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雪の足跡

作者: たまこ

 「ぼくは見たんだよ」

 赤いミニチュアカーのタイヤをきりきりと床に擦り付けてぜんまいを捲きながら、冬馬はいった。同じ台詞を言ったのはそれで三度目だ。ぜんまい仕掛けのミニチュアカーは去年のクリスマスに父親からもらった四輪駆動車で、冬馬はどこへ行くにもポケットに携えて片時も離さないでいる。  

 次の瞬間に車は手の中から勢いよく発進され、ベッドの脚に二度ぶつかってとまった。

 「でも、わたしは見てないの」茉莉子は車を追いかけて尻を上げた弟に言い放った。「お母さんも見てない」

「でも、ぼくは見たんだ」   

 茉莉子はまたミニチュアカーが床に押し付けられ、現実ならばとっくに速度違反で検挙されているはずの快走をみた。 

 二人が話しているのは昨日、十二月二十四日の早朝についてだった。前日の晩から零下を記録し、夜更けから間断なく雪が降り続けていた。その日がいつもと違ったように感じられたのは、未明ごろに茉莉子が隣の部屋で母の泣き声を聞いたからだ。何時だったのかは覚えていない。父の名を呼びながら母は泣いているようだった。ただ、それは夢だったかもしれない。茉莉子が目をつむり、もう一度目覚めて階下に降りたときには、母はすでにキッチンで朝食の支度をしていた。

 冬馬はそれよりも一時間遅れて起きた。窓から冷気を感じて、歩み寄って窓硝子の結露をカーテンで拭い取ると、雪はやんでいた。次第に輪郭を取り戻していく景色の中にみえてきたのは、林の奥から一家の玄関まで、迷いなくまっすぐとこちら側に歩んできた誰かの足跡だった。

 冬馬は驚いて両手と鼻先を窓硝子にくっつけた。もう少し悪化すれば眼鏡が必要かもしれません、と眼科医にいわれた冬馬の視力でも、まばゆい雪原に転々と連なる粒のようなものが、足跡であるとはっきりとわかった。いくぶんか混乱し、寒さに歯をがたがたといわせながら、冬馬は頭の中で素早く計算をした。

「お父さんだ!」そう叫び出すと、急いで一階へ駆けて行ったのだった。

 茉莉子は部屋の中に冷気を感じて、ベッドサイドに置かれたリモコンを操作して暖房の温度を上げた。「結局、わたしたちが見たときは足跡なんてなかったよね」

 弟は俯いたままミニチュアカーを手の中でもてあそんでいた。もうベッドの一部に対する破壊工作は飽きたらしく、車の後退と前進を床に上下に擦り付けながら繰り返している。

「でもぼくは見たんだ」何度目かのその台詞は、先ほどよりもずっと弱々しかった。

 午後になると雪が降り出した。雲の隙間から柔らかな帯のように陽が照り出していたので、ゆっくりと地表に落ちていく雪の一部は薄金色の光の中にあり、深夜の雪とは違うもののようにみえた。

 一家のリビングは細長いカウチと書棚、チェスターに、雑然と物が置かれた金属ラックが壁際に置かれ、壁の四面すべての、本来なら白壁をのぞかせるべき場所に、蔦のようにびっしりと額入りの大小さまざまなサイズの写真が飾られていた。つり下げられた写真は周囲の写真を支えにして盛り上がっており、写真自体が生命力をそなえて自然と繁茂していったようにさえみえた。撮影者は一家の父親で、独身時代から十九年間にわたる結婚生活にまで及ぶ作品は、数にして千枚は超えていて、妻でさえ正確には記憶していなかった。被写体に人間が映っているものは稀で、大抵は獣と呼べる金色から茶色にわたる色をした体毛の動物たちの、あらゆる部位や表情や行動の瞬間が納められていた。

 写真は父親がいたとき、彼の輝かしい業績と被写体に対する限りない愛と探究心を来客に物語っていたものだったが、今では戦利品―もっと言えば「遺品」としてみなされた。父親は、写真家よりもむしろハンターだと好んで自称していた。「でも、動物は一匹も殺さないよ」と子どものような八重歯をみせて笑った。父親はその言葉どおり、死ぬまで動物を殺さなかった。

 「グリズリーは優しかったんだよ」冬馬がカウチのそばで衣服をたたんでいる母親に話しかけた。「お父さんが言ってたんだ。グリズリーは全然凶暴じゃないって。凶暴だけど、それはみせかけだって」

 母親は答えなかった。

「お父さんはグリズリーと話したって言ってたよ。お腹がいっぱいのときなら、話し相手になれるんだって。だからお父さんはまだどこかにいるよ」

「それ以上しゃべらないで」肩で息を切っていた母親が、一つ一つ言葉を見失わないように力を込めた。「お願いだから、その名前は、二度と、この家で、金輪際、使わないで」

 茉莉子の位置からは母親の表情がみえなかったが、今まで聞いたことのないほど冷たい声をしていた。悲劇的な声だった。押しつぶされそうな魂が、苦痛の中で嘔吐をしたような声だった。弟はぶるぶると身体を震わせると、テーブルの上に置いていた玩具のミニチュアカーを慌ただしく引っ掴み、走って階段を上った。茉莉子は家の中のすべての写真が、そのけたたましい振動で一瞬揺れたような気がした。母親は声にならない嗚咽を発し始めた。茉莉子は弟の後を追いかけながら、あのとき、やっぱりお母さんは泣いていたに違いないと思った。

 クリスマスは父親の誕生日でもあった。一家はクリスマスになると誕生日のケーキを食べ、チキンとかぼちゃスープで腹を満たし、それぞれが用意したプレゼントを交換し合っては、姉弟でお祝いのデュエット・ソングを歌った。毎年のお決まりだった。父はいつもシャンパンを飲んでは少し酔っぱらって、陽気に笑い出すと子どもたちを肩車して家の中を走り回った。

 子ども部屋の戸を開けると、付けたままにしていた暖房器具が低くうなるように温風を吐き出しているところだった。冬馬はベッドの上にいた。白いシーツを波状に乱れるほど強く握りしめたまま、膝と肘を曲げて背を丸めるようにうつ伏せになっている。

「どうしてあんなこと言ったの」

 茉莉子は慎重に弟に歩み寄った。冬馬の顔は窓のほうに向けられていて、眠っているようにもみえる姿勢だったが、小さく肩が上下に揺れているのがみえる。茉莉子はベッドの周りで躊躇しながら、結局弟のそばへは行かずに彼の顔がみえる位置に移動した。冬馬は泣いていた。ほとんど声もあげずに泣いていたのだった。

「お父さんに会いたい」

 冬馬は顔をあげた。手から車の玩具がこぼれた。茉莉子は身体の向きを変えて、顔がみられないように部屋の外をみた。暖められた室内の温度によって窓ガラスは曇って、亡霊のような色をしている。茉莉子が窓を袖でこすると、手首に濡れた感触が広がっていくのに従い、みるみると外の景色があらわれていった。

 どうしてあぶないところに行くの? 茉莉子は父親に聞いたことがある。父は笑って茉莉子の頭を撫でた。家族がいるからだよ。そう答えたような気がする。いつでも帰る場所があるからね、どんなにあぶないところだって、絶対に帰ってくるさ、絶対だよ―。

 雪はいっそう深くなっていた。見下ろす平地と家々の屋根は雪に覆われて、灰色の空間を雪の粒が激しく舞っている。

 そのとき、茉莉子には一瞬の幻のようにそれがみえていた。ゆっくりと喉を鳴らした。郵便屋さん、お母さん、雪かきのおじさん、除雪作業員…頭の中で次々に人を思い浮かべながら、そのうちの誰にも当てはまらなさそうだと考えたとき、弟が隣に来た。冬馬は噓をついていなかったのだ。

「ほら、足跡だ!」

 茉莉子は胸がいっぱいになり、窓を開けた。急な冷気が部屋の中に入り込んでくる。足跡は風に包まれて今にも消えてしまいそうだった。

「ぼく、お母さんにも言ってくる!」

冬馬ははじかれたように振り返ると、そのまま勢いよく階下へ降りていった。茉莉子も窓を閉めるとすぐに弟の後を追いかけた。

「おかあさん! おかあさん!」

 一階では冬馬が母の腕をとって玄関の前に立っていた。母の心ぼそげな背を、冬馬が支えている。「ぼく、ほんとうに見たんだよ」とささやくような冬馬の声とともに、ゆっくりと戸が開かれていく。

 三人の目にははっきりと雪の上に連なる足跡がみえた。まっすぐに、その足跡はためらいもなく一家の玄関へと続いていた。「おとうさん!」「お父さん!」冬馬につられて、茉莉子も叫んだ。母は冬馬の隣で崩れるように膝をついた。

 「おとうさん!」「お父さん!」雪の子のように冬馬と茉莉子は外へ飛び出した。お父さん、お父さん、と母もすすり泣きながら二人の後を追うように雪の中へでた。

 三人の声がひと筋に重なって、遠く景色へと吸い込まれていくとともに、雪の上の足跡が踊るようにゆらいだ。吹雪だ、と茉莉子が思ったときには眼前の景色が雪一色になり、叩き付けるような強風がおそってくると、茉莉子は顔をそらして耐えた。やがて強風が去ったあとには、鎮まった雪の景色の中で、すでに足跡は消えていた。どこにも足跡はなかった。  

 ただ新雪が、どこまでも大地を覆っていた。  

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