながら言った。
「ええ…元気よ。ちょっと話があるんだけど、今度の土曜日、お家に行っても良いかな?」
「…話?どうしたの?土曜日なら、うちは大丈夫だけど…」
不思議そうに詩織は香織に尋ねた。
「そう、ありがとう。ちょっと、お願いというか、大事な話があって。正親さんも一緒に聴いてもらえたら助かるんだけど…。」
香織が心細そうな声で、詩織に伝えた。
「そうなのね。夫も土曜日はうちにいるから、いらっしゃい。」
詩織は香織に言った。
「ありがとう、お姉さん。じゃあ、土曜日の10時頃お伺いしても良い?」
「良いわよ。待ってるね。」
電話が切れた後、詩織は少し胸騒ぎを覚えた。
あんなに心細そうな香織の声は、初めてだった。
何か悩みでもあるのだろうか…。
詩織は、仕事から帰宅した正親に、香織の事を伝えて、土曜日を迎えた。
約束の土曜日
玄関のチャイムが鳴った。
詩織はまだ11歳だった桃子と一緒に玄関を開けると、そこに居たのは、お腹の少し目立った、香織だった。
「香織…あなた…」
言葉を飲み込むと、桃子は嬉しそうに香織に言った。
「香織おばちゃん、こんにちは!」
「桃子ちゃん、こんにちは。大きくなったね。」
香織は桃子の頭を撫でると、詩織に言った。
「お姉さん、久しぶり。」
詩織は、ハッとして、香織を家の中に招いた。
香織はお腹を労りながら、正親にも挨拶を済ませると、話を切り出した。
「私、妊娠したの。」
静まり返るリビング。
「お母さん、私、宿題してくるね。」
張り詰めた空気を、トイレから戻ってきた桃子の声が切り裂いた。
「あ、うん。分かった。あのね…お父さんとお母さん、香織おばちゃんと大事な話があるから、ちょっと2階にいてね。」
詩織が桃子に言うと、桃子はうん、と頷いて、2階の自室に向った。
再び、リビングが静寂に包まれた。
「香織、あなた…どういう事なの?」
詩織は声を振り絞って、香織に言った。
香織は少し息を大きく吸うと、詩織をまっすぐ見つめて言った。
「私、妊娠したの。来年の5月に出産予定で、今、5ヶ月。相手の人とはもう別れていて、私一人で育てるって決めたの。仕事は…辞めたから、今は違う仕事をしているの。」
詩織は正親の方を向いた。驚きで声が出なかった。
正親も同じく、驚きを隠せないまま、香織に質問した。
「その…お相手の人は、どういう人なんだい?」
正親の質問に、少し考えた後、香織は口を開いた。
相手の人は、ある小さな会社の跡取り息子で、政略結婚で相手が決まってしまい、他の人と結婚することになったこと。
その人の為に別れた後、妊娠が分かったが、相手の人には伝えていないこと。
一つ一つを香織は、正親と詩織に伝えた。
そして、香織は、まっすぐ二人を見つめて頭を下げた。
「私ひとりで、この子を育てる覚悟はできています。ただ、私に何かあったときは、この子の命を助けてください。お願いします。」
「当たり前じゃない、私達、姉妹でしょう?」
詩織は香織に、優しく笑いながら言った。
「香織さん、僕達は精一杯君を支えるから、安心して過ごしてください。」
正親も頷きながら言った。
香織は、プツンと線が切れたように泣いた。
「香織、近くに引っ越してこない?その方が私達も安心だし。」
詩織が香織に言った。
「良いの?」
香織は驚いたように詩織を見つめた。
「もちろんよ。引越しも手伝うから。」
詩織は香織に優しく言った。
「正親さん、お姉さん、二人ともありがとう。」
香織は涙を浮かべながら、二人に伝えた。
暫くして、香織は、詩織達の住む家から二駅程の距離に引っ越してきた。
過去に流産を経験していた香織は、無事に産まれるまで、桃子には知らせないでほしいと詩織に伝えた。
詩織は香織の気持ちを尊重して、桃子には妊娠を伝えなかった。
そして、時々、香織の様子を見に、香織の自宅へと向かった。
一度だけ、桃子が詩織に連れられて、香織の自宅へ行ったことがあった。
その時、小さな鉢に、可愛い花が咲いているのが桃子の目についた。
「この可愛いお花、何て言うの?」
桃子が勇気を出して香織に聞くと、香織はにっこり微笑んで言った。
「カランコエって言うの。可愛いでしょ?花言葉も素敵なのよ。」
「花言葉?」
桃子が不思議そうに言うと、香織は微笑みながら答えた。
「花には1つ1つ、意味があって、言葉があるの。
カランコエは…【あなたを守る、幸福を告げる】そして…【たくさんの小さな思い出】。
私は、このカランコエが大好きなのよ。」
鮮やかな小さな花をつけたカランコエを見つめながら、香織は何かに訴えるように、微笑んで言った。
桃子には、香織の笑顔が温かくて、でもなぜか少し不安になった。
それから、詩織だけが香織の自宅へと時々赴いて、家事の手伝いや買い物の付き添いをして、支えていたが、ある日…
もうすぐ出産予定日が近づいた臨月の香織は、突然、倒れてしまった。
そして、そのまま、亡くなってしまった。
死因は不明だった。
辛うじて、お腹の中にいた赤ちゃんだけは助かった。
もしかしたら、激務だったころから、体調を崩していたのかもしれない。
どこか、自分の体調に、不安があったのかもしれない。
だから、私達に妊娠を告げ、お腹の赤ちゃんを守ってほしい、と伝えにやってきたのだろうか。
側にいたのに、なぜ気づかなかったんだろう。
詩織は、自分を責めて責めて、泣き崩れた。
香織の死を伝えられた桃子も、とても泣いた。
そして、あの日見た、香織の優しい笑顔と、カランコエの花言葉が頭に浮かんでは消えていった。
香織が最期に守って産んだ赤ちゃんは、暫く入院していたが、退院の目処が立って、施設に入所するか、どうするか、病院の関係者から詩織と正親に問われた。
正親は、すぐに、養子に引き取る事を伝えた。
詩織は驚いたが、正親の言葉が嬉しかった。
赤ちゃんの名前は、詩織は香織から生前聞いていた。
「祐太、って名前をつけていたのよ。」
「いい名前だね。」