ローグシャーの朝に
気づけばいつも、僕は異国の空の下にいる。僕は乗り継ぎバスを待ちわびていた。まばゆい星空の丘、ローグシャーへの数少ないアクセス方法がこのおんぼろ路線というわけだ。
さめざめと雨が降るどんよりとしたこの時期で唯一の晴天日に当たったため、星空を期待してやってきたが、その淡い期待はバスを降車するとあっけなく打ち砕かれた。
どこまでも続く、厚く垂れ下がる灰色の雲。天気予報が外れたのだ。意気消沈し、バス停の長椅子でうつむいていると声がかかった。
「旅の人かい?」
顔を上げると、チェックの服にオーバーオール姿のふくよかな老人が立っていた。オレンジのバックパックを見て話しかけてくれたのだろう。
「ええ。星空を見に」
「それは残念だったな。好天は明日にずれ込むらしい」
「そうですか…」
「どうだい。出会ったのも何かの縁だ。泊まるところがないならはうちに来ないかい?」
「いいんですか?」
「ああ。せっかくうちの村に来たんだ。せめて、いい思い出を残して帰ってもらいたいからね」
おじいさんに連れ立っていくと、丘の上の大きなログハウスが見えてきた。
「あれが我が家だ。どうだ。雲が近いだろう。それに、あっちを見てくれ。麓の街がよく見えるだろう。気分は仙人さ」
丘からは湾へと続く平野、支流に沿って立ち並ぶ市街地がよく見えた。それにしても、分厚い雲の圧迫感気持ちをさらに沈めさせる。
「まぁ、何にもないところだがゆっくりしていってくれ」
「はい」
屋内に入ると、すぐにさめざめとした雨が大きく音を立て始める。家の前に設置されている木製のベンチは雨に濡れ、窓ガラスを伝う雨粒は次第に流線となる。曇り空だったため、まだ晴天に一縷の希望があったが、これでは完全に晴れ間は現れないだろう。僕はため息をついた。
窓の外を眺めるのをやめ、おじいさんと雑談を始めた。
「おじいさんは一人で暮らしているんですか」
手芸が趣味だというおじいさんは、手元の虫眼鏡に目を向けながら話してくれる。
「ああ、今はな。つい五年前までは妻がいたんじゃが、先に旅立ってしまったわ」
「そうですか。なんだかすみません」
「いや、いいんじゃ。そんなことより、お前さんも”ひとり”なんじゃないのか?」
おじいさんは僕に同じ匂いを感じていたらしく、声をかけてくれたのだということだった。僕は旅する経緯をおじいさんに話した。
「…生涯を共にしようと誓った彼女がいました。奇遇という言い方も変ですが、五年前に若年性の病が原因でこの世を去りました。それから、一人で旅に出るようになりました。旅行好きだった彼女の残した手紙には、私の分まで景色を見て回って欲しいということが書かれていました。僕は彼女の遺志をくみ、休みを見つけては世界中を見て回るようになりました」
「そうかい。立派じゃな。ちゃんと彼女の願いを叶えておるなんて。ただ…」
「ただ?」
「今回は、見せたいものが見せてあげられないのは申し訳ないのう」
おじいさんは、残念そうに窓の外を見つめる。
「いいえ。おじいさんのせいじゃありませんよ」
「残念ながら、明日までは晴れ模様は見込めんわい」
夢を見た。昔、彼女と東南アジアの動物園を訪れた時の思い出だった。
『あなたはいつも簡単に諦めすぎ。もう少し、図々しく行かなきゃダメよ!』
「そうは言ったって、もう閉園時間十分前じゃないか。今から入るのは迷惑だよ」
珍しく彼女と口喧嘩をした夢。最近よく見る夢の一つだった。
『その”十分"を見なかった後悔は一生残るのよ。もしかしたら、素敵なものがその”十分”で見られるかもしれない。たとえ、十分に高いお金を支払うことになろうとも、二度とできないのならば、私はお金を惜しまないわ』
そう言い、園内に入っていく彼女の後ろ姿を見送るところで、いつも夢から覚める。
時計は午前四時だった。空は相変わらず重い雲に覆われていたが、雨は上がっていた。今回も簡単に星空を諦めていた僕の心の奥底には、彼女の言う後悔が少なからず芽生えていたのだろう。目が覚めてしまったので、静かに外の生乾きの木製のベンチに座り、ぼうっと灰に染まる空を眺めた。
「なんじゃ、諦めてなかったのか」
「う、うわっ!」
急に後ろから声がかかり、僕は飛び上がった。そこには、おじいさんが立っていた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃろ」
「やめてくださいよ。幽霊かと思ったじゃないですか」
「お前さんを恨む要素なんてないわい」
そう言いながら、僕の隣に腰掛けた。
「朝まで待つつもりか?」
「そうですね。ここまで来たんです。もう少しだけ粘ってみようと思います」
「そうか。風邪、ひかんようにな」
そう言うと、朝の準備があるからと、おじいさんは室内に戻っていった。
彼女の言う、最後の”十分"の意味をしばらく考えていた。誰しも時間に限りがあり、明日がわからないのならば、今、この瞬間にもっと執着すべきだと言いたかったのだろう。わかっていたつもりだった。しかし、言葉に反し、彼女と共に旅をし、彼女のその姿を見てきたはずなのに、一つ一つの旅の質よりも旅の量にこだわっていた。たくさんのものを見られるだけ見ておくことこそが、彼女への弔いになると信じて。
でも、彼女の言っていたことを僕は勘違いしていた。見られる期待が薄いのものはやめにしておいて、代わりのものをたくさん見よう、そう考えていた。一人になってからも、根本的に僕は変わっていなかったのだ。
もう少し、もう少しだけ。今に期待することに意味はあるのだろう。それが、彼女が本当に言いたかったことなのではないのか。だからこそ、五年経った今でも彼女が亡霊として夢に出てくるのだ。
きっと、美しい空は広がる。朝までの残り時間に、僕はかけてみることにした。
うとうとしていたらしい。徐々に雲が白色がかっていた。朝が近いようだ。やけに雲の動きが早く、雲が滞留しながら左から右へと流れていく。その時だった。湾岸からまばゆい光が反射し、眩しさに目を覆った。
太陽だ。雲を割くように平野を照らし始め、徐々に丘に向かって光が昇ってくる。
たちまち、まばゆいオレンジの草原が眼前に広がった。
「わしの予報も外れたようじゃな」
嬉しそうに笑むおじいさんはテーブルを運んでくると、テーブルクロースを敷き始めた。たっぷりの野菜、こんがりとした色目のベーコン、ぷりっとした目玉焼き、香ばしい小麦の薫るクロワッサンをテーブルに並べていった。最後に熱々のコーヒーを白いカップに注ぐと、僕の隣に座った。
「さて、朝食にしようかの。わしは、星空よりも朝焼けの方が名物じゃと思っているが、どうじゃ?」
「そうですね、最高です」
「あきらめなかったお前さんの勝ちじゃな!」
ええ、と僕は言ったが、彼女が勝たせてくれたように感じられて仕方がない。僕はようやく、彼女の思いを正しく理解することができたのだから。
ふわりと香るコーヒーを一口含む。冷めきっていた体の感覚が、徐々に蘇ってきた。テーブルを輝かせる温かな陽射しの中、僕はようやく、彼女が見ようとしていた素敵なものを見られるようになったのだろう。
イメージはイギリスの一地方です。朝焼けの中で、暖かいコーヒーを飲んでみたいなと思って書きました。
こんな感じで旅の話が続きますが、よろしくお願いします。




