信沙の鐘
果てしなく広がる平面、という表現がよく似合った。鏡のような、さざなみ程度にしか揺れない水面。
基本、陸に背を向けさえすれば、視界は一面の青だった。下に広がる青は深く、上に広がる青は遠い。細く裂いたような白雲が流れていたが、それは境界線をなす瀬戸際で背景の青と繋がっていた。掠れたような雲の端が、揺れて、解れて、怠惰な速度で流れていく。ひんやりとした水に揺蕩いながら空の青を見るのが、ミイナは好きだった。そこには空と水と雲だけが存在していた。何一つ飛んできはしなかった。時々泳いでくるものはあった。だが、おおよそどの辺りでそれらに出くわすかをミイナはよく知っていたし、そういう場所を慎重に避けて揺蕩うことを忘れなかった。息を吸い、吐きながら体の力を抜いていく。そのうちに全身の強張りが溶けて、体そのものが溶けて、最後には思考も溶けていった。そんな時ミイナは、自分が水に漂っているのか、空気に漂っているのか、分からなくなるような感覚に襲われた。それは何度経験しても慣れはしなかった。だがその感覚に気付くと、途端にミイナの輪郭は戻ってきてしまう。水は水に、空気は空気になり、その中で重力と浮力に挟まれて宙ぶらりんになっている自分を発見する。そうするともう一度、初めからやり直さなければならなかった。そして二度目以降のそれは、どうも上手くいかないことが多い。
ふ……と長く息を吐いて、ミイナはもう一度潜水の準備を整えていった。ゆっくりと。そして最初の作業からひとつひとつ確認をした後、静かに空気を抜いて沈んでいった。ミイナは目を閉じた。日に当たっていた部分を水が撫でていく。頭まで水に覆われる。もう一メートルほど潜って、それから目を開けた。そこは深い青だった。深い青と、それより更に深い青が陰影をなす世界だった。頭上からの光は少し傾き、決して強くはない。だが、何度もここへ来たミイナにははっきりと見えていた。建物の配置、間隔、それらひとつひとつの特徴。看板に書かれた文字も、丁寧に記録を取って保存したものだ。それがミイナの仕事だった。海中に没した都市の様子を記録し、調査し、利用可能なものは回収して、生き残った人類の今後に役立てていく。それはミイナが常に自分の仕事だと言われ続け、思い続けてきたことだった。今日目標としていた範囲の調査は既に終了した。拠点に戻るまでに、もうひとつ寄り道をする余地はある計算になる。
ミイナは目的地の方角を確認すると、勢いよく滑り出した。
* * *
その寺はかつて山の中腹から麓の村々を見下ろしていたというが、今では見事なオーシャンビューである。寺から少し下ったところに六地蔵が並んでいる。その足元を水が僅かに浚っていく。何かの拍子に五地蔵や四地蔵にならなければいいがと、和尚の心配はそればかりだった。山自体の標高が高かったおかげで、畑や森はその大部分を陸上に留めている。だから、和尚は自分の生存の心配をしなかった。その点では和尚自身よりも、六太のことの方を気にしていたが、これも決して深刻なものではなかった。六太はしばらく前にここへ流されてきた少年だった。極めてよく食う代わりに、自分の食べるものには自分の力を注ぐという信条を一途に守りつづけていた。食うために増やす努力を惜しまないから、和尚と六太と、もうひとり信沙という坊主がいたが、三人とも生きるに事欠くことにはならなかった。和尚は経を上げ、信沙は寺を綺麗にし、六太は畑や森の手入れに勤しんだ。
信沙という僧はほとんど寺から出ることはなかったが、日に三度、日の出と日の入りと正午とに鐘を撞いた。寺の裏手から、ほとんど崖と言っていい斜面を登って行き、少し突き出たようになっている岩の上に立つ鐘楼へ向かう。それは遠くから見ると、高台の岬に立つ小さな灯台のようにも見えた。そこで信沙は毎度三つずつ鐘を撞いた。六太は鐘楼から海を眺めるのが好きだったが、信沙が来るときには決まって寺へ戻って待つことにしていた。一度信沙と出くわした時に、近寄らないほうがいいと言われたからだ。極めて口数が少なく、和尚の問いかけに返事をすることすら稀な信沙が、その時に限っては小さな湧水のように言葉を溢れさせていたのを六太はよく覚えている。
「鐘を撞いて、その音色で死者を呼ぶのです」
信沙は囁くように言った。信沙の瞳は深海の色をしていた。その目で見る海は俺の見るものと違うだろうか、と六太は思った。六太にその二つの深海を向けたまま、鐘の音でやってきた死者を寺へ連れて帰るのだと、信沙は続けた。
「そうして少しずつ供養しますが、人によってはあまりいいことが起こりません。特に貴方はまだ、ここへ来て日が浅い……」
「でも、鐘を撞いてみたいんだ」
信沙はふっと微笑んで、首を横に振った。
「見ているのも?」
これも首を横に振った。が、供養の場ならいてもいい、と言った。六太は頷いて、寺へ引き返した。いつもより注意深く足元を確認しながら、六太は崖に寄り添うようにして降りてきた。道が極めて狭かったせいで、安全に降りるためには壁面に張り付くのが一番だったのだ。それを降りきって裏口の戸を開けようかという時に、一つ目の鐘を聞いた。それは、押し固められた空気の分厚い壁が過ぎて去るような、そんな感じでもあった。六太は鐘楼の方を振り返った。屋根だけがちらりと覗くそこで、信沙が鐘を撞く様子がありありと描き出された。重厚な空気の壁は三度六太に届き、過ぎていった。後には静寂が残った。その中で立ち尽くしていると、崖を降りてくる信沙が見えた。その所作は重々しく、ゆっくりと慎重だった。崖を降り切った信沙は、六太に少しだけ表情を和らげた。六太は肩筋にぴりりと走るものを感じながら、流れるように戸を開け、通過した信沙の後ろに同じ速度で続いた。信沙は何も言うことはなかったが、六太はあらゆる指示をその背中から読み取った。それは有無を言わさぬ類のものではなく、ただ限りなく巨大な優しさの中に飲み込まれたような、その波に揺られるうちに必要なことが全てなされていくような、そういう感覚だった。左後方に胡座をかいて、六太は信沙の背中を魅せられたように凝視していた。
普段発するのとは全く異なる、よく通る深い声で信沙は経を上げた。それを聞くうち次第に、供養されているのは自分なのだと、六太には思われてきた。気付けば寺に流れ着いて初めて、六太は声を上げずに泣いていた。自分の中に溢れ出すものがあったが、それが何であるかははっきりとしなかった。その流れに突き動かされるうちにいつの間にやら供養は終わっていて、気付いた信沙が傍らに寄り添い、そっと手を握っていてくれた。
その日から六太は、鐘を撞きたいと思わなくなった。代わりに信沙の供養を左後方で聞き、畑仕事と森の手入れに精を出すようになった。それでも、暇があれば六太は鐘楼へ上がった。そこから見る海はきらきらと陽光を弾いて美しかった。その下に自分の故郷があるのだろうと思うと、尚更美しく見えた。不思議と故郷を恋しく思うことはなかった。ただ、水面のきらめきの合間に母の声を聞き、父の眼差しを感じることは少しあった。信沙の鐘を早く聞きつけて欲しかった。そうすれば安らげる、と六太は思った。それは父の安らぎでも、母の安らぎでもあり、そしてそれ以上に、六太自身の安らぎだった。何を想うともなく、六太は鐘楼から海を眺めていた。
この日も六太は昼過ぎに全部を済ませてしまって、またぼんやりと海を眺めていたが、ふと、波の隙間を滑るように近付いてくる銀色の影を捉えた。六太にとって、それはけして珍しいことではなかった。それは光を浴びてきらきらと六太の目を射た。ほんの一瞬、何やらきゅっと体の締め付けられる思いがして、それからとにかく急いで崖を駆け下りていく。裏口の戸を少しばかり強く開け放って、和尚を呼んだ。ああ、ともおお、ともつかない声は右手の方から聞こえたが、六太は靴を履いたまま上がり框に腰掛け、廊下の奥を覗きながら待っていた。さらさらと流れる布の音と板張りの廊下の軋む音がして、曲がり角からひょいと和尚が顔を出した。読み物をしていたのか、普段はしない眼鏡を掛けたままだった。
「どうした?」
「ミイナが」
そこまで言えば通じた。和尚は顔を綻ばせると、そこで気付いたのか慌てて眼鏡を外した。
「柿か何かはあるかね」
「山に行けばあると思う。干したのは、多分まだ渋い」
六太が渋柿をいくつか捥いできて、軒の下に吊るしたのが二日ほど前のことだった。和尚は小さく何度か頷いた。
「ふたつほど捥いでおいで」
「分かった」
六太は大きく頷くと、もう一度裏口から出た。今度は寺を左にして進む。ぐるりと回って正面に出たら、そのまままっすぐ横切って、林の中へ入っていく。林の中には、かつて隣の山へ抜けるために使った小道がそのまま残っている。今そこを歩くのは六太と山の獣達くらいだったが、六太は毎日そこを通っていたから、道はいつでもはっきりとそこにあった。乾いた空気が軽くなった葉を撫で、かさかささわさわと音を立てた。その音は六太の最も好きなもののひとつだったが、この時ばかりはそれをゆっくりと聞く余裕がなかった。ほとんど走るような速さで足を運ぶ。ふっと視界の明るさが増して、僅かに開けたところに出た。元は単なる空き地のようだったところに和尚が植えた種が芽を出して、いつの間にか実をつけるようになったのだと聞いたことがあった。柿の木は四本ある。左手前の一本だけが渋柿で、残りの三本は甘柿だった。六太はその三本の周りを一本ずつぐるりと回り、鳥や虫の食っていないものから最も大きくて重そうな柿を捥いだ。両手に一つずつ持って、来た道を引き返す。
寺へ出ると、信沙が林に一番近い厨の戸口を開けて待っていた。駆け寄って手渡すと、信沙は満足げにひとつ頷いた。いい柿だ、ということだろう、と六太は思った。信沙は一度厨へ引っ込み、綺麗に切り分けて皮を剥いた柿の器を持って戻ってきた。差し出されたそれは何度見ても惚れ惚れするほど綺麗な切り分けられ方だった。植物の世話は好きだが、料理となると六太はからきしだった。それを分かっていて信沙は待っていてくれたのだと思うと、嬉しくもあり、少し悔しいような気もした。
「ありがとう」
差し出されたそれを受け取ってひとつ頭を下げると、六太は寺に背を向けて山を下っていった。信沙は出てこないだろうと六太は思った。実際、信沙がミイナに会いに来たことはなかった。鐘楼と寺の間以外を歩いていることすら、もしかすると見たことがないかもしれない。海に近づかないんだ、と六太は思っていた。
寺から海までは鬱蒼とした森になっているが、木道を敷いてあるから迷うことはない。落ち葉に足を取られないように気をつけながら進んでいくと、潮の香りは少しずつ強くなっていった。木道が終わり、むき出しの地面になる。傾斜が緩やかになり、山の上の方よりも黒く太い木々の合間に、青が見える。最後の切り返しを曲がり、斜面を左に見ながら歩くと、まず正面に突然海が現れる。続いて右手の木々が途切れると、そこが森の端だった。海の手前でもう一段折り返すと、今度は右の斜面に沿うように六地蔵があり、更にその奥で道は海の中へ消えている。そこにミイナがいた。六太は思わずその場に立ち止まった。きゅっと視界が小さく窄まった。
ミイナは波打ち際に身を乗り出し、上半身だけを陸に上げている。緑を一滴だけ垂らしたような白の肌に、艶やかに濡れた大きな紫色の瞳が収まっていた。僅かに透き通った藍色の髪が、その先端を水に遊ばせている。こちらに泳いでくる彼女の、そのうねる髪が銀色に煌めいて見えるのだった。今はもう水平線に触れかかった夕日の色に染まっていたが、その色合いもまた六太の胸を打った。六太はミイナより美しいものを知らなかった。ずっとずっと見ていたいと願うほどだった。時々、海を見ているのか、ミイナを探しているのか、分からなくなることもあった。だというのにいざ目の前にすると、きりりと体の締め付けられる思いがする。腕も足も、頭も口も、全てがきゅっと縮こまって、六太の思い通りになってはくれない。
「六太」
ぽつり、とあぶくのように浮かんだ声に、六太はやっとの思いの頷きで応じた。ミイナの、魚のひれを削って尖らせたような耳が、ひょこひょこと二度ばかり上下した。美味しいものを食べたり、綺麗なものを見せたりすると、ミイナの耳はそうしてひょこひょこと動いた。嬉しいときの癖だな、と六太は思ってから、慌ててそれをかき消そうとした。
「柿」
またぽつり、と浮いた声に、これも六太は頷きで返す。
「柿は好きかい?」
六地蔵と並ぶように、七体目の地蔵といった風情で道端に腰掛けていた和尚が急に言ったので、六太は少しばかり驚いた。が、ミイナが頷いたのを見て、さりげなくまた歩き出した。和尚の隣、道の真ん中に胡座をかく。最早この道を通るのは和尚と六太だけなのだから、何を気にする必要もないのだった。波はミイナの臍から鳩尾にかけてを洗い、六太の爪先に触れる手前で引き返していった。
「柿、好き」
「そうか。……さ、たんとお上がり」
六太が片膝を立てて近寄り、器を差し出すと、ミイナは右手だけを海水の中で振って土を落とし、親指と人差し指で柿をひとつつまんで口に運んだ。つまんだ形のままの指の間には、手よりも濃い緑の水かきが広がっていた。ひょこひょこと耳が動く。立て続けにもうひとつ口へ入れる。またひょこひょこと耳が動く。なんだか嬉しくなって、六太は自分でもひとつ柿を食べた。噛むと汁が溢れて、危うく口の端から溢れそうだった。和尚の方へ視線を向けると、黙って首を横に振った。六太はもうひとつ柿をつまんで、器ごとミイナに渡してしまった。ミイナはそれを自分の前に置くと、またひとつつまんで口に入れた。よほど嬉しいのか、ミイナは目を閉じて柿を味わっていた。
「六太」
和尚が声をかけた。
「ミイナがね。畑と森の話を聞きたいんだそうだよ」
ぱちり、と音がしそうな勢いで目を開けて、ミイナはこくりと頷いた。随分と真剣な顔で頷くものだから、六太は思わず視線を左の方へ滑らせた。夕日が随分と眩しかった。
「今日は、そんなにやることはなかった……」
切れ切れに、そしてゆっくりと、六太は言葉を接いでいった。今日こなした作業を全て話し終えてしまうと、今度は昨日のことを話した。それが終わると一昨日のことを話した。段々思い出せなくなってくると、飛び飛びに思いついたことを言った。畑と森のことに限らず、和尚のことや、信沙のことも話をした。和尚は黙って聞いていたが、ところどころで笑ったり、訂正を入れたりした。日は次第に傾き、その上辺が少しずつ水平線に近づいていった。太陽の半分位までそれが来たところで、六太はふと言葉を止め、ミイナに視線を戻した。ミイナは空の器に両手を添えたまま、問うような視線を六太に投げかけていた。
「時間、大丈夫なのか」
六太が問うと、ミイナはちらりと夕日に視線を向けてから、小さく首を横に振った。
「帰らなきゃ」
差し出された器を、六太は随分と軽いように思った。
「またおいで」
和尚の言葉に、ミイナは深く頷いた。それからもう一度、六太の目を見た。
「またね」
「……うん。またね」
六太が応じると、ミイナはくるりと振り返った。海に入る瞬間、鱗に覆われた脚先と、一対の大きなひれとが夕焼けに飛沫を上げて伸び上がったが、それもすぐに海中に消えてしまった。六太は立ち上がった。水面の燦めきの中に、流星のように銀色が滑っていって、そして暫くして見えなくなった。六太は少しばかり悲しくなった。夕日は水平線に没し、鐘の音が三つ、六太の芯の部分を揺さぶって通り過ぎた。明かりのない道は、これから一気に暗くなる。
「私たちも帰ろうか」
和尚が声をかけてからも、六太はしばらく、銀色の残像を見つめていた。それは床についてもなお、六太の目に焼き付いて消えなかった。
* * *
ミイナは時々、目標を立てることを目標にする日を作った。それは、ひとつの区画を全て調査し終わった次の日に、次に調査する区画を丸一日かけて決めるということだった。
海は広く、そこに沈む街も決して少なくはない。ミイナは最初に調査した都市の建物の一つを気に入って寝床にしていた。調査した情報から見るに、それはデンシャというものらしかった。最初に調査した日、そこには沢山の回収対象があった。ミイナはそのひとつひとつについて座標を記していった。それらはどれもミイナに似た形をしていたが、それぞれ異なる色の皮をしていて、耳は丸く柔らかそうで、足にはひれではなく何か硬い部分があった。爪か何かかもしれないとミイナは思った。それらはどうもミイナよりも、和尚や、そして六太に似ているようだった。だが、どれも皆一様にぶよぶよしていた。中にはぶよぶよがなくなり、硬そうな白い部分が覗いていることもあった。それらの事を考えると、和尚や六太には似ていない感じがした。とはいえ、どれもミイナには関係のないことだった。ただひたすら座標を記し、記録を取るだけだった。その区画は随分と建物が多く、建物自体も入り組んだ作りをしていて、調査を終えるまでにかなりの時間を要した。ミイナが完了報告をすると、翌日の目標はない、と言われて随分と驚いた。次の区画からは自分で選び、自分のペースで調査をしろという指示に、ミイナは随分と迷ってから、例のデンシャという建物の下に一対の細長い鉄骨があるのを思い出した。あれの調査をしよう、とミイナは思った。翌朝行くと、デンシャの中はがらんとして、既に回収作業が完了していた。ミイナは目標と定めたそれを辿って行ったが、どこまで行っても終わりがなさそうなので驚いて引き返してきた。反対側にも行ってみたが、これも引き返した。悩んだ挙句、この鉄骨に沿って作業をすることにした、と報告した。特に拒否されることはなかった。それ以来、ミイナはデンシャで休息を取ることにしている。
最近、ミイナは仕事中に何度も水面に顔を出すようになった。最初の区画を調査した時には、眠らず、休まず、水面に上がってみたのも興味本位で一度だけ、という程度だった。だが今、ミイナは三日に一度は休息を取り、二日目にして五回目の空気を吸っている。自分でも、何か調子が出ないような感じがしてきていた。前から徐々にというわけでもなく、ここ最近急にそうだった。そのことを報告すると、帰ってきたのは沈黙だけだった。放っておけば元に戻るという意味だろう、とミイナは解釈した。水面に浮かんで、ミイナは空気を吸った。それは、体内を水が通り抜ける感覚よりもずっと好ましいように思えた。
* * *
珍しく、というより初めて、六太は体調を崩した。何が原因かは分からないが、とにかく痰の絡んだ咳が出て、体が熱く、その熱で頭までぼうっとしてくるのだった。どこにも行けずに布団でじっとしていると、天井の黒さで息が詰まりそうだった。海が見たい、と六太は何分かおきにその衝動に揺さぶられていた。海が見れなくても、せめて外に出たいものだ、とも思った。だがそれを上回って体がだるく、浮かび上がった衝動も結局はもやもやと薄れて消えてしまった。信沙はこまめに様子を見に来てくれた。それも大部分をまどろみながら過ごした中で十回以上を数えているから、実際にはもっと多かっただろう。うつらうつらと過ごす中で、どこか随分と遠くの方から鐘の音が聞こえることもあった。それは奇妙にぼやけていて、ぐわんぐわんと気持ちの悪い響き方をした。
何日目かはっきりとしないが、夕暮れ前になって和尚が見舞いにやってきた。
「具合はどうだね」
問う声が溜め息をはらんでいるように聞こえて、六太は少し眉間に皺を寄せた。
「何か、あったの」
六太が訊き返すと、和尚は目を丸くした後、ちょっと肩をすくめるように苦笑した。
「お前は聡いな。……まあ、信沙ほどではないが……」
言って、和尚は六太の額に乗っていた濡れ手拭を取り上げると、そこへ自分の手を置いた。それはひんやりとして心地よかった。額の熱と手の冷たさが緩く溶け合っていく感覚が、六太を不思議と安心させた。和尚は小さくため息をついた。
「……六地蔵にね。ひとが流れ着いていた」
「ひと?」
「いや、もう息はなかった」
六太の言わんとすることを先回りして和尚は淡々と言った。そうか、と六太は思った。特別な感情が沸くわけではなかったが、和尚の纏う雰囲気に関しては納得がいった。六太がここに流れ着いてから何度か、そういうことがあった。どの時にも見つけるのは、海までの散歩を好んでやる和尚だった。毎度、和尚はその場で死者を弔ってやるらしく、疲れた顔で帰ってきては、夜になるとほんの少しだけ酒を飲んだ。信沙も六太も特に止めるわけではなく、飲まないまでも和尚に付き合っていた。誰も口を開こうとはしなかった。ずっと待っていると、和尚が不意に口を開いて、その時考えていたことをふっと喋りだすのだ。それは時折、六太には難し過ぎて分からなかった。いつか分かることだ、と和尚は言い聞かせるように繰り返した。
「六太」
「うん」
ぼんやりとした頭のまま、六太は返事をした。
「聖書という本を読んだことはあるかね?」
せいしょ、と六太は思った。少し記憶を探ろうとしてみたが、何も思い当たらなかったので首を小さく横に振った。
「まあ、それもそうか」
ふう、と和尚はひとつため息をついた。
「それによると。昔、人間があまりにも悪いことばかりするものだから、神様が怒って、人間を全部殺してしまおうと思ったらしい」
「全部?」
「そう。全部だ。相当頭にきたんだろう」
和尚が反対の手を額に乗せ直し、六太はその冷たさにまた息をついた。それは少し湿っていた。
「その時に、神様が使った手段が洪水だった」
「えっ」
思わず声が飛び出した。和尚は少し笑った。
「もちろん、これはひとつの神話だよ。それに、私が信じているのは神様ではなく仏様で、読むのは聖書ではなくお経だ。だがね……もしかしてそういうことだったのかもしれないと思っている人は、きっといっぱいいる」
「いっぱい?」
「そう。大陸の人たちも、大陸に移らなかった私たちのような人たちも。人は、もしかして神様が何かに腹を立てて罰を当てた、それがあの大洪水だったんじゃないかと思っている。そして、そういう考えを持つくらいに、みんな悪いことをしてきたんだ。これなら神様も怒るかも知れないというくらいの悪いことを……そして洪水に襲われた後になっても、そういうことをしている人たちはいる……」
六太は次第に不安になってきて、和尚の顔を見上げた。和尚はそれに気付くと、目を細めて微笑んだ。
「ああ……お前は大丈夫だよ。現に六地蔵へ生きて流れ着いたのは、お前だけなんだから……だから、安心して眠りなさい」
六太が小さく頷くと、和尚は部屋を出て行った。立ち上がったとき、ほんの少し潮の匂いがした。裾が潮に浸かったのかもしれない、と六太は思った。その夜からもう一度六太の熱は上がり、まどろみの中で随分と悪夢にうなされた。得体の知れない不安が、無理やり色と形をまとって現れたような夢だった。それでも、信沙が付ききりで面倒を見てくれたおかげなのか、二日後には寺の中を歩き回れるようになった。更にその翌朝には信沙の供養に行き、その背中を左後方から見つめていた。
* * *
随分と冷え込んだ秋の終わりの日に、ミイナはまたやってきた。干しておいた渋柿がいい頃合だった。ミイナはそれを両手に持ってちびちびとかじりとっていた。和尚と六太とは、体が冷えないようにと外用にした座布団を持っていった。随分とぼろぼろになり、あちこち裂けて綿が飛び出してもいたが、直に座るよりは幾分か凍えずに済んだ。
「和尚」
柿が半分ほど無くなったところで、ミイナが不意に口を開いた。
「うん?」
「海の下の街、詳しい?」
「ふん」
少しなら、と和尚は付け足し、六太は驚いて危うく干し柿を取り落としかけた。
「山から出たことはないって」
「ここへ来てからは一度も、というだけの話だよ。その前は街に暮らしていた」
和尚は微笑みながら言った。六太は少しの間呆然としていたが、思い出したように干し柿をかじった。口の中の湿り気を全て吸い尽くすような甘さだった。六太は何故か、街に暮らしている和尚を思い描くことができなかった。和尚ではなく、街の方が想像できなかった。干し柿を咀嚼する六太を和尚は静かに見ていたが、やがて問うようにミイナへ視線を移した。ミイナはそれを受けて、ぱちりと瞬きをした。
「それで、街の何が気になるのかな?」
「デンシャ」
「デンシャ?」
和尚の声音が僅かに硬くなったように、六太には聞こえた。そっと盗み見てはみたものの、その横顔からは何も読み取ることができなかった。聞き違いかな、と六太は思い直した。
「それは、どこで覚えた言葉だね?」
続けて問うた声はいつも通りの柔らかさだった。ミイナはしばらく静止していたが、やがて首を右に傾げた。
「わからない。……でも、覚えている」
「そう。それは、どんな形や色をしている?」
ミイナは反対へ首をかしげた。
「……細長い。とても。……四角。上に入口があって、中は、藻がいっぱい。鉄の匂い」
「外側は?」
「……少し、波みたいになってる。鉄の色。あと、丸くて平たいものが付いてる。上側に、黄色の線が、一本……」
ミイナはひとつひとつ、記憶しているそれと照らし合わせながら話しているように見えた。どうも思い出すことの方ではなく、それに合った言葉を選び取ることにミイナは苦労しているらしかった。
「ふん」
和尚は珍しく腕を組んだ。ミイナと六太とは顔を見合わせた。ミイナの耳がひょこひょこと動いて、六太は慌てて視線を下げた。ミイナの歯型がついた干し柿があった。六太はそれを、自分でも馬鹿らしく思えるくらい真剣に見つめた。思わず感心するような整った歯並びだった。そういえば歯を見せて笑ったことがないな、と六太はほとんど上の空で思った。それどころか、六太はミイナが笑ったところすら見たことがなかった。ミイナの表情は、ぴくりとも動いたことがなかった。その代わり、ミイナの耳は実に良く動いた。手を振るときのような動き方だった。美味しいものを食べたり、何かいいものを見つけると動くのだとミイナは言ったことがある。それが嬉しいという言葉で言い表せるとミイナは知らないのだろう、と六太は勝手にそう思っていた。近いうちに教えてあげよう、とは思いながら、いざミイナを前にするとすっかり忘れてしまうのが常だった。ミイナはまた干し柿をかじった。もうほとんど食べきってしまいそうだった。
「――ソーブセンだな」
和尚が言った言葉を、ミイナは上手く理解できなかったようだった。六太にもそれはよく分からなかった。和尚はその辺に落ちていた木の枝を拾うと、ミイナに読めるように向きを変えて字を書いた。六太は立ち上がってミイナの隣へ行き、文字を見た。
「これが『そう』、こっちが『ぶ』。で、これが『せん』。総武線」
「総武線」
今度はミイナにも六太にも分かった。二人は一つずつ頷いた。
「総武線って、何?」
「デンシャのひとつだよ。いくつも種類があってね……ああ」
和尚は「総武線」の上に「電車」と書いた。左側が「でん」、右側が「しゃ」らしかった。ミイナは文字をじっと見ていた。六太はその横顔をちらりと盗み見た。相変わらずその表情は動かなかったが、紫の双眸はこの上ない真剣さで文字の上に注がれ、時折耳が上下した。
「まだ街が全て陸だった頃、街には人が住んでいた、それは知っているね?」
六太は頷き、ミイナもそれに続いた。
「そこに住んでいた人々は、今のミイナのように水の中を進むことはできなかった。六太や私のように水かきも足ひれもなかったし、おまけにずっと潜っていると溺れて死んでしまう体だった。それに、そもそも海ではなかったからね。人はそこで、どうにかして早く移動する方法はないものかと考えた。そうして作られたのが電車だ」
和尚は「電車」の隣に絵を描いた。長細い四角に、二つの丸と、ほんの少し長細い小さな四角がいくつか付いていた。あ、と突然ミイナが声を上げた。
「これ。電車」
「そうだよ、よく分かったね。ただ、多分ミイナのお気に入りは、少し向きが違っている」
「向き?」
「そう。元々は両側に出入り口があって、こちらを下にして動くものだった……」
和尚は木の枝の先でひとつひとつ指し示しながら説明した。六太はそれを見たことがなかった。説明を聞けば何か思い出すかも知れないと思ったが、終いまで聞いても何一つ浮かんでこなかった。自分の住んでいた街には、とまで考えて、ふとその先を考えるのをやめた。六太は急に不安になってきたのだった。足場がぐらりと揺らいで、頼りないものになった気がした。もしかして俺は、街に住んでいたことなんて一度もないのかもしれない……。
「どのくらいの街、繋いだ?沢山?」
ミイナはそんな六太の様子には気付いていないようだった。
「ああ、とても沢山だ。今も、多くの電車は陸に残っているよ。勿論。でも、沈んだ街々とは比べ物にならないだろう……あの国は技術の国だった。ものを作るのが得意だったんだ。それで沢山の街を作り、沢山の電車で繋いで、栄え、そしてほとんど全てが消えた……」
和尚は小さくため息をついた。
「……でね。電車が増えると、少しややこしいことになった。どれに乗っても好きなところへたどり着くというわけには行かなくなったんだね。例えば、ここに駅があるとする。この駅には二種類の電車が走っていて、一つは六太の方を通って私の方へ、もう一つはミイナの方を通って私の方へ行くとしよう。ここで、これをどっちも『電車』とだけ呼んでいると、乗る人は少し面倒なことになる。六太の方へ行きたかったのに、降りてみたらミイナの前、ということになってしまうかもしれない」
ミイナの耳が揺れた。面白かったのかもしれない。
「そこで、人々は電車に名前をつけたんだ。ミイナの方を通るものをミイナ線、六太の方を通るものを六太線、というようにね。総武線というのは、そのひとつの名前だ」
「総武線、沢山の人、使った?」
「そうだよ」
「沢山の人、死んだ?」
ぞわり、と六太の背に嫌なものが走った。
「ふん。そうだよ」
和尚は花を見るときのような柔らかい目で文字と絵とを眺めていた。ふと、信沙が時折海の方を見遣ることを思い出した。あの時の目に似ていた。和尚の目は夜の闇の色をしていた。微かに笑みさえ浮かべながら、和尚は続けた。
「『シュウゴデトマル総武線』、という言い方があった」
和尚はまた枝を取り、「週五で止まる」、と口に出しながら書いた。
「週は一週間のこと、七日間だね。その内五日。そのくらいは止まると言われた程に、総武線はよく止まった」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
一対の夜闇がミイナを見、続いて六太に向けられた。二人とも揃って首を横に振った。
「人がね。自分から電車に轢かれて死んでいくからだよ」
ぽつり、と和尚は言った。六太の中で、何かがぴしりと音を立てた。
「どうして、死ぬの?」
ぱちりと、ミイナは瞬きをする。
「疲れてしまうから」
和尚はさらりと言った。
「人には出来ることの量が決まっている……だから、それ以上のことを無理にすると、段々考えることが出来なくなっていく。生きるのが苦しくなって、なのにそれをどうにもできなくなってしまう。そうして上手くいかなくなってしまった人が、死ねば楽になると思って、死んでいく。……一番簡単で身近なものが、電車だったんだね。中でも総武線は、それが多かった。だから、その多さを表現するためにこの言い回しが生まれた」
「実際は、そんなに死んでないんだよな」
努めて何気ない調子で六太は訊いたが、和尚は曖昧に苦笑しただけだった。どうかな、とでも言いたげな調子だった。それから、半分ほど残っていた干し柿をぱくりと食べてしまった。六太は段々、聞くのが辛くなってきていた。少し身じろぎをした。
「和尚。その後も死んだ?」
「……その後?」
ミイナは真剣な顔をして頷いた。
「その後というと、いつかな?」
「電車が海に沈んでから」
「ふん……」
和尚は眉間に皺を寄せ、何事か真剣に考えてから口を割った。
「……電車は、海に沈んだらもう動かない。だからそれはないと思うよ」
「そう」
ミイナはどこか物思わしげに、六太には見えた。その原因を推し量りながら、干し柿を口に入れた。他に気になることがあるのだろう、と六太は思った。だが、その先の思考は別のものに邪魔をされた。六太は突然、口の中を滑る柿の感触が不快に思えてきた。にゅるりと、口の中にまとわりついてくる。それに似た感覚を、六太はどこかで感じたことがあった。まとわりつくにゅるりとした感覚、その柔らかさが全身を包み、張り付くように、そして、焼けるような痛みに全身を襲われて、叫んだ声があぶくになって、どこからか甲高いサイレンが聞こえる……。
六太は反射的に顔を背け、水面に向かって吐いた。和尚が何事かを言い、慌てて六太の胴に腕を回して支えた。下手をすれば顔面から海に落ちてしまうようなところだった。六太は腕に支えられてじりじりと後ずさりながら、己の吐いたものを見てまた吐いた。柔らかさとまとわりつく感覚と激痛とサイレンとが、代わる代わる六太の脳内に現れては掻き乱した。自分が何か、とんでもないことを呼び起こそうとしているという予感があった。見たくない、と思った。見たくない、という叫びが、混乱した色の吐瀉物になって水面に叩きつけられて飛び散った。手元の土を握り締めながら、六太は荒く息をつき、息をついては吐いた。とめどなかった。
何かが、にゅるりと六太の右手首を掴み、記憶と同じような感触のそれを六太は絶叫と共に振り払った。
なんと叫んだのかは自分でも定かでなかった。叫んだ弾みにまたこみ上げてきて吐いた。それはまた六太の手首を掴んだ。振り払おうとするのを、胴に回った腕が押しとどめた。誰かが何ごとか言った。放せ、と六太は叫んだ。暴れる体はがっちりと抱きとめられていた。また誰かが何ごとか言った。手首を掴む力が強くなった。それは人の手の形をしていた。
「六太」
誰かが呼んでいた。高く澄んだ、はっきりとした声だった。六太は、暴れるのをやめた。最早吐くべきものは残ってはいなかった。
「六太」
また、誰かが呼んでいた。六太は、声のする方に視線を滑らせた。大きな紫色の瞳が六太を見つめていた。藍色の髪と蒼褪めた白い肌には、あちこち泥が付いていた。しなやかな腕は伸ばされ、水かきのついた両手が、六太の右手首を捉えていた。俺が振り払ったのは、と六太は震えながら思った。
俺が振り払ったのは。
「ごめん、ミイナ」
言いながら、六太はぼろぼろと泣き出していた。
「ごめん」
こぼれ落ちる言葉を、ミイナはいっぱいに目を見開いて聞いていた。両手を離し、ぱちり、と瞬きをした。それから腕の力を頼りに、ミイナは六太のもとへにじり寄り、恐る恐る手を伸ばしてその涙に触れた。六太はその感触に一瞬怯んだが、最早嫌悪感はなかった。その手は土に汚れてざらついていた。
「大丈夫」
ミイナの両の目から、はっとするほどに深い淡青の雫が零れおちた。答えた声は、少しも乱れてはいなかった。
「ミイナ、泣いてるの」
「大丈夫」
「それは大丈夫じゃない」
「大丈夫」
そう繰り返して、ミイナは六太の肩を抱いて引き寄せた。六太はミイナを強く抱きしめた。ミイナの体は冷え切っていた。にゅるりとした冷たさがその肌を覆っていた。その冷たさの奥に淡いぬくもりがあるのを六太は感じた。それは随分と不安定なように思われた。今にも掻き消えてしまいそうで、六太の腕に一層力がこもった。
「大丈夫」
耳元で紡がれる言葉はすっと胸の中に落ちていって、六太の体からやっと力が抜けた。ぱさり、と背中に落ちかかったのが袈裟だと気付いたとき、和尚はミイナごと六太を抱きしめていた。袈裟は乾いていて、少し暖かかった。
「そうとも。……大丈夫」
わざとゆっくりと、和尚は言った。それは六太にじわりと染みていって、六太はますます泣いた。泣きながら、肩がミイナの涙でずっしりと重くなっていくのを感じていた。それも、少しずつ、遠くなっていった。
六太はその日、どうやって寺へ戻ったのか全く覚えていなかった。あの六地蔵の前で何をしたのかすら、朧げにしか思い出せなかった。ただ、和尚に何かしらの迷惑をかけたのだろうと思って、次の日は目覚めてすぐに和尚に謝りに行った。和尚はやはり眼鏡をかけて本を読んでいた。六太の足音に気付いていたのだろう、六太が部屋を覗くとすぐに振り返り、眼鏡を外して微笑んだ。六太は和尚の手元へも視線を向けてみた。それはあまりにも細かく、六太の理解できるものではなさそうだった。
「よく寝られたかな?」
小さく六太が頷くと、和尚は笑みを深めた。
「それは何より」
「……和尚」
「うん」
「昨日は、あの……ごめんなさい」
和尚は小さく唸って首を傾げたが、少ししてから立ち上がって六太の前まで来た。じっと見つめられると、何となく居心地が悪かった。黒い瞳は恐ろしい程の深みを感じさせて、ともすると飲み込まれてしまいそうだった。
「六太」
「うん」
「お前、私のものを盗ったり、私を殴ったり、何かそういう悪いことをしたのかい?」
「えっ」
突然の問いに六太は面食らったが、やがて首を横に振った。
「いや、してない。……と思う」
「じゃあ、ごめんなさいという言葉は合っていないな」
「……うん」
「そういう時は、ありがとうの方がいい」
和尚は六太の頭を軽く撫でた。
「いいかい。自分が誰かを傷つけたら、ごめんなさい。誰かが自分を助けてくれたら、ありがとうを使う。ごめんなさいも必要だが、ありがとうが多い方がいい。……分かったか?」
六太は大きく頷いた。
「うん。……ありがとう」
「どういたしまして」
和尚はどこかくすぐったそうに言い、六太もまた少し照れくさくなって笑った。どちらも、前日の出来事には全く触れなかった。
* * *
ミイナは疲れてぐったりした様子の六太を和尚に託した後、電車へと泳いでいた。目から溢れるものは止まらず、溢れては海の中へ溶けていった。冷たい水に晒される体に、六太の温かさが染み付いたように残っていた。泳ぎながら、溢れるものの名前が涙であることを思い出した。それが泣くという行為であることも思い出した。だが、自分の中に溢れる感覚の名前は未だに思い出せなかった。自分はその言葉を知っていると、ミイナは確信していた。いつかどこかで、それを学んだ。記憶の中にそれはあるはずだった。分かっているのに、記憶の呼び覚まし方とでも言うべきものがミイナには分からなかった。確かに知っているはずのものを思い出せないということは、ミイナにとって初めての経験だった。何も知らなかったわけじゃない、とミイナは思った。知っていることはあったのだ。それも沢山あった。あったはずだ。ただそれが思い出せなかっただけなんだ。何かの理由で、思い出せなくなってしまって、遂にはそれを思い出せないということすら、すっかり忘れてしまっていただけなんだ……。
じゃあなぜ、とミイナは問うた。なぜ、という言葉が波のように寄せてきて、ミイナの中に満ちていった。それはゆらゆらと揺れた。答えはなかった。探せば見つかるという気もしてこなかった。分からないことは和尚に訊けば、と考えて、ミイナはふと首をかしげた。和尚はなぜあんなに物知りなんだろう。街に住んでいたことがあるからだとしたら、和尚はそこで何を見たんだろう。何を見て、聞いて、感じて、そしてどんな風に思い出しているんだろう。分からない。分からないことばかりある。
気付けば電車の前だった。
ミイナはそれを注意深く見てみたが、今まで感じていたような気持ちにはひとつもなれなかった。自分の中に残っている六太の温かさのようなものが、ここには少しも感じられなかった。温かさのないものは、「お気に入り」になる資格が無いような気がした。電車の中を覗き込んだ。かつてそこに沈んでいたぶよぶよを思い出した。あれもまた、温かさのないものだった。今思えば、あれは六太たちになど似てはいなかった。ミイナはまだ泣いていた。ただ、溢れ出す涙の種類が違うようにミイナには思えた。さっきまでのものよりも冷たく、ざらついているような気がした。ミイナはそこを離れた。六太のぬくもりが消えてしまうような気がした。そっと自分の体を抱きながら、ゆるゆると水面に向かって上っていった。鈍く光る電車の姿が濃い青の向こうに薄れていく。それは半分以上線路から外れて、その隣の大きなビルにへばりつくようにして曲がっていた。上から見下ろすと、それは尚の事悲しいものに見えた。悲しくて、恐ろしかった。そのどれをも、海の青は遠いものにした。こうして遠くに沈めておけばいいのだと、ミイナはそう理解していた。怖くても、悲しくても、全部深いところに沈めてしまえばいい。そうやって遠くに置いておけば、作業に支障は出ない。私はそのためにここにいるのだから、悲しさも恐ろしさも、別になくていい。
でも、とミイナは思う。
ここに残っている温かさは、どこに置いておけばいいんだろう。
不意に頭が水面から出て、ちゃぽんと音がした。ミイナは大きく息を吸った。体の中に空気が溜まって、ふわりと浮かび上がっていく。深い紺色の空に、ぽつり、ぽつりと光が浮いていた。左手の少し低いところに浮いているひときわ大きいのは、名前を月というのだと六太が教えてくれた。その輪郭は少し滲んでいて、じっと見ていると後から後から涙が出てきた。それでも、水面に顔を出していた方がいくらか楽になった。ゆっくりと吸い込み、またゆっくりと吐き出す。ひとつひとつ、自分の中に溜まった澱を洗い流すように、ミイナは呼吸した。吸う度、吐く度、自分の境界が曖昧になっていく。ふるり、とミイナはひとつ体を震わせた。少しだけ、寒い気がした。そのまま目を閉じた。今日はこのまま眠りたい気分だった。
陸で寝られたらいいのに、とミイナは思った。
* * *
信沙の弔いの声は、その日を境に一段と六太の心の真中に触れるようだった。胡座をかいた姿勢のまま呆然としている六太を、信沙は随分と心配した。何度かは六太の肩に手をかけ、大丈夫か、と声をかけたりもした。その度に六太は信沙の目を真っ直ぐに見上げて、緩慢に頷いた。六太は自分が大丈夫でないとは少しも思っていなかった。ただ、時折ぼんやりと自分の手を眺めて、そのままいつまでもじっとしていることが多くなった。随分と気が散るな、とは思っていた。今までなら一気に済ませていた畑の手入れも、気付けば手を止めている。自分の手を、ミイナに掴まれた手首とともに見つめている。赤く凍えた手を眺めていても、六太はそこに濃緑の水かきを見ていた。こうして開いた手が緑色をしていて、そこにもっと濃い色の水かきがついている。見たことないはずのその光景が、奇妙なまでに現実感を持って重なっていく。ともすれば手と目の間に流れる水の揺らぎさえ、六太には感じ取れるような気がした。水は青い、と六太は思った。海がそうであるように。そして透き通っている、とも思った。ちょうど、ミイナの髪のように。それから、信沙の瞳のように。六太のそばにはいつでも海があった。それは六太が寺で目を覚ましてからというよりも、もっとずっと前から六太のそばにあったように思われた。畑に水を撒く六太の耳に、轟々と震える波の音が届く。本当はあんなじゃない、と六太はまた手を止めながら思った。あの波の音だって、本当はもっと優しくて細かい。でも、どうしてそんな風に思うのか分からない。きっと聞いたことがあるからそう思うんだろう。でも、じゃあ、一体どこで?
六太はひとつため息をついた。あの日から六太の周りは、急に分からないことだらけになってしまった。きっと元から分からなかったんだ、と六太は思った。むしろ、何も知っていなかった。何も知っていないということすら……。
「六太」
急に声をかけられて、六太は思わず飛び上がった。振り返ると和尚が立っていたが、地面に足を取られて畝の上へ尻餅をついてしまった。
「おう、おう」
愉快そうに笑いながら、和尚が歩いてくる。差し出された手を取って、六太は立ち上がった。その手は随分と冷えていた。
「考え事かね?」
「いや」
「考え事だね」
六太は目をぱちくりした。和尚はまた愉快そうにくすくすと笑った。
「お前も年を取れば、もう少し誤魔化すのが上手になるだろうよ。……そういう、どうしても気になって仕方ないことというのは、他人に投げかけると意外に上手く行ってしまうことがある。それもしばしばな。だからもし嫌でなければ、言ってごらん」
嫌ではない、と言おうとして、そこで六太は口ごもった。確かに嫌ではなかった。でも、何と言っていいのやら分からなかった。ここで言いたい「気になること」は、まだ六太自身が直視できずにいることだった。言うどころか、自分でもそれが何なのか分からなかった。
和尚にそう伝えると、ふん、と和尚は頷いた。
「鐘楼に上がろうか」
ぽつんと和尚は言った。
「鐘楼に?」
六太は思わず訊き返していた。随分と唐突な誘いだと六太は思った。和尚が鐘楼へ上がっていくのはとても珍しいことだった。六太が見たことはない。いつも鐘楼へ上るのは、六太か信沙のはずだった。
「嫌かね?」
問われると、ううん、と六太は首を横に振った。
「じゃあ行こう。そこで少し、話をしよう」
「でも、まだ手入れが」
「いい、いい。世話はしすぎないのが肝心だ。畑も人もね……少し休んでいいんだ」
そう言われてしまうと、そうか、という気がしてくる。六太はひとつ頷いた。
「じゃあ、行こうか」
和尚は鐘楼へ向かう道をどんどん歩いて行った。六太は慌ててそれに従った。和尚の歩みはとても早く、壁面に手をつくこともなかった。その向こう側に、鐘楼の屋根が小さく見えていた。
* * *
今日何度目か分からない「何故」が、ミイナの口からあぶくになって出て行った。小さな小さなそれは、遥か頭上の水面に達してぱちんと弾ける。見上げた水面はとても明るかった。明るいのは、太陽の光が差し込んでいるからだ。太陽は宇宙にある星のひとつで、とても強く光っている。それが長い距離を旅してきて、今ここに届いている。何故、とミイナは問うた。何故、私はそんな事を知っている? 何故そんなことを知っていて、どうして今それを思い出す?
ミイナは街の底を滑るように動いていた。街の隅々まで見て覚えるためだった。時折まだ使えそうなものがあると、それをよく見ておいた。見れば覚えられるのだ。それは必ずミイナの記録の中に残る。眠っている間に記録は複製され、指示を与えるあの声のもとへ届けられる。どうしてかは分からない。ただ、そういう仕事をするためにミイナがここにいることだけは確かだった。それははっきりとしている。仕事のやり方だけは、最初からミイナの中に明確な形で記録されていた。思い出そうと思えばいつだって思い出せたし、思い出しても嫌な感じはしなかった。でも、六太は何かを思い出して、嫌な感じがして、そしてあんなに苦しそうな顔をしたのだ、とミイナは思う。そしてそれのことを、和尚はキオクと呼んだ。
「嫌なキオクが蘇ってしまったんだろう」
「記録?」
「……いいやミイナ。キオクだ。それは記録だけれど、もっと特別な記録だ。その人にしか持ち得ない、複製も送信もできない、誰かが誰かであるために必要とされるものだ」
それはなんだろう、とミイナは思う。ミイナがミイナであるために必要なこと。仕事だろうか。海だろうか。街だろうか。でも特別な記録だというくらいなのだから、きっと海や街のようなものではないに違いない。だとすると仕事かもしれない。でも、仕事が無くなった時、ミイナはミイナであることができなくなってしまうのだろうか。それはなんだか悲しい。六太にも仕事がある。ハタケとモリの手入れだと聞いたことがある。でもきっと、ハタケやモリの手入れをしなくったって、六太は六太であるような気がする。色々なキオクがあるのかもしれない。仕事がキオクの人や、泳ぐことがキオクの人や、他にもたくさんあるのかもしれない。でも、ないのかもしれない。ミイナはミイナであるまま、他の仕事をするということがあるのだろうか。或いはミイナがミイナであるまま、陸に上がって、テラに行って、六太や和尚や、それから信沙というひとと一緒にいることは出来るだろうか。ハタケ――これは「畑」だ――や、モリ――こっちは「森」だっけ――を歩いて回って、手入れをして。朝には信沙が打つ鐘の音を聞いて、トムライを聞いて。森へ行ったら、柿を自分で木から取って食べて。そんなことができるのだろうか。できないような気がする。そもそも今のままでは、陸にへばりつくのがやっとだ。とてもテラまで登っていけない。和尚と六太に運んでもらったらいけるかもしれないけど、やっぱり自分ひとりではどこへもいけないし、もしかすると干からびてこちこちになってしまうかもしれない。
でも、とミイナは思う。陸に上がってみたい。自分で立ってみたい。六太と一緒に歩きたい。
胸が苦しくなってきて、ミイナはぎゅっと体をひねった。目の前に明るい水面が見える。それが随分と遠いように感じた。長く海の中にいると時折そんな感じがすることがあった。頭や胸のあたりにもやもやとした嫌な感じが溜まってきて、早く水面に出たい、早く空気を吸いたい、と気ばかりが急く。そういう時、水面はいつもの倍ほども遠く見えて、たどり着くまでの時間も恐ろしく長い。ミイナは強く水を蹴った。そのおかげで水面はぐんぐん近づき、視界が透き通るように明るくなっていく。顔が出ると同時に、ミイナは一気に深々と空気を吸った。ひゅっ、と音がした。体の中に空気が広がり、溜まっていた嫌な感じがどこかへ吹き飛ばされて晴れ上がる。強い日差しがミイナの目を射た。目の前に手をかざせば、水かき越しのそれはあまり眩しくない。その周辺に広がる青は明るい。かつてはそれが眩しくて、少し見上げただけでも随分と目が痛くなった。今、ミイナの目はどんなに見ていても痛くはならない。ずっと見てしまうからなのか、海に戻って暫くはものを見るのが難しい。暫くじっと海の底を見つめていると、いくらもしないうちに見えるようになってくる。最初は少し怯えたが、今となっては何の心配もせずにその明るい青を見つめていられるようになった。空だ、とミイナは思い出した。空と海とは違うもので、境目が水面だ。空を見るのは好きだ。ずっと前から、子供の頃から。
子供の頃の自分はどんなだっただろう、とミイナは少し考えてみようとして、やめた。今の自分のことも分からないのに、子供の頃のことなんて分かるはずがない。ほんの少し記録が残っているからって、他の何かが思い出せるわけじゃない。そもそも、子供の頃というのがいつのことなのか、ミイナにははっきりとしなかった。まだ子供なのかもしれないとも、もう子供ではないかもしれないとも思った。人は生まれてしばらくは赤ちゃんで、その後子供になって、大人になって、年寄りになって、死んでいく。途中で死ぬものもあると和尚は言った。私はその中のどの辺りにいるんだろう。そもそも、私はひとと同じように生きていけるのだろうか。もっと早く死ぬかも知れない、とミイナは思った。例えば今、急に息ができなくなってしまって、もう一度六太と話をすることもないまま死んでいく。あるかもしれない、とミイナは繰り返した。あるかもしれない。背筋がぴりりとした。ミイナは閉じた目の上に手を乗せた。ほんの少し緑がかった闇が目の前に広がっている。それは波の揺れに合わせてゆらゆらと揺れた。ミイナの体も波に合わせて絶え間なく揺れた。今ここで息を吐くだけで、ミイナは海の底まで沈んでいく。そのまま沈んでいれば、あの白いぶよぶよと同じ何かになる。そうならないように引き止められるのは、自分の呼吸だけだ。確かなものは何もない。湧き上がったものが目蓋の隙間から染み出ていく。
私はいつからここにいるんだろう。どこから来たんだろう。時々頭の中から聞こえてくるあれは誰の声なんだろう。どうしてあの声は頭の中から聞こえるのに、六太や和尚の声は外から聴こえてくるんだろう。分からないことがいっぱいあるのに、きっとそれを一番よく知っているのは自分なんだ。でも何もない。きっとどこかに置いてきてしまった。例えば、私が今の私になる前。今の私のキオクが、生まれる前。私は別の何かだったのかもしれない。魚だったかもしれないし、鳥だったかもしれない。電車かもしれないし、柿かもしれないし、六太や和尚だったのかもしれない。私が私になる前、その前の私は、もしかすると陸の上を歩いていたのかもしれない……?
陸に、上がりたい。自分の足で立ってみたい。六太と並んで歩きたい。
この体は嫌だ。ひれも、水かきも、尖った耳も、透けた髪も、青くぬるりとした肌も、嫌だ。仕事だけの毎日も、青ばかりの世界も、キオクのない私も、嫌だ。
私は。
私は、ひとに「戻りたい」。
そう思った途端、ミイナの全身を激痛が包んだ。
見開いた目の前で、ミイナの両手は赤く、焼けるような熱を放っていた。叫んだ拍子に空気が抜ける。水の中に沈んでも痛みは引かなかった。ただ、今まで水の中で感じた息苦しさが、濃密な塊として自分の中に凝り固まるのを感じた。己の肌を覆う緑色の層が暴れている。異常な熱と色を持ってのたうち回る。剥がれ落ちたいのか、張り付きたいのか、はっきりとしない。その両方がせめぎ合っているようだった。
この体は、この緑色は、私のものじゃない……。
ミイナは身を捩った。まとわりつく水が重く、ともすると引きずり込まれそうになる。水面に顔を出して空気を吸った。息だ、とミイナは瞬間的に思い出した。息だ。酸素を吸うんだ。人は水中では息ができない。水面に浮かぶのも難しい。溺れてしまう。
痛みに叫びながら、ミイナは猛然と水を蹴った。水面のすぐ下を、今までに無いような速さで滑っていく。激痛で目が開かなかった。それでも、目をつぶってでも目指せる場所があった。頭の中の記録に、いや、記憶に、それはあった。
陸へ、とミイナの思考はそれに埋め尽くされていった。
陸へ。
* * *
鐘楼は崖の端にある。海が一番よく見え、海からも一番よく見える。和尚と六太はその海側の柱に寄りかかるように並んで腰を下ろした。海は相変わらず美しかった。日の光を浴びて絶え間なくきらきらと輝く。その下に沈んでいるという町並みは、そのきらめきと深い青に隠されて見えない。六太と和尚とは、暫く何も言わずに海を眺めていた。
「……六太」
少ししてから、和尚は口を開いた。
「うん」
「自分がどこから来たのか、覚えているかい?」
六太はぎくりと身を震わせた。それこそ、六太が最も思い出せないものだった。小さく、六太は首を横に振った。
「実は私も分からなかった。自分がどこから来たのか」
六太は思わず和尚を見た。和尚は海の遠くを見つめたまま、静かに笑っていた。
「気付いたらここにいたのだよ。いつからいたのか、どうやってここへ来たのか、全く思い出せなかった。急にそのことに気付いたんだ。何も分からなかったのだということに。……忘れもしない、私は栗を拾おうとしていたんだ。そこで突然、頭の中の霧が吹き飛んだようになった。それで私は気付いたんだ。自分は何も知らなかったんだと。……栗拾いを放り出して、急いで寺に引き返したよ。何やら恐ろしい気がしてきてしまって」
分かるかね、と和尚はちらりと六太に目線をやった。六太はこくりとひとつ頷いた。その不安は今、六太の中にあるものにとても近いと思った。
「そう思っていたよ。あの上の空は、私にも覚えがある」
ふ、と和尚はまた少し笑った。
「その頃、この寺には私と、イロハという人だけがいた。色の波、と書く……」
色波、と和尚は空中に指を走らせた。
「その人がずっと私の世話をし、木々や畑の手入れの仕方や、服の着方や、経の上げ方から読み書きまで全て教えてくれた。頭の中の霧が晴れた時に、寺に帰って真っ先に訊いたのが彼のことだったよ。あなたは誰、とね……それで、名を色波といい、今まで私が彼を和尚と呼んでいた、と教えてくれた」
「和尚?」
「ああ。和尚というのは、お寺にいる人の中で一番偉い人を言う。ここでは偉いも何もないが、私がこういう……つまり人の姿をしていたから、和尚といえば分かりやすいと思ったんだろう」
和尚は少し視線を下に落とした。深く、息を吐いた。
「……六太」
ぎゅっと、体を締め付けられるような感覚が六太を襲った。
「お前は海から来たね」
小さく頷いた。
「それは、恐らく街から来たということではない。街から来たものは、つまり人は、あの海の中では少しも経たずに命を落とすからだ。あれは普通の生き物には毒に等しい。その中にいて無事でいられるのは、ミイナのようなものたちだけだ」
ミイナ、と六太は小さく呟いた。和尚は僅かに頷いて続けた。
「大津波の原因は、まだ分かっていない。ただ、それによって海は広大な毒の溜まりになり、かつてそこに生きていたものはことごとく死に絶えた。これは確かなことだ。海に飲まれた国もたくさんあったし、そこに住んでいた人々もまた死に絶えた。多くが、科学技術に秀でた国だった。それらの国では、他の国よりも秀でることを第一としていた。そうして努力を続けて人々はおかしくなり、最後の最後には科学に人の命を捧げることも厭わなかった。科学に異を唱えるものはすぐに科学の生贄にされた。科学者は朝から晩まで働き、科学者の生活を支えねばならない他の人々も朝から晩まで、時には眠らずに働いた。元々は人のための科学だったのが、科学のための人になってしまった」
六太は小刻みに震え始めていた。その肩に和尚の手が触れ、静かに撫ぜた。そんな悲しいことが、と六太は心の中で呟いた。そんな悲しいことが。
「たくさんの人が死んでいったよ。科学の生贄にされた人はもちろん、業績を上げられず絶望した人、逆に業績を上げて妬まれた人、親しい人を科学に殺された人、科学への奉仕に疲れきった人……色んな人が死んでいった。彼らは、その多くは、日々の生活の何気ない一瞬に転げ落ちていったんだ。ビルから落ち、崖から落ち、或いはホームから落ちた……そうやって、総武線が週五で止まる世界が出来上がったんだ。総武線だけじゃない、ありとあらゆるものが人の死で止まり、そしてまた何事もなく元に戻っていった。でもね。それが普通だったんだ。あの世界を生きていた人たちには、毎日数え切れないほど人が死んでいくのが、普通だったんだ。何故なら彼らは、死ぬ人と同じくらい大量の人が毎日科学によって生み出されることを、知っていたからだ……あの狂った世界で狂っていなかったのは、むしろそうやって死んでいった人々かもしれない……そういう中に私は生まれたんだ。そして少しの間そこで過ごして、ある日よその国に送られ、科学の生贄にされ、海に放り込まれた。緑の肌とひれと水かきを持って」
「ミイナと同じ……」
「そうだよ」
六太は自分の手を見つめた。ゆらぎの向こうに翳されたそれに水かきがあるのを、今や六太ははっきりと想像することができた。それを、ぎゅっと握りつぶすように六太は手で手を包んだ。それはひどく冷えていた。
「私も。色波も。信沙もそうだ」
信沙の双眸の色が、眼下に広がる海に重なった。
「信沙も、ある日六地蔵のもとに流れ着いていた。肌を覆う層は流れ落ちていたが、肌も髪も瞳も耳も、色形はそのままだった。陸に上がってしばらくすると段々人の色になっていったが、今も目だけはあの時のままだ。色波と私は海に入る前のことを思い出したが、信沙は思い出せないと言っている。きっと、大津波を逃れた国ではまた科学が進歩しているんだろう。海に行くものの記憶を封じる技術も」
「俺は」
六太の口をついて、言葉が飛び出した。弾かれたように、六太は和尚の横顔を見上げていた。
「俺の目は何色なんだ、和尚」
和尚の真っ黒な双眸が、六太の視線を捉えた。ぱちり、と緩慢な速度で和尚は何度か瞬きをした。六太は瞬き一つしなかった。呼吸すら恐る恐るするような感覚さえあった。和尚は暫くじっと六太の目を見つめていたが、やがて微かに笑った。それは哀れみを含み、同時にいくらかの諦観をも感じさせた。
「空の色だよ。夏の、あの強くて眩しい青だ」
「本当に?」
「本当に」
「変わったのか?」
「……いや」
六太は一瞬息を止めた。和尚はそっと腕を伸ばして六太の頭を撫でた。
「お前の髪は秋の森の色。お前の肌は冬の雪の色。お前の唇は春の花の色。お前の瞳は夏の空の色だ。地蔵の足元に流れ着いていた時からずっと変わらん。それはお前が……」
ふっと和尚の手が止まり、視線が遠くなった。俺の向こう側を見ているんだ、と六太は思った。和尚の視線の先にあるものを六太は想像した。六地蔵の足元に倒れた自分。何かが六太の脳裏をゆっくりと滑っていく。それはかちり、と音を立てるように像を結んで、六太の前に現れた。ああ、と知らず知らず吐息が零れた。
ひどく重たくまとわりつく水。その中に一人放り込まれて、息ができなかった。六太の体は海に合わなかった。海と六太の間に入るはずだったものは、暫くするとぬるりと解けはじめ、そのまま少しずつ肌の上を滑り落ちていった。それは海のどこか深いところへ行く前に、解けて見えなくなった。六太の体は海に応じなかった。応じることができなかった。
「出来損ない」
誰かが六太にそう言った。その声を六太は覚えていた。海に入るために生み出されたのに、六太の体はそれを受け付けなかった。六太自身の気持ちもまた、どこかで海を拒んでいた。海に入ればどうなるかを既に知っていたかのように。水は冷たかった。泳げない六太を陸の人間がどうするか、分かったものではなかった。それでも、海にはいられなかった。人間がいない陸を、と六太は思った。潮の記録を呼び起こしながら死に物狂いで水を掻いた。その水かきも少しずつ解けて消えていった。苦しさが全てを覆っていく。凍えた体の輪郭がなくなっていく。そうして何も分からなくなったのだ。何も。全てが六太の中から零れおちていった。何も残らなかった。海が全てを奪った。陸の人間が、海に、すべてを奪わせた……。
「六太」
夜の闇のような瞳が、今の六太に向けられている。
「知りたいと思い続けるなら、全てはいつかお前の元に戻ってくる。いつかは分からないが、必ずだ。ただ、何を覚えていようといなかろうと、お前はお前のままであり続ける。それを忘れてはいけない。お前は全てを思い出しているのかもしれないし、ごく僅かしか思い出していないかもしれない。それは仕方がないことだ。あの海の中を生き抜くには、確かに陸の上のことなど余計なものでしかないからね。それでもお前はここまで生きてきた。お前自身の力で。だから、お前の生きてきた道が、お前なんだ。それを忘れるな」
「うん」
「いつも心のどこかに置いておくんだよ」
「うん」
風が和尚の後ろから緩く流れてきて、六太の後ろへと去っていった。六太の心は不意にざわめいた。かつてあったはずの、数限りない忘れてしまったものたちが浮かび上がって、僅かに揺れながらひとつまたひとつと増えていく。悲しいものもあった。恐ろしいものもあった。辛いものも苦しいものもあった。その全ては六太の中にあったが、そのひとつひとつを捉えることは叶わなかった。それでも、六太の中でそれは確かに息をしていた。揺れながら、仄かに明滅しながら、六太の記憶はそこに生きていた。六太は浅く、ゆっくりと息をした。浮かび上がったものたちは暫くそこに留まっていたが、やがてひとつ、またひとつと、微睡みに落ちるように沈んでいった。消えて見えなくなっていくそれを、しかし六太は悲しいとは思わなかった。見えなくなったそれは、やはり六太と共にあった。ちゃんと俺の中に戻ったのだ、と六太は思った。雨が海に消えるように、葉が土に消えるように、それは今初めて、俺の中にちゃんと戻った。
六太は深く、息を吐いた。追いかけるように涙が溢れた。目の前の景色が、滲んでは現れ、現れては滲んでいく。ぽろぽろと溢れて落ちる雫は海の味がした。
「溶けたか」
六太は頷いた。その動きでまた涙が零れた。和尚は頷き、六太の頭をそっと抱いた。己の中に溶けたものの大きさに、六太の体はまだ上手く馴染まなかった。ふつふつと沸き立つものは吐息となり、やがて吠えるような叫びになって迸った。自分の体の中から、その奥底から、信沙が撞く鐘の音が聞こえてくる。それは鼓動のようでもあり、潮騒のようでもあった。その振動は六太を揺すった。あやすようにさえ思われた。
「それがお前の記憶だ。お前をお前たらしめていたものだ」
自分の嗚咽の向こう側から聞こえてくる和尚の言葉を、六太は受け止め、飲み込んだ。この奔流が何年にもわたって己が経験したはずのものだと思うと、それは極めて自然なものとして六太の腑に落ちた。ひとつ、ひとつ、六太の内に鐘の音が響く。その音の波は広がり、反響して重なり合い、徐々に穏やかになっていった。漣の揺れが六太の体を柔らかく揺さぶった。吸い込む空気の中に、淡い香の匂いが混じっているのを感じる。それは乾いた匂いがした。ひだまりのようだと六太は思った。流した涙が、吐き出した感情が、そこに吸い込まれてふっと消えていく。六太の中には確かに新しいものが立ち現れていた。それは今までの六太にはなく、更に前にはあったはずのものだった。新しいものの立ち現れた代わりに、六太は別の空虚を得た。淡いひだまりの匂いの中に息をしながら、六太は少しの間、それに与えるべき名前について考えた。いくらも経たぬうちに六太はそれを思い出した。諦めだった。
「和尚」
「うん?」
六太は和尚から少し身を離し、その双眸を見上げた。
「もう思い出せないよ」
ぽつりと、六太の口から言葉が零れた。見下ろす和尚の目は少し濡れているように思われた。眉間に細く皺が寄っていた。その薄い唇は僅かに開かれて、迷うようにそこで凍りついた。そして、うっすらと笑みを浮かべて閉じた。
「俺は、もう思い出せる限り思い出したよ。嬉しさも、悲しさも、寂しさも、思い出した。俺はいろいろなものを感じられるようになった。けど、それで全部だ。それで全部でいい。何があったとか、どうだっていいんだ。今あるものの全部を感じられるから……海は綺麗で、和尚は優しくて、涙は温かくて、だからもう、俺はもうこれ以上思い出せなくて、いいよ」
そうか、とほとんどため息をつくように和尚は言った。
「焦って決めることはないよ」
そう付け足した和尚を見て、六太はゆるゆると首を横に振った。
「いいんだ。俺がそう思ってる。俺の心が、そう思ってる」
「そうか」
和尚はそれ以上何も言わなかった。和尚の心の中にも、六太と同じ日だまりの気配があった。六太はそれに深く納得した。あの感情の本流を抱えて微笑みを浮かべるには、それに釣り合うだけの空虚が必要なのだ……。
* * *
何もかもが吹き飛ぶその寸前、水面に顔が出る数センチ下のようなところを、ミイナは漂っていた。いくつかの声が聞こえた気もするし、いくつかの色が見えたような気がした。その中に何度も何度も、繰り返されるものがあった。それはミイナが遠く、深い底に仕舞いこんできたものだった。押しつぶされたそれは映像のようでもあり、静止画のようでもあり、言葉も声も音も形も色も全てが練り合わされて、一瞬のうちに駆け抜けていくのだった。
これは何、と誰かが問うた。
目の前には四角く縁のついた青色があった。下の方は緑に近く透き通っていて、中心に近づくにつれて紺になっていった。真ん中で青は急に切り替わって明るくなり、更に上の方には幾許かの白いものがあった。
これは海よ、と誰かが答えた。誰かの手が紺の部分を指差した。
ここは、と誰かが問うた。ふたまわりも小さな手が、緑色に近い部分を指差した。
ここも海よ、と誰かが答えた。真ん中より下の部分は全部海なのよ。
海、と誰かが繰り返した。そうよ、と誰かは応じた。
上の部分は、とまた誰かが問うた。この真ん中より上の部分は何。
それは空よ、とやはり誰かが答えた。その声は奇妙なまでに情緒的だった。ここから上は空。ここから下は海。空は見たことがあるでしょう。海というのは大きな大きな水たまりで、この星では陸の三倍くらいの広さがあるのよ。昔はもう少し狭かったのだけれど。
広がったの。
ええそうよ。昔は陸だったところを海が飲み込んでしまったの。海は自然で、自然は人が完全に制御できるものではない。それは時折、人が築き上げたものを壊し、沢山の人を殺してしまうの。つまり敵よ。自然は敵なの。だから人は、知恵を武器にして自然に立ち向かい、それが切り崩され、理解され、征服される日まで戦い続けなければならないのだわ。いつか人は、自然を思いのままにするでしょう。風は定められたように吹き、雲は定められたように流れ、雨は定められたように降り、そして止むの。知恵の加護があるなら、いつか人は、海をさえ自由に陸にすることだってできる。それも、遠くないうちにね。
でも海は、と誰かは呟いた。海は、こんなにも綺麗なのに。
海に行ってみたいかしら、と誰かは尋ねた。
うん、と彼女は言った。うん。とても。小さな手は、緑から紺へとゆっくり滑らされた。その表面はつるりとしていて、少し指が引っかかるような感じもした。大きな方の手は引き下げられて見えなくなった。
そう、と誰かは嬉しそうに言った。じゃあ貴方は海に行くといいわ。海に行って、そこで泳いで、囚われて、流されて、その美しさの中に沈むといいわ。貴方がそうすれば、人の知恵は広がる。科学は進み、人はまたひとつ全能に近付ける。貴方は大好きな海に行くだけで、その手伝いができるのよ。
苦しいの、と彼女は問うた。震えがこみ上げてきた。海は苦しいの。
そうかもしれないわ、と誰かは楽しそうに言った。
苦しいのは嫌、と言った彼女の手を、誰かががっちりと掴んだ。その圧力は全身を凍りつかせるのに十分だった。思わず見上げた誰かの顔は、嬉しそうだった。まっすぐにこちらを見つめていた。笑っていた。心の底から。偽りのない嬉しさから。誰かは蕩けたような、ある種の恍惚の眼差しを彼女に注いでいた。今や全身の震えでガタガタと音がなりそうだった。見開いた目から、臨界を超えた雫が零れ落ちる。
それが定められた貴方の仕事よ、と誰かは言った。
陸へ、と何かが言う。陸へ。陸へ。陸へ。
寒さと、熱と、痛みと。ミイナの中をすり抜けていくそれは恐ろしい程の圧力に押し込められ、その高圧の中でなお激しくのたうち回った。ミイナの体は最早その輪郭を感じられなかった。それは半ば海であり、海はその半ばまでミイナであるようだった。ミイナはのたうち暴れまわる何かの総体だった。そこに意志はなかった。感情もなかった。内も外もなかった。ただその中心に、いつか抱きしめたあの温もりがあった。それがミイナを辛うじて繋いでいた。そこにミイナの全てがあった。ミイナがミイナであるために必要な全てがそこにつなぎとめられていた。それを思う心が、次第に薄れて散っていく。その最後のひとかけらが、今まさに眠りに就こうとしていた。
でも、海はあんなに綺麗なのに。
その美しさの中に沈むといいわ。
人には出来ることの量が決まっている。
それは大丈夫じゃない。
それ以上のことを無理にすると……。
ミイナ。
それが貴方の仕事よ。
キオクだ。誰かが誰かであるために必要とされるものだ。
泣いているの。
定められた……。
ミイナ。
「戻りたい」。
ミイナ。
ああ。
陸へ。
陸へ……。
* * *
六太は飛び起きた。全身にびっしょりと汗をかいていた。部屋の中には僅かに差し込む月の光以外何も見えなかった。全てはまだ深い夜の闇の底にあった。六太の頭の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。寝直そうという気を一瞬も起こさせないような、張り詰めた感覚が六太の意識を満たし、覚醒させていた。それは、絞め殺される獣のもがきのようだった。声は聞こえないまま、姿も見えないまま、ただ確かにどこかで死にかけている獣がいる、それを感じ取っているような、ぴりぴりとした居心地の悪さと緊張だった。六太はそっと部屋を出た。ほとんど同時に誰かが廊下を曲がって姿を現した。
信沙だった。
「信沙。変なんだ。ぴりぴりするんだ」
落とした声で急き気味に言う六太に、信沙はひとつ頷いた。その面持ちは極めて真剣だった。同じ緊張感を抱いているのだと、六太は思った。そしてその直感は当たっていた。
「危険です」
静かながらきっぱりと、信沙は言った。
「和尚には……」
「伝えてあります」
どたどたと足音がしたのは和尚のものらしい。
「私は後から追いつきますから、先に鐘楼へ」
「鐘楼?」
「鐘楼へ。そこで何をすべきかは、貴方の記憶が知っている」
冗談を言っている調子ではなかった。六太はひとつ頷くと、弾かれたように駆け出した。外には冷たく、湿った風が吹き始めていた。警鐘は強まったかと思えば弱まり、そしてまた強くなった。強くなると、それがひとつの方向から聞こえてくるのが分かった。月光は決して十分な明るさではなく、足元は決してよく見えるわけではなかった。六太はなるべく壁面に身を寄せて、できる限りの速さで崖へ上がった。上がり切る直前で一度だけ、足を掬われて転んだ。すりむいた両膝がじんじんと痛んだが、幸いにも進むのに支障はない。六太にとってはその痛みも対して気になりはしなかった。緊張は焦燥感に変わりつつあった。とにかく早く、と六太は足をどんどん前へ送った。行く手に黒々とした鐘楼の姿が見えてきた。六太はそれを通り越して、崖の淵ぎりぎりのところまで出た。海はほぼ完全な漆黒だった。僅かな波のきらめきと、轟くような音が辛うじて海を主張していた。六太は自分の中の警鐘に耳を澄ました。それは海の向かって右手の方から聞こえるように思われた。六太は警鐘が最もよく感じ取れる方向へ顔を向けた。その方向を向いていると、ほとんど寒気に近いような感覚がびりびりと全身を駆け巡った。確かに外気は冷たかった。だがそれとは確実に別物の、不安や恐怖にも似た感覚が六太にはあった。息さえ慎重にしながら、六太はその一方向をじっと見つめていた。
その瞬間。きらりと、何かが光った気がした。
六太の視線は反射的に、水平線近くのその一点に注がれた。その視線は刺すように鋭いものだった。揺らめく波間にまた、何かがきらりと光った。今度は確かにそれを捉えた。遠いのか弱いのか、小さく淡い光は赤を帯びていた。その輝きが、揺れながら少しずつ強まってくる。脳内の警鐘はその騒々しさを更に増す。痺れるような感覚が満ちた。六太は無意識のうちに後退り、探り当てた鐘楼の柱を左手に掴んでいた。そうでもしないと崩れ落ちてしまいそうな予感さえあった。それでも視線だけは逸らさなかった。六太はじっと、揺れる赤を見つめていた。それが遠いのでも弱いのでもなく、深いのだと気付いた時、それは急激にその明るさを強めた。ぐんぐんと水面に上がってくるらしいそれは、周囲の水を照らしながら六太の方へ接近してもいた。
ばしゃりと、それは水面から高く跳ね上がった。
炎のようだった。
炎というより、大量の火の粉が蜂のように群れをなしている、そんな風に六太には見えた。だが闇夜に浮かび上がったその姿を、六太ははっきりと知っていた。知らないはずがなかった。一瞬のうちに六太は全てを見てとっていた。大きなひれのついた足、長い髪、細く伸びた腕、そして炎の中に煌く、二つの紫。
「ミイナ……!?」
見開かれた六太の目の前で、炎は宙返りをするように身を翻して、頭から水の中へ落ちていった。高い水しぶきと共に、鱗粉のような光がいくつか舞い上がって消えた。大きく波打つ水面のすぐ下を、尾を引く赤い光が不規則に暴れた。進んでは戻り、沈んでは浮かぶ。それはのたうち回っていた。
「ミイナ!!」
痛々しいほど張り上げた大声は水面に阻まれた。炎は――――ミイナは、のたうち回りながら徐々に、六太のいる崖から離れていく。届かない、という確信は六太の心を一瞬にして真っ暗にした。視界の中で赤く燃えるミイナが暴れまわる。ミイナは呻きも叫びもしなかった。ただ苦しんでいた。苦しみながら、六太のもとを離れようとしていた。
「そんなのダメだ!!こっちだ!!」
ミイナはいよいよ、水平線に近付いていった。六太の体がぎゅっとこわばった。強ばった手の中で、鐘楼の柱の角がぎりぎりと食い込んだ。
六太は息を飲んだ。それだ、と確信した。鐘楼の中へ駆け込んだ。躊躇いはなかった。触れることのなかった滑らかな引き綱を握り締め、そして、渾身の力で引いた……。
鐘が、鳴った。
痺れるような厚い音の波が、壁のように押し寄せた。
何度も、それは押し寄せ、広がり、薄れた。
その響きはあらゆるものの動きと呼吸とを、一瞬、止めた。
六太は、崖の淵へ走った。確かにミイナは、小さな赤い光となって漆黒の中で動きを止めていた。そして、幾度か体を引き攣らせた後、一気に崖に向かって突進してきた。六太は一瞬躊躇ってから、その輝きに背を向けて距離を取った。最早、何かを考える余裕がなかった。ただ脳裏に、ミイナの声が残っていた。
大丈夫。
「大丈夫、絶対だ」
「六太!」
六太は慌てて振り返った。息を切らした信沙が、暗闇の向こうから六太を見ていた。その目は必死さを湛えていた。行くなと、その目は言った。その気持ちは痛いほど六太に届いた。突風のように、恐怖が六太の中を突き抜けた。一瞬、畑や森や寺のことが、和尚と信沙の温もりが、眼差しが、声が、ほとんどひとかたまりになって行き過ぎた。それでも警鐘は鳴り止まなかった。ミイナの、声にならない絶叫が六太に届き、幾重にも幾重にも反響して犇めき合っていた。それに耐えることは出来なかった。やるしかない。六太は、ぎっと歯を食いしばった。それを信沙は、見て取った。そして頷いた。その手は、軋みそうなほどに強く握り締められた。
「行きなさい!!」
叩きつけるようなその声の激しさに突き飛ばされるように、六太は海に向かって走り、そのへりを渾身の力で蹴った。
六太の決して大きくない体は風を受けてもみくちゃにされた。闇の中へ吸い込まれていきながら、六太は無意識に両手を前に伸ばした。ミイナの光は薄れていった、それは海の底に向かって沈んでいっているということに違いなかった。六太はひゅっと息を吸い、目を瞑った。その瞬間、叩きつけられるような衝撃と共に全身が水の中に飲まれた。六太は目を見開いた。眩い光を放つミイナの姿が、目の前にあった。六太は必死に水を掻き、ミイナの手首を掴んだ。途端に、火に触れたような激痛が六太の手の平を焼いた。驚いた六太は一度手を離したが、もう一度掴んで今度は離さなかった。奥歯を痛いほど噛んで、掴んだその手を引き寄せた。その体は焼けるように熱かった。赤く輝くそれはぬるりとして、触れたところに激痛を走らせた。それに全身を覆われているミイナは、最早微動だにしなかった。その体は重たかった。二人は少しずつ、深淵へ沈んでいった。
「出来損ない」
また誰かが言った。
海に生きるために、六太は生み出された。でも六太は海になど行きたくなかった。だから海にいられなかったのだ。海を受け入れたものでなければ、海を望むものでなければ、適合することはできない。放り込まれて死ぬこともないが、そこで生きていくこともできない。だから六太は死なずにあの地蔵のもとへ流れ着いたのだ。それでも結局、水の中では無力に過ぎない。ミイナを抱えて水面に顔を出せるだけの力が、今の六太にはない。少し身を捩っただけで、ミイナに触れているところがびりびりと痛む。ミイナの肌以外に光源はなく、水面の遠ささえ分からない。
「出来損ない。海以外に行く場所などないのに」
そうだ。海以外に行く場所などなかった。海に行くために生み出されたのだ。寺も、畑も、森も、全ては仮の住処に過ぎなかった。息が苦しくなってきた。ミイナは微動だにしなかった。その体を、六太は全身で抱きしめた。炎の中に投げ込まれたようだった。
だったら。いっそ。このまま。
「海へ」
最後の空気が、言葉と共に零れ出た。
ミイナの肌が、細かい泡となって、溶けた。それはまるで抱きしめるように、六太の全身を包み込んだ。
* * *
日の入りの鐘を三つ、信沙は撞いた。かつて六太に、死者を呼ぶ鐘なのだと言ったことを思い出した。それは真っ赤な嘘だった。鐘の音は、信沙自身の慰めのために撞いているに過ぎなかった。
弔いといえば弔いなのかもしれなかった。ミイナと同じように陸を望み、海の中で燃え尽きて死んでいった弥紗。信沙は彼女の無言の叫びを感じ取っていた。感じ取っていたにも拘らず、信沙は鐘楼に上がってその姿を捉えたきり、そこから一歩も動けなかった。怖かったのだ。見下ろしていた海の中で、弥紗は身を焦がしてのたうち回り、次第に擦り切れていって、そのまま消えてしまった。助けられたはずだ、と信沙は未だにそう思うことがあった。実際、六太はそれをやってのけた。ひとえに己の力不足だったとしか思えなかった。それでも死者は還らない。信沙はもう何年もの間、それを諦めようと必死に努めてきた。鐘の音を聞くことで上手く心を落ち着けてきた。それでも今、心は疲れきっていた。六太だって救えたはずだった、と信沙は考えていた。私が海に還れば良かったのだ。それなのに、どうしても海を欲することができなかった。ミイナが陸に上がったその日に、六太は海へ行ってしまった。二人はここで、並んで海を見下ろすはずだったのだ。そして私がもっと強ければ、それは今成就されていてしかるべきだった……。
疲れている、と信沙は感じた。自分の中に巣食う空虚が膨れ上がりつつあった。今崖の淵から足を滑らせれば、と考えた。上手くすると死んで楽になれるかも知れない。でもできるはずがないのだ。私にはそれだけの勇気がない。なんやかんやと理由をつけて、結局は死ねないに違いない。死ねないどころか、死のうとすらできないに違いない。信沙は海を見つめたまま苦笑した。残照を孕んだ海は美しかった。それは信沙が最も恐れてやまないもののひとつだった。唯一の触れられないものだった。
僅かな物音がして振り返ると、ちょうど和尚が寺の方から姿を現したところだった。和尚は信沙を見つけると、少し笑った。
「ここに長居するのも珍しいな」
「寺にはやることがありません」
「まあ確かに」
和尚は笑いながら言った。
ミイナは――――陸に上がってからは「深稻」というのを自分の名前にした――――寺の掃除を、つまり今まで信沙が担当していた仕事を好んだ。信沙はそれを知ると、自分は畑と森の手入れに回った。和尚は何も言わなかった。それで寺の生活が回るなら何も問題はなかったのだ。そして今のところ本当に、寺の生活には何の支障も出なかった。信沙が決して頑丈な方ではなかった分、今までよりも少し時間はかかったが、やり方はむしろ丁寧で繊細になった。
「少し痩せたな」
「そうでしょうか」
「疲れているよ。今にも総武線に飛び込みそうな顔だ」
くすくすと、半分は愛想笑いも含めて信沙は笑った。総武線に飛び込みそうな顔というのは、和尚が好んで使う言い回しだった。深稻が以前、海にいた頃は電車に暮らしていたと言っていた。それがどんな感覚なのかは聞かなかったが、きっと寺の方が快適だろう、とは思ったのを覚えている。信沙は寺に来る以前の一切が思い出せない。海の中の様子も、印象と呼ぶべきごく小さな断片が残っているかいないか、という程度だった。どこに何があってどうだったかなど、具体的には何一つ思い出せない。
六太はどこにいるのだろう、と信沙は不意に思った。
深稻と入れ違いに海に行った時に、それまでの記憶は全て無くしてしまっているはずだった。この寺の位置すら、覚えているかどうか分からない。六太はあれきり、この近辺に姿を見せていなかった。それどころか、上手く適合したのかどうかすらはっきりとはしなかった。既に海底に沈んでいる可能性も、燃え尽きている可能性も、無くはなかった。その不安は常に信沙と共にあった。だからそれもまとめて、信沙は鐘の音の奥底に仕舞いこもうとしていたのだ。だがその試みは、今のところ上手くいきそうにはなかった。仕舞おうとしたものはあまりにも多すぎて、何度鐘を撞いても足りそうになかった。
信沙は深いため息をついた。夏の空の色をした瞳が恋しかった。
「大丈夫だよ」
和尚は言い、信沙は頷いた。形だけの同意だった。和尚はそれきりふっと黙り込んだ。深稻が拵えているらしい夕飯の匂いがほんの微かに漂ってきた。ほんの少し気が滅入った。重たい感情は今にも溢れ出さんばかりだった。諦観という空虚の中に仕舞いきれなくなった時、その重さは信沙を崖から落とし、海の中へ投げ込むだろうと思われた。そしてそこには誰もいないという気もした。和尚も深稻も、六太も、弥紗も、そこにはいない。投げ込まれた私にできるのは、と信沙は思った。投げ込まれた私にできるのは、ただ己の重さに従って沈んでいくことだけだ。海に適合する可能性がない私は、海に多くを奪われた私は、海から逃げ続けた私は、最後に海に殺される。陸での生を全うできる気はしない。この生が燃え尽きるより先に、感情は溢れるだろう。そして己の嫌い続けた海に殺されて、その深淵に飲み込まれて、真っ暗な海底で一生を終える。
ああ、と小さく嘆息した。
水平線に溶けてしまえたら素敵だろう、と信沙は思った。