絶望
ピンポーン
「はい」
「あ、こんばんは!聖です」
聖は息を整えながら橘家の呼び鈴の向こう側にいる凛の母、美奈江の声に向けて挨拶していた。
「あら、ちょっと待っててね!」
いつも通るはずの道を走って橘家まで辿ったが凛の姿は見えなかった。
(今日は白いワンピースを着ていたから夜でも目立つと思ったんだが...凛の方が早かったのか…)
少し裏の路地が騒がしいのには気付いたが一刻も早く凛の元へ行きたくてあまり気にせずそのまま走ってきた。
(あいつ、本当ピアノのことになると足速いよな…普段どんくさいくせに…)
そう考えながらも自然と姿を思い出すだけで微笑ましくなる。
(これだから凛はほっとけない。)
口を開かなければ美少女で知らない人は歩く先々で振り返るほどだが口を開けば口は悪く少し天然が入っている。見た目とのギャップが激しいのだ。しかし別に聖は見た目を好きになったわけではない。凛のピアノに真剣に向き合っているところや何にでも一生懸命なところに惹かれたのだ。気付いたら好きになっていた。笑顔や仕草、怒った顔や泣いた顔。この子とずっと一緒にいたい、そう思った。告白は自分からした。
(あの時の返事はー…)
そう考えていたところで玄関の扉が開く。聖はハッと我に返った。
「聖ちゃん、いらっしゃい!どうぞ上がって!あらあら、スーツ姿の聖ちゃん久々に見たわね!サマになってるじゃない!夕飯も出来上がってるしよかったら食べながら中で待ってて!」
その言葉を聞いてフッと笑みがこぼれた
「ありがとうございます。じゃあ、頂いていきます!おばさんの料理美味しいから!」
そう言って玄関に歩を進めると玄関に立ってた美奈江にバシっと背中を叩かれ
「もう聖ちゃんったら!本当口がうまくなって〜」
と笑顔で話している。
「いえ!本当におばさんの料理は美味しいですからお邪魔しまー…」
玄関に足を踏み入れると聖は違和感に気付いた。
(凛の靴がない…)
聖は先立って入っていった美奈江を呼び止めた。
「あっあの!」
美奈江が不思議そうな顔で振り返った。
「ん?どうかした?」
一瞬裏の路地で騒ぎになっていたことが聖の頭に過る。心に不安がどんどん広がっていった。
(いや、きっと違う…凛にはあれほど言って聞かせた。大通りを通れって…裏路地は危ないからって…)
そう考えながらも聖の心は穏やかではなかった。不安をかき消すように聖は口を開いた。
「凛は…ピアノ弾いているんですよね?ピアノ室にいるんですよね?」
美奈江は不思議そうな顔をして口を開いた
「聖ちゃん、今日まだ凛帰ってきてないわよ?珍しいでしょ?この時間になったら、ただいまも言わずピアノ室に走っていくのに。ま、そのうち帰ってくるわよ中で待っ…」
美奈江がまだ言葉を発しているうちに聖は走り出していた。遠くの方で聖ちゃん?!と美奈江の声が聞こえたが聖は凛のことであたまがいっぱいだった。
(凛、まさか事故にあったりしてないよな?もしかして誰かが事故に巻き込まれたとかで、あいつ優しいから付き添ってたりするのか?凛…どうなんだよ…)
聖は走りながら胸ポケットにあるスマートフォンを取り出し凛に電話をかけた。
(お願いだ…出てくれ…)
呼び出し音の後には無機質なアナウンスが響き渡った
「ただいま電話に出ることはー…」
(くそっ…!)
聖は乱暴に通話を切り携帯電話を握りしめたまま裏路地の人だかりのあるところへ飛び込んでいった。
街灯に照らされておびただしい血の量が道に流れていた。既に警察が来ていて奥の方には一台の車があり手前の方でテープが貼られ立ち入り禁止になっている。それを呆然と見ているとある一人の声が耳に入った。
「可哀想にね…まだ若そうで綺麗なお嬢さんだったのに…車の不注意でしょ?いやねえ…本当」
聖の心臓がドクンと波を打った。既にその車に撥ねられた女性の姿はない。
(凛じゃない…凛じゃない…凛じゃ…)
そう言い聞かせている時に警察の人がきた。
「皆さん早くここから立ち退いてください。作業が進みませんから」
それを聞いた近所の住人達や野次馬していた人間がぞろぞろとつま先を返していく。聖はとっさにその警察官の腕を掴んでいた
「なんですか?」
警察官の冷たい声が耳に届いた。掴んだ腕を震わせながら聖は精一杯の力を振り絞って口を開いた。
「轢かれた女性って……どんな…」
それが今の聖にとって精一杯の言葉だった。
「君は知り合い?君と同じくらいの歳の女性が車に撥ねられて意識不明の状態で先程病院に搬送されていったよ」
「名前は?!特徴は?!」
聖は必死に警察官の腕に力を込めながら尋ねた。警察官もただ事ではないと思ったのか眉をひそめそして口を開いた
「身元の事は個人のプライバシーに反するから言うことはできないが…長い髪をした白いワンピースを着た女の子だったよ。」
それを聞いた聖は警察官の腕を離した。それを見た警察官は聖の方を気にしながらも職務に戻っていった。
(凛…)
聖は確信した。目の前に広がる血の海が凛のものだと言うことを。目の前が真っ暗になっていくような世界の色付いていた物の色が一つずつ消えていくような、そんな感覚に陥った。
その時手に持っていた携帯が震え始めた。着信表示を見ると橘家になっている。
(もしかしてたまたま似た格好をした女性が轢かれたのではないか?凛は家に帰ってきたのでは?)
不謹慎ながらもそんな淡い期待を抱いて聖は電話の通話ボタンを押した。
「はい」
「聖ちゃん?!」
電話の向こうは先程話していた美奈江だった。しかし美奈江の声色が違うことに聖はすぐに気付いた。聖の淡い期待は直ぐに打ち砕かれた。
「聖ちゃん、落ち着いて聞いてね、凛が事故にあって、意識不明の状態で病院に運ばれたらしいの。今から私たち病院に向かうからー…」
「俺も行きます。今すぐ戻ります。」
聖はそう言って橘家へ向けて全速力で走って行った。心臓の音がやけにうるさい。
(凛…凛…無事だよな?!凛…どうか無事でいてくれ…)
「「聖、冗談でしょ?」」
あの時告白した時の凛の信じられないと言った第一声が回想された。
(凛…お前の方こそ…冗談だよな?)
きっと大丈夫、きっと大丈夫、きっといつものように笑顔で凛が迎えてくれる…
聖はそう言い聞かせながら橘家に辿り着いた。