第15話 これは間違いなく、私が一番愛されている結末ですね?
王宮の大広間は、眩いばかりのシャンデリアの光と、国中から集まった貴族たちの熱気に包まれていた。
今夜催されているのは、新王太子となった第一王子ルードヴィヒ殿下と、その婚約者のお披露目となる夜会。
広間の扉が開かれた瞬間、それまでざわめいていた貴族たちの私語が、引き潮のようにピタリと止まった。
無数の視線が、中央の赤い絨毯へと注がれる。
濃紺の正装に身を包んだルードヴィヒ殿下。その隣で、彼の腕に手を添えて歩みを進めるのは――星空を閉じ込めたような夜会用ドレスを纏った、私だった。
かつて学園のサロンで、教科書を破いたと詰め寄られたあの日。
周囲で息を潜めて見ていた生徒や、噂を面白おかしく囁き合っていた貴族の子息令嬢たちも、会場のあちこちに顔を揃えていた。
彼らは今、青ざめ、あるいは恐縮するように視線を彷徨わせている。
けれど、私は誰一人として睨みつけることも、謝罪を要求することもしなかった。
すでに王家から公式の布告が出され、私の無実と名誉は完全に回復している。あの茶番劇を仕組んだ留学生は国外追放となり、弟王子は離宮へ幽閉された。
いまさら終わった話を蒸し返し、過去の亡霊に自分の時間を割く気など、爪の先ほどもなかった。
「……セシリア嬢」
壇上へ向かう途中、かつてユリウス殿下の側近としてあの日サロンに居合わせたトーマス様が、震える足取りで進み出てきた。顔は青ざめ、今にも倒れそうなほど緊張している。
「あの時は、私の口足らずのせいで、貴女に多大なご迷惑を……! どうか、お許しを――」
必死に頭を下げようとする彼を、私は足を止めて制した。
そして、穏やかな微笑みを浮かべる。
「トーマス様。貴方はあの日、ご自身が見た事実だけを正直に証言なさいました。それ以上の責任を背負われる必要はございませんわ」
「セ、セシリア様……」
「終わったことです。どうぞ、今夜の宴をお楽しみになって」
短い言葉だけで用件を切り、私は視線を前へ戻した。
恨み言を長々と並べるよりも、綺麗さっぱり眼中にないことを示す方が、よほど雄弁だ。トーマス様は深く息を呑み、感服したように深々と腰を折って道を譲った。
隣を歩くルードヴィヒ殿下が、低く掠れた声で耳元に囁いてくる。
「相変わらず、情け容赦のない切り捨て方だな」
「復讐に時間を使うくらいなら、美味しいワインを一杯飲む方が有意義ですもの」
「違いない。……お前のそういうところが、たまらなく好きだ」
大勢の貴族が見守る壇上で、殿下は悪びれもせずに私の右手を持ち上げ、指輪の嵌まった薬指の背にそっと唇を落とした。
会場のあちこちから、令嬢たちの歓声交じりの吐息が漏れる。
「さあ、踊ろうか。俺の愛しい婚約者殿」
「ええ、喜んで」
楽団が優雅なワルツを奏で始め、私たちは広間の中央へと滑り出した。
ユリウス殿下と踊っていた頃は、足を踏まれないか、相手を立てるために控えめに動かねばならないかと、神経をすり減らすばかりだった。
けれど、ルードヴィヒ殿下のエスコートは完璧だった。私の呼吸をすべて拾い上げ、軽やかに、けれど力強くリードしてくれる。
人前であるにもかかわらず、殿下の腕は私の腰を少しも離そうとせず、その瞳は最初から最後まで、私以外の誰一人として映していなかった。
◇◇◇
夜会がお開きとなり、王宮の奥にある王太子の私室。
重い扉が閉ざされた瞬間、私は深く息を吐き出して、豪奢なソファへと身を沈めた。
「ふう……っ、さすがに疲れましたわ」
「よく付き合ってくれた。大講堂の連中も、これで二度とお前に下らん勘違いをしなくなるだろう」
上着を脱ぎ、タイを緩めたルードヴィヒ殿下が、私の隣に腰掛けてきた。
そのまま自然な動作で長い腕が伸びてきて、私の肩を抱き寄せ、自分の胸元へと引き寄せる。
「……殿下、近すぎます」
「夫婦になるのだから、これくらい当然だ。それに、今夜はお前を誰にも渡したくなくて、広間でもずっと我慢していたんだぞ」
甘えるように首筋に顔を寄せてくる殿下に、私は小さく笑いを零した。
宮廷の誰もが恐れる冷徹な新王太子が、部屋の中ではただの甘えたがりな男になる。この姿を知っているのは、世界で私一人だけだ。
ふと部屋の隅を見やると、そこには見覚えのある二つのトランクが並んでいた。
すでに明日の朝の出発準備は整っている。
「ねえ、ルードヴィヒ様。今回は、お荷物を減らしていただけましたの?」
「ああ。君の言いつけ通り、着替えと最低限の執務書類だけに絞った。……馬車の重量は保証しよう」
「よろしい。明日の朝一番で、西の湖水地方へ出発ですものね。名物のハーブ蒸しのマス料理、絶対に食べ逃すわけにはまいりませんわ」
「ああ、何杯でも奢ってやる」
殿下が顔を上げ、至近距離から私の瞳を覗き込んできた。
その瞳の奥には、濁りのない深い熱と、どこまでも澄み切った愛情だけが揺らめいている。
「……セシリア」
「はい?」
「俺を選んでくれて、ありがとう」
飾りのない、真っ直ぐな囁き。
かつて、理不尽な言いがかりをつけられ、悪役に仕立て上げられそうになったあの放課後。
あの時、無意味な我慢をやめて、自分の足で泥舟から逃げ出したからこそ、私はこの手を取ることができたのだ。
私は胸元に手を伸ばし、彼のシャツの襟元を少しだけ引き寄せた。
「お礼を申し上げるのは、私の方ですわ。……私の我儘に、付き合ってくださるのですから」
「我儘などではない。君が望むなら、俺の生涯すべてをお前の道連れにしてくれ」
甘く力強い誓いとともに、唇が優しく重ねられた。
一度、二度と、名残惜しそうに啄むような口づけ。
夜の静寂の中、重なり合う体温が、言葉よりも確かに私への執着と愛を証明していた。
不条理な冤罪の舞台を放り出し、さっさと荷物をまとめて逃げ出した、あの夜。
その先に待っていたのは――。
(これは間違いなく、私が世界で一番愛されている結末ですね?)
胸の中でそっと呟きながら、私は大好きな人の腕の中へ、幸せに満たされて目を閉じた。




