星鳥は、はばたく
鳥になった主人公のお話です。
わたしは既に1度の人生を終えた。それは人として生を受け、不幸な出来事で命を落としてしまった。
そして、現在。
わたしは『人類』ではなく『鳥類』として生を受ける。
*
「見えるか、アトリア。あの行列はブリエンヌ家だ。令息と令嬢が、この街に休暇で来ているんだぜ」
わたしを肩に乗せ、目の前を通る馬車や馬に乗った人たちを指差しながら、飼い主であるティメオは説明してくれた。
わたしは鳥である。でも、前世の記憶というか前世の人格(この場合は鳥だけど)は残っているのだ。つまり、鳥になった人。
はじめはびっくりしたものだ。目覚めたらぼやけた視界でまだ少年だったティメオがこちらを見ていたのだから。あなたは誰、と問いかけようとしてもわたしの口(もとい嘴)から発せられるのは「ピィ、ピィ」と弱々しい鳴き声だけ。慣れるまで、というか自分の状況を受け入れるようになるまで暫くかかった。
今は育ての親でもあるティメオと仲良くやっている。
ティメオとわたしは、このオールトの街から少し離れた人気の少ない森の中に住んでいる。こうしてたまに食糧やら日用品を買いに来たり、仕事の依頼を受けるために街に降りたりするのだ。今日はたまたま、休暇でこの街に訪れたブリエンヌ家御一行とばったり会ったわけである。
目の前を仰々しく通るブリエンヌ家は、この地帯でそれなりに有名な伯爵家である。特に有名なのが、ブリエンヌ家次期当主であるジョフロワ・ド・ブリエンヌという少年がこれまたかなりのわがままなのだとか。自分が欲しいと思ったものは、どんなものであれ、どんな方法でも手に入れないと気が済まない性質らしい。そのくせ、手に入った途端飽きてしまうという恐ろしい人間だ。
よくティメオはそのお坊ちゃんの話をするとき、わたしが攫われないようにしないといけない、と口走っている。あまり分からないが、どうやらわたしは珍しい鳥らしい。生まれた時からこの姿なので、実感はないがハンターなどに狙われやすいそうだ。
それはそうと、ブリエンヌ家御一行の行列はまだ続いている。その中でも一際装飾が豪華に施された馬車が見えた。きっと令息達を乗せた馬車だろう。ふと、馬車の窓が開いている事に気付く。
中からゆったりとした金髪をツインテールにし、好奇心旺盛そうな緑の瞳をきょろきょろとせわしなく動かしている少女の姿が見えた。小さなシルクハットのようなものを頭に乗せている。服装もとても上品なもので、お姫様のようだ。
「ピィ」
――あの子は誰? そう聞いたつもりで鳴いた。
ティメオは分かったのか、答えてくれる。
「あの方は、ジョフロワ様の妹君クリステル様だ」
ということは、ブリエンヌ家の令嬢というわけか。
クリステル様はとても幼い顔立ちをしているが、どこか美しさを秘めた蕾のようでもあった。成長すれば将来、大層な美人になるだろう。
反対にムスッとした顔で窓から外を眺めている少年も見えた。言わずもがな、ジョフロワ様だろう。妹のクリステル様と違い、随分と生意気そうな顔をしている。クリステル様と同じ金髪だが、海のような青い瞳をしていた。憂いを帯びたような、退屈そうな目。目に映るもの全てを見下したような、そんな瞳だった。
(……?)
ふと、目が合ったような気がした。気のせいか、そう思った時、急に強風が吹いた。
「きゃあ!」
窓から顔を出していたクリステル様の小さな帽子が、風にあおられ飛んで行ってしまった。軽い素材なのか、ふわりふわりと遠くへ行く。
「アトリア!」
ティメオがわたしの名前を呼んだ。わたしは彼の声を合図に翼を広げ、羽ばたくと気流を掴みそれに乗る。鳥のわたしは空だって自由に飛べるのだ。帽子を足で掴み、クリステル様のところへ持って行く。
クリステル様は不思議そうに見ていたが、帽子を受け取ると満面の笑みで、
「ありがとう、綺麗な鳥さん」
と言ってくれた。あまりにも笑顔が可愛かったので、頬ずりした。
ティメオは腕を止まり木のように水平に固定して待っている。わたしは、出来るだけ傷付けないよう彼の腕にそっととまった。
ふと、馬車の方を何気なく見やる。
ジョフロワ様がわたしをじっと見つめていた。まるで絡みとるかのような、その視線にわたしは思わず固まる。
「さすがアトリアだ!」
ティメオの手がわたしの頭を撫でる。
きっと気のせいだ。わたしはそう思い、ティメオに甘えた。
*
ティメオとはわたしが卵から孵化した時からずっと一緒だ。多分、かれこれ10年くらいは一緒にいるのではないだろうか。わたしの種族は鳥類の中でも、かなり長生きするらしい。鳥年齢10歳であるわたしは、人間と同じくこの種族の中でもまだまだお子様なのだ。
勿論、親はいるがわたしにとっての親はティメオだ。わたしとティメオにある絆こそ、種族を超えた信頼関係とも言える。
そんなわたし達は、協力し合って生計を立てている。ティメオの基本職業は情報屋。その他にわたしと協力して狩りをしたり、わたしが手紙を運んだり色々やっている。
わたしとティメオは、親子でもあり、友人でもあり、1つの家族だ。
そして、今日もわたし達に仕事を依頼してきた人間がいた。
ブリエンヌ家がオールトの街に休暇で訪れたと知った、オールトでもトップクラスの大商人がお近づきになりたいと手紙を出したがっている。
「この手紙をその鳥に運んでもらいたいのだ」
大商人は短い指に、大きな宝石を誇らしげに見せつけるような指輪を幾つもつけていた。見せびらかすかのように、わざと手を組んでティメオに話しかけている。
「郵便でも間に合うでしょう。ジョフロワ様達は一月ほどこの街に滞在するおつもりですよ」
ティメオが厳しく問い詰める。しかし、大商人は分かっていないな、と言いたげに首を振った。
「我輩もそうしたいのは山々だ。昨日のうちに郵便で届けたのだが、跳ね返されてしまってな。こっちは休暇で来ているのだからそうしたことは避けてもらいたい、と」
それはそうだ。向こうからすれば休みの間にも、仕事というかそういった関係の手紙が来るのでは休暇が台無しになってしまう。
「で、うちのアトリアを伝令に、と」
「そうだ。その鳥は珍しい色をしているし、随分綺麗だからなぁ。普通の伝書鳩で手紙を送るより、見てもらえる確率は高まると思ってな」
しかし、この金持ち。正直に物を言い過ぎだと思う。それがむしろ、清々しい。
「……そんなくだらない私欲の為に、うちのアトリアを飛ばすわけにはいきませんね」
ティメオは怒りをはらんだ声音で拒絶した。
彼はわたしが見世物のように扱われるのを何よりも嫌う。昔、サーカスの見世物小屋にわたしを売らないかという話を持ってこられた時は、これ以上ないくらい怒っていた。相手の顔が膨れ上がるほど殴り続けていたティメオは怖かったものだ。
普段、温厚な人がキレると怖いのはいつの時代もそうなのかもしれない。
「そう言うな、坊主。報酬金はたんまり払うぞ。そちらの言い値で支払おうじゃないか」
ティメオは鋭いまなざしを向ける。わたしは止まり木から飛び立ち、彼の肩にとまった。
「ピィピィ!」
――わたしは気にしていないから、その仕事受けようよ。
「アトリア……」
「ピィ!」
――大丈夫だって!!
励ますように羽を広げる。わたしの羽毛が当たってくすぐったいのか、ティメオは頬をかきながら笑った。
「……では商談成立です。こちらの言い値は10万トトルです」
「伝令を頼むのに10万か……まあ良いだろう」
お金は大事だ。
ティメオは大商人から手紙と、ブリエンヌ家が所有している別荘の住所が書かれたメモを受け取る。そして、札束が詰め込まれた鞄も。大商人は嬉しそうに後は頼んだ、と言い残すと使用人を連れてそそくさと帰って行った。
「ブリエンヌ家の屋敷はこの森から少し離れた西側だ。チュルス湖の近くにある」
ティメオはわたしを腕にとまらせ、壁に貼り付けた地図を指差す。
この家からそう遠くない。これならすぐに帰ってこれそうだ。
「アトリア、頼んだぞ」
足に手紙を巻き付け、窓を開け放つ。そして、わたしはティメオの腕から離れると森の上を飛んだ。
*
ブリエンヌ家の屋敷はそう遠くない。心地いい風に身を任せて空を飛ぶこと数十分。
わたしは目的地に到着していた。飛ぶ速度が他の鳥よりも速いのも、わたし達の特徴らしい。
しかし、窓が多すぎてどこから入っていけばいいか分からない。これは人気のある場所を探し当てないといけない。
わたしは屋敷を上空でぐるりと一周する。ふと、人影が見えた窓があったので急降下し、窓ガラスを嘴でつついた。何事か、と慌てて駆け寄ってきた使用人が窓を開ける。
その隙をついて部屋の中に入り込んだ。どこかとまる場所はないか、と探しようやく椅子の肘掛部分に落ち着いた。
「何でしょう、この鳥……」
窓を開けた使用人がわたしに近づいてくる。初老の男性だ。
わたしは初老の男性に向かって、手紙が巻かれている足を見せた。
「伝書鳩、にしては大きいですね」
「どうした、じいや」
まじまじと見る男性に、まだ幼さも残る声が聞いてきた。
「ああ、坊ちゃま。窓から不思議な鳥が入って来まして……手紙を預かったところです」
「そうか」
坊ちゃま、ということはあのワガママで有名なジョフロワ様か。
わたしは逃げようと思い、羽ばたこうと羽を広げる。
しかし――。
「ああ、この鳥か……うむ、非常に美しいな」
どこから出てきたのか分からないジョフロワ様の手が、わたしの頭に触れた。
わたしの姿を賛美しながらこの坊ちゃん、飛ばないように触れる手の力を強くしている。おかげでわたしは首が埋もれそうだ。
「なんという名前の鳥だ?」
「申し訳ございません、このじいやも存じ上げておりません」
手紙を読みながらじいや、と呼ばれている男性は答える。
ふと、ジョフロワ様を見る。
ああ、この瞳。わたしを欲しくて、欲しくてたまらない、といった輝きを放っている。
時すでに遅し、というわけか。だけど、残念だ坊ちゃま。わたしには、ティメオという男の子がいるのでね、君のものになるつもりはない!
そう言いたくてわたしはひとしきり鳴き喚いた。
そして、ジョフロワ様の手から逃げるようにわたしは羽ばたく。去り際にちらりとジョフロワ様を見る。
そこには、獲物を見るような狩人の鋭い眼光があった。
わたしは身震いして急いで家へと飛んで戻っていった。
*
「アトリア、どうしたんだ? 昨日、戻ってきてから元気がないけど……」
ティメオは心配そうにわたしの大好物であるベリーを見せる。
あの後、わたしはジョフロワ様の視線に恐怖を覚え、一目散に家に帰った。ティメオの傍にいても、あの鋭いまなざしを忘れることが出来ずにいた。まるでハンターかのような瞳。思い出しただけでもぞっとする。
ティメオの傍で眠ろうとしても眠れず、食欲も全く出ず様子が変わったわたしをティメオはずっと心配してくれていた。申し訳ない、という気持ちで胸がいっぱいになる。
「何かあったのかな……病気か?」
ティメオは優しくわたしの羽毛に触れてくれた。温かく大きな手。この優しい手が大好きだ。
「……ピィ」
何でもないよ、と言おうとした時だった。
扉がノックされた。
「ティメオ殿!」
見知らぬ声だ。怪訝そうに扉の方を見るティメオ。
「何か用でしょうか!」
「出て来てくれないか、話はそれからだ」
ティメオはそう言われ、渋々扉を開けた。
扉の前にいたのは何やら上品そうな服装をした男性2人組だった。この辺りでは見ない顔ということは、ブリエンヌ家の使用人だろう。
案の定、男性達はブリエンヌ家の使用人だった。主がティメオを呼んでいるから屋敷に来るように、とそれだけ告げた。怪しむティメオに、馬車を待たせてあるから何も心配はいらない、とも言う。つまり、早く来いということだろう。
「俺が何かしたか?」
「いいや、何もしていない。だが、招かれたのはティメオ殿だけではない」
「……どういうことだ?」
一瞬でティメオの声音が変わる。
「そこにいる鳥も一緒に、ということだそうだ」
わたし達はそれから有無を言わさず、馬車に押し込められた。
「何なんだよ……!」
苛立つティメオ。無理もない、彼は何も教えられずに馬車で連れて行かれているのだ。わたしは昨日の出来事があったから、これから起こることが何となく分かる。
馬車の中は意外と広くて、ティメオ1人だけ乗るには広すぎた。わたしはパタパタ、とティメオの周りを飛んだ。
何だか今は飛びたい気分だったのだ。多分、自分でも落ち着けなかったのだろう。
ティメオはわたしを肩にとまらせると、よし落ち着け、とそっと撫でた。
その手が物凄く安心出来てわたしは目を瞑る。
「フッ……アトリアは可愛いな」
ティメオの吐息が羽毛にかかる。目を開けると、彼のヘイズルの瞳が真っ直ぐわたしを映していた。
「アトリアの瞳は本当に綺麗だな。こうしてじっと見ると、本当に不思議だ」
「ピィ!」
――ティメオの瞳もね。
「ありがとう、アトリア」
いつの間にかわたしの緊張はほぐれていた。やっぱり、ティメオの存在が大きい。わたしは腹をくくった。これから何が起ころうともわたしは彼の傍を離れない。この不吉な感じが胸を巣食っていても。
馬車が止まった。ブリエンヌ家の別荘に到着したのだ。馬車から降ろされ、大きな門を辿り両開きの重厚な扉を開けて中に入る。
幾つもの部屋がある中は使用人に案内されていないと、迷ってしまうものだった。方向音痴ではないわたしでも少し訳が分からなかったくらいだ。
それから1つの部屋に通された。そこには――
「よく来たな、ティメオ」
「貴方は……」
波のようにうねる金髪に、見下したような青い瞳。どこか憂いを帯びているが、今は狩人のような鋭い光を含んだ碧眼。
「ボクは、ブリエンヌ家次期当主のジョフロワ・ド・ブリエンヌだ。おまえも知っているだろう?」
「……はい、御目にかかれて光栄です」
ティメオは一礼した。その様子を満足そうに見つめるジョフロワ様。
「こうしておまえをボクの別荘に呼んだのは他でもない、その美しい鳥についてだ」
おまえの別荘じゃねーだろ! お父さんの別荘だろ!
と、ギャーギャー鳴くわたしを宥めながらティメオは冷静さを保とうとしながらも、冷たくジョフロワ様に返答する。
「どういうことでしょう?」
「色々聞きたいのだよ、その鳥についてね。ボクん家にある蔵書から調べてもその鳥のことは書かれていなかった。何ていう鳥なのだ?」
ごく純粋そうな色の瞳になる。単純な興味、ということだろう。
鳥になってからなのか、人間だった頃よりも随分と人の感情に目ざとくなった。特に敵意、というものには身震いするほど過敏に反応してしまう。
「ティシュタル、という名前の鳥です。鼻が利き、頭も良いので古くから人と共に狩りをしてきた種族でもあります」
「ティシュタル……名前の由来とかはあるのか?」
「はい。ティシュタルの大きな特徴でもある星空の目が星の神の使いである、ということから名づけられたそうです」
わたしの目は、紺色の水晶に銀の粒が散らばったような瞳をしている。これは「星空の目」または「ステラート・アイ」と呼ばれている。加えて、尾から生えている大きな飾り羽に、しなやかな体躯が見目麗しい、とされ貴族の間で愛玩動物として人気を誇っているそうだ。全くもって嬉しくない事実ではあるが。
そして幸か不幸か、ティシュタルという種族の個体の大抵は全身が藍色の羽毛を持っている。わたしは飾り羽以外、真っ白なのだ。アルビノ種とも言われる突然変異らしく、ますますわたしの稀少性は高まる。まあ、実感はないが。
「確かに星空の目だな……実に美しい。瞳もその姿も」
「お褒めいただき、光栄でございます」
ティメオは思ってもいない事をつらつらと言う。わたしならすぐに顔に出るだろう。いや、今は鳥だから分からないだろうが。
「ティメオ、幾らならその鳥を譲ってくれる?」
「……何ですと?」
耳を疑った、というのはこの事だろうか。ティメオの様子を見てわたしはそんなことを思っていた。わたしからすれば、何となく予想はついていた展開になった。
「ボクはその鳥が欲しい。気に入ったのだ、だから何としてでも欲しい。金なら幾らでも積んでやるから、ボクに寄こせ」
ティメオの顔が怒りで真っ赤に熟れたりんごのようになる。もしや、殴るか?
「お言葉ですがジョフロワ様。アトリアは俺の大切な友人であり、家族です。売るつもりは毛頭ありません。どうしても欲しい、というのなら他のティシュタルを飼育なさってください」
「だが、白いティシュタルはそいつだけだろう?」
「…………」
「ボクは“普通の”ものは要らないんだ。おまえが持っているそいつが良い」
ティメオの心拍数が上がっている。心臓は早鐘を打つ。汗がどっと出ている。
「そのお話は無かったことにしてください。どれだけお金を渡されても、俺はアトリアを売るつもりはない」
そう言い、ティメオは出て行こうとする。しかし、後ろから冷ややかな声が投げかけられた。
「売らない、というのなら奪うまでだ――」
それが合図かのように、部屋に控えていた使用人らしき人物がティメオに向かって襲い掛かる。体術や剣術の経験があるといっても、ティメオの反応は相手に充分な時間を与えてしまった。ティメオはあっという間に距離を詰められ、腹を蹴られ、両手首を後ろに縛られてしまった。
助けようとわたしも応戦するが、網を持った使用人にまんまと捕獲されてしまう。
「そいつを牢へ連れて行け」
「アトリアに触るな! 止めろ!」
叫ぶティメオを見つめながらわたしは鳴くしか出来なかった。鳥かごに入れられ、もう自力では脱出できない。今日ほど……こんなに鳥であることを悔いたことはない。わたしが自由に動かすことが出来る指を持っていれば。わたしが言葉を発せられる口を持てば。
しかし、悔やんだところで何も出来ることはない。ティメオは連れ去られ、わたしは白に映えるだろう黒い鳥かごの中に入れられた。
「欲しいものが手に入らないわけがないんだ」
ジョフロワ坊ちゃんの言葉に絶望する。飽きられるまでわたしは鳥かごの中の鳥なのか。
「ピィピィピィ!」
――ここから出しなさいよ!
なんて言葉も通じるはずもなく。わたしの鳴き声をうっとりとジョフロワ様は聞いていた。
*
その日の夜。わたしは何度も鳥かごに体当たりをしたが、何も出来なかった。羽は抜け、底にはふわふわの白い羽毛が数枚、落ちている。
ティメオは無事なのだろうか。酷いことはされていないだろうか。心配でたまらない。翼は痛み、動かすのも鋭い痛みを伴う。
「ピィ……」
――ティメオ。
「あの子に会いたいの?」
独り言のつもりだった。しかし、反応があった。
声のする方を見ると、小さな女の子が立っていた。豊かな金髪をツインテールにし、悲しそうな色を浮かべた、森のような緑眼を向けている。ジョフロワ様の妹君、クリステル様だ。
……いや、それより。
わたしの言葉が分かるの?
「ごめんなさい……お兄様があんなだから私も誰も止められなくて」
彼女は申し訳なさそうに呟いた。いやいや、お嬢さん。貴女のせいじゃないよ。悪いのはそう、彼をあそこまで放っておいた環境なんだ。項垂れる彼女を慰めたくてわたしは話しかける。
「ピィピィ!」
――お兄さんとは仲が良いの?
この時はまだ通じるとは思っていなかった。
「いいえ。でも仕方のないことだわ、私はお兄様とはお母様が違うの。私のお母様は妾だから……」
こんな明るい子にそんな暗い事実があったとは。
クリステル様は鳥かごの中に手を入れる。わたしは自分からすり寄っていく。
「どうかお兄様を恨まないであげて欲しいの」
「ピィ?」
――どうして?
「お兄様はね……寂しいお方なのよ」
「ピィ……?」
――寂しい……?
「そう。お兄様の母親はもう亡くなっていて、お父様はお兄様に目をかけずに私のお母様ばかり目をかけていて。今のワガママな性格はお父様の気を引きたかったからなのよ」
わたしはてっきり周りが甘やかしているだけだと思っていた。でも、それだけは無かった。わたしの知らない、複雑な事情がジョフロワ様にはある。
だけど。
「ピィピィ!」
――こんなことするのはいけないことなのよ!
わたしの言葉にクリステル様ははにかんだ。
「ええ、私もそう思うわ」
そう言い、彼女は鳥かごの入り口を開けた。そして手を差し伸べてくれる。
柔らかい彼女の手を傷付けないよう、細心の注意を払ってとまった。
優しい緑の瞳。クリステル様がわたしの言葉を理解できるのは、彼女が芯から優しい人間だからだろう。動物と話が出来る人はいるけれど、極稀だ。純粋で優しい、混じりけのない人しか動物とは話せない。クリステル様は純粋で優しい少女だ。
「申し訳ないけれど、貴方の飼い主さんが閉じ込められている牢屋の鍵は私も知らないの……ごめんなさい」
「ピィ」
――ありがとう。
「だけど、牢屋の鍵を誰か持っているかは私も探せるわ!」
クリステル様はそう言い、彼女の小さな頭にはあまりにも大きすぎる帽子を手に取った。
「この中に入って」
言われた通り、彼女の頭の上にとまる。上から帽子が被せられて視界が遮られた。
「私が合図をしたら出てきてね」
「ピィ!」
扉が閉まる音がした。廊下に出たのだろう。糞をしないよう気をつけないと。
「あ、じいや!」
彼女の声がくぐもって聞こえる。じいや……あの老執事か。
「これはクリステル様。如何いたしましたかな?」
穏やかな老人の声が聞こえてくる。
「さっきの男の子はどうしているのかしら?」
「ああ、彼は地下牢に捕えられておりますよ」
「鍵はお兄様がお持ちになっているの?」
一瞬、言葉に詰まる老執事。怪しまれただろうか。
「いえ、鍵はわたくしめが」
「その鍵、少し借りることは出来ないかしら?」
「それはなりません。いくらクリステル様といえど……」
断る老執事にクリステル様は食らいつくように言う。
「お兄様には私に無理矢理に取られた、って言えばいいわ。怒られるのは私だけで充分。何なら本当に無理矢理、貴方から奪っても良いのよ?」
クリステル様はそう言いながら少し帽子を浮かせた。わたしがいつでも出られるように、だ。きっと言葉通り無理矢理に奪い取るつもりなのだろう。
老執事はそんな脅しに対してゆっくりと頷いた。
「……頼みましたぞ」
「ありがとう、セバス」
人が去った気配を感じ取り、わたしは帽子から出ようとする。察した彼女が帽子を外してくれた。
クリステル様の手には金色に輝く鍵があった。
「……後は頼んだわ。牢屋までは私も行けないの。でも大丈夫、貴方は賢明で友達思いな鳥だから」
「ピィ!」
――クリステル様、ありがとうございます。
わたしは彼女から鍵を受けとる。器用に足で掴み、羽ばたいた。牢に向かう前に、彼女を見やる。
縋り付くようなその緑の瞳に、わたしは返事をするように大きく羽音を立てた。
牢屋の場所が分からなくても、ティメオの匂いを辿ればいける。ティシュタルの嗅覚は優れているのだ。
まるで道しるべ、と言わんばかりのティメオの匂いの筋を辿る。ついに薄暗い階段が現れた。こんな屋敷の中で急にいかにも『怪しげ』な階段をよく作ったものだと思う。普通、扉か何かつけるものだと思うのだが。
それはさておき、何もないのは非常にありがたい。鳥であるわたしは大きな扉は壁同様だからだ。わたしは暗い階段の空中をゆっくりと飛ぶ。屋敷の中は風が通らないので、何度も羽ばたかないといけない。この羽音で見張り番が気付くことが何より怖かったが、杞憂に終わった。見張り番がいなかったのだ。
ジョフロワ様って意外とお間抜けさんだったりして。
そんな考えを振り払い、目をこらす。地下牢なので光が届かないため、ランプが唯一の光源だ。しかし、鳥であるわたしに暗さも何も関係ない。夜目が利くからだ。
ティメオは一番奥の牢屋にいた。
「ピィ!」
彼は牢屋の隅の方でうずくまっていた。顔を伏せ、項垂れる様子は心が痛くなる。
「ピィピィ」
――1人にしてごめんね。
「……アトリア、どうして」
再会の喜びはここを脱出した後だ。わたしは足で掴んでいる牢屋の鍵を格子越しに渡す。
「鍵を持って来てくれたんだな」
心底嬉しそうにティメオは笑った。
ティメオはそっと鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと開けた。音を立てないように扉を開けると、わたしに抱き着くように両手で包み込む。
「よくやったぞ、アトリア! ああ、翼を傷めてまで……」
「ピィピィ!」
わたし達は束の間、再会を喜び合う。そして、ランプを拝借し暗い地下牢の階段を上がった。
廊下に出たところでティメオがわたしに話しかける。
「アトリア、あの坊ちゃんの匂いが分かるか?」
「ピィ」
――うん。
「辿ってくれ」
それはジョフロワ様にわざわざ会う、ということなのだろうか。
このまま逃げてしまえば気付かれる前に去れる可能性が高いし、何より安全だ。今ここで敵の親玉に会うというのはどういうことなのだろうか。もしかして、自分達をこんな目に遭わせた仕返しをするというのだろうか!?
可愛い兄弟、そんなことをしても貴方が傷付くだけだ。
しかし、わたしの予想とは異なりティメオは理由を話してくれる。
「俺さ、牢屋に入れられていた少しの間ずっと考えてたんだよな。あの坊ちゃんがどうしてあそこまでワガママなのか、って。ここまで運んできた使用人にも聞いた話、どうやら父親に全く相手にされていなかったからだそうだな。ちょっと同情、というか可哀相だなって思えてきてさ……」
取り繕うようにティメオは腕を振りながら続けた。
「だけど、こういうことは良くないってこと、誰かが怒らないと! あの子には今まで叱ってくれる人がいなかったんだ。だから俺がきちんと怒ってあげようと思う」
真っ直ぐなヘイズルの瞳。彼の目はいつも揺らぎない。固い決意を秘めた瞳にわたしは吸い込まれるように、見つめる。
「アトリア……坊ちゃんの所に連れていってくれ」
ティメオは昔からそうだった。人が好くていつも笑顔で。
きっと、父親から見向きもされていないジョフロワ様と自身の境遇を少し重ねたのだろう。
「ピィ!」
わたしは一鳴きすると、ジョフロワ様の匂いを辿っていく。甘い花の匂い。
ワガママ坊ちゃんよ、今行くぞ。
*
ジョフロワ様は1人で部屋にいた。手には本を持っている。
わたし達の訪問に露骨に眉をひそめると、読みかけの本を閉じ机上に置いた。
「おまえ……よく逃げられたな」
「ジョフロワ様に言いたいことがあって参りました」
ティメルとジョフロワ様はお互い視線を外さず、じっと見据えている。
「そんなことはどうでも良い。牢から逃げた上にボクの鳥を盗むとは……相応の覚悟があってここへ居るんだな?」
「ジョフロワ様」
ゆっくりとティメルがジョフロワ様の方へ歩み寄る。真剣な表情を崩さず、ティメオはジョフロワ様の目の前に立つ。
その時だった。
風をきるような音が鳴ったのかと思えば、ティメオの手がジョフロワ様の白いぷにぷにした頬を叩いた。
弾けるような音が鳴り響き、何が起きたのか分からないジョフロワ様とわたし。頬に手をやり、ティメオを睨みつける。その青い瞳には大粒の涙が溜まっていた。
「何をするんだ!」
頬を赤く腫れあがらせ、涙声で叫ぶ。しかし、ティメオは答えない。
「こうなったら……一生、牢屋に入れてやる!!」
使用人を呼ぼうとベルに手を伸ばそうとするジョフロワ様。しかし、その腕をティメオが強く掴んだ。
「良いですか、ジョフロワ様。人のものを盗み、自分のものにするのは立派な犯罪行為です。まして、何の罪のない人間を牢へ入れるのも。それを本当に分かっておいでですか!」
これ以上聞いたことのないくらいのティメオの怒声。
ジョフロワ様はその勢いに固まっていた。
「寂しいなら寂しい、って言えばいいじゃないですか! あんたの周りにはたくさんの温かい人がいるじゃないか! ワガママを言うことで構ってもらえるなんていつまでも思うな!!」
「……おまえ!」
対抗しようとしたジョフロワ様の胸倉をティメオは掴んだ。
「いつまでも周りに迷惑を掛けているんじゃねぇぞ! 道徳なんて貴族のあんたが率先して身につけるものだ。やっていい事と悪い事の区別すら出来ねえのか!?」
「さっきから黙っていれば次から次へと……! おまえに何が分かる!! 母様は死んで、父様にも見てもらえないボクが周りの人間を繋ぎとめておくのはボクの欲求しかないんだ! それがおまえには分かるわけがない!」
今まで黙ってティメオに怒鳴られていたジョフロワ様が初めて対抗した。顔を真っ赤に染め上げ、息継ぎも難しいほどにまくしたてる。
「分かるわけないし、分かりたくもないね。人が嫌がることを平気でするような人間に誰が付いていく? 誰が仲良くなろうと思う? ……友達が欲しいなら真っ直ぐぶつかればいいんだよ。俺に、あんたの家のことは詳しく分からないし気持ちも知らない。だけど、一人ぼっちの寂しさは少し分かる気がする」
「……おまえにはその鳥がいるじゃないか」
「ああ。だから俺はあんたのようにはならずに済んだ」
ジョフロワ様が息を飲むのが分かった。瞳を大きく見開いてティメオを映している。
「俺には昔、ちゃんと両親がいた。でもいつの間にかいなくなって、気付いたら一人だった。俺を可哀相に思ってくれたお祖父ちゃんが、1人の時も寂しくないようにティシュタルの卵をくれた。それがアトリアだ」
初めて知る事実。生まれた時から前世の記憶があったとはいえ、ティメオと出会う前の出来事なんて知らない。だからこうして、わたしの知らない彼の一部を見ることが出来て驚いている。知れて嬉しいような、知らなかったことに哀しいと思うようなそんな複雑な気持ちが湧いた。
「1人っていうのは孤独で寂しくて絶望的で、もうどうしようもないって思うんだよな。でも、いつまでも1人なわけじゃないんだ」
「……綺麗事を」
「あんただって実際そうじゃないか。そんな面倒な性格しているくせに、ここの使用人やクリステル様がいるじゃないか」
ティメオの言葉にジョフロワ様は黙った。
バツが悪そうに目を泳がせる。
「すぐ近くにいる大切な人達を傷付ける前に気付け。失ってから初めて気付くんじゃ、遅いんだぜ」
ジョフロワ様は目を見開いた。深い海の底で光を見つけたような輝きを放って。
ティメオは部屋を去ろうとし、扉の前で振り返った。
「……ジョフロワ様とは別の形で会っていれば、俺達はきっと良い友人になれたでしょうね」
「何でそんなこと……」
「だって、鳥、好きなんでしょう?」
驚きに固まったジョフロワ様を置いてティメオは屋敷を抜け出した。
――鳥、好きなんでしょう?
去り際のティメオの言葉を思い出す。あのジョフロワ様は鳥が好きだったのだろうか。
*
それから暫く経ったある日。ブリエンヌ家の休暇はもう終盤を迎え、いつも住んでいる屋敷に帰る準備に忙しくなっている時期になった。
外で小さな畑を耕すティメオを見守りながら、わたしはメロディーを口ずさむ。
「……ティシュタルは歌も謳えるのか」
ふと聞こえてきた不機嫌そうな少年の声。その声にわたしもティメオも振り返る。
「な、何だ……同時にこっちを見るな」
頬をうっすらと赤く染めたジョフロワ様が立っていた。相変わらず不機嫌そうだ。突然の来訪に特に驚くこともなく、ティメオは歓迎する。
「勿論。ティシュタルは頭が良いので」
「ふ~ん」
「あれから鳥について勉強しているのですか?」
ジョフロワ様の屋敷に囚われた日。ティメオは脱出する際にジョフロワ様が鳥好きだということを言った。根拠はどこにあるのか分からず、半信半疑でいたのだが……。この会話を聞くに、ジョフロワ様の鳥への情熱は本物らしい。
「おまえに話すことはない! そもそも何でボクが鳥好きだとかなったんだ!」
「だってあの時、読んでいたのって鳥の生態について書かれた本でしょ?」
「だああ! 言わなくていい!」
ティメオの口を押えようと暴れるジョフロワ様。
「ところで、何の御用です? まさか、またアトリアが欲しいとか言うんじゃないでしょうね」
「ピィピィ!」
――こっちから願い下げよ!
しかし、ジョフロワ様は恥ずかしそうに首を振るとゆっくりと言葉を紡いだ。
「もう休暇は終わりだからな。その……」
「はい、頑張って、お兄様」
言葉が濁るジョフロワ様の背中を愛らしい声と共に、クリステル様が叩く。
「最後に挨拶を、と思ってな……その……すまなかった。人の大事なものを無理矢理盗るようなことをして」
ティメオに頭を下げるジョフロワ様。頭を下げられている張本人、ティメオも驚愕している。
「え? ジョフロワ様? どこか具合でも……?」
「う、うるさい! せっかく謝ったのに!! もう2度と謝らないぞ」
そう言い、ジョフロワ様はそそくさとその場を去ろうとする。
「実はお兄様、ティメオさんに怒られて少し変わったんですよ。私にも少しだけ優しくなったし、ワガママも言うけど前より酷くないの。ありがとう、ティメオさん、アトリア」
クリステル様は花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「それは良かったです」
どこか照れくさそうなティメオ。
「ピィピィ」
そして、クリステル様はわたしを撫でるとそれじゃあ、また次の夏で、と手を振ってジョフロワ様の後を追いかけた。
姿が小さくなっていく2人の姿を見つめていた。
「ジョフロワ様! クリステル様! 次の夏、俺達待っていますからねー!!」
ティメオは2人に届くような声で言った。聞こえたのか、クリステル様は振り返りニコッと笑いかけジョフロワ様は一瞥した。
わたしは翼を広げ、2人の方へ飛んだ。
「アトリア、また会いましょう!」
ちょうど真下でわたしに手を伸ばしながらぴょんぴょんと跳ねるクリステル様。彼女とは対照的に、ジョフロワ様はわたしをじっと見つめるだけだった。
わたしはそんな彼の肩にゆっくりとまる。初めは怯えていたが、わたしに敵意がないことが分かるとそっと彼はわたしの羽毛に触れた。
「柔らかくて温かいな、おまえ」
「ピィ」
「すまなかったな……」
しょげながら謝罪の言葉を述べる。レアだ。
「ピィ」
――気にしないで。
わたしの言葉が届いたのか、届いていないのかは分からない。ただ彼はわたしのさえずりに微笑を浮かべるだけだった。
わたしは彼の肩から飛び立つとくるくる、と彼らの頭上を飛ぶとティメオの方へ戻る。
「また、会おうな。アトリア」
ジョフロワ様の声が確かに、聞こえた。
ティメオは腕を水平に固定して待っていてくれた。わたしはゆっくりととまる。
「次、会う時は俺たち友達だといいな」
そばかすのある顔をくしゃくしゃにして彼は笑った。わたしもつられて笑った、気がする。
「ピィピィ」
――なれるよ、きっと。
わたしはそう信じている。夏は、来る。
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