優しい声
ひらひらと雪が舞う。雪片は花びらのように軽やかに、剥き出しの私の腕に落ちる。そして儚く溶け去って私の体を冷やす。
「あの、大丈夫ですか?」
声が落ちて来た。
「つらいなら救護所に行きますか?」
朦朧としかけた意識を集中して声の方を見上げると、ボランティアの女子高生が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
私は仰向けに倒れた状態から必死に体を起こそうとした。こんな所で寝ている場合ではない。
女子高生は私の体を支え、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「ありがとう。筋肉痛だけだから後は大丈夫」
私は精一杯女子高生に微笑みかけた。実際は全く大丈夫ではない。体中の筋肉が悲鳴を上げ、休息を求めている。でもどこかを故障した感覚はない。
「そうですか?お気を付けて」
女子高生は意外とあっさり納得すると、笑顔を見せてから持ち場に戻って行った。
私は大きく深呼吸をしてから、表示に従って荷物を受け取るために二三番のトラックに向かった。
私は念願の東京ピースマラソンに参加した。近年のマラソンブームと東京都心を走れることが人気を呼び、抽選倍率は年々上昇していた。
第二〇回目を迎える今回、私は記念のつもりで申し込んだ。まさか当選するとは思わなかった。
マラソンの経験がなかったので、マラソン大好きな友人の智子に練習メニューを作ってもらった。智子は私が運動音痴なのを知っていたので、呆れながらも無理のないメニューを作ってくれた。
「まあ、良くて制限時間ギリギリ、悪くて途中リタイアやろうけどやれるだけ頑張り」
私は出来る限り忠実にメニューをこなした。挫けそうになって智子に何度もメールした。その度に彼女は私を励ましてくれた。
メニューを着実にこなしてはいたが、なかなか思うような結果は出せなかった。元々の運動音痴がそう簡単にアスリートに変身出来る訳がない。
メニューが進まない……。
そんな時私が目にしたのは、大好きな声優の岸野大輔のブログにあった情報だった。
《東京ピースマラソンの関連イベントとして、ラジオ番組の公開生放送が決定しました。パーソナリティは僕、岸野大輔です。詳細は後日お知らせします(^_^)v》
私はパニックに陥った。だいすけがラジオ?しかも東京ピースマラソンの?何でや?ラジオはともかくマラソンと結び付けへんねんて!
詳細が発表されるまで、私はやきもきして過ごした。当然練習にも身が入らない。智子は呆れるのを通り越して匙を投げた。
「やる気がないんやったら止めたら?面倒見切れんわ」
東京ピースマラソン開催のちょうど三ヶ月前、ようやく詳細が発表された。
《東京ピースマラソンの開催日午後四時から、マラソンスタート地点近くのレストランを貸し切ってラジオの公開生放送をします(^o^)参加資格は東京ピースマラソンの参加者であること。後、僕のファンだったら嬉しいな(^_^)v応募者の中から抽選で三〇名様に参加していただきます!応募の宛先は……》
私はだいすけのブログを見るなり、叫んでしまった。
「やった!生きてて良かった!」
カフェでお茶を飲んでいたのだが、突然叫んだ私に周囲の人達は冷たい目を向けた。私は我に返ると、そそくさとカフェを後にした。
翌日から私の汗と涙の練習の日々が始まった。智子に組んでもらったメニューをこなすことに変わりはないが、意欲と意識が確実に変わった。まだ抽選で選ばれた訳でもないのに、だいすけに会うために精一杯頑張った。
智子は深い溜め息をついて言ったものだ。
「オタクの原動力が全く理解でけへんけど、やる気になったんはええことや」
大会一ヶ月前、だいすけのラジオの公開生放送に参加できるという知らせが届いた。
だいすけに会える!それもかなり間近で!届いた封書によると、生放送ではだいすけがどんどん参加者に話を振って、番組を盛り上げて行くようだ。私は数日間夢と妄想に浸って過ごした後、大会前の調整に入った。ここで故障したり、体調を崩す訳にはいかない。万全の状態で大会に臨み、最善を尽くしたかった。
この頃には急なトラブルがない限り、完走出来るのではないかという自信が付いていた。もちろん速くは走れない。でも、私にとって大事なのはゴールすることだった。
大会前日、智子は新大阪の駅まで私を見送りに来てくれた。
「頑張りや!」
言いながら智子は私に紙袋を押し付けると、そのまま手を振って走り去った。
新幹線の座席に着いてから、智子がくれた異様に重い紙袋を開けた。
「っ!」
可愛いけどちょっと派手めの赤いワンピースと、柔らかい革製のロングブーツだった。添えられていた手紙にはこうあった。
『みおはあんまりお洒落せーへんから、代わりに選んで買うといたったで!オタクにしてはよう頑張ったからご褒美や。それ着てだいすけとやらに会いに行ったらええ』
私は目頭が熱くなった。涙がこぼれそうになる一瞬前に、最後の文章が目に入った。
『お土産は高いもん期待してるで』
私はほんの少し泣いてから気を引き締めた。泣くのはもっと後に取っておこう。
予約してあったビジネスホテルの部屋は、清潔だけれどかなり狭かった。それでもスタート地点まで徒歩圏内のホテルが取れたのは、幸運だった。インターネットの情報によると、少し出遅れただけで東京中の格安ホテルが満室になってしまったらしい。
チェックインを済ませると、私は部屋に荷物を置きすぐに出掛けた。
東京に来る事が少ない私には、見る物すべてが新鮮だった。
見上げれば首が痛くなるような高さの高層ビルが切れ目なく続き、雑多な人が街に溢れている。聞こえて来る言葉は同じ日本語だけど、大阪弁に慣れ切っている私の耳には異質に聞こえた。
私は迷うことなく地下鉄に乗り、大会の受付会場である東京ベイサイトに向かった。ここは海沿いにある巨大なイベントスペースで、大会のゴール地点にもなっている。
地下鉄に乗りながら、私はだんだん嬉しくなって来た。初めての大会に臨む高揚感と緊張感。私の胸は期待で震えた。
ベイサイト内はかなり混雑していた。受付に長時間並んだが、手続き自体は呆気ないほどすぐに終わった。
ベイサイト内では東京ピースマラソンEXPOが開催されていた。これは主にスポンサー企業や協賛企業が出展し、商品の紹介や販売などを行うイベントだ。EXPOへと続く人の流れを横目に見ながら、私は来た道を逆に辿ってホテルの近くまで戻った。
翌日のラジオ放送に先駆けて、公開生放送が行われるパールレストランでスタッフとの面接が予定されていた。これは大会参加者であることの最終確認と、席順を決めるためのものらしい。
地図を頼りに歩いて行くと、目的のレストランはすぐに見付かった。二階建てと低いけれど、全面ガラス張りで面積が広く目立つ造りをしていた。一階がスポーツパークというスポーツ店、二階がパールレストランというレストランになっていて経営者は同じということだ。
外の階段を登ってレストランのエントランスに入った。明るく開放的な雰囲気で、ソファが壁沿いに置かれていた。
私はラジオ局の若いスタッフに案内されて個室に入った。待っていたのは四十前後と思われる、目つきの鋭い男性スタッフだった。
彼はまず私に名刺を差し出した。名刺には前田という名前が書かれていた。
前田さんは時間を無駄にせず、早速質問を始めた。ランニングに関すること、大会出場経験、今回の目標、だいすけに関すること。最後に前田さんはこう言った。
「質問は以上です。何かそちらから訊きたいことはありますか?」
私はずっと気になっていた事を質問した。
「どうして岸野さんがパーソナリティに選ばれたんですか?わたしの感覚では、あまりマラソンのイメージはないんですが」
前田さんはにやりと笑った。
「どうせ明日分かることですから、特別に教えてあげましょう。ただし口外しては駄目ですよ?」
私はためらわずに頷いた。
「実は岸野君は来年の東京ピースマラソンに挑戦することになったんです。経緯などは直接本人が話すでしょうから、明日楽しみにしていてください」
前田さんは必ず放送開始の三〇分前にはここに来るように、私に念を押した。
エントランスに戻ると、案内役の若いスタッフが私にランニングシャツをくれた。
「明日は岸野さんも応援に駆け付ける予定です。何を着るかはご自由ですが、これを着てらっしゃると目印になりますのでよろしければどうぞ。ちなみに岸野さんがデザインしたもので、男女で色が違うんですよ」
私はソファに座り、シャツを袋から取り出した。
「……。」
濃いピンクのランニングシャツはかなり細身で、着れば体の線がくっきりと出そうだ。私はとりあえずこれを着るかどうかは後で考える事にして、ホテルに戻った。
狭苦しいホテルの部屋は、数時間前に後にした時と変わらぬ姿で私を迎えた。
私は大会受付時に受け取ったゼッケンや手荷物預け用の袋を取り出した。当日は袋に荷物を詰め、スタート地点で所定のトラックに預ける。するとゴール地点まで荷物を運んでくれる。私はゼッケン番号の印刷されたステッカーを袋に貼り付け、部屋の目に付く所に置いた。
そしてゼッケンを見て溜め息をつく。忘れないうちにウェアにゼッケンを付けておこうと思ったけれど、何を着るかここに来て迷ってしまった。受付時にもらった大会のTシャツは、封を開けずに智子にあげることに決めていた。問題は大阪から自分で持って来たTシャツを着るか、先程もらったランニングシャツを着るかだ。
私は両方をベッドの上に並べて置き、腕を組んで真剣に悩み始めた。もらった物が同じデザインでもTシャツだったら迷わずに着るのに、袖のないランニングシャツを着るのは三〇前の私には勇気がいる。
私は深い深い溜め息をついでから決断した。私をここまで引っ張って来た原動力は、何と言ってもだいすけの存在だ。だいすけがいなかったら数ヶ月前に練習に倦み、納得のいかないコンディションで本番に臨むことになったかも知れない。
私は派手なピンクのランニングシャツに安全ピンでゼッケンを付けた。
大会当日、つまり今日の早朝、私はコンビニで買ったおにぎりを食べてから緊張をほぐすために軽く散歩する事にした。まだ薄暗いというのに、同じように散歩している大会参加者らしき人を沢山見かけた。スタート地点に近いので、この周辺のホテルに泊まった人が多いのだろう。
部屋に戻って念入りにストレッチをしながら朝のニュースを見た。やはり東京ピースマラソンの話題が大きく取り上げられていた。
時間になると、ダウンコートと携帯と小銭、それに荷物預け用の袋だけを持ってホテルを出た。フロントで「頑張ってください」と声をかけてくれた。
見上げるとあいにくの曇り空。日が射さないので、コートを着ていても凍える寒さだった。私は指定された二三番のトラックの近くで軽く体を動かしながら、荷物預けの制限時間いっぱいまで粘った。あまり早く上着を脱いで荷物を預けてしまうと寒くて仕方ない。
最終的に近くにいたボランティアスタッフに急かされて荷物を預けた。
スタート地点に整列してから、緊張感が異様に高まった。途中で走れなくなったり、お腹が痛くなったりしたらどうしよう……。何度も深呼吸を繰り返していると、隣にいた五十前後の女性ランナーが声をかけてくれた。
「もしかして大会に出るの初めて?」
私は頷いた。
「緊張するのは分かるけど、リラックスリラックス」
彼女は言いながら、私の剥き出しの腕を優しくポンポンと叩いた。アームウォーマーを持っていない私は、上はランニングシャツ一枚だ。
「分かってはいるんですけど、力が入ってしまって……」
女性はにっこりと微笑んだ。
「大事なのは最初に飛ばさないこと、余裕があったら後半で上げて行けばいいんだから。最初に無理をすると途中で動けなくなったりもするから気を付けてね」
私は笑顔で礼を言った。こういうランナー同士のコミュニケーションも、こういう大会の魅力なのだろう。縁があればまたどこかで会えるかも知れない。
スタート直後は混雑していて、流れに乗って歩くしかなかった。徐々に混雑がほぐれて来ると、私の隣にいた女性は颯爽と駆けて行った。スタート前に聞いた話だと、彼女はマラソン歴二十年のベテランだという。
人の駆ける姿は美しい。年を重ねても軽やかに駆ける姿に憧れを感じた。
沿道の声援は凄かった。途切れる事なく続く声援の嵐は、私の足を一歩一歩前に進ませてくれた。
私は最初、女性のアドバイスに従ってかなりゆっくり走った。東京の景色を楽しみ、声援を胸一杯に吸い込んでこまめな給水を心がけた。
足は多少重くなったものの問題なく中間地点を過ぎた頃、私は少しスピードを上げる事にした。つらくなったら、また落とせばいい。
私は自分の体調を確認しながら、スピードを上げたり下げたりした。
それでも徐々に足は重くなり、ずっと走ってはいられなくなった。残り十キロという所で、私は最大の苦しみと戦っていた。
足が痛い。自分の物とは思えないほどに言うことを聞かなくなった足は、前に進むことを拒否し始めた。
私は足を引きずりながら歩いた。こんな所で止めたくない。景色が涙で霞んで来た。
「頑張れ!」
その時多くの声援を突き抜けて一つの声が私に届いた。私は反射的に足を止めた。今の声は……。
私は声の主を必死に探した。左手前方で大声で声援を送り続けるだいすけの姿が目に入った。だいすけは真っ直ぐに私を見て、手を振ってくれていた。嬉しくて、涙がぼろぼろとこぼれた。
私はよろよろとだいすけの元に走り寄った。
肩で息をしながらだいすけの前に立ち尽くし、言葉が出ない。でも涙は後から後から流れ出て、もう止められなかった。
「足痛いの?」
だいすけは優しく問いかけた。私が黙って頷くと、だいすけは手にしていた冷却スプレーを私の足にかけてくれた。
「あり……が……とう……」
私はしゃくり上げながら何とか言葉を押し出した。
「桜井美桜さん?」
だいすけは手元の用紙と私のゼッケンを見比べて言った。どうやらこの後の番組参加者の名前とゼッケン番号が書いてあるらしい。
私はまた頷いた。
「えらい桜がいっぱいの名前だねえ」
だいすけは手に持っていたタオルを私に渡した。
「泣いてないで走れ。まだ先は長いぞ!」
私は受け取ったタオルで顔をゴシゴシとこすると、手袋を外して右手をだいすけに差し出した。
だいすけも手袋を外して私の手を力強く握ってくれた。
私は精一杯の笑顔を見せると、またゴールに向かって走り出した。不思議ともう足の痛みは感じなくなっていた。
「みお、頑張れ!」
だいすけの大きな声が私の背中を更に押した。名前を呼んでくれたのが、とても嬉しかった。
その後のことは、正直あまり覚えていない。頭の中でオートリピートするだいすけの応援を聴きながら夢心地で走った。
ゴールしたのは午後一時五八分三七秒、スタートしてから六時間弱だった。
体が重い……二三番のトラックで荷物を受け取った私は、その場に座り込んだ。アスファルトの地面は冷たかったけれど、気にならなかった。のろのろと袋からコートを取り出して汗と雪で湿ったウェアの上から着た。ポケットに小銭と携帯が入っているのを確かめて立ち上がる。
午後二時四〇分。だいすけのラジオ番組の公開生放送が行われるパールレストランまでは三〇分はかかる。そろそろ出発しないと間に合わない。
私は足を引きずるようにして地下鉄の駅へ向かった。本当は一度ホテルに戻って智子にもらった服に着替えたかったが、もうそんな余裕はない。
地下鉄は混雑していて座れなかった。それでもスムーズにレストランの最寄り駅に到着した。
三時八分。地下から地上に上がったところで、私は安堵の溜め息をついた。レストランまでは徒歩約一〇分、場所が分かっているので迷うこともないし余裕で到着出来そうだ。
私は痛みで思い通りにならない体を無理矢理動かした。ただ歩くということがこんなにつらいとは思わなかった。
キキーー!!
角を曲がればレストランが見えるという時、背後で自転車のブレーキ音が聞こえた。
「危ないな!気を付けろ!」
私が振り向くと同時に、吐き捨てるような言葉が聞こえ、止まっていた自転車が走り去った。横断歩道の途中では、高校生くらいの少女が一人立ち尽くしていた。持っていた白い杖の先半分ほどが折れてなくなっている。周囲を見回すと、残骸となった杖の半分は車道の真ん中に転がっていた。
歩行者用の信号が点滅し始めた。少女は杖の半分を探すためか道路に膝をつき手で探り始めた。
信号が変わってしまう!私は走った。信号待ちをしている車が何台かあったが、誰も降りて少女を助けようとはしない。
私が信号に辿り着く直前、歩行者用信号が赤に変わった。私は道路を探り続けている少女に駆け寄った。
「早くこっちへ!」
私は少女を立ち上がらせ、肩を抱くようにして信号を渡り終えた。
「怪我はない?」
まだ少し呆然としていた様子の少女は、ぴくりと反応して言った。
「大丈夫です。でも杖が……」
私は続けて質問した。
「何で折れてもうた杖の残り、探そうとしたん?危ないやんか」
少女は言った。
「自転車が杖にぶつかって、びっくりして一瞬パニックになって方向が分からなくなっちゃったんです。杖が半分なくなってるし、躓いたら危ないと思って探したんです。」
私は溜め息をついた。
「とにかく怪我がなくて良かった。予備の杖は持ってる?」
私には弱視の弟がいる。なので視覚障害者の誘導の仕方などは心得ている。
少女は首を振った。
「いつもは持ってるんですけど、今日新しいバッグにしたら忘れちゃって」
私はそっと少女の腕に触れた。
「どこまで案内したらいい?家まで送ろうか?」
少女は困った顔をした。
「助けてもらって我が儘言うのは悪いんですけど、一人じゃ動けないしお願いしていいですか?」
私は言った。
「当たり前やん。さあ、行こ」
少女の名前は山中玲、一七歳。偶然にも私が向かうパールレストランの階下にあるスポーツパークに行くのだという。玲ちゃんのお兄さんがそこでアルバイトをしていて、一緒に帰ることになっているそうだ。
三時三〇分、レストランにいるべき時間に私はまだスポーツ店にいた。玲ちゃん兄は忙しくて仕事を抜けられないらしい。
「もうお店に着いたし、大丈夫ですよ。ありがとうございました」
玲ちゃんは深々と頭を下げた。と言われてもバーゲン中の店内は人がいっぱいで危険だ。
「わたしやったら大丈夫。お兄さんに会えるまで一緒にいてるから」
すると玲ちゃんはいきなり私に抱きついた。
「ちょっと……」
動揺する私をよそに、玲ちゃんは私をぎゅっと抱き締めた。玲ちゃんの髪は、花のようなとてもいい香りがした。
「ありがとう!みおさん大好き」
私はラジオ番組に参加出来なかった代わりに、一人の可愛い女子高生に懐かれた。
「そうや、警察に行かんでもええの?」
玲ちゃんの熱い抱擁を解きながら、私は訊いた。
「前に杖が折れて警察行っても、相手の顔が分からなかったら探せないって言われたから行っても無駄」
玲ちゃんの言葉には怒りが込もっていた。
「ごめんな、わたしが犯人の顔見てたら何とか出来たかも知れんのに」
玲ちゃんは首を振る。
「みおさんは、もういっぱいあたしを助けてくれた」
結局玲ちゃんがお兄さんに会えたのは、四時を回ってからだった。彼は何度も私に頭を下げてから玲ちゃんと一緒に帰って行った。
私は携帯でラジオを聴きながらホテルに戻る事にした。上に行ってスタッフに説明しようかと思ったけれど、本番が始まっている今、もう番組に参加出来る筈もない。
私は雪のちらつく街の中をホテルへと歩き出した。耳に響くだいすけの声を聴けるだけで嬉しかった。
完走おめでとう、みんな。完走おめでとう、私。
☆☆☆☆☆
ひらひらと桜が舞う。温かな春の風に翻弄された一片が、静かに私の携帯の上に乗る。花びらはしばらく留まって、風に吹かれて飛んで行った。
私は溜め息をついた。桜の花はあまり好きではない。
一気に咲いて一気に散って、春を桜色に染め上げる。美しく華やかで多くの人に愛されるこの花は、私とは正反対だから。
東京ピースマラソンが開催されてから約二ヶ月、私は無為な日々を過ごしていた。一日五キロのジョギングは続けているけれど、もうマラソンシーズンも終わってしまったし次のシーズンとなると先が長い。私の生活はほぼ東京ピースマラソンにエントリーする前に戻っていた。
変わった事もある。大会に出るためにトレーニングした成果として一〇キロ痩せた。元々太り気味だった私は、周囲の人みんなに驚かれた。
「痩せて綺麗になったな」
よく言われたが、私としては複雑な気分だった。過去の私の積み重ねが現在の私だ。過去のぐうたらな私も認めて欲しい。素直に喜べばいいのに、私はきっとひねくれている。
ハードな練習をしなくなった今も、リバウンドはなく体型は保たれている。
もう一つ変わったのは、若い友人が出来た事だ。玲ちゃんに頼まれて携帯番号とアドレスを交換していたので、時々メールのやり取りをするようになった。内容は他愛ないものだけれど玲ちゃんの人柄がよく表れていた。
玲ちゃんはお洒落な子で、流行についてもよく知っている。感受性が強く他人を思いやる優しさも持つ。短所は気が短い所だと本人は言っていたけど、癇癪を起こす玲ちゃんの姿は私にはあまり想像出来ない。
ある日玲ちゃんからいつもと様子の違うメールが届いた。
『何か最近嫌な感じがする』
文章はそれだけだった。私は何かあったのかと思い、心配ですぐに返信した。
特に何かがあった訳ではなく、漠然とそう感じるそうだ。玲ちゃんにも原因は分かっていない。
心配ではあったもののその日以降この話題に触れる事もなく、時間が過ぎて私はすっかり忘れてしまった。
でも今日、桜の舞い散るうららかな春の日にそれは起こった。
私は携帯の画面を見つめ、呆然としていた。
『玲がいなくなりました』
玲ちゃんのお兄さんである涼君からメールが届いた。私はちょうど自宅から駅へと向かう途中だった。
普段ならメール着信に気付いても歩行中は確認しないのだけれど、今日は自然にバッグの中に手が伸びた。そして衝撃的な内容に足を止めた。
涼君は私のアドレスを知らなかった筈だ。何かの悪い冗談で送って来たとは考えにくい。
私は少し冷静さを取り戻してから、メールにあった携帯の番号に電話した。
涼君はすぐに電話に出た。涼君に詳しく話を聞いた。
今日の朝、玲ちゃんは朝食に現れなかった。玲ちゃんのお母さんが部屋に見に行くと、全て普段のままの部屋で、玲ちゃんだけがいなかった。服もバッグも財布も携帯も白杖も部屋の中にあった。玲ちゃんの靴も全部玄関にあった。
いないのはただ玲ちゃんだけ。ベッドの枕の横にあった携帯は、私へのメールを作成中だった。でもメールの内容は普通で、異常を示す言葉は何も書かれていなかったという。
涼君は玲ちゃんの携帯で私のアドレスを知り、連絡をくれた。
玲ちゃんのご両親はパニック状態らしい。当たり前だ。目の見えない一七歳の少女が、忽然と姿を消したのだ。
一番冷静な涼君が警察を呼び、今は到着を待っているという。
私は何か分かったら連絡をくれるように頼み電話を切った。負担をかけたくはなかったが、心配で仕方なかった。
私は会社に行く気になれず、携帯を握りしめたまま桜の並木道に立ち尽くした。
やっぱり桜は嫌いだ。悪いニュースばかり運んで来る。
状況から考えて、玲ちゃんが自分の意志でいなくなったとは考えにくい。それなら誘拐?でも家族の誰にも気付かれずに連れ出すなんて出来るのか?
離れた場所にいる私がどんなに気を揉んでも何の役にも立たない。私は涼君からの連絡を待つ事にした。
夕方、公園のベンチに座ってぼうっとしていると、涼君からの電話があった。
警察の見解では出て行った形跡も、連れ去られた形跡もないという。まさに神隠しだ。警察は念のため周囲で聞き込みをするらしい。
私は連絡をくれた礼を言い、騒ぐ心を抑えて電話を切った。私に出来る事は何もないし、涼君にかける言葉も見付からなかった。
私は途方に暮れた。目の不自由な玲ちゃんが、パジャマのまま杖も持たずにさ迷っているイメージが頭から離れなかった。
数日後、涼君からメールが来た。
『テレビのニュースを見てください』
私は何か重大な事件にでも発展したのかと、仕事から帰るとすぐにテレビを点けた。
夜のニュースで報じられていたのは、十代後半の少年少女の相次ぐ失踪事件だった。どの事件も共通して持ち物が全て残されたまま、争った形跡もなく部屋の主だけが消えていた。その数、届けがあっただけでこの一ヶ月で三〇件を超える。
ニュースでは私の知らない事実が明らかにされた。失踪した少年少女は全員東京に住んでいた。
東京というキーワードが分かった所で解決出来る訳もない。でも私はいても立ってもいられなくなり、キャリーケースに荷物を放り込んで家を飛び出した。家族には申し訳なく思うけれど、ここは我が儘を許して欲しい。
私はその日の午後二三時に東京駅に着いた。
駅の近くのホテルに飛び込むと、空室があるとの事ですぐにチェックインした。翌日涼君かご両親に直接話を聞きたいと願いながら、私は浅い眠りに就いた。
翌日の朝メールをすると、涼君は驚いて東京駅まで飛んで来た。私達は駅近くのカフェで落ち合った。
「びっくりしましたよ!でもみおさんが玲の事を本当に心配してくれてるのが分かって、嬉しいです」
涼君の顔は疲労の色が濃かった。
「こんな時に来てもろてごめんな」
涼君は首を振った。
「大学に行っても、勉強が手に着かないんです。家にいても空気が重いだけだし、気にしないでください」
涼君は溜め息をついた。目の下に隈も出来ているし、あまり寝ていないのだろう。
「玲ちゃんの持ち物が、全部残ったままっていうのは間違いないの?」
涼君が頷く。
「玲の服、鞄、小物類は母さんが全部把握してます。玲は目が見えないので、こっそり服を買って隠しておくというような事は、不可能じゃなくても難しい筈です。それに仮に自分の意志で出て行くとしても、痕跡を全く残さないというのは不自然でしょう。そうする意味も分かりません」
私は考えた。玲ちゃんは普段、メールでもよく家族の事を話題にしている。家族仲は良好のようだった。
「連れ去られたとしても、同じ家にいてた家族に気付かれんように何の痕跡もなく……なんて正直考えにくいなあ」
涼君は頷いた。
「実はあの日、父さんがダイニングで徹夜で仕事をしていて、寝たのは明け方だったそうです。母さんは父さんが寝室に行く前に台所で朝食の準備を始めたので、ずっと誰かが起きていた事になります。でも誰も不審な物音を聞いてません」
私と涼君は同時に溜め息をついた。これではお手上げだ。
「何か急に玲ちゃんの存在がかき消えてもうたみたいやなあ。不謹慎に聞こえるかも知れんけど、魔法でも使ったみたいな……」
涼君は薄く笑った。
「馬鹿馬鹿しく聞こえるかも知れないけど、まさにそんな感じです。他の失踪した子達も同じ状況だって言うし、何が起こってるんでしょう?」
私はしばらく考えてから口を開いた。
「失踪した子達には、年齢と住所が東京って事以外に何か共通点はあるんかな?」
涼君はまたもや溜め息をついた。
「僕も警察に同じ事を訊いてみたんですけど、個人情報だからって教えてもらえませんでした。かなりくいさがっんですけど駄目でした」
手掛かりが見付からない……。元々私に何かが出来ると思ったてはない。ニュースを見て衝動的に飛び出してしまったのだ。
「ほんまにごめん。わたしは何の役にも立ちそうにないわ」
涼君は微かな笑みを浮かべた。
「そんな事ないですよ!僕も両親もみおさんが玲の事を心配してくれてるのはほんとに嬉しいし励みになってます」
私は言葉をなくした。今一番つらいのは玲ちゃんの家族だ。親戚でもない私がこれ以上首を突っ込んで、迷惑をかけるのは嫌だった。もう、帰ろう。
「ありがとう。わたしは今日帰るわ。でも何かわたしに出来る事があったら、何でもええから言うてな。すぐに飛んで来るから」
涼君は別れ際、深々と私に頭を下げて礼を言ってくれた。何の役にも立っていない私は申し訳なく思った。
ホテルをチェックアウトして東京駅に向かうと、異変が起きていた。新幹線の乗車券販売窓口に長蛇の列が出来ている。
時間帯や曜日によって混雑することはあるのだろうが、ただの混雑ではなかった。列の最後尾が全く見えないほどの混雑ぶりだ。
駅員達が必死になって乗客の整理や案内をしている。
電光掲示板には《本日の大阪方面への新幹線指定席券は完売》と出ている。それではこれはキャンセル待ちか、自由席券を求める人の列なのだろう。
私は足早に目の前を横切ろうとする若い駅員を半ば強引に呼び止めた。
「すみません。これは一体何の騒ぎですか?」
駅員の目には苛立ちが浮かんでいたが、立ち止まって答えてくれた。
「昨日のニュース見ませんでしたか?東京で何人も若い人達が突然行方不明になる事件」
私は思わず大声を出してしまった。
「まさか、それで東京から脱出しようとしてる人達なんですか?」
駅員は困ったように頷いた。
「昨日テレビのニュースで取り上げられた後、ネット上に人々の不安を煽るような書き込みがされて恐慌状態が広がったようです」
私は怒りを覚えた。人の心の弱い部分を攻撃するような書き込みは許せない。
列を見ると、確かに高校生くらいの若い子達とその親という雰囲気の人達が多かった。
現に東京に住む子達ばかりが失踪している状況では、大丈夫だと安心させる事も出来ない。でも同じような失踪事件が続くとして、今後も同じ条件の子達が巻き込まれるとは限らない。全く違う場所、違う年齢になる可能性もある。でもこんな事を考えていたらキリがない。
私は駅から離れた。どこか静かな場所で考えをまとめたくて、土地勘のない場所を当てもなく歩いた。
桜もほとんど散ったこの時期、空気は温み風は花の香りを運んで来た。何もなければ気持ちのいい春の日だと思えただろう。
一〇分ほど歩いた頃、そんなに大きくはないが静かな公園を見付けた。花壇には色とりどりの花が咲き、木々の緑も鮮やかだった。
私はベンチに座り、溜め息をついた。まばらに置かれたベンチに座っている人は、あまりいなかった。
荷物の中からノート型PCを取り出す。有名掲示板を覗いて唖然とした。
《今年の一二月二四日、大魔王様が東京で復活する。復活後大魔王様は世界に眠る八人の使徒の封印を解き、この世界の支配者となるだろう。大魔王様の僕とするべく、生気に満ちた若き子らを頂いた。そしてこれからも続く。さあ、逃げ惑うがいい!》
書き込みは複数の掲示板に載った。それを見た人が広めてしまったために情報が氾濫し、尾ひれが付いて収拾がつかなくなっていた。
私は頭を抱えながらもふと気付いた。かなり可能性が薄いかも知れないが、この書き込みを一番最初にした人物は失踪事件について何か知らないだろうか?警察なら書き込みから犯人を特定出来るかも知れない。
書き込みの文章、日時、場所を詳しく書いたメールを涼君に送り、警察に伝えてくれるように頼んだ。直接連絡してもいいけれど、当事者の家族からの方が伝わりやすいと思ったのだ。
私が掲示板の文字を睨んでいると、涼君から電話がかかって来た。
「メール見ました。それよりみおさんは大丈夫ですか?新幹線に乗ろうと大量の人が押し掛けて、新幹線が止まってるってテレビで見ましたけど」
私は一拍置いて返事をした。
「止まってるん?さっきは大混雑やけど、動いてる感じやったで」
私は心を決めた。時間がかかっても在来線を乗り継いで帰ろう。長くこの土地にいると、私まで少し狂気に犯されてしまううような気がする。
「もし帰れないようなら、うちに泊まりませんか?お客さん用の部屋があるし、両親も歓迎すると言ってます」
私は間を置かずに答えた。
「ありがとう、でも大丈夫。電車乗り継いで帰る。ご両親によろしくな」
涼君は引き留めなかった。
「そうですか。気を付けて帰って下さいね」
東京駅の在来線の乗り場は、大阪の通勤ラッシュをひどくしたような有様だった。でも駅員さん達が落ち着いている所を見ると、対応可能範囲内なのだろう。
私は挫けそうになる自分の心に渇を入れてから人の波に飛び込んだ。
流れに身を任せて電車に乗り、窒息寸前になりながら東京を出るまで耐えた。神奈川県に入ってしばらく経つと、驚くほど人が減った。とにかく遠くへ行こうとする人と、とりあえず東京を脱出しようとする人に分かれるのかも知れない。
その後は疲労困憊しながら乗り換えを繰り返し大阪に戻った。到着したのは夜も遅くなってからだった。
家に電話をすると、最寄り駅まで車で迎えに来てくれた。
疲れた私の顔を見たからか、家族は何も訊かなかった。その心遣いが嬉しかった。
今日涼君に会って、話をして思った。一番私を心配してくれているのは家族だ。これからは感情に任せたような行動は控えよう。
その後も失踪事件は続いた。全員東京在住で一〇代後半の子達だった。
玲ちゃんの行方も、依然分からないままだった。探すにも手掛かりがない。玲ちゃんのご両親や涼君の心痛を考えると、いたたまれない気持ちになった。
八月に入って、涼君からメールが来た。掲示板に最初に書き込んだ犯人の追跡に、警察が失敗したという報告だった。
その後、涼君からの連絡が途絶えた。心配だったけれど、向こうの事情を考えるとこちらから連絡するのも気が引けた。
時間は容赦なく過ぎて行く……東京に巣くった狂気は収まるどころかひどくなる一方のようだった。ニュースでしか情報を掴めないが、犯罪が増加し人々の心が荒んでしまっているらしい。それでも首都は東京で、政府は効果的な手を打てなかった。
十月のある日、夏の余韻が消えた頃だいすけのブログに告知が出た。
《何だか東京の街が暗いです。そこでクリスマスイヴに個人イベントを開催する事にしました\(^O^)/既におかしな告知のある日ですが、僕の声で皆さんに元気を届けられたらと思います。ご来場お待ちしています》
通常だいすけのブログは、ネタ的な画像と短い文章で構成されている。そこに時々イベントや番組出演の告知があったり、東京ピースマラソンに向けての練習の様子が綴られている。
だいすけがイベントをやっても、何も全体的な変化はないだろう。でもイベントで勇気付けられるファンは多いはずだし、何よりみんなのために何かしたいと考えるだいすけの気持ちが大事なのだと思う。
……まるで雷に打たれたように、私に出来る事が閃いた。
私はすぐにだいすけのブログを閉じ、いくつかの有名掲示板、SNS、ツイッターなどに飛んだ。そして同じハンドルネームを使って書き込みをした。
《行方不明になっている人達は心配です。でも諦めないで待ちましょう。そして東京にいる皆さんはくだらない事で争っている場合ではありません。こういう時こそ助け合うべきです。訳の分からない大魔王なんかに振り回されてはいけません》
私の書いた事は正論に過ぎない。誰でも思い付くし、現に同じような事をインターネットで発信している人は数多い。でも最初に大魔王が云々と書き込んだ犯人が本当に失踪事件に関係していた場合、大魔王を批判する事によって何らかの反応があるかと思ったのだ。
私はこまめに自分の書き込みへの反応をチェックし、返信があれば可能な限り答えた。返事の中にも必ず大魔王批判を入れた。
仕事、食事、睡眠以外の時間は、全てインターネットに費やされた。家族はもはや心配を通り越し、一歩引いた所から私を見ていた。
私は睡眠不足と疲労でふらふらになりながらインターネットに張り付いた。私の意見に同意する声、反論する声と色々あったけれど、大魔王についての情報に進展はなかった。
一二月二二日の夜、私は焦れて新しい書き込みをした。
《大魔王が何者か知りませんが、いるのなら私の前に姿を現しなさい!裏でこそこそとしてるなんて卑怯です!》
私は溜め息をついた。これ以上疲れが溜まると倒れてしまう。
私は久しぶりにゆっくり休む事にした。
《愚かな人間よ、それほど望なら大魔王様に会わせてやろう》
寒い、暗い、怖い……。私は悪夢を見ていた。周りは暗くて何も見えない。
寒くて自分の体を抱き締めた。震えが止まらない。
恐る恐る上半身を起こすと、風の動きを感じた。ゆっくりと立ち上がり、風が吹いて来る方へと向かう。硬い床から這い上る冷気は、裸足の足から体全体へと広がる。
手を前に突き出して前方の空間を探りながら歩く。暗闇なのに何故か恐怖を感じない。
一〇歩ほど進んだ所で、手が壁らしき物に触れた。
私は壁を慎重に探った。つるんとして磨き上げられた石のような感触の壁は、床と同じで冷たく窪みや傷もないようだった。
横へ横へと探って行くと、手に触れる質感が変わった。今までの壁より温かみを感じる。
質感の違う部分全体を触ってみたが、取っ手も出っ張りも窪みもなかった。でも大きさから見て扉だろうと思った。
押してみる、びくともしない。引くことは出来ないので、扉らしき物をどんどんと叩いてみた。鈍い音が虚しく響き、闇に吸い込まれただけだった。
他にも扉はあるかも知れないけれど、真っ暗闇で探す気にはどうしてもならなかった。全く何も見えない真の闇。
私はふと思い付いてパジャマのポケットを探った。何もなかった。
夢ならこういう時、都合良く小型ライトなどが入っているのでは?
思った瞬間、突然扉らしき部分が消えて体が前のめりに傾いた。何が起こったのか分からないうちに床に倒れる。
「いったあ……」
無様に床に顔を打ち付け、痛みで意識が一気に覚醒する。
夢じゃ……ない?私は立ち上がり、痛む場所に触れた。
「っ!」
激しい痛みが襲う。鼻の下辺りがざっくりと切れて血が流れていた。口の中も切れて、歯が欠けてしまったのかじゃりじゃりする。
痛い。夢の中でこんな強烈な痛みを感じるとは思えない。
「ハハハ、哀れだな」
闇の中から声がして、私は文字通り飛び上がった。
「驚く事はない。ここは偉大なる大魔王様が眠る神殿の一室だ。大魔王様との謁見を希望したのはお前だろう?」
話している内容は意味が分からないが、声は愛らしい少女の物だった。あまりに現実離れした状況に、私は小声で呟いた。
「夢なら覚めて、夢なら覚めて……」
少女の声は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「フン、何を言っている?お前は年を取り過ぎていて大魔王様の力にはならんが、特別に招待してやったのだぞ?感謝したらどうだ?」
大魔王という言葉で私は我に返った。
「玲ちゃん!」
ここは失踪した子達のいる場所かも知れない。自宅のベッドにいたのに何故こんな場所にいるのか、その理由を今考えても仕方ない。
「玲ちゃん!いてるの!?」
声の反響具合からして、ここはあまり広い部屋ではなさそうだった。それに何の気配もしない。
「お前は馬鹿なのか?私の声が聞こえないのか?」
少女の声は嘲笑を含んで言った。私は完全に無視する事に決めた。そもそも相手をしている余裕がない。
暗闇の中で、私は探索を再開した。顔の他に膝も強打したので痛い。両手を前に出して闇を探る。また転ぶといけないので、恐る恐る足を前に出す。
今回はすぐに壁に到着した。この壁も石のようだったが、ざらざらとしていて全体的に凹凸があった。
私は壁沿いに進み扉を探した。ここがどこなのかは見当も付かないが、とにかくもう少し明るい所に出たい。
「そんなに歩き回らなくてもいい。見苦しいだけだ」
少女の声と同時に今度は触っていた壁が消えた。前回のようにもたれていなかったので、倒れはしなかったものの突然の事に動揺した。
壁のあった所には人一人がやっと通れるような狭苦しい横穴が姿を現し、微かに見える穴の出口からはぼんやりとした光が見えた。
光に導かれるように私は横穴の中に入った。
閉所恐怖症ではないが、暗さが恐怖心を掻き立てる。
突然壁を消したり出来るのなら、その逆だって可能ではないのか?私はパニックを起こさないように必死で心を鎮めた。
横穴を抜けた頃にはびっしょりと冷や汗をかいていた。その汗でパジャマが冷え、濡れて体に張り付く。
ガタガタ震えながら周囲を見回すと、そこは長い直線の廊下だった。等間隔に設けられた壁の窪みには、太くて赤いろうそくが置かれ炎が揺れている。
床には赤い絨毯が敷かれ、まるで来る者を歓迎しているようだった。
私は自分の体を見下ろした。パジャマの両膝部分の布が裂け、見事な傷が顔を覗かせていた。胸の所には顔から流れた血がべったりと付いている。傷は痛み、心を挫こうとする。
貧血を起こしてはいけないので、パジャマの袖を裂いて止血しようと思った。でも……裂けない。自分の服を裂いて止血するシーンはよく映画で見るが、この非常時に半分自棄気味に袖を引っ張ってもびくともしなかった。私の力が弱いのか、パジャマが丈夫に出来ているのか……どうしようかと思っていると、また少女の声が響いた。
「何をやっている?大魔王様に会いたいのだろう?その廊下を左に真っ直ぐ進め」
パジャマを脱いで引っ張った方が裂けるだろうか?でもこんな不気味な場所で裸になるのは気が進まない。
「やはりお前は馬鹿だな?早く左へ行けと言っている!明日まで大魔王様はお休みのままだが、お前もお顔を見れば大魔王様に平伏すだろう。隷属を誓えば、その傷も治してやる」
私は右へ向かった。大魔王の顔など見たくもない。いや、確かに掲示板には姿を現せと書いたが、今は玲ちゃんと行方不明の子達の方が心配だ。
廊下の途中には扉も曲がり角もなかった。ただ真っ直ぐにどこかへと続いている。
一〇〇メートルほど進むと、上りの階段があった。優美に弧を描く大理石の螺旋階段が上へと伸びている。下る階段がないのは、ここが最下層だからだろうか?
一階上がると階下とは全く様子が変わった。廊下の雰囲気は同じだが、普通の建物のように扉が並んで見えた。
「だから何をやっている?そこには何もない」
少女の声は苛立ちで震えていた。私は一番手前の扉を開いた。
暗い。暗くて何も見えない。私は廊下に戻ってろうそくを掴み、部屋に引き返した。
ろうそくを高く掲げながら部屋の中を確認する。ベッドが並んでいたけれど、誰もいなかった。
隣の部屋を開けた。同じくベッドが並ぶ。
五つ目の部屋で、ようやく何かの気配を感じた。人かどうかは分からない。でも確認しなければ……。
私は一番奥のベッドを覗き込んだ。
「玲ちゃん!」
密やかな寝息を立てて眠っていたのは、間違いなく玲ちゃんだった。
「その娘は大魔王様に隷属を誓わなかったので眠らせている。大魔王様が目覚めその声を聴けば、その娘も大魔王様に跪くだろう」
私はそっと毛布をはがした。玲ちゃんはパジャマではなく、白く長いワンピースのような物を着ていた。
「玲ちゃん!分かる?わたし、みおやで!玲ちゃん!」
声を限りに叫び、軽く肩を揺する。最初は無反応だったが、繰り返すうちに玲ちゃんの瞼が動いた。
「玲ちゃん!起きて!」 玲ちゃんはもそもそと体を動かし、目を開いた。肩に置かれた私の手に触れる。
「誰?」
声が震えていた。
「みおやで!分かる?」
玲ちゃんは私の手をしっかりと握った。
「みお……さん?」
玲ちゃんの目から涙が零れ落ちた。そして私に縋り付くようにして上体を起こす。
「馬鹿な!何故目覚める?」
少女の声が響くと、それまでぐったりしていた玲ちゃんの様子が一変した。
「このクソガキ!」
私は衝撃で体を強ばらせた。あまり玲ちゃんが乱暴な言葉遣いをするのを聞いたことがない。
「おとなしく明日まで眠っていればいいものを!」 少女の声は怒りに震えていた。
「みおさん、たぶんこの子はごちゃごちゃ言うだけで何も出来ないの。あたしに薬を飲ませて眠らせたのだって他の子だもん」
「え?他にもいてるん?」
玲ちゃんは首を振った。
「違う、あたしみたいに連れて来られた子達」
玲ちゃんは説明してくれた。
気が付いたら冷たい床の上にいてパニックを起こしそうになった。でも少女の声が聞こえて仕方なく従った。誘導通りに歩いて行くと絨毯の上に出た。壁に手を突いて歩いていたら下りの階段があって派手に転んだ。更に進むと広い部屋に出た。
そこには他にも人がいた。聞こえてくる話し声からすると、みんな同世代のようだった。少女の声が、ここにいるのはみんな仲間だと言った。
玲ちゃんの目が見えないと分かると、誰かが側に来て誘導してくれた。玲ちゃんが連れて行かれた場所にはガラスケースのような物があった。玲ちゃんには意味が分からなかった。
しばらくすると怒りに満ちた少女の声が聞こえた。ガラスケースの中には大魔王が眠っていて、その姿を見れば誰もが平伏し大魔王に隷属を誓うのだと言った。
玲ちゃんは置かれた立場も忘れて笑った。目が見えないのに姿が見える訳がない。近くにいた子に玲ちゃんに薬を飲ませ、部屋に連れて行くようにと声は命じた。
玲ちゃんは必死に抵抗した。でも無理矢理薬を飲まされて意識を失った。
私は玲ちゃんに失踪事件の事を話した。私の知る全てを。
「待って!何で大阪にいてたわたしが連れて来られてるんや?」
私の言葉に玲ちゃんが答えられる訳もない。
「馬鹿で無様なお前に教えてやろう。我らの力を以てすれば距離など関係ないのだ」
玲ちゃんが鋭い声で訊いた。
「じゃあ、なんであたし達はみんな東京なの?」
少女の声はげらげらと笑った。
「簡単な事だ!大魔王様を復活させるには、東京の地で生まれ育った子らの力が必要なだけだ。何故なら……大魔王様が封印されているのが東京だからだ」
この声こそ馬鹿だ。自分から情報を喋ってしまっている。
「必要な人数は揃ったの?」
声は沈黙した。さすがに喋り過ぎたと気付いたのかも知れない。
「みおさん、今日は何日?」
玲ちゃんが私の腕をぎゅっと握った。
「一二月二二日の夜にベッドに入ってからここに来たから、時間は分からんけど二三日やと思う」
玲ちゃんは息を呑んだ。
「上りの階段を見た?」
私は言った。
「この階に来るのに階段上って来たけど、まだまだ上まで続いてる感じやったで」
玲ちゃんは言った。
「みおさん行って!クソガキが大魔王の眠る部屋が最下層だって言ってたの。ここが東京なら上り続けたらどこかに出れるかも知れない!」
私は言った。
「でもあの瞬間移動装置で連れ戻されるんとちゃう?」
玲ちゃんは少し考えた後に言った。
「確信はないけど、この中ではあれは使えないんだと思う。だってクソガキは他の子にあたしを連れて行くように言ったもん」
私にも判断はつかなかった。
「どっちにしても、やってみた方がいいよ」
玲ちゃんは必死に言う。私は心を決めた。
「分かった、行こう」
玲ちゃんの腕を掴む。
「玲ちゃん、立って」
玲ちゃんは私の手を離した。
「みおさんが一人で行って!あたしはここで待ってるから、助けを呼んで来て!」
私は引き下がらなかった。
「こんな所に一人で置いて行ける訳ないやろ?」
玲ちゃんは激しく首を振った。
「あたしが行ったら時間がかかる!今日中に何とかしないとほんとに大魔王が目覚めるかも知れないんだよ!だから行って!あたしなら大丈夫」
玲ちゃんは決然とした様子で私の反論を全く受け付けなかった。
「馬鹿が!ここがどれだけ地下深くなのか分かっているのか?辿り着ける訳がなかろう」
私は玲ちゃんに言った。
「分かった。玲ちゃん頑張って」
玲ちゃんが力強く頷くのを見届けてから、私は走り出した。玲ちゃんの気持ちを無駄にしたくない。
ろうそくは壁の窪みに戻して階段まで駆け戻った。螺旋階段を上へ上へと駆け上る。ゴールが分からないというのは何とも苦しい。
気持ちが張っているせいか怪我の痛みは感じなかったけれど、一〇分ほどすると心臓が悲鳴を上げ始めた。ジョギングは続けているし、階段での練習も時々やっているが、こんなに全力で上り続けるのは初めてだ。
息が苦しい……ほんの少し気が緩んだ瞬間、私は階段を踏み外した。
視界がぐるぐると回り、世界が暗転した。
……ハハハハハ、アハハハハ……ハーッハッハッハッ。
まどろみの中で私は誰かの高笑いを聞いた。このまま眠ってしまいたいのに、声が邪魔をする……。
うっ!私は一気に覚醒した。痛みが全身を突き抜ける。
あ゛ああああ。痛みの激しさに声にならない叫びを上げる。
耳障りな笑い声が止まる。
「気が付いたのか?そのまま眠っていればいいものを」
私は体を起こそうとした。螺旋階段の途中で頭が下になって倒れていたので、簡単にはいかない。
痛みと悔しさで涙が流れた。
「その体ではもう動けまい。おとなしく大魔王様の復活を待て。そうだ、喜べ!大魔王様は馬鹿な女が好きなのだ。お前を妻の一人にしてくれるかも知れない」
心の奥底から怒りとやる気が湧いて来た。大魔王の嫁になど、誰がなるか!
激痛が体中を苛む中、何とか体を回転させ足が頭より低い位置に来るようにした。階段に手を突き体を起こす。少し動いただけで、くらくらとめまいがした。
「無駄だと言っているだろう?」
私は壁を頼りに何とか立ち上がった。もはやどこを怪我してどこから出血しどこが痛いのか分からない。ふと倒れていた場所を見ると、頭のあった辺りに血溜まりが出来ていた。一瞬意識が遠のきかける。
ぎゅっと拳を握り、最後に見た玲ちゃんの顔を思い出す。そう、今私は玲ちゃんや他の子達の命を預かっているのかも知れない。大魔王がどうのという話が本当なら、世界を背負っているのかも知れない……。重い。
涙を止められないまま、私は一段ずつ上った。
間に合うかどうかは分からない。でもここで放り出す事は出来ない。
永遠とも思える時間、私はただ上り続けた。少女の声はある所から急に聞こえなくなった。大理石だったはずの階段の質感がいつの間にか変わっていた。そしてろうそくでぼんやりと照らされていたのに、今は真っ暗だ。
怪我のせいで視力を失っているのだろうか……。
考えているうちに何かにぶつかり呻き声を漏らした。
扉だ……ドアノブの付いた金属製のドアが目の前にあった。
私はドアノブに手を掛け、一気に押した。階段側に開くとは考えにくい。
ドアの向こうで車のエンジン音が聞こえた気がした。
扉は動かない。引いてみても同じ……。
私は拳でドアをどんどんと叩いた。
「誰か、いませんか?助けてください!」
泣き叫びながらドアを叩く。
「助けて……誰か……」
やがて言葉に詰まり、泣き声だけが響く。
駄目だ……誰もいない。
もう限界だった。私はとうとう意識を手放した。何も分からなくなる寸前、また階段を転がり落ちるのを感じた。
ごめんね。救えなかったよ。
☆☆☆☆☆
しんしんと雪が降る。雪は切れ目なく降り続き、都会の穢れを塗り込める。
意識が戻ったのは昨夜だった。キリスト教の聖なる日の前夜、クリスマスイヴの夜。すぐに看護師さんが来て、怪我の具合を教えてくれた。
あちこちに骨折があり、体中が傷だらけで頭も打ったものの命に別状はないという。入院は約二ヶ月との事だった。
しばらくすると母が駆け付けた。看護師さんが病院近くのホテルに泊まる母に連絡してくれたのだ。
私の顔を見るなり泣き崩れた母は、顔色が悪く病人のようだった。
「女の子やのに、こんなにボロボロになって……」
しばらくして落ち着いた母は、私の手をぎゅっと握り締めて言った。
「お母……さん」
顔にも包帯が巻かれていたので、私の言葉は声にはならなかった。それでも母には届いたのか、涙を流しながら何度も頷いた。
母は私がここに運ばれた経緯を話してくれた。
私が金属の扉の前で絶望して意識を手放した直後、異変に気付いた人が警察と消防に通報して助けてくれたらしい。私は救急車で搬送され、後にやって来た警察が階段の奥底まで捜索した。
玲ちゃんは私の後を追ってゆっくり階段を上っていた。警察に保護されると最下層にいる子達の事を伝えた。広間にいた全員が救出された。でも玲ちゃんを除いて全員、あの場所に来てからの記憶をなくしてしまっていた。別の病院に入院しているけれど、命に別状はないという。
母は雪が降り始めたからとホテルに帰って行った。私は熱で朦朧とし、そのまま眠った。
『世界を、救えた……のかな?』
先ほど目覚めてからは、もう眠くはならなかった。窓から見える大雪を、飽きることなく見続けた。
コンコン。
ノックの音がして看護師さんが入って来た。
検温と血圧測定が済み傷の状態を調べてから看護師さんは言った。
「今日はお母様は雪で来られないそうですよ」
私は窓の外を見つめたまま言った。
「そうですか……」
顔の痛みが和らぎ、普通に話せるようになっていた。看護師さんが明るい声で続けた。
「でも、お見舞いの方をお連れしましたよ。朝食は時間になったらお持ちしますね」
病室の外で小声で話す声がして、誰かが入って来た。
「お邪魔します。みおさんお加減はいかがですか?」
明るく心に響く声を聞き、私は慌てて扉の方を向いた。見間違いようがない。だいすけがそこにいた。
「え?何で……」
だいすけはフフッと笑って言った。
「びっくりしたでしょう?実はみおさんを助けたのは僕なんですよ」
「あの、良かったら椅子に座ってください」
だいすけはベッド脇の椅子に腰掛けた。距離が近くて心臓が跳ねる。
「みおさんが叩いた扉は、僕がイベントをしたホールの地下駐車場にあったんです」
リハーサルに来ただいすけが私の声を聞き付け、通報してくれたのだという。更には病院まで付き添ってくれたと。
私は嬉しくて涙が出た。
「ありがとう……ございます」
だいすけは困ったように笑った。
「みおさんは僕といるといつも泣いてますね。実は最初は東京ピースマラソンの時のみおさんだとは気付かなかったんですよ。でも無事で本当に良かった」
だいすけはベッド脇のテーブルからティッシュを取り、私の涙を拭ってくれた。
「メリークリスマス、みおさん。つって、僕はクリスチャンじゃありませんけどね」
だいすけは私の膝の上に小さな箱を載せた。
「実は今演じてるキャラのグッズとして、来年発売するコロンなんです。今、ちょっと試してみますか?」
私は頷いた。箱の中からキラキラ光る青いガラスのボトルが出て来た。だいすけはボトルのキャップを外し、私の鼻の側に持って来た。
私は思い切り香りを吸い込んだ。
異常に甘ったるい香りが鼻腔を満たす。
「メリークリスマス、良い夢を」
沈む意識に抗おうとしていると、突然だいすけが私の唇を塞いだ。
口移しに甘い液体が流れ込む。
朦朧としかけた私にこれ以上抵抗する力は残っていなかった。
『何で?だいすけ……』
私は深い深い闇に落ちて行った……。