記憶の中の音色
ピアノを目の前に腰掛けると何か嫌なことを思い出しそうで、なかなか弾けなかった。しかしその嫌なことが何なのか凛には思い出せない。なにが大切でなにが好きなのか、ここはどこなのか、そんなことすらどうでも良くなっていた。ただ、せなといるこの空間が異様に心地がよかった。
「凛、何か弾いてよ」
隣に立つせなが微笑みながら見つめている。
(何か…何か…)
その時ふと浮かんだのがラ・カンパネラだった。
凛は鍵盤に指を置くと一度息を吸い深く吐き出した。最初の鍵盤を押すと自然に流れるように曲が流れていった。凛はこの時覚えていなかったが今、大学での課題曲であった。
しかし凛は無我夢中で弾いた。それが楽しかった。ただただ弾いている。あの頃のように。初めて聴いた衝撃。誰が弾いたのか覚えていない。誰の曲で誰が自分自身にピアノを始めるきっかけを与えたのかすら覚えていない。しかし何故か楽しかった記憶がうすらぼんやりと浮かんだ。それが心地よくいつの間にか微笑みながら弾いていた。この曲名すら覚えていないのだ。しかし指は自然と動く。
(楽しい…ピアノを弾くことって楽しいんだな)
弾き終えた凛はそんなことを考えていた。すると耳に拍手音が鳴り響きその音の方へと振り向いた。
(そうだ…せなさんがいたんだった)
無我夢中で覚えていなかったのだがせなは凛のピアノにきちんと耳を傾けてくれていた。
「凛、凄く良かったよ。安心した。」
その言葉を聞いて凛は眉をひそめた。そして口を開いた。
「安心した…?貴方は私を知っているんですか?私は今までなにをしてきたのか覚えていないんです。この曲を弾いている時に懐かしい感じがしたんです。私が弾いたんじゃない…別の誰かが弾いていた…それを見て感動とワクワクした気持ちと……でも良く思い出せないんです…。」
せなはそれを聞いて微笑みながらゆっくり頷いた。そして口を開いた。
「大丈夫。すぐに元どおりだから。」
凛にはこの言葉の意味を理解するにはもう少し後の話になる。
その言葉を理解できず首を傾げていると
「変わって…」
と言われ、せなと交代した。
せながピアノを弾き始めた。途端、凛は不思議な感覚に陥った。とても懐かしい。とても懐かしいのだけれどなんて曲だったかやはり思い出せない。昔ある人が弾いてくれた曲だった。切ないながらも心に響く音色が部屋中に響き渡った。
凛は目を閉じてせなのピアノに耳を傾けた。
(心地よい…これは昔聴いたことがある…小さい頃に…でも誰と一緒だっただろうか…)
そう考えると凛は自分の名前しか覚えていないことに気がついた。
(私の名前は…凛…。それだけは分かるけど…誰がつけてくれた名前なのだろう…。母や父はいるのだろうか?わたしは今までなにをしてきた人間なのだろうか…)
耳をすませていると
「凛!」
突然誰かに呼ばれた気がしてハッとした。懐かしい感じの声だ。なんだか愛おしいような気持ちになった。今の声の主は誰なのだろうか…。自分の気のせいだろうか?そう考えているとせなのピアノは終盤に持ちかかっていた。
(この音色も懐かしく感じる…わたしはせなさんのことを昔から知っていたのだろうか…懐かしい感じはするけれど思い出せない…)
そしてせなが最後の音を弾き終えた。そして凛の方を振り返って微笑んだ。
「せなさん凄いですね。この曲はなんていう曲なんですか?私…小さい頃に聞いたことがあるような懐かしい感じがするんですけど思い出せないんですよ…」
せなは微笑みながら答えた
「この曲には名前はないんだ。僕ともう一人…一緒に作った曲だからね…曲名はないんだ」
凛はとてもせなの事を知りたい衝動に駆られた。そのもう一人の人物からこの曲を聴いていると確信したからである。確実な根拠なんてなかった。けれども凛の中では絶対的であった。
(せなさんの話を聞けば私は何か思い出せるかもしれない…)
そう思った瞬間にはもう凛は口を開いていた。
「せなさんの事が知りたいです。せなさんの…お話が聞きたいです。」