ブロック21「ジャイアントキリング」
ぴこーん、と、音がした。海後が仮想の違法簡易取引所に出した取引申請が承認されたのだ。膨大な額を申請していた。それこそ、アンガヴァンスペース中のエレメンタムを買い締められるくらい。しかし決済されたその額、わずか500エレメンタム。
(こんなものか)
海後はため息をついた。そう。自分の拙い演説なんかで心を動かされる人間などいないか、いてもほんの数人だろう。実際にエレメンタムをくれる人間がいただけでも奇跡だと思うしか……。
ぴこーん。また、取引が成立した。今度は、1300エレメンタムだった。それを皮切りに、何度も、何度も何度も何度も、取引成立を知らせる効果音が鳴り響いた。海後は感じたことのないソワゾワした感覚をアバターの全身に感じた。
「日暮、どこだい!?」
コーマは上機嫌でアンガヴァンスペース内を闊歩する。かつてない量の資産を手に入れられる。それしか考えていなかった。海後を探す目線がギョロギョロと住人たちのコミュニティを舐め回す。それを向けられる度、人々はひぃっ、と声を上げて飛び退った。とばっちりを得てはたまらない。しかし、中には強い視線を返してくる人間もいた。敵意を込めて睨んでくるのである。
(ふふふ、今の演説でちっぽけなプライドを刺激されたか)
コーマはかねてからこういう人間が大嫌いであった。2010年代半ばに生まれた彼は、日本が階層社会化する中育つ。幼少期からネットでの活動で人気を博し、没入型インターフェースが社会に広まるころには国内ネット世界のカリスマとなった。その時々のブームを的確に捉え、動画投稿サイト人気投稿者、ネット芸人、そして主役と、自身というブランドを腕一本で成長させてきた。
だからこそ、無力で矮小な人間を見ていると唾棄する気分になるのだ。自分とは正反対の、自らは何もせず、不満ばかりで、能力も育てず、リアル世界でもダメ人間な存在達。最初は慈善で積極的にかかわったりもした。しかし、やがて、嫌悪しか抱かなくなった。そして始めたのだ。蹂躙を。
(こいつらはクズだ。俺たちの、上位層の餌に過ぎない)
その認識は年月とともに強固になり、彼のアイデンティティの基礎に差し挟まれた。侮蔑。彼は彼のフォロワーさえも侮蔑していたのだ。彼を活かす全ての者は、彼によって魅了され、虜となったでくの坊だと……。
(全てが俺の思惑通りだ。ゆくゆくはすべての主役を駒にし、ネット内に国家のような共同体を作ってみせるさ。元首はもちろん、オレ。ははは、夢物語ではないぞ)
「調子に乗っているようだな。コーマ」
そんな挑発的な言葉も、コーマの耳には不快感を与えない。それほどに相手を舐めているのだ。
「ああ、海後! そっちから声をかけてくれるとはな。どこにいる? 個人チャットなんてやめて姿を見せろよ」
サイト内遷移のエフェクト。揺らめく空間から現れる海後だった。コーマはいぶかしむ。まさか本当に姿を現すとは。相手はバカではない。破れかぶれになるタイプでもない。それはここ数年仕事を斡旋してきた彼だからこそわかることだ。勝てる自信がなければやらないタイプのはず。まさかあれだけの、法外な数のバイナリーコインを処理できたとも思えないのだが。
「やあ日暮。本当に姿を表すとはね」
何となく、薄気味悪いものを感じつつも余裕を崩さないコーマだった。
「御慈悲を乞う代わりに随分勇ましいことを言っていたが、ダークウォレットには一体どれだけエレメンタムが集まった? 10万か? 20万か? ああ、ごめん。5万も集まってないよな。そうだろうそうだろう。そんなものさ。落ち込むことはない。お前はよくやったよ……」
「2000万」
海後は挨拶でもするように無造作に言いはなった。調子を崩したのはコーマだ。思わず、えっ、と間抜けな声を出してしまう。
「2000万だ。聞こえただろう?」
「何をバカな。証明する方法などないだろう。ダークウォレットの中身は公開すれば取引履歴に矛盾が生じ、一瞬でお縄になるから明かせない、故に馬鹿げたハッタリもできる!」
「そうだな。さすがに公開はできないさ」
なんでもない、という風に言ってのける海後だった。コーマはいつものような芝居がかった様子も見せることなく、ただただ狼狽している。
「このオレが全力でかき集めたエレメンタムのおよそ20倍の量をお前に売り付けたというのか! こんな吹きだまりのくずどもが!」
「証明する方法はあるぞ、コーマ。これを見たら潔くこの案件から手を引き、モーレ・ゲオメトリコ社に関する情報拡散の邪魔をするな。そうすれば危害を加えないでやる」
コーマがアバターに憤怒の表情を浮かべさせ、
「黙れ! 雑魚め!」
と叫ぶ。海後はやはり、日常の挨拶のように無造作に言い放つのだった。
「『バベルの図書館(違法性:未測定、コスト200000エレメンタム)』
コーマの口がみるみるうちに開いていく。浮かべる驚愕の表情。戦闘プログラムに関しては主役
(プレミアプラン)随一を自負する彼でも知らないものだった。それも無理はない。今初めて、世界で初めて起動されたプログラムなのだから。それはカチアが持ち込んだ違法プログラムのひとつだった。そしてそのコストこそが海後が言った数字がはったりでないことを示していた。
「馬鹿な……、200000エレメンタムだと!? それだけのコストを一個のプログラムに支払うなど……」
本当に2000万もの量を保有しているか、それはまだわからないが、最低限今支払ったコストの数倍はないとおいそれとは払えないはずだった。ダークウォレットの中のエレメンタムが闇鍋を通じてアンガヴァンスペースの住人のウォレットアドレスを宿したまま消費され、公的な取引履歴に記録を残していく。そしてその効果が発動する。
「このプログラムはなあ、コーマ。この世のすべてのプログラムをこの場で使用できるようになるという効果を持つんだ。俺も驚いたよ。こんなプログラムが存在するなんて。あらゆる場所の履歴をハッキングし、そこからデータを盗んでくるんだ」
「そんなでたらめなプログラムがあるか!」
しかしはたと気づくコーマだった。相手がどれ程のプログラムを使おうが驚異ではない。自分もそれを模倣できるのだから。どうせはったりだ。自分以上のエレメンタムを保有しているはずもない。プログラムでさえ互角になれば、勝つのは自分だ。そういう確信があった。
「それをもらうぞ、日暮! 『勝者総取り』!」
しかしその効果が発動する前に、海後は無数にあるプログラムの中からひとつを選択し、唱えた。
「『魔法使いの弟子』(違法性:ブラック、コスト70000エレメンタム)」
「そ、そのプログラムは!?」
それは伝説と呼ばれる違法プログラムだった。かつて存在した、決して摘発されないまま姿を消したウィザード級ハッカーの残したプログラムだった。その効果はえげつないほどに強力だ。相手の起動した任意のプログラムの効果を打ち消すことができるのだ。
他にもいくつか選択できる効果があるが、海後は今の状況にもっともそぐう、打ち消し効果を選んだ。果たして、コーマの『勝者総取り』はその効果を発揮することなく、不発に終わった。
「な、に……」
本当に海後が無尽蔵なほどのエレメンタムを保有しているのなら、オーマはもう決して新たに海後のプログラムをコピーすることなどできないのだった。しかしそれでも、コーマには秘密の手段があった。
「シャドーストレージ内プログラム起動! 『神は言葉なり』(オリジナル、違法性:未測定、コスト100000エレメンタム)!」
海後は、やはり隠しのストレージをアンガヴァンスペースに用意していたか、と思った。装備しているプログラムは『虎は爪で知れる』などで知られてしまう恐れがある。しかしこうして違法サイト内にあらかじめアクセスできるものを用意しておけば知られることはない。
海後がセイ戦で使ったのと同じ手だ。これはつまり、海後はコーマが切り札を切らざるを得ないところまで追い込んだということだ。
「やはりそういうモノを用意していたか。効果は何だ?」
コーマは余裕のなさそうな顔に久々に笑顔を、不気味な笑顔を浮かべながら、
「これは防壁プログラムさ。神の名の下の加護である絶対の防壁。キミが何をしようが絶対に打ち消されることはない。そしてその効果は次に発動するプログラムにも適用される」
つまり、コーマは繰り出す攻撃を確実なものにしようとしているのだ。
「『離人!』
防ぎようのない攻撃を。決して打ち消されなくなった致命的な攻撃プログラムが発動し、データ流が海後の方へと流れ込む。しかし、彼は焦らなかった。冷静にこう発声する。
「『代理人格(違法性:ホワイト、コスト500000エレメンタム)」
コーマは驚愕が自身のアバターの顎を引き下げて、間抜けにもだらりと口を開かせるのを感じた。これほどのコストを持つプログラムなど、想像したこともなかった。
「これはAI研究の過程で生じたプログラムらしいな。『バベルの図書館』が使用を提案してくれたよ」
海後が言った。何でもないように。
「こ、これを防げるというのか!?」
代理人格。知性を持たないが人間の人格をかなりの精度で模倣した疑似精神を作り出し、それを使用者のアカウントに加えられる幻惑系攻撃の肩代わり役に使う。無論、そんなものを作り出すためには膨大な計算資源が必要ではあるのだが。
これにより、『離人(ディペルソナリゼーション )』の効果は全く海後自身に危険を及ぼさなくなるのだ。
一歩、二歩、後ずさるコーマ。もはや彼には撃つ手はない。目の前の相手には絶対に勝てない――。絶望が彼の膝を折った。アバターの尻が地面にどさりと落とされた。
「わかった」
哀れなべヒモスはボソリと呟くように言った。
「わかった、わかった悪かった! 許してくれ!」
ツカツカと海後が近づいていく。久しぶりに感じる恐怖に、コーマは演算されることのない、流れるはずのない冷や汗が流れるのを感じた。
「許す? ああ、妹の件か」
ゆっくり頷きながら、
「ああ、もちろんそうだとも。謝ってすむ話じゃないのはわかってる。お前を手駒にしてサディスティックな感情を抱いていたことも認めよう。すべてを謝罪する。モーレ・ゲオメトリコ社との契約も解除するし、もう君たちの邪魔もしない。な、なあ、それでいいだろう? お願いだ、もう見逃してくれよ……」
海後はこの世の中にある怯えの表現を一身に集めたような様子でガタガタと震える、かつてあんなに恐れたはずのアバターの姿を見下ろしていた。こんなやつに踊らされていたのか。もうなんとも思わなかった。コーマはなおも命乞いを続けるのだった。
「なあ、オレに復讐をして、それで満足か? そ、そうだ。オレを助ければお前の手足になろう、俺は極めて有用だぞ? 俺のコネクションや今までの実績を見ればわかるだろう? 価値ある選択をするんだ。そのために主役として行動しているんだろう? 本質を見失うなよ、お前の判断基準は合理性であるはずだ、長い間お前を見て来たからわかるんだ!」
命乞いのコツは自分の生殺与奪剣を握る相手を喜ばせるか、生かす価値があるということを合理性をもって説明することだそうだ。脳を振り絞ってコーマは後者の作戦を実行していた。しかし、海後は首を傾げた。
「うん? 俺はそんな判断基準で行動してはいないぞ? ずっと前からな」
コーマは信じられないという顔でこの若き主役の顔を見上げた。
「……正義のためだ。いつだってな」
『離人(ディペルソナリゼーション )』が、海後の手によって発動されたのだった。




