ブロック17「セットアップ・リダンダント」
「兄さん」
海後は妹の顔をありありと頭の中に描いた。
その姿も、声も、仕草も。貧しい家庭だった。
海後が生まれたのは2023年。
オリンピック終了と共に目に見えて後退した経済と社会不安が暗黒の時代を予言している、そんな折だった。
両親は新ネット環境が整備されていく中で、バイナリ―コインやエレメンタムへの投資詐欺で財産のほとんどを失った。
そんな辛い生活の中、急速に治安の悪化していく地区で海後やイサを育てた。
イサ。
黒くて長くてきれいな髪をしている子だった。
ヒュプノス式インターフェースは髪によくないからそこだけが嫌だわ、なんて言っていたっけ。
海後の夢は妹の思い出をリピートし続ける。
海後が小学校生活を終えるころに実用化されたヒュプノス式没入型インターフェース。
なけなしの金で買ってもらったそれが、「危ないから外に出ちゃダメ」と言われる生活の中での唯一の憩いだった。
兄妹はよく並んで横になってインターフェースを被ったものだ。電子の森は二人にとってすべてになった。
とうに画面越しの在宅学習に移行していた学校も授業をこの中でやるようになった。
この中――そういう言い方は不適切だ。
どちらかと言えば、この時代の住人にとっては、窮屈な現実よりもよほど「外」という感じがしたものだ。
「外」に出る時間は日に日に増していった。
すべての、このインターフェースを持つ者の傾向。
学校も、小遣い稼ぎも、遊びも、憩いも、全て。
貧しくても理解のある両親の元、二人は電子の世界で伸び伸びと育った。
海後が18歳。イサが13歳の時だった。
その日は遊園地。運命の日だった。
「兄さん」
人混みの中、髪を振りながらこちらを向いた妹の顔。鮮烈な記憶だった。
「今度はどこにするの? 身体感覚拡張アトラクション? 意識焦点分裂疑似体験器? あっ、私、普通のゲームがいいな」
海後は今はもう再現されることのない、穏やかな笑みをアバターの顔に浮かべながら、
「やめとけやめとけ。MMO連中のカモにされるだけだ」
と言った。イサはえーと言って頬を膨らませ、弾けるように笑った。
「でもずるいよ」
急に真顔になると、それだけ言い残してスタスタと前へ前へ進んで行ってしまう。
「どういう意味だ? イサ」
イサは前を向いたまま速足で歩きながら、
「だって、MMOゲームなんて先に始めた人たちが圧倒的に有利じゃん。ズルいよ。ゲームのサービスが始まるより遅く生まれたってだけなのに、絶対トップになれないなんて」
「そういうものさ。イサ。俺たちは生まれる前に組み上がったものの下で仮初の自由を満喫するしかない。そういう運命なんだよ」
イサが立ち止まって振り向く。いーっと歯もあらわに唇を横いっぱいに広げて、
「兄さんつまんないよ! この世に生まれたからには立ち向かわなきゃ、そういう大きなものに」
「イサは夢があるなあ」
その時だった。
イサが苦悶の表情を浮かべ、のアバターの周りにブロックノイズが生じ始めたのは。海後のアバターが目を見開いた。
これは知っている。ニュース動画で何度も見た。違法プログラム、『人さらい』。
「兄さ――」
言い終わる間もないまま、イサのアバターは兄の前から姿を消した。
このころはまだ犯罪者優勢の時代だった。
管理局は自身の対応力の無さを認めることができず、民間の治安維持機構、つまりは主役達の動きにも非協力的だった。つまりは、ほとんどのネット犯罪者たちが野放しだったのだ。
海後はすぐさまログアウトし、現実世界に戻る。
目覚めると、妹は自分の体に縋りついて泣いていた。
ログインできなくなった。そう何度も泣いて訴えていた。
彼女はすべてを失ったのだった。
友達も、学業も、それからつながる未来も。
どこぞの見知らぬ誰かがそれをすべて奪っていた。
残されたのは兄だけだったが、海後であっても踏み込めない領域の中で育った絶望が、イサをむしばんだ。
結局、それから数週間以内に、イサは集合住宅の屋上から飛び降りた。
海後は泣けなかった。
ただ彼女の最後の姿だけを反芻していた。
突然彼の人生からもぎ取られてしまった、最も大切な人。
その最後の言葉を。
――それがあの子の願いなら。
同じ年の内にアンガヴァンスペースに初めてアクセスした。
そこで海後は様々なことを学んだ。
社会のシステムを覆すにはどうすればいいのか、という遠大なことから、戦闘のノウハウまで。
スミが教師役であった。
彼女には随分目をかけられたものだ。
しかし、ある日、ある宗教団体のネット上の不正蓄財を追求する途中、違法な手段を使った角で、管理局や主役に追い詰められてしまう。
その時、彼は悟ったのだ。「これは自分には無理だ」と。
すべてを捨てた。誇りも、夢も、妹との思い出も。
あれだけ妹を苦しめたアカウント売買に自ら手を染めたのも、自暴自棄か、自殺の前段階のようなものだった。
妹の夢をトレースする日暮海後という存在はこの時、一旦眠りについたのだった。
「なぜ俺を選んだんだ?」
リアル世界は雨だった。しとしとと水滴が窓ガラスを打った。
カチアとの通話はスミが違法プログラムを解読する間中続いた。
対コーマ用のプログラム構成を考えながら個人用携帯端末(PDF)越しの声に耳を傾ける。
もうコンソールの前に座って何時間も経つが、未だにやるべきことはたくさん残っていた。
未だに謎多き少女は海後の質問に答える。
「もちろん、あなたがアカウント売買に対して潜在的な強い反発心を持っていると評価したからよ。だからこそ、計算資源独占を測っている企業の中でも、愚かにも違法なアカウント売買を裏ビジネスにしているモーレ・ゲオメトリコ社を選んだの」
「そのことに俺が喜んで飛びつくとでも?」
ふっ、と、姿の見えないカチアが笑った感触がした。
あのカチアにしては意外な反応に海後はふとコンソールから目を外して机の上の個人用携帯端末(PDF)を見た。
「時間もかかったし、紆余曲折もあったけど、おおむね予想通りね。今となっては、最初に『フォロワーを獲得するため』と言っていたあの言葉も、本当はアカウント売買という言葉に反応したからというのが真実なのではないかと思っているわ」
「まさか」
「あなたが自分のそういう思いに忠実だったら三島セイエイという青年も裏切らなかったかもしれないわね」
海後は胸に痛みを感じた。その通りだろう。身から出た錆。
妹の夢をつとに忘れようとするあまり、敢えてそこから遠ざかる道ばかり選んできたような気がしていた。
「まあ、それはわからないわ。それに、人間だもの。その時その時で、できることをやるしかない。あの時のあなたは、ああいう気持ちでいることしかできない状態だったのよ。だから自分を責めないで。でも、もう自分をだましちゃだめよ」
しばらくの間の無言が、海後自身の苦悩と、カチアの言葉から癒しを受け取ったことを示していた。
彼の心中の傷がジワリとうずいた。そして決意を込めてこう言うのだ。
「ああ。もう偽らないさ。いつの間にか、巨悪狩りをするのが怖くなってたみたいだ。スミ姉の言う通りさ。アンガヴァンスペースに入り浸ってたガキの頃の俺は、確かに夢を託されるに十分な奴だった。それが、忘れてしまったのさ。初志というモノを。そして、血も涙もない『正義の』主役になった。セイの言う、『同胞』を狩ることしかできない悲しい罪作りな存在に」
ぎっ、と音を立てて、背もたれに身を沈みこませる。
「そんな俺でも、今更最初の頃の気持ちに帰っていいモノなのかねえ。今はただ、あの男に復讐したい、それしか思っていないんだが」
「そう。でもいつか、本当の光の中を歩むことができるようになるわ」
信頼を確信させるような穏やかな声でカチアが言った。海後は少し口調のギアを変えて真剣な印象を帯びた声を発する。
「カチア、こういう装備で向かおうと思うんだが、どうだ? まあ、相手が何十万、エレメンタムを用意してくるかわからないが、この構成なら何割かの確率で勝てるはずだ。
~日暮海後~
・保有エレメンタム 25600
・戦闘手段
『虎は爪で知れる』(違法性:ホワイト、コスト500エレメンタム)
『遊戯の鏡』(違法性:ホワイト、コスト可変)
『燻製ニシンの虚偽』(違法性:ホワイト、コスト可変エレメンタム)
『舞台役者』(違法性:グレー、コスト1000エレメンタム)
・シャドウストレージ
『匿名記者』(違法性:ブラック、コスト5000エレメンタム)
『重力法則』(違法性:ブラック、コスト5000エレメンタム)
~兵間テルー~
・保有エレメンタム 21000(内、固有ハードウェア計算資源5000)
・戦闘手段
『メジェドの祝福 』(違法性:ブラック、コスト5エレメンタム/s)
『魅惑の愛撫』(使用法によっては限りなく違法に近いグレー、コスト10エレメンタム)
『祝祭劇』(違法性:ブラック、コスト5エレメンタム/s)
『完徳か人間性か 』(違法性:ホワイト、コスト2000エレメンタム)
アンガヴァンスペースに入るので、シャドウストレージが使える。テルーの分も海後に編成が任されていた。
「いいわね。でも、スロットは一つだけ空かしておいてね」
海後はその意図がわからず、
「そんな余裕はない」
と不機嫌そうに言った。しかしカチアは軽い調子で、
「いいから。じきにわかるわ。それと構成をもう一考して頂戴。私も出るわ」
「お前が!? 戦闘ができたのか!?」
「勿論よ」
~カチア~
・保有エレメンタム 30000
・戦闘手段
『吟遊詩人』(違法性:グレー、コスト5000エレメンタム)
『極限疲労(サウザンドヤードステア―)』(違法性:グレー、コスト500エレメンタム)
『魅惑の愛撫』(使用法によっては限りなく違法に近いグレー、コスト10エレメンタム)
『修正無用の否定』(違法性:ホワイト、コスト可変エレメンタム)
海後は感心するように唸った。
これで大体の攻撃手段がそろった。
いくらコーマとてこれらすべてを一度に防ぐことはできないだろう。
「チーム保有エレメンタム総量76600か。行けるかもしれないな。これだけあれば」
しかしカチアは首肯しない。
「いいえ。絶望的なのは変わりないわ。高馬初雪の保有エレメンタム量を見て」
海後はコンソールを操作してエレメンタムの公開情報にアクセスする。高馬初雪に紐づけられているウォレットを表示する。
「100万……!?」
それは既に界隈では話題になっていた。
あのべヒモスの一人、コーマが取引所で尋常ではない量のエレメンタムを買い入れたと。
それは彼のような信用のあるアカウントでなければ計算資源独占の疑いで査察を受けるであろう量だった。
一瞬絶句する海後。しかしカチアは何とも思っていないようで、落ち着いた調子で話しかけてくる、
「かき集めているようね。どうする? 日暮海後。逃げる?」
海後はぎゅっと唇をかみしめた。映像情報を繋いでいたら、カチアには彼のボサボサの髪の奥で瞳に火が宿るのが見えただろう。
「本来ならな。だが、お前のあの違法プログラムが起動出来れば勝ち目があるんだろう?」
「勿論よ」
「なら、賭けるに値する。スミに賭けよう」
期日は迫っていた。




