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しほりん

作者: あらい

1、理沙


「理沙はさ、あれだよね。“ひとところに留まれない病”を患ってるよね」


氷が解けてきっととっくに不味くなったミックスジュースをストローで混ぜながら、安藤理沙は小泉志穂の逆毛一つない、ピンと張りつめた真っ黒の頭頂部を見ていた。

正面からは見えないが、きっとその肩まである重たい髪を束ねているのはいつもの安っぽく、むやみにでかいシュシュだろう。不快なにおいを放つ蒸気のように、胸のあたりから意地悪な気持ちが湧きあがってくるのをこらえて理沙は薄っぺらく笑ってみせる。


「ええー、何それ。私病気なの?」


「病気だよ。仕事も男の人も、私に会うたび変わってるじゃない。ほとんどいつも」


そうかなぁ、しほりんに前会ったのっていつだっけ。去年のお盆だっけ。そういえばしほりん、家買うって話はどうなったの。理系ロボみたいな旦那っちは育児に協力してくれてるの。足の悪い向こうの母親と同居するだのしないだのって、あの辛気臭くてちっとも面白くない話はどうなったの。


ふぇ、とかよわい声が足元から聞こえて、志穂は驚くほどの機敏さでベビーカーから赤ん坊を抱き上げ、理沙には見せたことのない柔らかい表情をして見せた。

理沙はストローを噛むようにして味の薄いアイスコーヒーを流し込む。


地元でつまんない旦那相手につまんない専業主婦を、この5年、25から30までまるで金太郎飴のごとく毎年毎年続けている、可哀想な志穂相手に、東京でやりたいことをやりたいときにやりたいだけやって暮らし、たまにこうしてリフレッシュもかねて地元に戻ってくる私がむきになる必要なんてこれっぽっちもないんだ、と言い聞かせるように、ゆっくりと冷たいだけの液体を飲み込んでいく。


「それよりどうする。同窓会」


意識して弾んだ声を出した理沙を苦笑しつつ、志穂は言う。


「うーん、別に会いたい人もいないしね。光揮もいるし」


「旦那っちに見ててもらえばいいじゃん。土曜だよ?休みでしょ?」


「そんな簡単にはいかないって。独身時代じゃないんだから」


出た。しほりんの常套句。

何かと理由をつけて新しい刺激や人との交流を避けたがる志穂を、地元の公立中学で出会った時から東京のそれぞれ違う女子大に通うまで、理沙はなかば強引に連れ回してきた。他校の男子とのカラオケ、文化祭後のイケてるグループの先輩との飲み会、大学のオープンキャンパス、ハマっていたビジュアル系バンドの出待ち、目をつけたショップのセール、志穂の興味のない美容業界の就活セミナー、エトセトラ。

だから大学を卒業した志穂が理沙からすれば「つまらない都道府県ランキング不動の一位」である地元に帰郷することを決めた時、ようやく理沙もある気づきに至ったのだった。ああしほりん、つまんなかったんだ。何でもある東京も、華やかな遊びも、酒も、クラブも、私も。


地元に戻って数年、結婚してからは、志穂は何かと「独身時代じゃないんだから」という言葉で理沙をけん制するようになった。

嫌がられているのだからやめればいいのだが、実際志穂とそこまで同窓会に行きたいかと言われればそういうわけでもないのだが、理沙は何故か志穂を見るとその臆病なくせにやたら強固な殻を叩き割って引っ張り出したくなるのだった。


「行こうよ、同窓会。私帰って来るしさ。しほりんがいないとつまんない」


理沙は大げさに眉を上げて、ソファにもたれかかるように天井を仰いだ。

視界の下の方で、志穂が小さく息を吐くのが見える。真面目な小学生が聞き分けのない妹や弟にわざと大人びた溜息をついてみせる、こまっしゃくれた行為にも見えた。

理沙の中で何か、喉元で骨がひっかかったような違和感があった。なんだっけ。頭上でくるくる回る、木製のプロペラをみつめる。だめだ、分からない。あまり我慢強いほうではない理沙は、その正体を探ることを早々に諦めて薄く目を閉じる。


理沙が帰るたび志穂がムーヴに乗せてやってくるこのカフェは、落ち着いた色調の低いソファと木目調の広い天井、全面ガラス張りで開放的なテラス席もある、というのが売りのこの県にしてはお洒落な部類に入る店である。敷地面積がやたらに広いところはさすが地方都市、といったところだが、メニューやコンセプトは東京に腐るほどあるこのテの店の劣化コピー、といった雰囲気だ。


酒を飲まない志穂はいつも理沙をこの店に連れてくる。

初めて二人で来たとき、「少しはまともな店もできたでしょ」と珍しく高揚していた志穂の化粧っ気のない肌を理沙は思い出す。あの頃は今や志穂の付属品として当たり前に鎮座する光輝も生まれていなかった。


東京の暮らしをつまらないと志穂が感じたとして、地元での暮らしを志穂が謳歌しているようには思えない。

それをわざわざ突いて志穂の自尊心を傷つけたい、なんて思うほど子どもではないし、志穂の選択、その選択に後からついてくる生活、志穂の人生というものを尊重できるほど大人でもなかった。実際自分が志穂のことを好きなのか嫌いなのか、幸せになってほしいのかなってほしくないのかすらもよく分からないのだ。ただ、何故だかたまの休暇を利用しては本数の少ない飛行機を予約してこのつまらない地元に帰り、相変わらずの志穂に相変わらずの場所で会い、変わり映えのしない会話の末、変わり映えしない感情を抱いてしまう。


志穂に会った後にいつも残る小さな不快と憐憫、自分は間違っていないという自負が、理沙を再び東京に向かわせる。


「何日だっけ。8月だよね」


小さな志穂の声に、理沙はソファの背に沈むように凭れ掛かっていた背を伸ばす。


「13日。6時から!あ、夜のね」


「朝なわけないでしょう」


笑うと志穂は、中学生のような顔になる。

理沙は大きく舌を出した後笑って見せた。

自分の顔は志穂の目にどんなふうに映っているかと考えながら。


2、志穂


その姿を見た瞬間、「また会ってしまった」と小さな後悔が胸の中に生まれたのを志穂は見逃すことが出来なかった。

車社会にどっぷりなせいでめったに来ない市内の駅の構内に、申し訳程度に作られたコンコースに車を停車させ、駅のあるビルの入り口をぼんやりと眺める。

六か月になる光輝はチャイルドシートで大人しく眠っている。出がけに悪戦苦闘しながら与えたミルクが効いているのだろう。本当はなるべくミルクを与えたくないのだが、理沙の前でグズられても面倒だ。


小さな密室空間とドア一枚隔てた外の世界では、東京にいた頃とは段違いに少ない数の人間が、それでもそれなりに忙しなく駅に入ったり駅から出たりしている。

メガネをかけて矯正された視力では今日の予定に関係ない知り合いまで見つけてしまいそうな気がして、なるべく視界をぼんやりさせるよう眉間に力を入れて、そっかメガネをはずせばいいんだと思い至り、しかしそれでは理沙を見つけられないと思いとどまってまたメガネから手を離した。

待ち合わせをしている相手に、先に見つけられるのは志穂が二番目に苦手なことだ。一番は知らない相手に電話すること。会社員時代は電話をとるのが嫌すぎて、反応の遅いのんびり屋というキャラを結婚して退社するまでの数年間完璧に演じきった。

待ち合わせの相手に先に見つけられることも電話で話すことも、第三者の手によって自分の世界を突然無遠慮にビリビリと破られるような怖さがある。

25で結婚した夫も多分そういう人だ。ただ夫は恐怖に飲み込まれて立ち止まったりしない。自分の世界を守ることに、志穂よりも積極的かつ前向きで、邪魔をする相手をしっかりと排除する強さを持っていた。見合いの席で、それも初めて会った日の食事の場で、自分はあまり人に踏み込まれるのが好きではないけどそれでもいいかと、志穂にはっきり言ったのだ。それがいい。強く思った。家族も数少ない友人も驚く早さで、結婚を決めた。夫は志穂が住む市には数百メートルに1件はある地方銀行で営業をやっているが、年の割には落ち着いていて仕事ぶりも堅実だとそれなりの評価を得ているらしい。家を暮らしやすく常に整えておいてほしい、という夫の希望を叶えるべく、志穂は結婚以来ずっと専業主婦をしていて、11月に生まれた光揮と、夫が休みの土日以外はふたりでいる。出戻りから8年が経った割には友人の少ない地元で行う初めての育児は、予想以上に志穂を疲弊させた。吐き戻しが多く、眠るのが得意ではない、眠るのが苦手な赤ん坊がいることを志穂は生まれて初めて知ったのだが――生後半年で二度も中耳炎に罹った光輝は、志穂が長年かけて培った自分の生き方、人生を歩むペースのようなものをいとも破壊した。何度大声を上げて、何度そのか弱い存在をベッドに叩きつけようという強暴な感情が湧いたか知らない。

それでも自分に一心にすがりつく光輝の頼りないちいさな手が、自分の唯一の存在理由だと確信するたび、志穂の心は深く甘く波打つ。

自分は幸福なのだと思う。少なくとも、不幸ではない。

このフレーズを頭の中で暗唱することが理沙に会う前の儀式になっていることを、志穂は気付かない。


携帯で時間を確認して、もう一度視線を駅の入り口にやる。

グレイじみた、うすぼんやりとした、見慣れた風景で、紺と白のボーダーのサマーセーターに、ショッキングピンクのショートパンツ、同色のカーディガン、大ぶりのサングラスをかけた理沙が、強くなり始めた正午前の日差しに白い手をかざし、迷惑そうに空を睨んでいる姿がくっきりと、見える。

志穂は理沙の全身を車内からしっかりと見据えて、「ああまた会ってしまった」、もう一度、思う。



「ごめんね、毎度迎えに来てもらっちゃって」


理沙の謝罪は最近の歌みたいだ。軽やかで、どことなく浮ついていて、耳なじみが良すぎて響かない。


「いいよ。いつものことだし」


対して自分の言葉は細く、低く、硬質に響く。時に無愛想な印象を相手に与える自分の声を、昔から志穂は好きではなかったのだが、そっけない志穂の言葉を気にするでもなく助手席の理沙は喋る。


「それにしても相変わらず人少ないね。スーツ姿の男とかさ、何人か見たけどどこ勤めてんのかな。携帯もってそれなりに忙しそうにしてるんだけどさ、歩く速度が圧倒的に遅いんだよね。そういう人の仕事って大して重要じゃないんだろうな、とか思っちゃう」


自身もこの、何もない地方都市出身だということを忘れたように、理沙の言葉はいつも辛辣だ。それでもいちいち志穂がそういった物言いに怒りを覚えないのは、その言葉を聞くことで確認しているからかもしれない。ああ理沙はまだ、この町に囚われてるんだな。決して忘れられてはないんだな。自分が何もない、何でもない、取るに足らない平凡な田舎者であることを。いくら着飾ったとしても。馬鹿にしたとしても。すればするほど、かえって。


「人が少ない分、仕事はそれなりに抱えてるんじゃない?」


「そういうもんか」


「分かんないけど。私はしがない主婦だから」


「羨ましいよ~しほりん。ちょっと聞いてよこないだ職場でさぁ」


理沙のつけた香水の甘い香りが、クーラーの冷えた空気と共に車内に広がっていく。

一段高くなった声に反応してか、目が覚めたらしい光輝が小さく声をあげる。

「連れてきたんだ」興味のなさを隠そうともしない理沙の言葉をラジオの音量を上げることでやりすごし、少し強めにアクセルを踏んで、志穂は車の少ないコンコースを迂回する。



3、理沙


ずっと忘れていたその子の名前を、まるで安物のタンスの引き出しを開けるみたいにあっさり思い出したのは、変わり映えしないこの町のにおいと実家に届いた一枚のハガキのせいか。


同時に、カフェでの違和感の正体も思い当たった。理沙を降ろしてゆっくり走り去るムーヴに「あ」と声を出し手を伸ばしかけて、そのまま肩の前で頼りなく振った。


いるじゃん。しほりん。会いたい人。ちゃんと、いるよ。しほりんの、私たちの会いたい人。


ただいまも言わずに築50年の木造家屋に駆け込んできた娘を、「あら、帰ったの」と庭仕事をしていたらしい母親が首にかけたタオルで汗を拭きながら迎える。


「ねぇ卒アル、ある?」


「アル?」


「卒業アルバム!ちゅ、高校の!」


ちょっとあんたスリッパくらい履いたらどうという母親の呑気な声を背中に受けて、理沙はその名前が思い出したときと同じようにあっさりと、脳から消えてしまわないように何度もつぶやく。タカハシソウタタカハシソウタタカハシソウタ。


「いた…」


たれ目。大きめの口と鼻。日に焼けた肌、長くて大きい手足。昼食はいつも売店のパンに瓶に入った牛乳。妙に目立つ、ハ音の笑い声。

クラスは確か4組だった。志穂が6組で、理沙が3組。3組と4組は体育が合同で、馬鹿みたいに大きな声で笑う男子の集団の真ん中にはいつも高橋颯太が、いた。


高橋颯太の笑い声がグランドに響くとき、理沙はいつも校舎の4階に目をやった。

カーテンの揺れる窓際、前から三番目、重くて黒い髪の毛を耳の下で二つに結んだ、志穂。


志穂は理沙の視線なんてちっとも気づかないで、いつもグランドに出来た騒々しい輪っかの真ん中を見ていた。ほんの少し細められた目と、弧を描いたくちびる。リップも塗らない、かさついた唇があんなにやさしく緩むことを、理沙は初めて知る。

嘘だ、と思う。グラウンドからそんな細かい部分まで見えるわけがない。私の記憶が、ねじまがったこの脳が、その淡すぎて笑ってしまうような光景を作り出しているんだ、と理沙は思う。

なのにその恥ずかしい光景は、理沙の脳にしっかりと刻まれていた。

鮮明すぎてどうして今まで忘れられていたんだろう、と不思議に思うほどに。


と同時に、何か大切なことをもう一つ置いてきたような気がして、理沙は十数年前、高校生の高橋颯太をじっと見つめる。





『ねぇしほりんってさ、高橋颯太のこと、好きだったりする?』


『危ないよ理沙』


窓に腰掛けた理沙を見ようともしないで、筆箱の中を整えながら女子高生の志穂はこたえる。硬い、けれども今より幼いし高い声。ああいまやでーんと揺るがない主婦という座に収まったしほりんにも、こんな初々しい時期があったっけな、と夢の中で理沙は思う。夢だ夢だと思いながらそれは、現実にあったことのようでもあった。夢か現実か、現実を夢で見てるのか、何にせよほんとうの自分は今30で、実家の湿っぽい布団で寝ていて、もうすぐ目覚めるであろうことも理沙はしっかり分かっている。


ぴっちりと髪をまとめてくくっているせいで、志穂の白い頭皮は物差しを当てたみたいに真っ直ぐ伸びている。その白さを何度か視線でなぞってから、理沙はへらりと笑う。笑ってわかる。ああ私のこういう、風が吹いたら飛んでいきそうに軽くて、ともすれば人を馬鹿にしたように見える下品な笑い方は、この頃から変わってないんだな。と理沙は思う。


『いつも見てるじゃーん。たいくの時さ。私目ぇ良いんだよ?知ってるっしょ?』


『その標準語さ、変よ?今度は何に影響されたん?』


地元訛りで話す志穂の声は、今よりも穏やかに響く。

その作為的な反応は図星だって言ってるのと同じことだって、あの頃の自分は思っただろうか、それともそこまで考えず、あれ?なんか違った?でもあの眼は怪しい!なんて思っていだろうか。思い出せない。それでも勝手に、理沙の口は動く。


『ほな、ええよね。私が好きになっても。』


飾ることをやめた高校生の理沙の声は、少しだけ記憶の志穂の声と似ていた。

硬くて低くて、ちいさく震えた。


『…別に関係ないし。ええも何も。好きにしたらとしか言えん』


志穂は一度も理沙を見ることなく、ずっと筆箱を弄っていた。

かちゃ、かちゃ。頭皮と同じくらい白い指が、何かのまじないみたいに筆箱の中を泳いでいる。


尻に当たる窓の桟の硬さも、放課後の野球部の掛け声も、背中に受けた夕日の暖かさも、ぜんぶがリアルなのに泣けるほど遠い。


目が覚めて最初に、両手のひらの厚いところで目尻に触れた。

そこは湿ってなんていなくて、それにホッとしたのかがっかりしたのか、大人になった理沙には分からない。



4、志穂


残り少なくなった食器洗い用洗剤に、水を足した。

大人一人分の後片付けなど、薄い洗剤で十分だった。

ダイニングテーブルには夫の分の夕食が、ラップに生気を奪われたように、鮮やかさを失ってしんなりとそこにある。

リビングの壁掛け時計は時刻が12時を回り、新たな一日を開始したことを目に止めて、洗剤のついた食器を一気にゆすいでいく。


寝室では夫婦のベッドの真ん中で、光輝が大の字になって眠っているだろう。

築15年、2LDKの賃貸アパートでは、大人二人と乳児一人が暮らすには手狭とまではいかないまでも、これから光輝が成長していくことや、万が一家族が増えることを考えたら十分なスペースといえるわけではなかった。

当然マイホームの話が何度か出かかっては、仕事で忙しく休日は休息をとることに余念のない夫を捕まえて積極的に話を進めることがなんとなく躊躇われて、そのままになっている。以前少しだけ出た義理母との同居の話も大きな要因だが、その大きな買い物をするお金が、自身が働くことによって得たものではないということも志穂を後ろ向きにさせた。かといってまだ0歳の光輝を抱えて何が出来るわけでもなく、家にいてほしいという夫の願いを拒むほどの強い何かが自分の中にあるわけではないことも、志穂にはよく分かっている。


望んで、望んで、注意ぶかく丹念に築き上げたはずの平穏で、波紋ひとつない生活を、絵に描いてみろと言われたら。自分はきっと灰色の絵の具を使うだろう。


夫の仕事が、毎日午前様になるほどの時間外労働を積み重ねないと成り立たないシビアなものなのかどうか、新卒に毛の生えたような就労経験しかない志穂には分からない。

確かなのは平日に夫婦の会話はほとんどなく、今までもこれからも光輝の育児は志穂の手にほとんどすべてかかっていて、たまの休日に設定した家族の計画すらも月に2、3回は夫側の事情で反故になることを志穂が飲み込み続けなくてはいけない、ということだ。


互いに相手の世界に介入することなく、空気のように傍に居られる人。

結婚前志穂は、家庭を作るならそういう人がいい、そういう人でないといけないと思っていた。

しかし自分の命を投げ打ってでも守りたい光輝ができ、命にかかわることから発達を左右することまで様々な可能性の中から自分の狭い価値観によって一つを選び、何も知らない無垢な息子に与える。そのプレッシャーは想像以上だった。終わりの見えない想像以上の重責を背負い続ける日々の中で夫の無関心、不干渉は志穂を孤独にした。

蓄積する不安と孤独、疲労を一身に背負って、志穂は結婚前の自分の考えが甘かったことを認識せざるを得なかった。


相手に一切踏み込まないで、踏み込まれないで、「自分の世界」を守ったままで、家庭を築くなんて無理だ。

女の「自分の世界」なんてものは出産と共に無残に消える。

子どもの可愛さは、女を母親という枠に縛るあまやかな毒だ。

「幸福な拷問」――産後の精神が不安定な時にそんな言葉が浮かんで、つい夫に漏らしたことを志穂は後悔している。


『ほな代わってみるか?俺と同じくらい稼いでこれるんやったら、いつでも代わるけど』


軽蔑と憐みの混じったような目つきで、夫は嗤った。


失敗だ、私は失敗をしたと、その時志穂は一部の隙もなく確信して、だからといって失敗が絶対悪なわけではない、とも思った。

失敗も飲み込んで、じっと歯を食いしばって受け入れてしまえばやがて波紋は消える。

消えた場所を「平穏」で塗りつぶせば、私はいつまでも私でいられる。


大丈夫、だいじょうだといつの間にか癖になっていた胸の動悸を鎮めると、何故か理沙の笑顔が頭に浮かんだ。

無責任で、軽薄な、多分人生で一番自分が受け取った、笑み。


微かに聴こえた光輝の弱弱しい泣き声が、次第に大きくヒステリックなものへと変わっていく。

志穂は硬く絞った布巾を握りしめたまま、蛇口に映った不鮮明な自分の顔を、ぼんやりと見つめる。



5、理沙


たぶん来てないだろう、返事もなかったし、昨日の今日だし、先週あんな別れ方をしたし、仕事が忙しいだろうし、っていうか日曜だし。来るのは無理だ。来るわけがない。飛行機の中で何度もそうやって自分を鎮めたのに、5分遅れで羽田に着くころにはすっかり気が焦り出して、理沙は前の中年サラリーマンの暑苦しい背中をほとんど押すようにして外に出た。

時折ヒールにぶつかるスーツケースの車輪をもどかしく思いながら動く歩道もほとんど走るようにしてたどり着いた到着ロビーを、睨むように見回す。

やっぱり、いない。

分かっていた。ちゃんと理解していた。期待など1ミリグラムもしていなかったのだとまじないみたいに頭の中でつぶやいても、30年付き合った自分のことは騙せない。


(そうだとしても、会いたかった)


うるさいうるさいと髪の毛を掻きむしりかけて、夏休みの客でごった返すカフェのガラスに映った自分が随分と老けたような気がして、ハッとして力なく手を降ろす。




昨日の夜、実家の布団から慎也にメールを送ったのは、高橋颯太のことを思い出したからかもしれない。

そういえば慎也はどことなく、高橋颯太に表情が似ている気がした。

昨日まで忘れていたのにバカみたいな話だが、そう思うと自分の中で思っていた以上に一途な気持ちがあった気がして、慎也に会いたくなった。

帰省する前、いよいよ別れ話かというレベルの喧嘩をして、部屋から追い出した。

もうあの男はいいや、そもそも妻子持ちなんて駄目だ。自由に出来るお金は少ないし、なかなか二人で外にも出られない。正式に別れを告げたわけではないがもう自分の中では勝手に終わったつもりで、志穂にも報告をしたのだ。

妻子持ちとの交際に全くもって良い顔をしていなかった志穂は、レトルト食品の調理方法を読み上げるような淡々とした声で「やっぱりやめといたほうが良かったでしょ」と言った。だから思わず「でももう次がいるんだよね」ととっさに言ってしまった。

ついでに色々どうでも良くなり、帰ったら営業に話して辞めようと思っていた派遣の仕事も辞めたことにして志穂に報告したら、妙な病名をつけられたのだ。「ひとところには留まれない病」。お前は精神科医か。つまんない主婦のくせに、えらそうに。


すごいね、理沙は自由だね。私にはとても真似できない。


求めた答えが志穂から返ってきたことなんて一度もないのに、どうして自分は律儀に志穂に会って、近況報告して、不快になって、また東京に帰ってくるんだろう、と志穂は思う。

舌打ちが思いのほか大きな音で響いて、前を行くサラリーマンが振り返る。30代くらいの、仕事ができそうなスマートな男だ。

値踏みするような視線を送る理沙の存在など全く目に入らなかったように、男はすぐに背中を見せた。


「…スタバ入ろ」


東京に戻ってきてまで志穂のことをうだうだと考えている自分がアホらしくなり、理沙はピンクのスーツケースを引いて歩き出す。とびきり甘い、いちばんカロリーが高そうなやつを頼もう。そう思いながら、かかとに力を入れて、歩き出す。

携帯を持って立ち止まった別のサラリーマンの脚に理沙のスーツケースが当たり、今度は舌打ちをされる。

睨み返す。負けるわけにはいかないのだ。誰にも。何にも。自分にも。




その考えが浮かんだのは、派遣事務所の壁をじっと睨んで、いい加減目が疲れてきたと深く溜息を吐きながら大げさに目をつむった瞬間だった。

この休みが終わったらもう元の職場には行きたくないと突然事務所にやってきて言い放った理沙を、担当の営業が呆れたようにとりなす。

安藤さん勘弁してくださいよ。一応まだ契約期間だし、引継ぎだって多少はあるだろうし、いきなり行きませんってわけにはいきませんよ。俺が怒られちゃいますよ。

確か自分より5つほど若い営業の声は、事務所のクーラーの音と同じくらい理沙にとっては遠いものになっていく。


志穂が憧れて、焦がれて、馬鹿みたいに見つめてたくせに自分から何にもしなかった高橋颯太と、同窓会で再会して、認めさせる。

私は地元でうだうだ年だけ取っていく女たちとは違う。

不満があっても動かないで、口角を下げるばっかで、そのうち不満がしまむらの服着て歩いてるような地方には吐いて捨てるほどいる中年女になっていく、志穂たちとは違う。

それを高橋颯太に分かってもらえれば良い。

安易なのは分かっている。今更高橋颯太が何だっていうのだという思いもある。

だけど想像すると高揚するのだ。


高橋颯太が自分を見つめる。

高橋颯太が照れと、感嘆と、手に入らない焦燥が入り混じったような、高校の時には絶対しなかったような複雑な表情で自分を見つめたら。

もうせこせこと地元に戻ってくる必要はなくなるような気がした。


「安藤さん、聞いてます?」


苦笑いを消して不愉快さを前面に出し始めた茶髪の若い男に一度だけ頭を下げて、「とにかく」その反動で立ち上がった。


「もう一日たりとも行きたくないんです。つまんないんです。つまんないつまんないって思いながら電車に乗るのももうできそうにない。地元に戻って心底思ったんです。そういうの皆おなじで、我慢しながらやってるんだよって分かるんだけど、分かるとできるは違うでしょう?私はできないの。できる誰かに回してください。ほんとにすみません。よろしくお願いします」


「ちょっと、安藤さん!」


怒り交じりの大げさな溜息と書類を机に投げる音を背に、扉を閉めた。


「ひとところに留まれない病」。望むところだ。逃げて逃げて、どこまででも行ってやる。

どこにも行けないで、お前らはただ見てろ。もう誰にも、背中しか見せない。

携帯を取り出して、志穂の名を探す。



6、志穂


同窓会、高橋颯太も来るかもね。覚えてる?


何度か返信しようとしてそのままになっていた画面を、指でなぞる。

とっくに「既読」と表示されたそれを、理沙がどう思っているのか。

全く気にならないと言えば嘘になるが、それよりもおかしさがこみ上げてきて志穂は小さく笑った。


高橋颯太の名なんて、理沙が三日前、東京に帰る旨と併せて送ってきたメッセージを見るまですっかり忘れていた。

毎日毎日毎日、光輝の世話の合間に食事を作り食器を洗い洗濯と掃除をし、また食事を作り洗濯物を取り込んで畳み、食器を洗い夕飯の買い出しに出て食事を作り、風呂を洗って自分は大急ぎで入り、食器を洗う。

そんな繰り返しだけで構成されているのっぺりとした忙しさの中で生きている自分には、思い出を掘り起こす余力なんてない。

それに比べて理沙は元気だな、嫌味ではなくそう思う。けれどもその言葉をそのまま伝えればまた理沙の派手な顔は不快さに固まるのだろうということは予想できたので、それ以外の返す言葉を探しているうちに繰り返しで構成された1日が3回分過ぎてしまった。


「光輝くんー。小泉光輝くん」


子どもの泣き声や笑い声、母親が子どもを諭す声。テレビから流れるアニメのテーマ。

小児科のBGMともいえるそれらとは異なる、明確な意思を持った伸びやかな声に、ハッと顔を上げた。

志穂を認めて、アンパンマンのワッペンをつけた若い女性の看護士がニッコリと微笑む。


「光輝くん、あっちのお部屋で診させてくださいねぇ」


この瞬間いつも「あ、はいどうぞ」と自分よりもよっぽど大らかに光輝を愛してくれそうな看護士に渡してしまいたくなる。もちろん思うだけで態度には示さず、わざとらしいほどのんびりとした声で抱っこひもの中の光輝に声をかける。


「光輝、先生に診てもらおうね」


薄い眉毛を寄せて、すでに泣きかけている光輝を見て見ぬふりをして立ち上がった。




「体重が増えてないね。母乳飲んでます?」


「あ、割と、飲んでると思うんですけど」


「成長曲線ちょっと下回ってる感じやね。問題ってほどやないけど、出がいまいちなときはミルク足して」


「でもなるべくは、母乳で育てたくて。私も夫も身体が強い方じゃないんで」


「うん。お母さんのこだわりも分かるけどね。まず体大きくしたらんとね」


決して威圧的ではなく、粗雑ではあるが思いやりも感じられる初老の医師の言葉が、何故これほどにと言うほど志穂を傷つける。産後半年も経ってまだマタニティブルーなんか、と夫に言われたことを思い出す。上手く大きくならない息子。離乳食も最初から躓いた。

お米はアレルギーが少ないという話だったのに、初めて食べた日の夜、風呂を入れる前の光輝を抱いて小児科に駆けこまなければならなかった。俺はアレルギーなんかないぞ、夫の言葉が聞こえる。私だって、言い返そうとしたら寝室から泣き声が聞こえてハッとした。

弱い光輝を押し付け合ってるみたいだと感じて、心底悔いた。

未熟児で産まれた光輝。もっと大きく産んでやりたかった。もっとお腹の中で育てて、万全の態勢で産んでいれば。


「ちょっと湿疹が出てるみたいやけど、離乳食はどうしてる?」


「お米はあげてません。お豆腐とか、野菜とか、あとパン粥を少し」


「食べる?」


「…あんまり」


「ちょっと光輝君には早いんかもね。一ヵ月や二ヶ月遅らせたっていいんよ。そないに焦らんと、な」


光輝が生まれて自由に外に出にくくなったのもあり、生協に加入した。無農薬や減農薬の野菜や米を扱う生協だった。スーパーに比べて少し値段は高いが、安全には変えられない。夫はどうでもよさそうにちらしを一瞥して、別にいいよと言った。

生協のホームページに載っていた赤ちゃんは、ふっくらとしていていかにも健康そうだった。それも心が動いた原因だったと言えば、夫は鼻で笑うだろうか。

無農薬や減農薬や有機肥料で育てられたお米や色の濃い野菜を使って、栄養満点でおいしい離乳食を作るのが志穂の目標であり楽しみだった。それをのっけから打ち砕かれたようで、あくまで離乳食は食べる練習であり当面の間の栄養補給は母乳やミルク主体でも構わない、と頭では分かってはいても、心が折れた。


このままではいずれ光輝に手をあげてしまうかもしれない。そう思って愕然としていたとき、理沙からGWに帰るから遊ぼという呑気なメッセージが届いた。少しだけ深く息を吸い、吐くことが出来た気がした。


湿疹の薬の説明を受けて医師に礼を言って退室する。

聴診器を当てられるだけで甲高い声で泣き出し、診察中もずっと泣いていた光輝は泣き疲れて志穂の胸で眠っている。

柔らかな髪を一度だけ撫でて、隣接する薬局で処方箋を出しソファに座って名前が呼ばれるのを待ちながら、志穂は妄想する。


理沙なら。

理沙ならどうやって光輝を育てるだろう。


きっと離乳食なんて分かんないよね面倒くさいし。なんて言いながら自分の味噌汁の具を平気で与えたりするんだろう。野菜のだしをとることなんて絶対にしないし、ミルクを作るのも面倒くさがって何でもお湯で伸ばすに違いない。

それでも意外に光輝は、そんなおおらかさのもとですくすくと育つかもしれない。

予定よりも一ヵ月も早く、未熟児で産まれたと病室からメッセージを送った時、理沙は「小さく産めてよかったね。ちょっとは楽だった?」等と平気で返してきた。

無神経な奴だと思いながら、どこか救われたのも確かだ。「全然。死ぬほど痛いし、死ぬほど血が出た」と返すと、既読はついたが返事はなかった。理沙は痛い系に弱いのだ。スプラッターの映画だったと憤慨してデートの途中で帰って来たこともある。

ふ、と無意識に笑みが漏れたのと光輝が長い睫を震わせて目を開けたのと、名前が呼ばれたのは同時だった。



7、理沙


「なぁんで、そんな恰好で来たん」


思わず地元の訛りが出てしまって、理沙は内心舌打ちする。


地元で一番大きい川沿いのホテルのロビーは、再会に緊張交じりのはしゃぎ声を上げる女たちで賑やかだった。

色とりどりの衣装が揺れる。男たちはこういうとき本当に静かだな、と理沙は思う。

衣装もほとんどがスーツ姿で、味気なく華やかさに欠ける。

もちろんそれなりに成功している人間もいるのだろうが、地元で行われる同窓会に張りきって現れる人間の人生なんてたかが知れているだろう、と自分の事は思い切り隅に置いて理沙は思う。


理沙の着ている背中の大きく開いた黒いパーティードレスは、先日若手人気女優がレッドカーペットを歩くときに着ていたものと同じだ。香水はシャネルの5番。アクセサリー類は敢えて控えめで、指輪はしていない。この3か月でエステに通い、4キロ落とした。髪は表参道の人気店でセットし、そのまま飛行機で飛んできた。せっかくのセットが乱れないように、ずっと背筋を伸ばして座っていたから腰が痛い。ヒールも多分今日集まった中で一番細くて高いだろう。シルエットがタイトすぎて既に小指の感覚がないに等しいが、そんなことはどうでもいい。赤い肉感的な唇も不自然すぎないエクステで造った長い睫も、早めに会場に着いてトイレで何度もチェックしたからぬかりはないはずだ。


対する志穂はもう何年も着ていないようなベージュのスーツ。ノーブランドっぽい白いハンドバックに、何故か駅前のデパートの紙袋を下げている。就活生みたいな黒いパンプスに、ごく普通のストッキングを履いて、このままどこかの中小企業の事務でも務められそうな雰囲気である。髪を結わえているのはシュシュではなく、黒くて太いスタンダードなゴムだった。


「その言葉そのまま返すわ」


理沙に釣られたように、志穂の言葉にも中途半端な地元訛りが混じっている。

そういえば志穂はこっちに戻ってきても喋り方は東京にいた時のままだな、と今更ながら理沙は思う。それがどうしたというわけではないけど、少し意外だ。


「受付、もうした?」


「ううんこれから。行こ」


対照的な雰囲気で並んで歩く二人を、何人かが振り返る。


「安藤さんや」


「隣の…誰やっけ」


囁くような声を拾いながら、理沙は不自然じゃない程度に笑みを浮かべてたった一人を探す。

タカハシソウタタカハシソウタタカハシソウタ。


そういえば高橋颯太について志穂からは何の返信もなかったな、と今更ながら思い出すが、「うわぁすごい人」と呑気にため息を吐く志穂にもう一度確かめようとは思わなかった。


「飛翔の間」と書かれた宴会場で、立食パーティ形式で会は行われた。

幹事と思われるダサい伊達メガネをかけた小太りの陽気で軽率そうな男が「みなさん今日は僕のためにこんなにたくさん集まっていただいて」と挨拶してのっけからスベっている。

それでも隣でウーロン茶を両手で持つ志穂の表情は少し柔らかく、理沙は意外に思う。


「何か、楽しそうじゃん」


「どうかな。でも、こういう華やかな場って久々で」


素直な言葉に、ほんの少し理沙は志穂に同情する。


「子育てって、大変?」


アホみたいな質問だと思う。

後悔しながらビールを煽ると、意外な言葉が帰ってきた。


「地獄」


「…そうなん」


「と天国が交互にやってくる。一日に何度も。好き好き大好き愛してるって思った矢先に、このクソガキ殺してやろうかとも思う」


思わず志穂の手に握られたグラスを横目で見る。

ウーロン茶だよな。ウーロンハイじゃないよな。


そういえばこんなアホみたいなことすら志穂に聞こうともしなかった。私ってちょっと器が小さいのかな、思った矢先に「気楽な理沙が羨ましい」と志穂が続けたので、理沙は自省の念を最速で頭から消した。うるせーよこっちも色々あんだっつーの。

つまらないスピーチがまだ続いている。

乾杯の音頭を待たずに空になったグラスに手酌してぐっと煽る。

高橋颯太はまだ見つからない。


その後、次々にやって来る理沙にとっては名前も憶えてない、もしくは憶えていてもそのことを伝えるのも面倒だと思うほどどうでもいい男に何人か声をかけられてのらりくらりとかわしているうちに、いつの間にか志穂とはぐれていた。


高橋颯太と再会を果たす瞬間はぜひ志穂にも見てほしいと思っていたため、理沙は高橋颯太と志穂を探すことになった。100人はいそうな人間の中から、志穂はともかく高橋颯太は見つかるだろうか。というか、高橋颯太は来てるのか。そもそも高橋颯太が現れなかったらこの計画もおじゃんなのだということを、理沙はすっかり失念していた。

往々にして目標が見つかると周りが見えなくなる傾向が理沙にはある。干支も猪だ。もっとも会場にいるほとんどの人間が猪年なわけだが。


もうこの際思い切って片っ端から高橋颯太について聞いて回ろうと理沙が決意した時、理沙にしつこく食い下がっていた小太りの幹事が「あ、高橋来てたんや」と漏らした。

その視線の方向を、眼光鋭く理沙は追う。



8、志穂


いつの間にか理沙とはぐれてしまった。

話し相手を失って、改めて志穂は理沙以外の繋がりがかように希薄なのだと思い知る。

無口で堅く、ノリが悪い自分に食いついてきたのが理沙だけだったのだ。

思えば不思議だ。一年の時同じクラスだったとはいえ、キャラクターも信条も住む世界も全く異なる存在だったのに、いつの間にか志穂の隣には理沙がいた。

ああいう性格の為、同性の反感は割に買っていたのではないかと思うが、誰とでも気軽に話せる理沙が何故そこまで志穂にかまうのか、当時から志穂はよく分からなかった。

どうせ気まぐれだろうし、自分も暇だし。軽い気持ちで理沙といた。まさか30になっても連絡を取り合って一緒にいるなんて、想像もしていなかった。


パサついたサンドイッチを咀嚼しながら、高校時代からつけていた腕時計を見る。

帰ろうか、そんな考えが一瞬よぎるが、これを逃せば次家を出られるのはいつになるか分からないという思いが志穂を引き留めた。


結局光輝は実家の母に預けた。あまりうまくいっている方とは言えない親子関係なので夫に託す以上に避けたかったが、夫が拒否したのだから仕方がない。母にはデパ地下の惣菜を買ってある。何か買って帰ればあまり文句は言われないだろう。

光輝は冷凍して母に託した母乳を飲んだだろうか。

ぐずらず眠っているだろうか。

ベビーフードを預けたが、母はきちんと食べさせてくれただろうか。

油断すれば湧いてくる心配事から逃げるように、出しかけた携帯を鞄に投げる。


サンドイッチの奥のローストビーフに手を伸ばそうとして、視線の隅に一瞬止まった人物の背中を見上げる。あの背中は。


「高橋颯太」



「あはは。久々に会って、いきなしフルネームて」


笑い方もその声も、高橋颯太は変わっていなかった。


「久しぶり、伊賀さん」


グラウンドを走り回っていた時ほど日焼けはしていないし、笑った目尻に小さく皺がある。

厳密に言えば変わっているところもあるが、苗字を変え、子どもを生み、育てている自分ほど目の前の男は変わっていないだろうという小さな確信と安心が、志穂にはある。


「あの子は?来てないん?えーと確か…」


「高橋颯太!!」


大きく目を開いて、心なしか息を弾ませた理沙が志穂とテーブルを挟んで向かい合う安藤颯太の右隣りで、叫んだ。


「だから二人揃って、フルネーム。変わってなさすぎ。はは。あんどーさんも」


高橋颯太と話している志穂を見つけた瞬間の驚いた顔のままで、理沙は二人は交互に見ている。

自分は邪魔かもしれないな、志穂は感じて退席しようとするが、その手を理沙がとった。


「二人って仲良かったんだっけ?あんまり覚えてなくて」


理沙に動揺すると唇を舐める癖が出ていて、はげかけた唇に少し悪いことをしたような気がする。

だけど理沙に言われるまでその存在をすっかり忘れていたのは事実だ。

憧れの存在だって、普通10年も経てば遠いところに行く。


「委員会が一緒でね。三年のときの」


「図書委員な」


「へぇ…知らなかった。まさか付き合ってたり?」


「んなわけないでしょう」


「俺は割と好きやったけどな。伊賀さん、真面目で」


こんな軽口も少しは動揺するが、光輝がたちまち真っ赤な顔をして全身に斑点が出来て大泣きすることに比べたら、屁のようなものだ。


「高橋颯太は不真面目だったもんね」


「まぁね。しかし相変わらず仲がいいんやね。二人こそ」


そうでもないけどね、返しかけて続いた言葉に思い切り、咽る。



9、理沙


「今もよう似てるわ」


「へ?どこ」


「どこが!?」


言葉の途中で志穂が大きく咽た。思い切りリアクションが被ってしまったが、そんなことはどうでもいい。

高橋颯太が無邪気に吐いた言葉、聞き捨てならないにもほどがある。

確かに理沙と志穂は身長と体重がほぼ同じだった。だけどそれだけだ。見た目も、性格も全く正反対じゃないかと理沙は憤って、思わず方言が出る。


「服の感じとか、雰囲気とか、顔も、全然違うやん。どこ見とん。おかしいわ」


理沙のヒステリックな声に何事かと振り向いた何人かは、高橋颯太のふはは、という大らかな笑い声にまた元の談笑に戻っていく。テーブルのサンドイッチをつまみ、もごもごと咀嚼しながら、高橋颯太はマイペースに続ける。


「顔も服も似てないけど、俺には二人が双子みたいに見えてん。昔から。S極とN極って正反対やけど、一緒におるやん。いつも。一個の磁石の中にきっちりおさまってるやん?そういう感じに二人が見えてて。今もそんな感じやから、なんやホッとしたわ。俺もええ加減おっさんやなって思ってたけど、変わらんもんもあるんやなー」


「言うてること全然分からん」


ボソっと言った志穂の言葉に、今だけは全面同意したい。理沙は煮えくり返った頭の中で思う。

何だ磁石って。何だS極とN極って。こんな寒いこと言う奴を、私は好きだったのか。

好きだったのか?なんで?だって志穂が、しほりんがいつも、見てて。


「あとお互いを羨ましいって思ってそうやなって、俺には見えるんやけど」


「それはない」


「それはないわ」


ハモった声に高橋颯太は心底愉快そうに笑った。

理沙は不愉快すぎて、セットした髪を解いて思いっきり掻き毟りたかった。

その時志穂が苦笑いしながら髪を解いた。同じ気持ちだったんじゃないかと、理沙は少し、脱力して志穂を見る。



10、理沙(と志穂)


えーもう帰るん二次会行こうやという高橋颯太に別れを告げて、二人でホテルの外に出た。

8月とはいえ、夜の町の熱気は穏やかだった。少し顔を上げれば簡単に星をちりばめた夜空を見ることが出来る。それはどちらも、都内にはないものだった。


「車で来たの?」


「バス。理沙は?」


「タクシー拾おうかと思ってたんだけど」


「そっか」


「バスにしようかな」


意外そうに理沙を見て、志穂は言う。


「バス停までまぁまぁあるよ。その靴大丈夫?」


「大丈夫じゃない死ぬほど痛い。脱ぐ」


昼間の熱の余韻を孕んだアスファルトは、生ぬるく疲れた足に馴染んだ。

苦笑いして、志穂は歩き出した。いつもより少しゆっくりと。


国道沿いに掛かったアーチ状の橋からは、暗い川と息を潜めるみたいに停まっているボートが数台見えた。季節外れのクリスマスのイルミネーションみたいないくつかの電球が、陳腐な絵画のような光景の中ぼんやり浮かんでいる。


ダサい町。声に出さずにつぶやいて、前を行く志穂のベージュの背中を見つめる。

まだ21時前だというのに大通りを行く車の数はまばらで、理沙はふいに自分が女子高生の頃に戻ったような気分になる。待ってよしほりん、一緒にかえろ。


「今思い出したんだけど」


理沙の声に志穂が振り返る。

ぶらぶらと両手に一足ずつ持ったハイヒールは、気を抜くとすぽっと指から逃げて車道に飛んでいきそうだ。それでもいいか、とアルコールで少し熱を帯びた頭でぼんやりと思って、理沙は子どものように手を振って歩いた。理沙の続きの言葉を聞こうと立ち止まる志穂に並ぶために、歩幅を広げて行進するように。


「二年の頃ね、高橋颯太に告っちゃおうと思って。あんまり話したことなかったけど、私そこそこ派手だったし、男子とも気軽に話せるキャラだったし。自信はあったんだよね。いきなし付き合うとかはなくても、もっとお互いを意識した感じで近づけるって。そしたら高橋颯太がね」


「『安藤さんといつも一緒におる子って、双子かなんか?』って」


「はぁっ?って思って、意味わからんって思って、とりあえず否定はしたと思うんだけど、そっからのこと全然覚えてなくて、っていうかさっきまでずっと忘れてて、高橋颯太にあんなこと言われても忘れてて、今しほりんと歩いてて、思い出した」


「ふつうそれ忘れる?」


「きっとショックだったんだよ」


「失礼」


「逆の立場だったらどうよ」


「多分卒倒してた」


「でしょ」


「そんなこと言われてるの知ってたら図書委員でも話さなかったかも」


「でしょでしょ。衝撃すぎて、脳がシャットダウンしたんだよ、きっと」


都合のいい脳だね、と志穂は前を向いたまま呟いて、そのまま首をコキコキと鳴らしたあと長い溜息を吐き、振り返り、笑みを見せた。


「やっぱあの人だいぶキてるね」


時々思い出したように数台の車が理沙たちを追い抜いて行って、志穂の顔を赤や青に照らした。

その悪戯っぽい笑みがほんの少し自分に似ているような気がして、ワンテンポ遅れて理沙は続ける。


「あはは。キてるって。しほりん」


胸が少しだけ弾んだ。ここ数年ずっと、志穂と話すたびに出来ていた心の澱が、どろっと、べりべりと、胸から剥がれたような音を、理沙は確かに自分の中で聞く。


「ねぇ理沙」


「ん?」


「私、退屈な方が落ち着くんだよね」


小さなバスの停留所の、疲れた色をしたベンチに志穂は静かに腰掛けた。

何故だか隣に座ることは躊躇われて、理沙は立ったまま志穂の横顔を見下ろしていた。

歩道に立ち尽くす理沙に小さく鈴を鳴らしながら、中年男性を乗せた自転車が走っていく。


「東京は楽しかった。ほんとうに楽しかったけど、かりそめの場所にかりそめの姿でいるような気がして、落ち着かなかった。この町のどんよりしてて、窮屈で、ダサくて、可能性はすくなくて、何も選べない感じが私には合ってると思う。残念だけど」


そんなことないよ、も、そうかな、も、そうだね、も安直に挟むことが憚られ、理沙は曖昧に笑う。そんなことは初めてのことだった。少なくとも志穂相手には。

車道を見つめる志穂の横顔はこざっぱりしていて、一緒に教室にいたときのものとも、カフェにいたときのものとも、違っていた。それが何故だか寂しくて、どうしてだろうと思う。


「理沙のことを“ひとところに留まれない病”なんて言ったけど、私は“ひとところにしかいられない病”でね、辛かろうが苦しかろうが面倒くさかろうがダサかろうが、ここが私の場所なんだよね。ってさっき、高橋颯太と喋ってたら思ったの。ふいに。で、理沙」


やっぱりあれはウーロンハイだったんだな、理沙は思う。こんなふうに自分の気持ちをとうとうと話す志穂は見たことがない。強引な自分にいつも苦笑いを浮かべながら付き合ってくれた志穂。クラブでの戸惑うような顔、合コンでのつまらなさそうな顔、カフェができたときの少し高揚した顔。

高橋颯太を好きにしたらと言ったときの、多分少し震えてた、唇。

そのどれとも違う志穂。


「多分ここは理沙の場所にはならないから、あんまり簡単に帰ってこないほうがいいよ。私なんかに会ってないで、東京とか、別に他の場所でもいいんだけど。いろんなものを見て、いろんな人に会うのがいいよ。私と理沙がS極とN極ならさ、くっついてたら壊れちゃうよね。たとえ一緒にいても、ちゃんと別々の方向向いてなきゃ」


「その例え、ダサすぎて寒いよ」


「そうだね。めちゃくちゃダサい」


笑う志穂の顔を、時折思い出したように通り過ぎる車のライトが照らす。

その陰影には確かに、志穂が築いてきた理沙の知らない日々の跡があった。

しほりん、知らない人みたいだ。胸の中に生まれた寂しさを呑みこんで、理沙は笑、おうとして、やめた。


「言われなくてもさ、もうしばらくは帰ってこないよ。同窓会も終わったし、高橋颯太もキてたし。…仕事も探さないといけないし」


「ん」


「色々、ごめんね」


「謝られるようなことは何もないよ」


「私嫌な奴だったでしょ」


「それなりにね。でも私も馬鹿にしてた。心の中で、理沙のこと」


「それを知ってさらに私は見下してた。しほりんのこと」


「どっちもどっちだね」


「こういうとこ見抜いたのかね、高橋颯太は」


「喰えない男だ、キてるけど」


ハッと息を吐くように笑った志穂の向こうに、バスがやってくる。


「私、やっぱりタクシーで帰ろうかな」


そう。とだけ言って志穂は静かに立ち上がった。

もっと多くの言葉を返す必要があるような、もう何も言うことはないような、大きな何かを失ったような、得たような。

正しい道を選んだ気はしない。試合にも勝負にも負けた。だけどもういい。諦めじゃなくて、素直にそう思う。

さっき剥がれたものはもう理沙の胸を占めることはなくて、急にからっぽになって風通しのよくなった軽い箱を持って立ち尽くすように、理沙は黙って志穂を見送った。


少ない数の乗客を乗せて、のろのろとバスが行く。


またね、じゃなかった。じゃあね。しほりん。


一度だけ大きく息を吐くと地面に置いたハイヒールに痛む足をねじ込んで、理沙は志穂と歩いた道を、ひとり戻っていく。





一番後ろの席の窓から、理沙の背中が小さく見えた。

理沙は振り返らない。そのことは志穂を安堵させると同時に、ほんの少しだけ心許ない気持ちにもさせた。

いずれにせよ、これで私は本当に家族しかいなくなった、と志穂は思う。

どんどん遠ざかる理沙から視線を上げると、東京よりもずっと低い位置にあるのっぺりとした夜空に、磁石のような形をした星座がある。

携帯のカメラを起動して撮影するが、少し考えた後、すぐに消した。

メール画面を開き、「今から帰ります」短い一文を母に送る。

目を閉じて、瞼の裏に小さな星を浮かべた。


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