ブロック19「脱落」
「これは……」
海後とテルーは警戒する。10000以上のコストを持つプログラムが実際に使用されるところなど初めて見たからだ。カチアだけが臆さず、いつもの表情を崩さずに立ってた。
「ふふふ、オレのオリジナルのコマンドだよ。プログラムするのには苦労したんだ。なにせ、高度なハッキング行為を発動過程に含むからね」
コーマが言うには『勝者総取り』の効果はこうだ。一定時間以内に周囲のアカウントが使用した違法、順法問わないすべてのプログラムを使用可能。つまり、相手がプログラムを使用すればするほど、装備限界を越えていくらでも『勝者総取り』の使用者もそれが使用可能ということだ。
「そうだなあ、君たちをどうにかしちゃうには……これくらいで十分かな? 30000エレメンタム、消費、『重力法則』、冗長化」
先ほどと同じように周囲の空間が歪み始める。今度は海後たちの周囲が。極大の情報流がアンガヴァンスペースのインフラを襲う。前の発動の時とはくらべものにもならない密度で。
「くそ! エレメンタム消費! 増速!」
海後が悪態をついて効果範囲から逃れようとする。しかし6倍に冗長化された『重力法則』の持つ支配領域は単一のそれとはくらべものにもならない。テルーも、カチアも、必死で逃れようとするが、成功したのはカチアだけだった。広場の仮想の地面が波打つ。空間を構成する基本格子がずれる。崩壊寸前となったエリアの一角、カチアが巨大な重力異常に例えられる暴力的プログラムの効果範囲から出たのと、海後、テルー両名の動きが完全に停止するのとは同時だった。飛びのく姿勢のまま、二人はブロックノイズを出しつつ空中で凍ったように制止していた。
「呆気ないなあ」
コーマの感想である。彼は停止した2つのアバターに順番に目を遣る。ふふ、と、いつもの笑み。いまや海後とテルーの命はコーマの手に握られているのだ。いや、その手から奪還できる立場にある者が一人……。
「不味いわね」
カチアが呟くと同時にコーマが驚きの表情で彼女の方を見る。
「驚いたな。六重になった『重力法則』から逃れられるなんて。面白いな。ねえ、君。海後たちを消したら、僕のところに来ないか?」
カチアはコーマにまっすぐ視線を向けながら、
「それはお断りするわ」
と言った。その無表情に固い決意を見て取ったコーマだが諦めないようだ。ふう、と息を吐くとともに芝居がかった動作で肩をすくめた。
「そりゃ残念。でもじきに理解できるだろう。もう君にできることもないしね。そうして突っ立ってるといいよ。仲間を消されるところを見物しているといい……。このプログラムで終いだ」
「30000エレメンタム、消費、 『修正無用の否定』」
コーマがプログラムを起動する直前、カチアがプログラムを唱えた。
「何ッ!?」
コーマは驚きの感情をあらわにする。通常、『修正無用の否定』は、自己一人を対象とする攻撃プログラムに対してしか起動出来ない。それが今回は何故か起動され、『重力法則』に対して打ち消し効果を発揮し始めていた。見る見るうちに歪められた空間が元の形に引き戻されていく。コーマはぽかんと開けた口の端を引き上げると高々と笑った。
「ははははは、まさか、『修正無用の否定』にここまでの能力はないはずなんだがな! そうか。そういうことか。君だったのか」
合点がいったというように、心底面白そうに声を上げる。そんななか、動けるようになった途端、海後のアバターがこう叫んだ。
「『虎は爪で知れる』!!」
~高馬初雪~
・保有エレメンタム 1086700
・戦闘手段
『勝者総取り』(オリジナル、違法性:ブラック、消費エレメンタム10000)
『離人』(違法性:ブラック、消費エレメンタム30000)
海後はこれまでにない戦慄を感じた。『虎は爪で知れる』で知ることが出来たコーマの保持プログラムは二つだけ。それしか装備していないのだ。一方は先程使用された『勝者総取り』、そしてもう一方こそが問題だった。
「あの悪魔的攻撃プログラムを……正気か、こいつ」
海後は信じられない思いでウィンドウに表示されたデータを見返す。『離人 』。史上最も凶悪と呼ばれたプログラムである。その効果は……。
「まさかたった一人でここまでのプログラム強化を行えるとはね! オレと同レベル、いやそれ以上のハッカーかもなあ!」
コーマは興奮を隠さない。カチアに熱烈な視線を送りつつ、捲し立てる。
「だがこれで君のエレメンタムはスッカラカンだ。どうだい? もう降伏して僕の所へ来る気になったんじゃないか? ふふふ、なんだか海後の妹をもう一度手に入れるようでサディスティックな快感があるなあ。なあ、海後」
「貴様……!」
表情こそ勇ましいものの、海後は内心恐怖していた。コーマが用意してきたプログラムを。
「高馬初雪。私はあなたの敵よ。この事実は決して覆らないわ」
「刺激しては危険です! カチアさん! 相手はあんなものを用意しているんですよ!?」
海後から情報を回されたテルーがそう警告する。彼女とてネットの闇世界に関わってきた身、コーマがやろうとしていることを明白にわかっていた。カチアは状況を理解していいるのかいないのか、強気な態度を崩さない。海後はまだしも、テルーはもう危険を感じ、撤退する心づもりになっていると言うのに。
「高馬初雪。あなたの本質は何?」
「んん?」
コーマはいぶかしげな、それでいて興味深そうな顔を傾げる。カチアの問いかけがよほど気になったらしい。
「いえ、私はそれを知っているわ。あなたの本質は、猟犬と呼ばれる日暮海後のナイーブなそれとは比較にならないほどどす黒いもの。利潤と権勢欲のためにすべてを犠牲にする、最悪の主役だわ」
コーマはにやあっと不気味に口角を引き上げた。アバターの歯も露に。軽い恐怖すら感じる海後とテルーだった。
「ほう、そういう臭いは全力を傾けて消してきたと言うのに。君にはお見通しと言うわけか」
カチアは頷く。海後とテルーは同時によせ、と心の中で叫んだ。
「じゃあ、もう、要らない。そんな奴は生かしておく理由はないな。100000エレメンタム、消費、『重力法則』、冗長化」
「逃げろ! カチア!」
海後の叫びもむなしい。20倍に冗長化された『重力法則』から逃れる術などない。範囲に入ってしまっているカチアはもう、逃げられまい。再び空間が歪む。今度は速度も変化の具合も段違いだ。メリメリとサイト自体を引き裂くように、それは内側へと落ちていく。
「カチア!」
「カチアさん!」
二人の呼び掛けが届く間もなく、一瞬で動きを止めてしまうカチア。もう音声信号も受け取れまい。
「ふはは、最も驚異であるこの少女が動きを止めてくれたぞ。さて、いよいよこいつを使うか。少々非人道的だが……」
「いいのか、コーマよ」
海後がわななく。
「そんなものを使えばスキャンダルどころじゃない、実刑もありうるぞ。まともな状態なのか、お前」
コーマは嘲り笑った。
「ははは、心配には及ばないよ。絶対にばれない。いまこの瞬間もこの状況を録画しているアンガヴァンスペースのギャラリーはいるだろうが、その映像にもリアルタイムでハッキングをかけている。いかなる方法でもオレがこの場で取った行動に関する情報は漏れはしないよ。大量に抱えたエレメンタムの使い道に関するカバーストーリーも用意してあるから心配無用だよ。大学で同期だった人間が属する研究機関に寄贈したことにするさ。ああ、高等教育機関に行ったこともない君たちにはわからない話だったかな?」
海後もテルーも歯噛みしつつカチアを見る。いつもの無表情で固まったその姿は人形のようにも見えた。
「『離人 』 !!』
それはあるテロリストが作ったプログラムだった。なぜコーマのような存在が保持しているのかわからないほど危険で、法的リスクの大きい代物だった。その効果は恐ろしい。これは肉体とアバターの同期を侵すのである。自分のアバターが自分の疑似身体でなく、他人のものであるかのように感じるおぞましい感覚。五感に異常を来たし、ダイブを維持できなくなる。その人間はログアウトしない限り、強烈な吐き気に襲われるだろう。そしてその効果は永続的なのである。
起動シークエンスにシャットダウンプロセスが差し込まれてしまうように、ヒュプノス式インターフェースでダイブする度にその感覚に襲われるようになる。それを「治療」する方法は現時点で、ない。アカウントのアップロードされたアバター情報の奥深くに潜り込み、決して摘出除去できないウィルスプログラムなのだ。有効な対策はアカウントの再取得だが、現行法制下ではそれは現実的ではなかった。つまり、実質これを食らえばその人物はネットでのダイブを伴った生活を失ってしまうのである。
カチアのアバターの様子が目に見えておかしくなる。停止していたそれは痙攣し始め、正しい肉体側からの情報を受け取れずにゲームのバグのような異様な動きを繰り返し始める。
「カチアさん……」
テルーが絶望的な表情でそれをただただ見つめる。海後はコーマとカチアの様子を交互に見た後、改めてコーマを睨み付ける。しかしどうしようもない。カチアのアバターが消失した。ログアウトしてリアルに戻ったのだろう。そして、二度とダイブすることは出来まい。コンソールを利用してネットを使うことはできるだろうが、二度とサイトの中を自由に五感を伴って移動することはできないのだ。海後はそのことに思い至ると何とも言えない表情を浮かべた。そう、カチアは同じ地獄に堕してしまったのだ。妹の、イサと。
「ははははは、こんなものか!」
コーマの高笑いの中、海後は絶望を感じていた。スミからの連絡はない。まだ解析中と言うことだろう。テルーはおどおどとどうしていいかわからない風でいる。もう自分の手に追える状況でないと痛感しているのだ。海後も、テルーも、事態の好転を諦めていた。
「クソ、時間稼ぎもろくにできなかったか。いっそ何か捨て身の手段を……」
(――落ち着いて、日暮海後)
いつものように勝手に繋いできた声だ。コンソール越しに音声チャットを繋いできているのだろう。海後は吐瀉物まみれになりながらヘッドセットを無理矢理引き剥がし、コンソールに向かっている少女の姿を思い浮かべた(いや、少女の姿と言うのは恐らく正しくないのだろう。あのアバターは妹の姿を再現した仮のものだから、正体は異なるはずだ)。
「カチア、大丈夫か?」
(――私は平気。それよりもスミのところへ行くのよ)
「なぜだ? 何かトラブったのか?」
「ええ。今繋ぐわね」
回線がカチアからスミに切り替わる。
「ああ、海後ちゃん!? 例のプログラムの正体が判明したの。これ、すごいなんてもんじゃないの。でも、起動のためのエレメンタムがちょっと……。こっちに来て!」
「いったいどうしたんだ!? ここを離れられるわけないだろう!」
そこでテルーが痩せ我慢した笑みを浮かべつつ海後に話しかけた。
「大丈夫ですよ、『猟犬』」
海後は思わず不安そうな顔でテルーと目を合わせる。まだまだ信頼関係を築くに至らぬ二人ではあるが、そうも言っていられない。――任せるしかない。海後はそう思った。
「では、頼むぞ。見込みはあるのか?」
「ええ。『メジェドの祝福』で姿を消しつつ『祝祭劇』を使えば最高の時間稼ぎになるはずです」
「わかった、信じるぞ」
コーマが陽気に二人をおちょくる。
「なあ、もういいか? 降伏するのか? 今諦めてもらえると『離人 』なしの特典付きなんだが」
「黙ってろサイコパス!」
コーマは機嫌を悪くしたようだ。一気に表情から笑みが消え失せる。
「あっそう……。『離人 』!」
「『メジェドの祝福』!!」
「サイト内遷移!!」
海後とテルー、両者がその姿を消した。




