ブロック2「日暮海後の休息」
「メグリ、セイ、いったん休憩をとる。ヤツのもう一つのアカウントの居場所がわかったら知らせてくれ」
了解、の声が重なるのを聞きながら現実世界へと知覚を戻した海後はヘッドセットを取る。
安いとは到底言えない特製の椅子の背もたれから身を起こす。
Tシャツで顔の汗をぬぐい、前回いつ散髪に行ったかわからないボサボサの、染めた赤髪をかき乱す――散髪しないのも意味はある。
アバターとの容姿の相違で最も幅が許されるのが髪型だから、身元割れを避けるためにみんな髪型はなるべくアバターから乖離させた――。
五階の窓の外は雨だった。
十時間ぶりに見る現実の空。
部屋の中に目を遣ると、ネットワーク機器と植物プランター以外何もない、コンクリート打ちっぱなしの風景がこじんまりとしてあった。
手を腰にやりつつ溜息のように言葉を吐き出す。
「この拠点にも長く居過ぎたな。そろそろ俺の居場所を関東圏にまで絞れる奴も出てくるだろう。……次は四国にするかな」
本来住所不定ではネットにアクセスする権利を持てない。
それを、彼のような居場所特定を極度に恐れる主役達は、プロキシサーバー含めた、順法から違法すれすれまでの手段を駆使することで、登録情報とは別の場所・機器からネットにアクセスすることを可能にしていた。
海後は植物プランターの傍まで行くと、霧吹きを取ってせっせと葉を湿らせる。
植物の世話は彼の趣味なのだ。
他の生き物とのリアルでの唯一の接点。
何も考えていない目で水を吹き付けてはクロスでふき取る。
日課を終えると、簡素なベッドに倒れ込み、ふーっと体の中のぬるくなった空気を吐き出す。
ネット世界では活躍する彼らだが、現実世界の生活はほとんど捨て去ったようなものだ。
それを楽しみたいならオフの期間を長くするしかないが、そうして活動しない期間を作ると途端にフォロワーは減っていくものだ。
健康維持のための筋力トレーニングで絞られた細い中背の体を横たえ、暫しの休息に入る。
まだ眠くはないから、横になったまま大きなガラス窓越しに外を眺める。
眼下に広がる東京の住宅街は寂れるを通り越してゴーストタウンだ。
ここに住んでいる中でネットアクセスインフラを維持できるほどに裕福なのは自分くらいではないか?
目を閉じる。
曇り空、午後の灰色の光の中で、海後の意識はまどろんでいく。
二日前。摘むべき犯罪の芽を探すため、海後がいつものように自室でタブレットを覗き、ニュースやフォロワーからの垂れ込み――メグリと情報選別AIが処理して短い資料形式にしている――を読んでいる時だ。
一ヶ月に一、二回、やり取りがある相手からの通話が入った。
「やあ、日暮。調子はどうだい?」
「ボチボチです。コーマさん」
高馬初雪。
一般に、ベヒモスと呼ばれる超有名な主役だ。
フォロワーは100万人以上。
海後はここ数年彼から幾度となく仕事を斡旋されている。
フォロワーやニュースから拾った仕事と、コーマから斡旋された仕事。
実質、半分は彼の指示で犯罪者を狩っているようなものだった。
「そうか。キミくらいのレベルなら常に絶好調であってほしいんだがね。それじゃあ本題に入ろう。今回の標的はこの男だ」
海後は椅子から立ち上がり、床に腰を下ろしベッドにもたれ掛かって改めて手にした画面を覗き込む。
そこには端正な男の顔が映っていた。
アバターのバストアップ画像だ。
背景はリアルに描画された森林。
富裕層でなければアクセスできないサイトだ。
単純なポリゴンのサイトにしかアクセスできない自分たち下層の人間とは違う。
「罪状はウィルスプログラムによる脅迫。頼めるね? こいつが犯罪に実際に関与している証拠集めから開始して欲しい」
海後はめざとく質問する。
「何故こいつが捜査線上に?」
情報ウィンドウがスクロールされ、一塊の文章列が表示される。
「公開ログからの分析により、この男の犯罪傾向はかなりの値を示した。保有技術も犯行を実行するのに必要十分で、収入以上のバイナリーコインを取得している。情報人質型ウィルスで脅し取ったバイナリーコインを匿名口座に集め、別アカウントが違法サイトでそれを現金化。そしてこの男が再度自分のアカウントでバイナリーコイン購入、という流れだろうな。つまりこいつには複数アカウント所持の疑いもある。そのアカウントが現金化のためネットにアクセスするタイミングを狙うといいだろう」
「ご丁寧にどうも」
慇懃に礼を言うと件の男の画像を見つめる。
犯罪者のアバターは見慣れているが、パターンはつかめない。
普通の顔のやつもいれば、見るからに、というのもいる。
この男は前者だった。
「他に決め手があるんじゃないですか? 思想背景とか」
「そこも調べはついている。こいつは現実世界で左翼団体、『階級社会を考える平和の集い』に参加している。これも理由だ。情報人質型ウィルスの標的はこの集いでやり玉に上がる企業がほとんどだとオレのフォロワーが教えてくれた。ふふっ、本当にかわいいやつらだよ、オレのフォロワーは」
「平和の集いねえ。そういう旗印の下に集うやつらは悪人と相場が決まってます」
「ははっ、君らしい言葉だよ、日暮」
うつらうつらとした意識を叩く呼び出し音。
新しく通信が入ったのだ。
メグリからだ。
ベッドから手を伸ばして、机の上に置いたままの個人用携帯端末(PDF)の通話ボタンを押し、会話を開始する。
仲間同士でも本当の電話番号は教え合わない。
この通話は番号からは身元特定不能のアプリケーションを使ったものだ。
ちょっと今話してもいい? という言葉でそれは始まった。
「なんだ? メグリ。ヤツの捜索は終わったのか?」
「今はAIの分析任せだからあたしはすることないの。暇つぶしに話し相手になってよー」
海後は頭をボリボリ掻く。
どうしてこの女は自分と話したがるのか。
恋心を向けられていることはわかっているが、ネット越しの関係でそういう感情を抱く趣味は彼にはなかった。
気が付くと、メグリの話は大分進行していた。
「……それでね、友達のヨウコったらひどいんだよ……。あー、ごめん。プライベートの話はご法度だよね。あたしたち主役はそういうの一番気をつけないといけないのに」
とてもちゃんと聞いていたとは言えないが、海後は適当に相槌を打った。
「その通りだ。リアルが割れれば、物理的な報復が待っている。苦労して住所不定まがいの生活をしているんだ。お前の口から変な場所に俺の情報を漏らしてくれるなよ。最も、それを警戒してお前には一切、プライベートを推測できるような情報は話してないんだが」
そうだよね、とメグリは言った。暗い声だった。しかし、急に明るくなって、
「そうだ! でも、オフラインの会話ならいくらでも話せるんじゃないかな? 盗聴も物理的に接触しない限り無理だし。絶対誰にもしゃべらないからさ、ねー、会おうよ」
海後はため息をついた。
うっとうしいことこの上ない。
「それこそ論外だ。俺たち主役がリアルの関係を持つなんて、あり得ないぞ」
また、そうだよね、と落ち込んだ声を出すメグリだった。
その後は、事務的な会話をして、通話は終わった。
数時間後、またうとうととしていた彼はコンソールのアラームに目を覚ます。
すかさず椅子に体を預けてヘッドセットを付ける。
――ヒュプノス式没入型ネットインターフェース。
催眠と視聴覚入力でネット世界に入り込んだような感覚をもたらすこの時代の重要な発明品だ。
使い慣れたそれに意識を受け渡してネットに潜る海後だった。