貝の雪の国
まだ薄暗い中、貝の雪を除雪する機械音で目が覚めた。不思議と小さな音ほど気になってしまう。
三日ほど前から雪はずっと降り続いている。カーテンを開けて外を確認すると、だいぶ小降りになっていた。止むのも時間の問題だろう。
殺風景な部屋でテレビを点ける。
いつものアナウンサーが自殺者のリストを読み上げる。それはとても悲しい作業のはずなのに、彼女は無表情で淡々と行う。日常の光景。そこに何の心情も感じ取れない。人口の少ないこの国で自殺は重罪だ。
近頃神経質になっている両親のことが心配になり、会いに行くことにした。実家はこの寮から歩いて10分もかからないところにある。
外は暑く、灰色の雲の隙間に僅かに青空が見えた。貝の雪は今にも止みそうだ。道すがらお構いなしに洗濯を干している人や、ベランダでコーヒーを飲んでいる人が見える。遥か遠くには巨大ビルが霞んでいる。
実家は小さな一軒家だ。両親は二人そろって、家中の荷物を纏めていた。
「おはよう」
声をかけると、いつもより少し沈んだ声で「おはよう」と母は返した。そして
「やっぱり、タワーに引っ越すことにしたよ」
と続けて言った。
国が推奨するタワーは今ではこの国の象徴のように天高くそびえ、どんどん拡張している。一歩外に出れば、遠目ではあるがどこからでも否応なしに見えるのだ。
「あんたも早いうち行ったほうがいいと思うよ」
「私は行くつもりない」
母の勧めにきっぱりと返す。
ほんの少しの安穏のために、ノスタルジック溢れる今の生活を手放したくはなかった。父が「好きにさせてやれ」と言った。見放しているわけではなく、私があまり生に関心がないことを察しての発言かもしれない。
決して死にたいわけではない。でも、いつ死んでも構わないと思う。きっと私はからっぽなのだろう。
貝の雪は、人類にとって脅威そのものだった。本物の雪ではないし物質が判らない。溶けることも燃えることもない。処分方法と言っても、国が除雪機で集めてどこかへ持っていくだけで、その行き先すら私たちは知らされていない。
そして貝の雪はそんなに重みはないけれど、いつどこにどのくらい降るのかが分からない。除雪機で間に合わないほど一部に大量に降ってきたら埋もれて死人が出る可能性だってあるだろう。
国はタワーに移住することを推奨している。それでも絶対に安全というわけではない。
中には異星人の仕業だとか、未来からの警告だとか謎めいたことを言う人がいる。実際のところ正体はとうの昔に判っていて、混乱を避けるため公表されていないだけという話が有力だった。正式名称も別にあるという話だ。私は今更その正体や真実を知りたいと思わない。知ったところで何か生活が変わるわけではない。
実家からそのまま職場に行くことにした。タワーに移る決心をした両親のことを考えると複雑な心境だったけれど、止める権利はないし、少しでも長く生きたいと願う心は健全で、今の私には少し羨ましくさえ思えた。
「おはよう、スピカちゃん」
お店には、珍しく店長が出勤していた。
私は小さな雑貨店に勤めている。ここで働き出して二年になる。
「おはようございます、店長」
私は丁寧に前で手を組んでお辞儀した。
「空さんはまだ来てないのですか?」
「うん。珍しいよね。この時間に来てないなんて」
彼女は首を傾げて、それからゆっくり店内の時計を見つめた。
「何かあったんでしょうか」
「大丈夫よ。後で連絡してみるね。とりあえず二人でお掃除して、お店開けちゃいましょう。店内に入ってしまった貝の雪を片付けないと」
店長は明るくそう言った。
店長と空さんは学生時代からの友人だと聞いている。店長があまり来ないこの雑貨店は実質空さんが店長のようなもので、私は仕事のほとんどを彼女から教わった。優しく尊敬できる、姉のような存在だ。
本当に空さんがお休み以外でこの時間に来ていないのは、私がお店で働き出して初めてのことだった。
開店後一段落して、店長は空さんに連絡をとろうとしたけれど、繋がらないと言って戻ってきた。私もお昼の休憩時間に連絡するも、残念ながら結果は同じだった。
空さんが亡くなったことを知ったのはそれから三日後のことだった。
山中の崖下で彼女の死体は見つかった。最初は自殺か事故死の可能性が考えられていた。けれど、彼女が運転していた車はガードレールに衝突したものの崖の上で止まっていたため、彼女が崖下に転落していることは極めて不自然だった。ブレーキ痕がはっきり残っている点、動機が不明な点から自殺ではないと判断され、同乗者が居て衝動的に動けない彼女を突き落したのではないかと推測された。
突然の訃報。悲しいというより、衝撃のほうが大きかった。どこか一部が冷えていると感じつつも、急に空さんのある言葉を思い出していた。
『ずっと前から好きな人が居るの。片思いなんだけどね』
今現在、同乗者の行方を追っているとテレビでも新聞でも大きく取り上げられた。
何となく、同乗者は空さんの片思いの相手なのではないかと思った。何の根拠もないけれど……。
自殺は重罪。
殺人は当然この国で最も重い罪だ。
同乗者の行方が分からないまま、空さんの葬儀がしめやかに執り行われた。
葬儀の前に国の調査機関が寮に来て、私は散々空さんについて聞かれた。
今日は朝から珍しく雨が降っている。雨と本物の雪の日だけは貝の雪は降ってこない。近頃は貝の雪ばかり降って、雨は久しぶりだった。本来夏なのだから夕立だって多くて当たり前の時季なのに、ずっと何故だか夕立すらなかった。
涙は全く出なかった。
今日まで泣きすぎたせいかもしれない。
前の列に店長の姿が見えた。
近づくがとても声を掛けられない。倒れそうな店長を旦那さんが支えて、ようやく立っているような状態だ。
私の目も腫れていたけど、店長の目はそれとは比にならないほど腫れ上がり、いつもの美しい顔は見る影もなかった。店長は最初から最後までずっと泣き続けていた。
帰り際、雨の中で長身の男の人が傘もささずに立っていた。
とても奇妙で目立つ。
「森スピカさん?」
立ち塞がった男の人は、びしょ濡れで私の名を呼んだ。淡々とした響き。前髪が長く、俯き加減のため表情はよく見えない。雰囲気から、私よりいくらか年上だろうと思った。
顔色は青白かった。まるで亡霊のように見える不審な人物。私は警戒しながら頷く。
「君、何か預かってない?」
瞬間、雷に打たれたような衝撃。
もしかしたら、この人が空さんの想い人なんじゃないだろうか。
「何も預かっていません。あの、空さんが……あなたは空さんがずっと好きだった人ですか?」
初対面の人にずいぶんと失礼なことを聞いている。踏み込みすぎた問い。
空さんがこの場に居たら絶対に怒るだろう。
でもどうしても気になって仕方がなかった。もしかしたら目の前にいるこの人が空さんを殺したのかもしれない。
ほんの少しの可能性があるならばどう思われようと知りたい。知るチャンスを逃したくない。私は真剣だった。
彼が突然口元を緩めた。
「何がおかしいんですか?」
緊迫した状況にそぐわない態度に、私は声を荒げる。
「そうか……いや想定外だったから。ごめん……」
彼はこめかみを右手で押さえながら謝った。
そして背を向けそのまま立ち去ろうとした。
「待ってください。質問に答えてください」
私の言葉に彼は立ち止り、考えているようだった。少しして
「俺は彼女の好きな人ではないよ」
と言った。
振り向いたときに纏まった前髪が揺れて片方の目が見えた。
想像と違い整った顔。綺麗な生きた目をしていた。
「もしかして何か知っているんですか? あなたは誰なんですか? 私、空さんがどうして死ななければならなかったのか知りたいんです」
「それは困る」
「どういう意味ですか? あなたが空さんを……」
「飛躍するね。俺は殺してないよ。生き物を殺さないと決めてるんでね」
「決めてる?」
「何も感じず、殺せそうだから」
綺麗に笑う顔が怖かった。
『空さんの想い人』も『犯行』も否定されたのに、彼が犯人かもしれないという疑惑はますます深まる。
彼は昔流行ったサイコパスとかいう種類の人間なんじゃないだろうか。サイコパスは平気で嘘がつけるという。
「……それにしたって、君ずいぶん質問が多いね。風邪をひきそうだからもう行くよ」
風邪をひきそうもなにも傘もささずに突っ立っている自分の責任だろう。本当に変わっている。
彼は結局私の質問の一つにしか答えず、そのまま去って行った。彼女との関係どころか名前すら分からない。
本当に事件に関わっているのだろうか。
寮に戻ってしばらくすると、三回のノック音の後、同じ階のカヤが部屋に入ってきた。
「大丈夫?」
そう言うカヤは喪服のままだった。会わなかったが、彼女も空さんの葬儀に行ったようだ。
カヤと呼んでほしいという彼女の希望で省略しているが、彼女の正式な名前はカヤナイトという。少し呼び辛い藍色の昔の石の名前だ。
子供には美しい名前しか付けてはいけない決まりになっている。消え去った綺麗なものの名前を付ける親は多い。私のスピカという似合わない名前もそういう理由だ。
「うん……。もう麻痺しちゃったのかもしれない。不思議だね。涙が出ない」
「あやめさんがあんな状態じゃ、しばらくお店は休みでしょう? こんな言い方なんだけど、スピカも少しゆっくりしなよ」
「そうだね」
私は小声で相槌を打つ。
『あやめさん』は店長の名前だ。
「あやめさんのこと、心配だね。空さんとは親友だったんでしょう。まあ、オーナーが居るから大丈夫かなって思うけど」
カヤも葬儀で倒れそうな店長を見たのだろう。
店長の旦那さんは私たちが勤める会社のオーナーだ。といっても前オーナーは店長の父親で、優秀な彼は前オーナーの強い勧めで店長と結婚して婿養子になった。
会社は様々な事業を展開しており、雑貨店も何軒かはあるが私が勤めるお店は少し特殊で、あの一軒だけは店長の趣味で経営しているようなものだった。
カヤも寮近くの別の雑貨店に勤めているが、カヤのお店の店長は勿論あやめさんではない。
私はさっき会った奇妙な男の人の話をカヤにしてみようかと思った。
「カヤはサイコパスって知ってる?」
「何それ?」
彼女は怪訝な面持ちで逆に聞き返してきた。
私は簡単にサイコパスの説明をし、彼が言ったセリフと彼に持った疑いを話した。
「大体さ、そんな危ない人、空さんが好きになるかなあ。逆にその人、空さんのストーカーだったんじゃない? 十分に犯人の可能性あるね」
彼女はすぐにそう返した。
「でもストーカーを自分の車に乗せるかな?」
私は疑問をぶつける。
車は空さんのもので、報道によれば運転していたのも間違いなく空さんだということだった。
「乗せたくて乗せたとは限らないでしょ。脅されたとか、弱みを握られてたとか。でも最終的に空さんが自分の思うようにならなくて、突発的だかなんだか分からないけど殺したんじゃない。そんなところだね」
カヤは名探偵張りの大げさな身振りで自信をもってそう言った。
しばらく真剣に議論をしたけど、結局「まあ、あんまり余計なこと考えないでゆっくり休みな」と捨て台詞を残し、彼女は自分の部屋に戻って行った。
その夜、会社の本部から「しばらく自宅待機で」という連絡があった。
雑貨店には店長と空さん、私の他にバイトを含めてあと3人ほど従業員が居るが、全員待機になったのだろうか。
急に普通だった日常が消える。例え職場に出勤したとしても、もう二度とあの雰囲気に戻ることはない。
私が働いていた職場は永遠に失われたのだ。死でなくても、当たり前の日常が失われることは多々あるけれど……。
一週間後再び本部から連絡があり、店長代理が決まったから明日から出勤してほしいとのことだった。
店長は、悲しみからずっと体調を崩しているらしい。きっと私の何十倍もショックだっただろう。
葬儀が終わろうと、受け入れられないに違いない。彼女にはまだまだ時間が必要なはずだ。
出勤すると、お店にあの仮定サイコパスが居た。
最初は分からなかった。あまりにも清廉で。
眼鏡をかけ、髪も無造作に見えて整っていた。完全に美形の好青年にしか見えない。
「やあ、来たね」
仮定サイコパスの最初のセリフ。その抑揚のない独特な声で気付いたのだ。
「なんであなたがここに居るんですか?」
私は少し離れて、彼を上から下まで不躾に眺める。
警戒レベルはマックスだ。
「あやめの代理」
「あやめって‥‥…店長の? じゃあ、あなたが店長代理ですか? 店長とは親しいんですね」
「あやめは妹。色んな人に聞かれるから先に言うよ。あやめとは父親が違うんだ。一緒に育ったわけじゃないけど、ちょくちょく会ってたから仲はいい」
意外だった。仮定サイコパスが店長のお兄さんだったなんて。
受け入れるのに少し時間がかかった。
店長よりも若く見える。まあ、言われてみれば品の良さやゆとりのある雰囲気は店長と共通しているような気がする。
店長のお母さんは二人も子供を生んだということだ。……とても考えられない。
一人生むことだって難しいのに。
本物の兄妹ってどんな感覚なのだろう。
でもこれでようやく一つの謎は解けた。店長のお兄さんなら、私の名前を知っていても不思議ではない。
ただ疑惑が消え去ったわけではなく、店長のお兄さんだからといって無条件に白というわけにはいかない。寧ろ、店長のお兄さんなら空さんと交流があって当然だし、空さんが彼を好きになることだって十分にありえた。
「あの、代理のお名前を教えてもらえますか?」
「今井橘」
素直だ。会話が成立する。
今日は聞いたこと全てに答えてくれそうだ。
「それより言おうと思ってたんだけど、俺に対して敬語や丁寧語は遣わなくていい。無駄だから」
彼は唐突にそう言って、眼鏡の淵に触れた。
「無駄?」
「時間の無駄」
「だったら今井さん……あ、店長代理って呼んだほうがいいですか?」
「橘でいいよ」
橘は名字のようで名前だ。非常に呼び辛い。
「……橘さんは、年上の人に対してそういう今みたいな話し方をするんですか?」
「それは相手次第だね。敬う話し方を望む人にはそれなりに合わせる。ただ、俺に対しては必要ないってことだよ」
「あの……仕事中ですよ?」
彼は心底驚いた顔をした。
「ああ、そうか。接客業なら人の目もあるか。そこまで考えなかった。じゃあ仕事中はそれなりに。さて、掃除でもしようか」
開店すると、橘さんはレジも接客も包装もそつなくこなした。本当に一体何者なんだろう。
お店には空さんの馴染みのお客さんが何人か来て、彼女を偲びしばらく話し込んだ。
中にはお店がこのまま閉まってしまうのではないかと心配していた常連さんもいて、再開したことをとても喜んでくれた。
お昼から社員が一人、夕方からバイトが一人来た。私はバイトと入れ替わりで上がりだった。
「橘さん、あの……少し話したいんですけど、今日はラストまでですか?」
私はどうしても空さんの殺人容疑の件をはっきりさせたかった。仕事をしながらも橘さんを目で追ってしまっていたし、頭の片隅から一瞬でも離れることはなかった。
店長代理なのだからいつでも簡単に話ができるなんて思えない。大体、今日は奇跡的に話が通じているだけかもしれない。何しろ雨の中びしょ濡れでサイコパス的な発言をしてくる人だ。
そういえば、手紙がどうとか聞いてきた。どういう意味だったのだろう。それも疑問の一つだ。空さんは何かトラブルに巻き込まれていて、手紙で真相を残そうとしていたのだろうか。
「いいよ。少し抜ける。喉が渇いたからそこのカフェに行こう」
橘さんは店内から窓越しに指をさした。道路を挟んで、お店の斜め前は小さなカフェだ。テイクアウトができるので、私も普段からよく利用している。
外に出ると、夕方といえどもかなり暑かった。店内は丁度良い室温に保たれているから不快さを感じることはない。
見上げた空に貝の雪が降る気配は全くなかった。
喫茶店で橘さんはカフェオレを、私はアイスティーを注文した。
「何を聞きたいの?」
橘さんは真っ直ぐに私を見て言った。
「全てです」
「仕事終わったんだから、そんな話し方しなくていいよ」
「このほうが落ち着きますし、話しやすいんで」
私は彼の提案をきっぱり断る。
「あ、そう。俺が話せることはもう全て話したよ」
「嘘はついていませんか?」
私は少し睨む。睨むというより、本当は顔が強張ってうまく表情が作れない。
「ついてない。何を疑ってるわけ? 俺が空の想い人? で、犯人?」
「空さんとも親しかったんですね」
彼女のことも下の名で呼びつけにしているあたり、かなりの親密度が窺える。
「そりゃあね。空も妹みたいなもんだから」
「もしくは、失礼なの承知で言いますけど、橘さんは空さんのストーカーだったとか」
「……どちらにしても殺人犯か。俺たちに恋愛感情はないよ」
言って橘さんは軽く笑う。
その後、カフェオレを飲んだ。
「空さんの手紙ってなんですか? そこに何か真相が書いてあるんですか?」
「あったらいいなって話。俺も真実が知りたいだけだから。君も預かってないし、実際存在しないみたいだね」
「大体なんで私が預かってるって思ったんですか?」
「あやめや空の話によく出てくる名前だったから。……可能性があるかなって思っただけ」
私はアイスティーに手早くシロップを入れてかき混ぜ、一口飲んだ。
「じゃあ私が、本当のことが知りたいって言ったときに困るって言いましたけど、あれはどういう意味だったんですか?」
「……そんなこと言ったっけ。俺が調べてることに首を突っ込んでもらいたくなかっただけ……かな」
適当もいいところだ。
自分の言ったことすら忘れるなんて。
「空さんの好きな人が誰だか知っていますか? ……いえ、知っていたらあるのか分かりもしない手紙なんて探しませんよね」
橘さんは黙って首を少し傾けた。
「君、本当に質問が多いね」
私は不本意ながら謝って、橘さんと別れた。まだ自分の中で彼が犯人説を完全に否定できたわけではない。
でも確かに変わった人だけど、彼もただ空さんの死の真相を知りたいだけなのかもしれない。
空さんを大切に思う気持ちは一緒だと思いたい。
話は嘘や演技には見えなかった。
それから二日後、店長が差し入れを持ってお店に来た。
お店には私と橘さん、社員が一人、他店舗からヘルプで来ているバイトが一人居た。
店長は「迷惑をかけてしまってごめんなさい」と初めにみんなに謝った。
空さんは結局事故死扱いになったらしい。調査した機関は、彼女がガードレールに衝突した後、朦朧とした感覚でなんとか車から出たものの方向感覚が定まらず、足を踏み外して崖から落ちたという結論に至った。
調べても結局、彼女が殺されるような原因も犯人もなく、同乗者も存在しなかったのだ。
「空が誰かに殺されたよりずっと良かった。空が居ない事実は変わらないし悲しいけれど、まだ事故なら仕方なかったんだって思える。この子のためにもいつまでも塞いでいられない。空もこの子のこと本当に喜んでくれたから」
店長はお腹に触れながらゆっくりとそう言った。
「お腹に赤ちゃんがいるんですか?」
バイトの子が驚いて言った。私も当然驚いた。
「すぐに報告しなくてごめんね。ホントは空がお店に来なかった日、みんなに報告しようと思っていたの。でも空が気になって報告どころじゃなくなっちゃった」
妊娠は本当におめでたいことだ。みんな喜んで、それぞれ彼女にお祝いの言葉を伝える。
橘さんは勿論、妊娠のことを知っていたのだろう。何も言わなかった。
「名前、男の子でも女の子でも虹にしようと思うの。空に虹が架かったら嬉しくなるから」
「素敵だと思います」
私は心からそう思って言った。
「ありがとう」
店長は綺麗な顔で笑った。
いつもの笑顔……。
彼女はきっともう大丈夫だと思った。
お店には今まで通り定期的に来るけど、管理は全面的に橘さんに任せるとのことだった。
「兄をよろしくね。ちょっと変わっていて冷たく感じるかもしれないけど、怖い人じゃないから」
「余計だ」
橘さんは間髪入れずにそう返した。店長は更に笑った。
それから十日ほどが経った。
天気のいい日にカヤがお店に遊びに来た。彼女が勤める雑貨店は公休日だった。
それにしてもずいぶん派手なオレンジのTシャツを着ている。目が痛い。
多分雨の中の仮定サイコパス=店長の兄=店長代理というとんでもない話を報告したから、気になって彼を見に来たのだろう。
勿論空さんの事件が解決済みで彼が犯人ではなかったことも知っている。
カヤは早速橘さんと何か話していた。それから私に寄って来て、
「どこがサイコパス? クールに見えるけどフレンドリーだし、すごい綺麗な笑顔の人だね。ファンになっちゃった」
と小声で言った。
そういえばここ最近、ますます女性客が増えているように感じる。橘さんの影響だったのか。
仕事ぶりを何日も見てきたけれど、外見だけではないのかもしれない。作業は丁寧だしお客様にも親切だった。ついでに責任者に絶対必要なゆとりも持ち合わせていた。私の見解だけど、気が小さかったり細かすぎたりいつでも切羽詰っている人は気持ちが安定せず、責任者には向いていないと思う。
その日はお昼からのシフトで、ラストまで残っていたのは私と橘さんだけだった。
「少し話せる?」
作業がすべて終わり、バックルームに戻ると橘さんが声をかけてきた。私は短く「はい」と答えた。
私と橘さんは長机を挟んでパイプ椅子に座った。何の物音もしない部屋はいつもより広く感じる。
「君、空から片思いの相手がいるって聞いてたんだよね」
「はい」
「きっと本当は君には相談したかったんじゃないかな。多分空は恋愛の話を誰かに初めて言ったと思う」
「前にも聞きましたけど、橘さんは空さんの好きな人が誰なのか知らないんですよね」
「知ってる。俺ではないと言っただけで、知らないとは言ってない。聞いてないけど見てれば分かる」
沈黙が流れた。何となく気軽に誰なのか聞ける雰囲気ではない。
「……あやめだよ。空がずっと好きだった相手は」
「恋愛感情で?」
「勿論、恋愛感情で」
「永遠の……片思いですか」
橘さんは悲しそうな表情で頷いた。
でも切り替えるためか軽く首を振ると
「お腹すかない? 時間、もう少しいいならなんか買ってくるよ」
そう言って立ち上がる。
21時を回っていた。私は「時間は平気です」と答えた。橘さんはすぐに例の斜め前のカフェで、サンドウィッチと飲み物を買ってきた。
「橘さんは変わっているけどサイコパスなんかじゃなかったです」
私はサンドウィッチを食べながら、独り言のように呟いた。
「サイコパス? ずいぶん昔の消え去った言葉を知っているね」
「なんで空さんのお葬式の日、あんなこと言ったんですか? 人を殺せそうだなんて」
「思ってることを言っただけだよ。思ってるだけで、実際本当に何の感情もなく殺せるかは分からない」
彼は昔の話をしているかのように、遠い目をしていた。
「私は殺せないと思います。ずっと見ていて分かりました」
「まともなフリかもしれない」
彼は自嘲した。
「いいえ」
私は即答する。
「……俺も君のこと見ていて分かった。だから、君には言ってもいいと思う」
「何をですか?」
私はただ彼をじっと見つめた。
「空は自殺だ」
彼のきっぱりとした台詞は、静かな部屋中に響いた。
「最初は君に遺書を残してたり、君が真実に気づいて公表したりしないか疑って見張ってたんだ。あやめや空から君の人となりを聞いていても君のことを信用なんてしていなかった」
「それはお互い様です」
私はそう言った。
頷いて、彼は続ける。
「空とは亡くなる何時間か前に会ったんだ。何でもない話をして、いつもと別に変わりなかった。けど別れるときに、空は何故か俺にごめんねって言った。勿論その時は意味が分からなかったけど。亡くなって意味が分かった」
何故か驚きは少なかった。
私は空さんについて知らないことが多すぎた。ずっと一緒に仕事をしてきて分かっていると思っていたけど、実際は何も分かっていなかったのだろう。
「空さん、どうして自殺なんて」
「完全に失恋したから」
「もしかして、店長に赤ちゃんができたせいですか?」
言わずもがなだった。認めたくないけどそれは納得できる理由だった。
きっと政略結婚で、空さんは店長の気持ちはオーナーにないと思っていたのだろう。気持ちがないのなら何れ別れる可能性だってある。
でも赤ちゃんができたのなら別だ。本当に愛し合っていないと赤ちゃんなんてそうそうできない。実際、愛し合っていたってできない夫婦が多いくらいなのだ。
今、もう子供を生むことは奇跡に近い。
「でも、空はそれでもあやめの幸せを考えたと思う。自分は死ぬ選択をしたけど、自殺だと気づかれないように事故死のフリをした。実際車が崖の手前で止まって、計画は完璧にとはいかなかったようだけど」
「……自殺だって分かったら家族や親しい人が罰を受けますもんね。このお店だって営業できなくなる」
自殺は罪だ。確かに自殺は良くない。
でも変な話だが、自殺の『選択』さえ許されないこの国はなんだか余計に未来がないと感じる。
「店長は空さんの気持ちに全く気づいてなかったんでしょうか」
「気づいてないと思う」
「哀しいですね」
絶望して命を絶った空さん。
誰にも真相を知られないように、自殺だと悟られないように装って崖から飛んだ。
胸が痛かった。
痛みと同時に、枯れたはずの涙が頬を伝った。
お店を出たのは22時過ぎだった。
貝の雪が降っていた。橘さんは寮まで車で送ってくれた。
雪に埋もれようと、やっぱりタワーになんて行きたくないと思った。
タワーでの生活は、安全と引き換えに全てが管理されている。
両親と行っていたら、悲しい出来事も知らずこの出会いだってなかった。私は悲しい出来事も辛い出来事もずっと逃げずに受け止めていきたい。
負の感情でもいい。空っぽな心に、何かしら埋めたい……。
橘さんが店長代理になって一か月がたった。
相変わらずそつなく仕事をこなす。
彼が飾り付けたものは何でも良く売れた。ディスプレイのセンスもなかなかのものだと思う。
鏡を拭いていると、彼が私に声をかける。
「そろそろ丁寧語、やめてくれないかな」
「そんなこと言うなら、私のこと君って言うのもやめてもらえますか?」
「なるほど」
少し間をおいて、彼は呼んだ。
「スピカ」
いきなり下の名を呼びつけですか。
「せめてさん付けでお願いします。仕事中ですよ」と私は怒った。
でも、不思議と悪い気はしなかった。仕方がないから私もこれから仕事以外では彼に対して丁寧語をやめる努力をしてみようかと思う。
一歩外に出れば、微かに見えるタワー。子供の姿は見えない。
窓の外は今日も当たり前のように貝の雪が降っている。




